2018年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【1】
「マスメディアの言う平和と天主の与える平和との違い」
同時通訳:小野田圭志神父
秋田への巡礼の招待の手紙の中には、私は特に「平和」について黙想をする事を提案していました。
なぜかというと、政治的な具体的な今の状況は、私たちを少し心配させたからです。特に南北朝鮮半島からの脅威というものが、ここではすごく近くで感じられていたからです。
小野田神父がシュテーリン神父に、この「手紙を書いて下さい」と言った時に、そのような北朝鮮が南朝鮮にミサイルを撃つのではないか、という恐れがありましたけれども、今では両者は手を結んでいます。
数ヶ月前は、プーチン大統領とトランプ大統領は一緒にコーヒーを飲んで、何か強いお友達のようでしたが、今ではある国にある化学兵器を巡って、この両国は戦争の前夜であるかのような状況をしています。
これは何を私たちに教えているかというと、「マスコミが何を私たちに言っても、それにあまりびっくりせず、それに影響を受けないでいるべきだ」という事です。何をマスメディアが言っても、本当の事を知る事はないでしょう。
いつも私たちは、「最新のニュースによるとこの危機が」あるいは「あの危機が」と言ってビクビクしていなければなりません。第二次世界大戦が終わった後に、平和を脅かすものは毎月のように現れています。
1986年、ヨハネ・パウロニ世はアシジに全ての宗教の人々を集めて、「平和の為に祈るように」と言っていました。もちろん、平和の為に祈りをするという意向は良い意向ですけれども、一体「誰に向かって祈っているのか」というのが問題です。もしも、私たちがもしも平和を求めて悪魔にお祈りをしたら、私たちはその結果を受けなければなりません。ところで聖書によると詩編によると、「異教徒たちの神々は全て悪魔だ」と言います。
しかし平和については、過去30年から40年の間大きな進展がありました。この平和の進展があったという事はどういう事かというと、平和についての色々な出来事があったという事です。
これは何を意味するかというと、大きな戦争が起こる危険があるというよりは、「私たちがはっきり確実なものを、私たちがますます失っていると」いう事です。私たちは、なぜ、一体どうして、どこで、何の為に、このような戦いが起こっているのか分かりませんけれども、しかし突然そのような事を知らされて、ショックを受ける事があります。
例えばアメリカに旅行する時には、安全検査と言って色々な検査をしなければなりません。しかし、だからといって安全が守られているとは限りません。ニュースや、あるいは宣伝によっていつも私たちに与えられている情報のために、人々は常に何かを恐れていなければなりません。
私たちが何か「安全だ、安心している」という時になると、いきなり頭を叩かれて、「恐れなければならない!」という風に教えられます。あたかも私たちにこの世界の人々に、新しいメンタリティーを、新しい精神状況を作り出そうとしているかのようです。
一方では、人々には面白おかしい事や娯楽などによって、気晴らしがたくさん与えられています。
ところでその他方で、「安心している、安全だ」という代わりに、いつも「あぁ、次にはどんな事件が起こるのか」あるいは「誰かが鉄砲を持って殺されるのではないか」あるいは「何かテロリズムがあるのではないか」と恐れなければなりません。
では、この2つの事は何を私たちに求めているのでしょうか?
これは私たちに、今、「今ここで私たちがする事をしっかりしていなければならない。明日はもう遅すぎるかもしれない」という事です。特に教会の指導者たちが「平和の為に祈ろう」と言った時に、私たちはともすると、今ここの、今私の平和、私の家族の平和だけを考えていて、「天主様が求めている大きな秩序の中」というものを見失ってしまうかもしれません。
なぜかというと、この平和の為に一体どんな手段が求められるかというと、物理的な安全の事だけを考えているからです。例えば飛行機に乗る前に、5つの段階の安全検査のチェックをしてから搭乗すると、あぁ何か安全だとか思う、というような何か物理的なものです。
ところで、この世俗の人々が平和の委員会とか何かをすると、いつも今、ここで、そのような物理的な平和の事を、安全の事が語られます。
では、私たちはどれほどそのようなイデオロギーに犯されて、そのようなイデオロギーに影響を受けているのでしょうか。それを私たちは吟味しなければなりません。誰もが恐れていると、私たちも恐れ出します。
しかしマリア様はファチマで、もしもマリア様の要求の通りにするならば、「平和が与えられる」と約束されました。マリア様が現れた所では、いつも平和を約束しています。ですから私たちはマリア様に、そのような平和をマリア様に委ねて、「北朝鮮と韓国との間には平和があるように」とお祈りします。
そしてそうすると、近代主義のカトリックの人々は、「あぁ、マリア様は私たちの祈りを聞いて下さった。今、平和が来ている!」と喜ぶかもしれません。「北朝鮮と韓国は手を結んで一緒に会食をした、すごい!」と。
それはちょうど、前に共産主義の東欧が、鉄のカーテンが落ちて解放された時に同じような状況が起こりました。その時に皆が、「あぁ、ファチマのマリア様がなさって下さった!」と言って喜びました。「共産主義は死んだ!ロシアは今自由となった!」とたくさん聞きました。「あぁ、マリア様は喜んでいる、そして私たちも嬉しい!」と聞きました。
これは私たちにとって教訓を与えています。一体その時にロシアで何が起こったでしょうか?確かに信仰は迫害を受ける事がなくなりました。ロシアで、そのロシアの色が赤から青に少し変わった、すると、「全てが許されて、今プーチンはミサの侍者をやっている」、という風に私たちは理解しています。
しかしロシアの状況をよく見ると、別にロシアがカトリックに改宗した、カトリックの信仰を受け入れている、というわけでは全然ありません。その反対なのです。それどころか無神論が更に物質主義と重なって、更に霊魂たちを下に落としています。
そこで私が申し上げるこの「平和」というのは、この世が使うような平和ではなくて、私たちの主が使う意味での平和であるという事を理解しなければなりません。そうでなければ私たちは、その深みを、何を考えるべきか間違ってしまうからです。
イエズス様がお生まれになった時に天使たちが歌ったように、私たちの主はこの地上の善意の人々に平和をもたらしました。
イエズス様が今から受難をされようとする時に、「私はお前たちに平和を残す。しかしこの世が与えるような平和ではなく、私の平和を与える」と言われました。
御復活の後には、弟子たちに言った事は最初の言葉は、「お前たちに平和があるように」でした。
イエズス様は私たちに聖霊を賜(たまもの)として与えます。そして聖霊の実りの内の最初が、「平和」です。
それから修道会には、フランシスコ会のそのモットーは「平和と善」“Pax et Bonum”、またベネディクト会では「キリストの平和」、これがモットーとなります。
典礼ではイエズス様は、「平和の王」「平和の君」と言われています。王たるキリストの祝日には、「平和をもたらす王」としてイエズス様を崇めます。
御聖体拝領を与える直前に、ミサの中では司祭は、「主の平和があなた達と共にありますように Pax Domini sit semper vobiscum」と言います。
聖パウロは、エフェソの人々への手紙の中の第2章で、平和について語ります。そこにおいて、「罪の恐ろしさ」「罪が私たちの全てを崩壊させてしまう事」「しかしイエズス様の御血が私たちの崩壊したものを1つにまとめる」という事を教えています。「イエズス様の御血こそが、壊れたものをまた作り直す」と。ですから聖パウロは、「イエズス様こそ私たちの平和だ」「私たちの平和はキリストである。」と言います。
教父たちは非常に多くこの事について語っています。典礼では、平和を求め平和を維持する為の祈りがたくさんあります。聖アウグスティヌスは平和の定義を与えています。これについて聖トマス・アクィナスが既に多く詳しい説明も与えています。聖アウグスティヌスによると「平和とは、秩序における平穏さだ」と。
聖人たちによると、平和には2つの要素があります。1つは「秩序」、もう1つは「平穏さ」です。「秩序」というのは状況です。そして「平穏さ」というのは雰囲気の事です。
例えば何千名もの警察官が来たとします。一人一人が皆さんの方に、銃を向けています。そして「一列に並べ!」とこう言います。とても良い秩序ではないでしょうか。でもそこには平穏さがありません。そこには安心するような平安な気持ちがありません。
この「平穏さ」という言葉はとても面白い意味があります。一方でこれは落ち着いている状態です。もしも嵐で大きな音が鳴っていたり、風が吹いていたりすると、そこには平穏さがありません。しかし嵐が去って、青い空と、太陽と、静かな空気があると、「あぁ、平穏さが戻った、美しさが戻った」という事になります。ですから「平穏さ」というのと、「美しさ」というのは一致しています。ですから平穏な状況にあると、私たちの心は上に上がって、嬉しい気持ちになります。
罪と悪魔は、私たちの間に無秩序をもたらそうとします。「悪魔」“Diabolus”という言葉の語源がそうです、これはギリシャ語から来ています。“βάλλω”「私は投げる」という動詞と διά(通り抜けて)とから由来し、「色んな方向に投げる」という言葉の動詞から、「讒言をする」「嘘の告発をする」という意味になり、「悪魔」という言葉が来ています。ですからギリシャ語の“Διάβολος”というのは、「混乱をもたらす者」とか「問題を作る人」とも訳す事ができます。
原罪を持った人間の心からは、秩序・平和は生まれません。もちろん私が先ほど申し上げたように、人工的な強制的な秩序をもたらす事はできるかもしれません。
私は昔こういう事を聞いた事があります、「神父様、ヒトラーというのはそんなに悪い人ではありませんでした。なぜかというと、ドイツには秩序がその時あったからです。」
はい、確かに秩序はあったのですけれども、その秩序の維持の為には恐ろしい恐怖や、威嚇が必要でした。この秩序というのは1つのグループ、あるいは1人の男によって作り出されました。もしもこの人に誰かちょっとでも反対すれば、すぐに消されてしまいました。したがって、この1人の男ヒトラーさんと同意しなかったが為に、反対を言った司祭たちは多く強制収容所に送られてしまいました。
ですから私が今から申し上げる「本当の平和」というのは、マリア様・イエズス様が私たちに下さる平和であって、私たち人間が作り上げようとしている平和ではありません。私たちが今から習おうする事は、「この本当のイエズス様から来る平和を、もう一度戻す」という事です。
まず私たちの心に平和がなければ、国に平和がある事はありません。
なぜかというと、1つの国の平和は、私たちが強制させる事ができないからです。ただ祈る事しかできません。ある小教区やある共同体についてであれば、この平和をもたらす為に多くの事ができるかもしれません。しかし私たちは、自分の家族の平和の為に全てをしなければなりません。そして家族の平和の為に、家族の成員の一人一人が、お父さんも、お母さんも、子供も、一人一人が心の平和を維持するようにしなければ、家族の平和はあり得ません。
ではイエズス様が、「あなたたちに平和があるように」と仰った時に、何を、一体どういう事を求めているのでしょうか?
詩編によれば、「平和を求めよ。そしてその後を追いかけよ」とあります。
至福八端には「平和をもたらす者は幸いなるかな。彼らは天主の子と言われるだろう。」とあります。この約束はあまりにも素晴らしいものです。ここで与えられた約束は、素晴らしすぎて信じられないほどです。
私たちが求めるのはこの本当の平和であって、この本当の平和こそ素晴らしい賜物です。テレビやラジオで言っている平和の事ではありません。
そこで平和を得る為には、まず心に「秩序」がなければなりません。どうやってこの秩序を作るかといえば、簡単です。心の無秩序を整えれば良いのです。
この今、現代の世界で最高の、最善のカトリックと言われている人も、心に平和がありません。一体なぜ平和がないのでしょうか?何を恐れているのでしょうか?夜中に起きて恐れています、一体なぜ?
テレビをつけると、あるいはラジオをつけると、「ここでは戦争が始まる」「あぁ、ここでは爆撃が始まった」と私たちは恐れています。一体なぜ?私たちの心は穏やかではありません。平穏ではありません。一体なぜでしょうか?
イエズス様は使徒たちに言います、「一体何を恐れているのか?」
まずイエズス様はその答えの第1の理由を与えます、「おぉ、なぜそんなに恐れるのか?信仰の少ない者よ。」
私たちの霊魂をもう一度、この平穏さに戻さなければなりません。その為には生ける信仰を持っていなければなりません。
ではなぜ信仰が大切なのでしょうか?
なぜかというと、信仰によって私たちに、天主の全世界がこの心にやって来るからです。生ける信仰によって、キリストが私たちの心に生き始めるからです。そうすると私にとって、平和の王が現実となるからです。この信仰を起こす事によって、天からの光が、輝かしい光が私たちの心に輝くからです。
ご体験があると思います。時間を使って黙想会に与った、あるいは巡礼をしたその後に、私たちの心に平和が戻っているという事が。しかしひとたび家に帰って、テレビをつけて、マスメディアが色々なニュースを言う時に、もう平和は失われてしまっているかのようです。
そこで私たちに2つの事をしなければなりません、平和を戻す為に、まず「知性」において平和、そして「心」に「意思」においても平和がなければなりません。
では「知性」に平和をもたらす為には、「信仰の真理」が必要です。そしてその光を私たちが受けなければなりません。どうやったら良いでしょうか?私たちに問題や混乱を与えるその元をシャットアウトして、私たちに光を与える方を開くだけで良いのです。ですから私たちはいつも天主から来る美しい事、真理を読んで、そして黙想しなければなりません。
もしも私たちが、「昨日トランプ大統領が一体どんな話をしたのか」また「プーチン大統領が今日どのようにお返事をしたのか」という事について詳しく調べる必要はありません。しかしこのマスメディアの為に私たちはいつも、知らなくても良いようなつまらない事を、いつも知っていなければならないかのように考えています。もしも私たちはこの制限をしなければ、平和がありません。
ここがカトリックの強さです。私たちはそのようなその混乱の元をシャットアウトして、私たちに本当の平和を与える真理の事を深く黙想する事です。
「神父様、そういう時間はありません。なぜかというと、私は大きなビジネスがあって、朝早くから夜遅くまで一生懸命仕事をしなければならないからです。」
しかしなぜそのこれが理由にならないかというと、ナザレトでは、聖ヨゼフ様は朝早くから夜遅くまで一生懸命仕事をしていました。マリア様も朝早くから夜遅くまで一生懸命働いていました。非常に貧しかったので全て自分でしなければなりませんでした。お掃除から、料理から、洗濯から、服を作る事から、みんなやっていました。ナタナエルの言葉によると、ナザレトは本当に貧しい何も無いような所なので、非常に悪い状況でした。ですから平安に生活する事が非常に難しい所でした。
しかしそれにもかかわらず、聖家族には天国のような平安さがありました。もちろんこの聖家族はたくさん働かなければなりませんし、そして皆さんも働かなければなりません。しかし問題は働いた後、あるいは働いている途中の事です。
私たちは仕事の合間に何をしているのでしょうか?1秒ほんのちょっとの間、自由時間が与えられると、これです(スマートフォンを見る)。
これを私たちはしています。
そこでせっかく与えられた自由時間も、このNHKと産経新聞とYouTubeと、そして色々なマスメディアを見て、「あぁ北朝鮮はあんな事を言っている」「韓国はそうだ」「安倍首相は」と言って、「プーチン大統領は」と考えます。
そこで、また混乱と問題が頭の中にいっぱいになってしまいます。
そこで私は皆さんに解決策を与えます。Militia Immaclatae(M・I)はウェブサイトがあります。そしてそのウェブサイトでは、色々と読む事ができる本が、無料でアップロードされています。色んな言葉であります。中国語でさえも資料があります。
プーチンやトランプの代わりに、マリア様のお言葉を、マリア様のお話をまず頭に入れて下さい。これは皆さんが思っているよりも重要な話です。
ニュースだけではありません。皆さんが使っているメールやLINEやその他で、「あ!」と驚かせるような色々なゴシップがあります。「あの人がああやった」「あの人がこうやった」と。
いろいろなスタンプを送って、ニコッとマークを送ったり、送られたりして、返事がいつ来るかと待って、既読になったかならないかで気をもめて、それで時間を使っています。そこで平和がありません。問題があります。
「でも神父様、このLINEをやって罪ではありません。別に悪い動画や悪い写真を見るわけではありません。良いものだけを見ています。こういうのも罪ではありません。」
ではどこに問題があるのでしょうか?問題はこの小さな道具が、私たちの平和を取ってしまうことです。この携帯によって私たちは、いつもこう興奮して「あぁ、どうなっているのか」依存しているからです。
私は先程まで、ブトワンという所で黙想会を指導してきました。沈黙の黙想会です。私がそこで見た事を、何を見たか知っていますか?
まず第1の黙想会の講話で、「携帯は使ってはいけません」と言いました。その言った5分後に携帯が鳴ったのです。そしてこの今まで一生懸命私の話を聞いていた人が何をしたか知っていますか?すぐにこうしたのです(電話に出てしゃべる)
私たちはこの小さな機械に依存しています。この小さな物が王様になっています。もしもこの小さな機械が信号を出すと、もう他の事はすっかり忘れて、黙想会でも何でもこの事だけに集中しています。
私たちの教会のパリでも、大きな教会なのですけれども、神父様が特別の御説教をして、「このミサの間には、この携帯を使ってはいけない」という話をしました。
平和というのは非常に大切です。なぜかというと、平和というのは、私たちが良い祈りをする為にも、良い行動をする為にも、良い態度を受ける為にも、基礎となるからです。ですからマリア様は私たちにこの平和を与えようとしています。私たちは秋田に来ました、ちょうどファチマに行ったように。なぜかというと、マリア様は私たちに全ての御恵みを与える事ができて、なぜかというと全ての御恵みを持っているからです。
そしてその内の特別な最大の御恵みは、「平和」の御恵みです。私たちの主は私たちの心を惹き付けるものですから、一旦惹き付けられると私たちに平和が戻ってきます。
平和の第1の条件は、「知性が私たちに与えられる信仰の光を、天主から来る世界を受け入れる」という事です。この地上のニュースやテレビが与えるものではありません。
しかし天主様の玄義、あるいは素晴らしい奇跡的なマリア様の行い、御恵み等について私たちが知っているだけでは足りません。意思が開かれていなければなりません。
私たちが告解をして、罪を告白して、罪が赦された時に、心が清められて浄化されて、そして平和が戻ってきたその喜びを思い出して下さい。なぜかというとこの時に、この瞬間には、秩序が戻ったからです。調和があるからです。この霊魂には美が戻ったからです。私たちの幸せを脅かすものを取って下さったので、私たちには平和が戻りました。
もしも煉獄で苦しむ霊魂について思っていたら、あるいは地獄の霊魂の事を思ったら平和がありません。なぜかというと、もしも私たちが小罪の償いを果たしていなければ、小罪があるならば、煉獄が待っているからです。しかしもしも私が大罪に中毒になっているならば、平和がありません。
ところで、近代主義の人たちがいつも話している「平和」「平和」「平和」と言うのにはこの事がありません。大罪を赦され、罪から赦され、罪を忌み憎む事がありません。ですから本当の平和ではありません。これが欠如しています。
もしも私が誰かに、「あぁ、仏像にお祈りして下さい。」あるいは「この太平洋の真ん中にあるトーテムポールのような木の棒にお祈りして下さい」と言ったら、私は大罪を犯します。第一戒に、天主様の十戒の内の第一戒に反する罪を犯す事になります。ところで1986年、アシジでは異教の人々に、「彼らの神々にお祈りしろ」と言ったのみならず、教会をその為に解放して、仏像が御聖櫃の上に置かれさえもしました。
ですから私たちは客観的に、そのようなお祈りが本当の平和を与える事ができない、もたらす事ができない、という事を知っています。
私たちがまず平和を求めるならば、その人の霊魂の回心を、真の天主への回心を求めなければなりません。本当の平和とは、真の天主であるイエズス・キリストの御旨を果たす事にあります。
イエズス様天主がこの世を創った時に、全ては完璧な秩序の上に創られました。この地上での楽園は、あたかも地上における天国であるかのようでした。この世の終わりに来るべき新しいエルサレム、天のエルサレムは、至福の平和のビジョンであって、平和を見る事です。
なぜ「天上的な平和」と言われるかというと、全てが完璧で、秩序立っているからです。ですから私たちは、天主の求める秩序、望む秩序に戻らなければなりません。ですから聖霊の実りの果実の1つが、「平和」です。
私が先ほど申し上げましたように、天主の御旨を果たそうと生活すればするほど、私たちの心に平和が多くなります。そして次の段階は、私たちの持っている平和を周りの人に伝える、という事です。これが「平和を作る人」です。これが皆さんの家庭生活をする、まず夫は妻の霊魂に平和をもたらします。
妻は夫の霊魂に平和をもたらします。相互に互いに助け合って、相互の霊魂に平和があるように努めます。この地上のつまらない事ではなく、天主の光と、天主の世界に照らされて、互いに励まし合います。
今から少し休憩に行きます。次のお話で、どうやって妻と夫は互いに平和をもたらし合うだろうか、あるいはどうやってもたらし合わないだろうか、という具体的な例を示したいと思います。15分間休憩をします。
「マスメディアの言う平和と天主の与える平和との違い」
同時通訳:小野田圭志神父
秋田への巡礼の招待の手紙の中には、私は特に「平和」について黙想をする事を提案していました。
なぜかというと、政治的な具体的な今の状況は、私たちを少し心配させたからです。特に南北朝鮮半島からの脅威というものが、ここではすごく近くで感じられていたからです。
小野田神父がシュテーリン神父に、この「手紙を書いて下さい」と言った時に、そのような北朝鮮が南朝鮮にミサイルを撃つのではないか、という恐れがありましたけれども、今では両者は手を結んでいます。
数ヶ月前は、プーチン大統領とトランプ大統領は一緒にコーヒーを飲んで、何か強いお友達のようでしたが、今ではある国にある化学兵器を巡って、この両国は戦争の前夜であるかのような状況をしています。
これは何を私たちに教えているかというと、「マスコミが何を私たちに言っても、それにあまりびっくりせず、それに影響を受けないでいるべきだ」という事です。何をマスメディアが言っても、本当の事を知る事はないでしょう。
いつも私たちは、「最新のニュースによるとこの危機が」あるいは「あの危機が」と言ってビクビクしていなければなりません。第二次世界大戦が終わった後に、平和を脅かすものは毎月のように現れています。
1986年、ヨハネ・パウロニ世はアシジに全ての宗教の人々を集めて、「平和の為に祈るように」と言っていました。もちろん、平和の為に祈りをするという意向は良い意向ですけれども、一体「誰に向かって祈っているのか」というのが問題です。もしも、私たちがもしも平和を求めて悪魔にお祈りをしたら、私たちはその結果を受けなければなりません。ところで聖書によると詩編によると、「異教徒たちの神々は全て悪魔だ」と言います。
しかし平和については、過去30年から40年の間大きな進展がありました。この平和の進展があったという事はどういう事かというと、平和についての色々な出来事があったという事です。
これは何を意味するかというと、大きな戦争が起こる危険があるというよりは、「私たちがはっきり確実なものを、私たちがますます失っていると」いう事です。私たちは、なぜ、一体どうして、どこで、何の為に、このような戦いが起こっているのか分かりませんけれども、しかし突然そのような事を知らされて、ショックを受ける事があります。
例えばアメリカに旅行する時には、安全検査と言って色々な検査をしなければなりません。しかし、だからといって安全が守られているとは限りません。ニュースや、あるいは宣伝によっていつも私たちに与えられている情報のために、人々は常に何かを恐れていなければなりません。
私たちが何か「安全だ、安心している」という時になると、いきなり頭を叩かれて、「恐れなければならない!」という風に教えられます。あたかも私たちにこの世界の人々に、新しいメンタリティーを、新しい精神状況を作り出そうとしているかのようです。
一方では、人々には面白おかしい事や娯楽などによって、気晴らしがたくさん与えられています。
ところでその他方で、「安心している、安全だ」という代わりに、いつも「あぁ、次にはどんな事件が起こるのか」あるいは「誰かが鉄砲を持って殺されるのではないか」あるいは「何かテロリズムがあるのではないか」と恐れなければなりません。
では、この2つの事は何を私たちに求めているのでしょうか?
これは私たちに、今、「今ここで私たちがする事をしっかりしていなければならない。明日はもう遅すぎるかもしれない」という事です。特に教会の指導者たちが「平和の為に祈ろう」と言った時に、私たちはともすると、今ここの、今私の平和、私の家族の平和だけを考えていて、「天主様が求めている大きな秩序の中」というものを見失ってしまうかもしれません。
なぜかというと、この平和の為に一体どんな手段が求められるかというと、物理的な安全の事だけを考えているからです。例えば飛行機に乗る前に、5つの段階の安全検査のチェックをしてから搭乗すると、あぁ何か安全だとか思う、というような何か物理的なものです。
ところで、この世俗の人々が平和の委員会とか何かをすると、いつも今、ここで、そのような物理的な平和の事を、安全の事が語られます。
では、私たちはどれほどそのようなイデオロギーに犯されて、そのようなイデオロギーに影響を受けているのでしょうか。それを私たちは吟味しなければなりません。誰もが恐れていると、私たちも恐れ出します。
しかしマリア様はファチマで、もしもマリア様の要求の通りにするならば、「平和が与えられる」と約束されました。マリア様が現れた所では、いつも平和を約束しています。ですから私たちはマリア様に、そのような平和をマリア様に委ねて、「北朝鮮と韓国との間には平和があるように」とお祈りします。
そしてそうすると、近代主義のカトリックの人々は、「あぁ、マリア様は私たちの祈りを聞いて下さった。今、平和が来ている!」と喜ぶかもしれません。「北朝鮮と韓国は手を結んで一緒に会食をした、すごい!」と。
それはちょうど、前に共産主義の東欧が、鉄のカーテンが落ちて解放された時に同じような状況が起こりました。その時に皆が、「あぁ、ファチマのマリア様がなさって下さった!」と言って喜びました。「共産主義は死んだ!ロシアは今自由となった!」とたくさん聞きました。「あぁ、マリア様は喜んでいる、そして私たちも嬉しい!」と聞きました。
これは私たちにとって教訓を与えています。一体その時にロシアで何が起こったでしょうか?確かに信仰は迫害を受ける事がなくなりました。ロシアで、そのロシアの色が赤から青に少し変わった、すると、「全てが許されて、今プーチンはミサの侍者をやっている」、という風に私たちは理解しています。
しかしロシアの状況をよく見ると、別にロシアがカトリックに改宗した、カトリックの信仰を受け入れている、というわけでは全然ありません。その反対なのです。それどころか無神論が更に物質主義と重なって、更に霊魂たちを下に落としています。
そこで私が申し上げるこの「平和」というのは、この世が使うような平和ではなくて、私たちの主が使う意味での平和であるという事を理解しなければなりません。そうでなければ私たちは、その深みを、何を考えるべきか間違ってしまうからです。
イエズス様がお生まれになった時に天使たちが歌ったように、私たちの主はこの地上の善意の人々に平和をもたらしました。
イエズス様が今から受難をされようとする時に、「私はお前たちに平和を残す。しかしこの世が与えるような平和ではなく、私の平和を与える」と言われました。
御復活の後には、弟子たちに言った事は最初の言葉は、「お前たちに平和があるように」でした。
イエズス様は私たちに聖霊を賜(たまもの)として与えます。そして聖霊の実りの内の最初が、「平和」です。
それから修道会には、フランシスコ会のそのモットーは「平和と善」“Pax et Bonum”、またベネディクト会では「キリストの平和」、これがモットーとなります。
典礼ではイエズス様は、「平和の王」「平和の君」と言われています。王たるキリストの祝日には、「平和をもたらす王」としてイエズス様を崇めます。
御聖体拝領を与える直前に、ミサの中では司祭は、「主の平和があなた達と共にありますように Pax Domini sit semper vobiscum」と言います。
聖パウロは、エフェソの人々への手紙の中の第2章で、平和について語ります。そこにおいて、「罪の恐ろしさ」「罪が私たちの全てを崩壊させてしまう事」「しかしイエズス様の御血が私たちの崩壊したものを1つにまとめる」という事を教えています。「イエズス様の御血こそが、壊れたものをまた作り直す」と。ですから聖パウロは、「イエズス様こそ私たちの平和だ」「私たちの平和はキリストである。」と言います。
教父たちは非常に多くこの事について語っています。典礼では、平和を求め平和を維持する為の祈りがたくさんあります。聖アウグスティヌスは平和の定義を与えています。これについて聖トマス・アクィナスが既に多く詳しい説明も与えています。聖アウグスティヌスによると「平和とは、秩序における平穏さだ」と。
聖人たちによると、平和には2つの要素があります。1つは「秩序」、もう1つは「平穏さ」です。「秩序」というのは状況です。そして「平穏さ」というのは雰囲気の事です。
例えば何千名もの警察官が来たとします。一人一人が皆さんの方に、銃を向けています。そして「一列に並べ!」とこう言います。とても良い秩序ではないでしょうか。でもそこには平穏さがありません。そこには安心するような平安な気持ちがありません。
この「平穏さ」という言葉はとても面白い意味があります。一方でこれは落ち着いている状態です。もしも嵐で大きな音が鳴っていたり、風が吹いていたりすると、そこには平穏さがありません。しかし嵐が去って、青い空と、太陽と、静かな空気があると、「あぁ、平穏さが戻った、美しさが戻った」という事になります。ですから「平穏さ」というのと、「美しさ」というのは一致しています。ですから平穏な状況にあると、私たちの心は上に上がって、嬉しい気持ちになります。
罪と悪魔は、私たちの間に無秩序をもたらそうとします。「悪魔」“Diabolus”という言葉の語源がそうです、これはギリシャ語から来ています。“βάλλω”「私は投げる」という動詞と διά(通り抜けて)とから由来し、「色んな方向に投げる」という言葉の動詞から、「讒言をする」「嘘の告発をする」という意味になり、「悪魔」という言葉が来ています。ですからギリシャ語の“Διάβολος”というのは、「混乱をもたらす者」とか「問題を作る人」とも訳す事ができます。
原罪を持った人間の心からは、秩序・平和は生まれません。もちろん私が先ほど申し上げたように、人工的な強制的な秩序をもたらす事はできるかもしれません。
私は昔こういう事を聞いた事があります、「神父様、ヒトラーというのはそんなに悪い人ではありませんでした。なぜかというと、ドイツには秩序がその時あったからです。」
はい、確かに秩序はあったのですけれども、その秩序の維持の為には恐ろしい恐怖や、威嚇が必要でした。この秩序というのは1つのグループ、あるいは1人の男によって作り出されました。もしもこの人に誰かちょっとでも反対すれば、すぐに消されてしまいました。したがって、この1人の男ヒトラーさんと同意しなかったが為に、反対を言った司祭たちは多く強制収容所に送られてしまいました。
ですから私が今から申し上げる「本当の平和」というのは、マリア様・イエズス様が私たちに下さる平和であって、私たち人間が作り上げようとしている平和ではありません。私たちが今から習おうする事は、「この本当のイエズス様から来る平和を、もう一度戻す」という事です。
まず私たちの心に平和がなければ、国に平和がある事はありません。
なぜかというと、1つの国の平和は、私たちが強制させる事ができないからです。ただ祈る事しかできません。ある小教区やある共同体についてであれば、この平和をもたらす為に多くの事ができるかもしれません。しかし私たちは、自分の家族の平和の為に全てをしなければなりません。そして家族の平和の為に、家族の成員の一人一人が、お父さんも、お母さんも、子供も、一人一人が心の平和を維持するようにしなければ、家族の平和はあり得ません。
ではイエズス様が、「あなたたちに平和があるように」と仰った時に、何を、一体どういう事を求めているのでしょうか?
詩編によれば、「平和を求めよ。そしてその後を追いかけよ」とあります。
至福八端には「平和をもたらす者は幸いなるかな。彼らは天主の子と言われるだろう。」とあります。この約束はあまりにも素晴らしいものです。ここで与えられた約束は、素晴らしすぎて信じられないほどです。
私たちが求めるのはこの本当の平和であって、この本当の平和こそ素晴らしい賜物です。テレビやラジオで言っている平和の事ではありません。
そこで平和を得る為には、まず心に「秩序」がなければなりません。どうやってこの秩序を作るかといえば、簡単です。心の無秩序を整えれば良いのです。
この今、現代の世界で最高の、最善のカトリックと言われている人も、心に平和がありません。一体なぜ平和がないのでしょうか?何を恐れているのでしょうか?夜中に起きて恐れています、一体なぜ?
テレビをつけると、あるいはラジオをつけると、「ここでは戦争が始まる」「あぁ、ここでは爆撃が始まった」と私たちは恐れています。一体なぜ?私たちの心は穏やかではありません。平穏ではありません。一体なぜでしょうか?
イエズス様は使徒たちに言います、「一体何を恐れているのか?」
まずイエズス様はその答えの第1の理由を与えます、「おぉ、なぜそんなに恐れるのか?信仰の少ない者よ。」
私たちの霊魂をもう一度、この平穏さに戻さなければなりません。その為には生ける信仰を持っていなければなりません。
ではなぜ信仰が大切なのでしょうか?
なぜかというと、信仰によって私たちに、天主の全世界がこの心にやって来るからです。生ける信仰によって、キリストが私たちの心に生き始めるからです。そうすると私にとって、平和の王が現実となるからです。この信仰を起こす事によって、天からの光が、輝かしい光が私たちの心に輝くからです。
ご体験があると思います。時間を使って黙想会に与った、あるいは巡礼をしたその後に、私たちの心に平和が戻っているという事が。しかしひとたび家に帰って、テレビをつけて、マスメディアが色々なニュースを言う時に、もう平和は失われてしまっているかのようです。
そこで私たちに2つの事をしなければなりません、平和を戻す為に、まず「知性」において平和、そして「心」に「意思」においても平和がなければなりません。
では「知性」に平和をもたらす為には、「信仰の真理」が必要です。そしてその光を私たちが受けなければなりません。どうやったら良いでしょうか?私たちに問題や混乱を与えるその元をシャットアウトして、私たちに光を与える方を開くだけで良いのです。ですから私たちはいつも天主から来る美しい事、真理を読んで、そして黙想しなければなりません。
もしも私たちが、「昨日トランプ大統領が一体どんな話をしたのか」また「プーチン大統領が今日どのようにお返事をしたのか」という事について詳しく調べる必要はありません。しかしこのマスメディアの為に私たちはいつも、知らなくても良いようなつまらない事を、いつも知っていなければならないかのように考えています。もしも私たちはこの制限をしなければ、平和がありません。
ここがカトリックの強さです。私たちはそのようなその混乱の元をシャットアウトして、私たちに本当の平和を与える真理の事を深く黙想する事です。
「神父様、そういう時間はありません。なぜかというと、私は大きなビジネスがあって、朝早くから夜遅くまで一生懸命仕事をしなければならないからです。」
しかしなぜそのこれが理由にならないかというと、ナザレトでは、聖ヨゼフ様は朝早くから夜遅くまで一生懸命仕事をしていました。マリア様も朝早くから夜遅くまで一生懸命働いていました。非常に貧しかったので全て自分でしなければなりませんでした。お掃除から、料理から、洗濯から、服を作る事から、みんなやっていました。ナタナエルの言葉によると、ナザレトは本当に貧しい何も無いような所なので、非常に悪い状況でした。ですから平安に生活する事が非常に難しい所でした。
しかしそれにもかかわらず、聖家族には天国のような平安さがありました。もちろんこの聖家族はたくさん働かなければなりませんし、そして皆さんも働かなければなりません。しかし問題は働いた後、あるいは働いている途中の事です。
私たちは仕事の合間に何をしているのでしょうか?1秒ほんのちょっとの間、自由時間が与えられると、これです(スマートフォンを見る)。
これを私たちはしています。
そこでせっかく与えられた自由時間も、このNHKと産経新聞とYouTubeと、そして色々なマスメディアを見て、「あぁ北朝鮮はあんな事を言っている」「韓国はそうだ」「安倍首相は」と言って、「プーチン大統領は」と考えます。
そこで、また混乱と問題が頭の中にいっぱいになってしまいます。
そこで私は皆さんに解決策を与えます。Militia Immaclatae(M・I)はウェブサイトがあります。そしてそのウェブサイトでは、色々と読む事ができる本が、無料でアップロードされています。色んな言葉であります。中国語でさえも資料があります。
プーチンやトランプの代わりに、マリア様のお言葉を、マリア様のお話をまず頭に入れて下さい。これは皆さんが思っているよりも重要な話です。
ニュースだけではありません。皆さんが使っているメールやLINEやその他で、「あ!」と驚かせるような色々なゴシップがあります。「あの人がああやった」「あの人がこうやった」と。
いろいろなスタンプを送って、ニコッとマークを送ったり、送られたりして、返事がいつ来るかと待って、既読になったかならないかで気をもめて、それで時間を使っています。そこで平和がありません。問題があります。
「でも神父様、このLINEをやって罪ではありません。別に悪い動画や悪い写真を見るわけではありません。良いものだけを見ています。こういうのも罪ではありません。」
ではどこに問題があるのでしょうか?問題はこの小さな道具が、私たちの平和を取ってしまうことです。この携帯によって私たちは、いつもこう興奮して「あぁ、どうなっているのか」依存しているからです。
私は先程まで、ブトワンという所で黙想会を指導してきました。沈黙の黙想会です。私がそこで見た事を、何を見たか知っていますか?
まず第1の黙想会の講話で、「携帯は使ってはいけません」と言いました。その言った5分後に携帯が鳴ったのです。そしてこの今まで一生懸命私の話を聞いていた人が何をしたか知っていますか?すぐにこうしたのです(電話に出てしゃべる)
私たちはこの小さな機械に依存しています。この小さな物が王様になっています。もしもこの小さな機械が信号を出すと、もう他の事はすっかり忘れて、黙想会でも何でもこの事だけに集中しています。
私たちの教会のパリでも、大きな教会なのですけれども、神父様が特別の御説教をして、「このミサの間には、この携帯を使ってはいけない」という話をしました。
平和というのは非常に大切です。なぜかというと、平和というのは、私たちが良い祈りをする為にも、良い行動をする為にも、良い態度を受ける為にも、基礎となるからです。ですからマリア様は私たちにこの平和を与えようとしています。私たちは秋田に来ました、ちょうどファチマに行ったように。なぜかというと、マリア様は私たちに全ての御恵みを与える事ができて、なぜかというと全ての御恵みを持っているからです。
そしてその内の特別な最大の御恵みは、「平和」の御恵みです。私たちの主は私たちの心を惹き付けるものですから、一旦惹き付けられると私たちに平和が戻ってきます。
平和の第1の条件は、「知性が私たちに与えられる信仰の光を、天主から来る世界を受け入れる」という事です。この地上のニュースやテレビが与えるものではありません。
しかし天主様の玄義、あるいは素晴らしい奇跡的なマリア様の行い、御恵み等について私たちが知っているだけでは足りません。意思が開かれていなければなりません。
私たちが告解をして、罪を告白して、罪が赦された時に、心が清められて浄化されて、そして平和が戻ってきたその喜びを思い出して下さい。なぜかというとこの時に、この瞬間には、秩序が戻ったからです。調和があるからです。この霊魂には美が戻ったからです。私たちの幸せを脅かすものを取って下さったので、私たちには平和が戻りました。
もしも煉獄で苦しむ霊魂について思っていたら、あるいは地獄の霊魂の事を思ったら平和がありません。なぜかというと、もしも私たちが小罪の償いを果たしていなければ、小罪があるならば、煉獄が待っているからです。しかしもしも私が大罪に中毒になっているならば、平和がありません。
ところで、近代主義の人たちがいつも話している「平和」「平和」「平和」と言うのにはこの事がありません。大罪を赦され、罪から赦され、罪を忌み憎む事がありません。ですから本当の平和ではありません。これが欠如しています。
もしも私が誰かに、「あぁ、仏像にお祈りして下さい。」あるいは「この太平洋の真ん中にあるトーテムポールのような木の棒にお祈りして下さい」と言ったら、私は大罪を犯します。第一戒に、天主様の十戒の内の第一戒に反する罪を犯す事になります。ところで1986年、アシジでは異教の人々に、「彼らの神々にお祈りしろ」と言ったのみならず、教会をその為に解放して、仏像が御聖櫃の上に置かれさえもしました。
ですから私たちは客観的に、そのようなお祈りが本当の平和を与える事ができない、もたらす事ができない、という事を知っています。
私たちがまず平和を求めるならば、その人の霊魂の回心を、真の天主への回心を求めなければなりません。本当の平和とは、真の天主であるイエズス・キリストの御旨を果たす事にあります。
イエズス様天主がこの世を創った時に、全ては完璧な秩序の上に創られました。この地上での楽園は、あたかも地上における天国であるかのようでした。この世の終わりに来るべき新しいエルサレム、天のエルサレムは、至福の平和のビジョンであって、平和を見る事です。
なぜ「天上的な平和」と言われるかというと、全てが完璧で、秩序立っているからです。ですから私たちは、天主の求める秩序、望む秩序に戻らなければなりません。ですから聖霊の実りの果実の1つが、「平和」です。
私が先ほど申し上げましたように、天主の御旨を果たそうと生活すればするほど、私たちの心に平和が多くなります。そして次の段階は、私たちの持っている平和を周りの人に伝える、という事です。これが「平和を作る人」です。これが皆さんの家庭生活をする、まず夫は妻の霊魂に平和をもたらします。
妻は夫の霊魂に平和をもたらします。相互に互いに助け合って、相互の霊魂に平和があるように努めます。この地上のつまらない事ではなく、天主の光と、天主の世界に照らされて、互いに励まし合います。
今から少し休憩に行きます。次のお話で、どうやって妻と夫は互いに平和をもたらし合うだろうか、あるいはどうやってもたらし合わないだろうか、という具体的な例を示したいと思います。15分間休憩をします。