2018年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【2】
「本当の平和とは天主の秩序を築くこと:個人生活においても家庭生活においても」
同時通訳:小野田圭志神父
先ほどの話の続きをしますと、平和には2つの要素があります。1つは、「知性への天からの光」そしてもう1つは、「意志を強めるもの」です。
それからもう1つ、よくある誤謬・間違いですけれども、「平和」という時に、「戦争の反対」と考える人がいます。街にいる人々に、「平和とは何ですか?」と聞くと、大体の人は、「全てがうまく順調にいっている事だ」と言います。
でもそうではありません。まず私たちは、「原罪を持って生まれてきた、罪を犯した被造物である」という事、そして「たとえ原罪が洗礼によって赦されたとしても、私たちには原罪の傷を負っている」という事です。この原罪の為に私たちが持って生まれた傷というのは、霊魂に無秩序をまだもたらしています。
この傷による無秩序を、秩序立てる為には、戦わなければなりません。ですからこの意味によると、「平和」というのは常に、「戦いの実り」であります。
イエズス様はある時こう言いました、「私はこの地上に平和をもたらす為ではなくて、剣をもたらす為にやって来た」と。イエズス様は、この世が与えるような偽物のプラスチックの人工の平和をもたらす為に来たのではありませんでした。イエズス様がもたらす為に来たのは、本当の平和であって、この本当の平和というのは、戦いの結果です。本当の平和というのは、平和の君が統治する所にのみあります。そしてその統治の為に私たちは働かなければなりません。
そこで私たちは問題を作る者に、悪魔に対して戦わなければなりません。悪魔は私たちを、そのままほっぽらかしてそのままにさせてはおかないので、私たちを何とか誘惑しようと、この世が存在する限り誘惑を挑んできます。そこで、私たちは常に戦い続けなければなりません。ですから「平和」というのと、「戦い・戦争」というのは、この意味では一緒になります。ですから日常、日中の間、戦えば戦うほど、その結果実りとして夜、平和があります。
この観点から聖母の騎士を、無原罪の聖母の騎士を見て下さい。マリア様はご自分の軍隊の騎士たちに戦うように求めています。この戦いは世の終わりまで続きます。この戦いは平和をもたらす為の戦いです。この戦いというのは、ある1人の無原罪の聖母の騎士が、他の霊魂をして、マリア様を知らせ、愛させる事にあります。
「罪人の回心の為に尽くせ」と聖マキシミリアノ・コルベは言っています。「ユダヤ人の回心の為に、異端者の、またあるいは異教徒の回心の為に、フリーメイソンの回心の為に尽くしなさい」と。
なぜフリーメイソンでしょうか?なぜかというと、たとえそれが離教徒であろうと、異端者であろうと、あるいは異教徒であろうと、イエズス様と一致していない限り、彼らの心に平安はありません。しかしフリーメイソンは、ただ単に自分だけがその平和がないのではなく、この平和がない事を他の人々にも広めようとしている、戦っているからです。
フリーメイソンは新しい世界秩序を作ろうとしています。その新しい世界秩序によれば、「人間が天主の地位に立って、人間の世界を作る」という事です。ここに「新世界秩序」という、秩序を作ろうとしています。それは地上における楽園を建設するという事です。
しかし同時に、この秩序には本当の平和の起源がありません。天主の無い、したがって本当の意味での平和を与える力を持たない、しかし人間だけの平和を作る者として、自分を自称しています。そこで彼らは、「天主の無い平和を作る事ができる」と私たちを騙して、嘘をついて、そして常に幻想を抱かせなければなりません。
しかし現実に何が起こっているかを見て下さい。それは恐怖政治であって、どこもかしこも、腐敗と恐怖で充ち満ている世界です。フランス革命の時の、平和を強制させる道具は何かというと、「ギロチン」でした。ギロチンはフランス革命でしたが、その後はそれは別の道具を使います。それが強制収容所であったり、グラーグと言われていたり、あるいはテロリズムに対する戦いであったりします。そのようなカギ括弧付きの平和の道具を作って、世界に平和を強制しようとしますけれども、世界の状況はますます無秩序へと転がり落ちています。
しかしファチマではマリア様は約束しました、「最後には、私の汚れなき御心が凱旋するでしょう。そして平和の時が与えられるでしょう。」
この平和は、まず私たちの心に霊魂にあるものです。この国家間の平和とか、あるいはどこかの団体の平和の前に、私たちの心になければなりません。この心の平和を得る為には、朝から夜に至るまで、私たちは戦い続けなければ、悪魔と無秩序に対して戦わなければなりません。
「無秩序」と戦うというのは何かというと、「天主の御旨が私たちの霊魂において尊重されていない」という無秩序です。
第1の無秩序というのはこれです、「願わくは、私の御旨が天に行われる如く、地にも行われん事を。」「私の意志が、私のやりたい事が行われる事を」というのは、これこそが無秩序の根源であって、非常に悪い願いです。
私たちは「主の御旨が、御身の御旨が行われん事を」と言わなければなりません。でもよく、「それから、私のやりたい事も」とそれに付け加えます。そこに問題があります、ここに無秩序の起源があります。
イエズス様はゲッセマニの園で、「私の望みではなく、御身の御旨がなされますように」と祈りました。
なぜかというと、私のやりたい事、私の思いというのは、原罪によって傷つけられた利己主義や、あるいは自分勝手といつもリンクしているからです。平和の為には、天主の御旨、そしてインマクラータの御旨を果たさなければなりませんが、私たちは朝起きたら一体何をするでしょうか?最初に何をしますか?朝、皆さんは何をしますか?
まず私たちは朝起きます。皆さんどうやって起きるのでしょうか?ここに有名なアラームがあります、スヌーズ機能が付いています。
「私は朝6時に起きなければならない。なぜならば、6時に起きて、朝のお祈りをする。それから黙想をする。その為に何分必要だ、だから必ず6時に起きないと遅れてしまう。6時に起きる。」まず考えを分析して下さい。まず秩序と調和に満ちた1日を送ろう、という決意を取っています。そのその後に、エネルギーを祈りによって得た後に、仕事につきたいと思っています。カトリックとして1日を始めようと思っています。ですからまず私たちは寝る前に、素晴らしい明日の計画とプランを立てます。
イエズス様もヨゼフ様もマリア様も、皆聖家族はこうやって起きていました、朝早く。最初の、朝の最も最初の瞬間は、祈りに捧げられました。その後に朝必要なものの準備をします。美味しい朝食と美味しいコーヒーも飲む事ができます。そして仕事につく事ができます。霊魂は祈りによって御恵みで満たされて、体も美味しい朝食で満たされています。お祈りによって、知性は今日何をすべきかよく分かっています。そして私たちの意思も、天主の御旨を果たそうと愛に燃えています。
そして翌日、朝がやってきました。ですから、「私はその全てを得る為に、朝の祈りをする為に、5時半に起きなければならない」とアラームをセットしたからです。ですから5時半に起きる事ができるように、携帯を2つ準備して、2つアラームをセットします。こちら側は5時29分にセットしてあって1分早く、そしてこちらは本物で5時30分に鳴ります。最初のアラームと第2のアラームは音が違っています。さぁ5時29分、30分になりました。
「あぁ、外は雨が降っている。まだ太陽も上がっていない。ベッドは本当に暖かくて気持ちがいい。」そしてベッドから手を出してアラームを1つずつ消します。「どうせ10分経つとまたスヌーズがもう1回なるから、大丈夫。まだ遅刻しない。もう10分。」そして10分後、また携帯が鳴ります、アラームが鳴ります。
そして何10分か後に、本当にもう遅刻するという時、「あぁもうこんな時間だ!あぁ起きなきゃ!あぁバスに乗り遅れる!あぁ電車に遅れる!」そして「乗り遅れる!」と言って服をまず無心に取ります。そしてちょっと洗面所に行こうとすると、誰かがもう入っています。「ちょっと遅刻してるから早く早く早く!」と言って、「あぁ、おはようございま~す。よく眠れた?」「あぁ!それどころじゃないの!」そしてちょうどバス停に一生懸命行くのですけれども、バス停に到着したその瞬間、バスがその目の前をスーッと通って行ってしまいます。
朝の祈りをする事ができませんでした。それから何度も何度もイライラして怒りました。家族の皆にはたくさん嫌な言葉を吐きました。腐ったリンゴのように顔はもうクシャクシャです。みんな、皆さんの事を恐れがっています。そして職場に着いたらもう疲れ果てて、ハァハァ息を切らせて、もう仕事どころではありません。平和がありません。そしてこの朝からこのように始まってしまうと、1日中このように終わります。
朝アラームが鳴った時に起きるというのは、これは戦いです。私たちはこの敵を、取ってこう戦って参らせなければなりませんが、私たちの本当の敵とは何でしょうか?
自分の「利己主義」と「自分勝手」です。1日の間、私たちの原罪の傷が自分勝手が顔を覗かせて、「自分の思い通りにさせたい」という事が来ると、それを黙らせるように戦わなければなりません。「怠慢」という原罪の傷をお見せました。私の義務、果たすべき義務よりも、私の安楽さ快楽さを求める、という事です。
もしも天主の御旨を果たしたとしたら、平和がありました。それに対して、私の思い通りに、私のやりたいように、私の快楽を求めると、平和がありません。もちろん怠慢という事もそうですけれども、他の隣人たちとの関係、良い関係という事についても同じです。
しかし、もしも私たちが5時30分にアラームの通り起きて、お祈りもして、黙想して、ちゃんと計画を立てて、全て準備をして職場に着いたとします。「あぁマリア様お母様、イエズス様、今日は1日本当に素晴らしい平和を頂く事ができそうです。ありがとうございます。」
皆さん、でも悪魔は眠っていません。携帯が鳴っています、「あ、メッセージが来た。」このいきなり携帯にメッセージがやって来て、それによると何か私たちの反対とか、あるいは反対するような苛立たせるような事が書いてある。「何だこれは!」すぐ返事をして、そうするとすぐ返事が返ってきて、「何だ!」すぐ返事をして、すぐ返事が返ってきて、もう平和がありません。携帯のちょっとしたメッセージ、あるいはちょっとした電話が、私たちの平和を奪ってしまう事があります、あっという間に。ここに問題があります。
これは私たちの傲慢です、謙遜の欠如です。私の言っている事をよく理解して下さい。「謙遜」というのは、「私は無であって、私の持っている物は何もなくて、全て天主から頂いたものだ」という事です。したがって、「全ては天主様の御手の内にある」という事です。「全て天主のコントロールの元にある」という事です。「天主の力の及ばないものは何もない」という事です。
天主は全てを御存知です。全てを知っているのみか、全能であります。しかも私を愛しています。この3つを集めて下さい。という事は、私の平和を混乱させるものは何もあり得ない、という事です。しかし下らない事の為に平和を失ってしまっています。という事は、私たちの心、霊魂の中は秩序立っていないという事を示しています。したがって私たちは秩序立てなければなりません。
では、否定的なメッセージに対してどうすれば良いのでしょうか?誰かが皆さんの事を叱った、あるいは忠告した、あるいはちょっと辱められた、という時は。あるいはちょっと腹立たしい事がある。私たちがよく一番頻繁に告解するのは何でしょうか?「私はイライラしました」「腹が立ちました」「私は憎しみました」ですから私はよく叫んだり怒ったりします。もしも私たちが却って弱々しい性格ですと、そういうのを見ると怒る代わりに、泣いたり悲しんだりします。私たちの霊魂が秩序立っていないからです。
秩序を立てる為には戦わなければなりません。マリア様は私たちに約束しました、「もしもマリア様の元に行くなら、私たちに本当の平和を与えて下さる。」まずマリア様が私たちのベッドにやって来て、子供をベッドから出して下さらなければなりません、私たちができないような事を。マリア様が私たちに怠慢さと戦う力を与えてくれます。これがマリア様の汚れなき御心に対する信心です。
もしも私たちがマリア様の汚れなき御心に対する信心を強く持てば強く持つほど、マリア様の御心の動きが私たちの心を支配します。マリア様の心にはいつも平和がありました。マリア様の心は汚れない御心だからです。これが天主との調和だからです。怠慢さがありません。そして色々な否定的なメッセージや否定的な評価が与えられても、マリア様はそれを、うまくそれに対応します。なぜならマリア様はとてもご謙遜だったからです。この心をご自分の子供たちに与えようとされます。
まずマリア様の謙遜を見て下さい。何か私たちを苛立たせる事、腹立たしい事がある時には何をしたら良いでしょうか?「壁」を作って下さい。もしも私たちが壁を作らなければ、誰かが攻撃してくれば私たちはその攻撃をまともに受けます。ですから平和がありません。
では壁を作るとはどういう事でしょうか?それはどういう事かというと、「あぁ関係ないよ、無関心だ」というのではありません。そういう特に私たちの愛すべき人たちにそのような事をしては、私たち自身が傷付きます。特に私たちのこの愛すべき家族のメンバーが私たちを苛立たせたり、苦しめたりする時に一番悲しみます。
「壁」というのは、マリア様、「マリア様がこの私たちの間にいて下さる」という事です。
よくあり得る事ですけれども、夫が家に帰ってくると夕食がまだできていない。朝からずっと働いていてもう疲れている。美味しい冷たく冷えたビールと、美味しいスープとお蕎麦が準備されているのを期待して家に帰ってくると、何も準備はされていません。そこでその責任者にまずすぐ行きます、つまり妻の所に行きます、「一体何だ、どうしたのだ!?夕食はどうなったのだ!」
もしもこう疲れた夫と疲れた妻の間に、「聖なるマリア様」という壁がなかったら、この2人の戦いが始まってしまいます。なぜかというと、疲れた夫は私の権利を主張します。そこでその妻は、なぜ作る事ができなかったという説明をします、「なぜ作る事ができなかったかというと、作る事ができなかったから!」そして妻は言います、「私はね、あなたの奴隷ではありません。召使いでもありません。私は子供の世話をずっと朝から晩までみてました。あなたは外に行っていたから何も知らないですけれど、この家でこの家事をする事がどれほど大変か知っていますか!?」
最初はそういう事から始まります、「妻よ、一体何でこれが出来なかったのか?」その事から始まって、「おぉ、ではどうして朝ごはんの時にもパンがなかったのか!?」すると妻はそのような事から、「じゃぁ一体なぜ朝早く起こしてくれなかったのか!あのね、あなたがね一晩中いびきをかいているから眠れなかったの!何でいびきをするの!」そしてその夕食の準備の話から色んな話まで展開していって、戦争が始まります。
そこで、皆さんの愛する人々と自分の間に、マリア様の汚れなき御心とイエズス様の至聖なる聖心を壁として立てて下さい。
「イエズス様こそが私たちの平和である」と聖パウロは言っています。
まず家庭生活で私たちが確信していなければならない事は、私たち皆が聖人ではない、という事です。聖人ではなくて豚の集団だという事です。つまり自分勝手の主張をする集団が家族を作っているという事です。これが私たちの本性に備わっている事です。
もしも家庭生活の家長が、自分の霊魂に平和がなくて、その平和を追求しようとしなければ、何が起こるでしょうか?これは無秩序第1です。その次の家族のメンバーも平和がなくて自分勝手です、二重の無秩序です。次に5人の子供は自分勝手にやっています、平和がありません。その中には平和が無くて、家族は無秩序が支配しています。
なぜ家庭が崩壊するのでしょうか?聖伝の家族といえども危険があります。毎週日曜日に聖伝のミサに与って御説教を聞くだけでは、家族の生活を1つにまとめるには不十分です。少なくとも夫が、「あぁ、私は家族の家長として、平和をもたらすものでなければならない」と自覚しているならば、あるいは「より少なく問題児でなければならない」と思うならば、そうすると家庭に平和が戻る努力がなされています。
家庭に平和をもたらす為の非常に重要な手段は、「イエズス様が家庭の王」とする事です。「イエズス様の聖心を家庭の中心に据える」事です。
イエズス様が平和の君として家庭に君臨するならば、そして皆がその事を認識するならば、平和が戻ります。「イエズス様の聖心の着座式」というものをする事によって、これがなされます。イエズス様の聖心と同時に、マリア様の汚れなき御心も女王として家庭に君臨させて下さい。マリア様がファチマでするようにと仰った事をなさって下さい、毎日家庭でロザリオを唱えて下さい。
家庭での家族でのロザリオ、そしてイエズス様の聖心の着座式、これが家庭を救います。そしてそれだけでなく、私たちが一人ひとり努力して、家庭の平和をもたらす者として犠牲を払わなければなりません。
父親はどうしたら平和をもたらす事ができるでしょうか?これは家長として最も重要な義務です。父親というのは「権威者」です。権威者とは権威とは何でしょうか?1つだけしか目的がありません、「権威」とは、「秩序と調和をもたらす事」です。
なぜ私たちは司祭の事を、神父様(Father)と呼ぶのでしょうか?なぜかというと、司祭の仕事は権威であって、この秩序と調和をもたらす為にあるからです。天主の秩序を霊魂たちにもたらすという事です。あるいは、それが失われた時にはそれを回復させるという事です。天主の秩序と調和がどのようになされるかという事を教えて、それの模範を示すからです。
しかしもしも司祭が無秩序の起源であったとしたら、そうすると司祭は恐ろしい腐敗と混乱を招き起こします。もしも司祭が祭壇の周りで踊ったり、あるいはいい加減な事をして信徒たちの心に天主のあるべき概念を与える事を教えないとしたら。
では家庭の父親とはどうであるべきでしょうか?家庭の父親は、家庭に平和と調和を与えます。無秩序と醜さを家庭から取り除こうとします。子供たちがやっている事をよく見守る時にこれをします。特に子供たちがテレビやあるいは映画や、あるいは携帯を通してこの世の中の最も汚らしいものや、最も見苦しいものを目にしているにもかかわらず、両親はそれに対して何の関心も払わずにそのままほっぽらかしにしておく、そして家庭が崩壊していく、という事を見て驚かないで下さい。聖伝のカトリックの子供たちといえども、そのような悪い影響をそのまま受け続けていたら、一人一人信仰を失って、家庭から離れて行って、家を出て行ってしまうという事があり得ます。
すると皆さん、私にこう仰るかもしれません、「神父様、私はそんな事を決して子供に許しません!携帯はありません、テレビも家にありません、映画もダメです、毎日お祈りしています、子供たちは厳格な秩序の上に育てられています。」
「しかし、今仰った事はちょっと危険かもしれません。あなたは自画自賛して、あなたは自分のやっている事は素晴らしいと言っていますが、無秩序がないという事がすなわち、秩序立っているとは限りません。」
また聖伝の家族であってもこれはよくある事なのですけれども、そして司祭の中でもあります。これはダメ、これもダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ!というのはよくある事です。しかしこれによって養われるという事もありませんし、秩序が育つという事もありません。
秩序の為には、「光」がなければなりません。そして「調和」がなければなりません。私たちの心を光出すもの、そして心を上げるもの、美しいものを子供たちに与えなければなりません。自由時間に子供たちに、この自然の美しさを見せてあげて下さい。あるいは子供と一緒にこうキャンプファイヤーをしたりとか、あるいは子供と一緒にこう土いじりをしたり、お庭の世話をしたり、あるいは天主様からのこの美しい賜物を見せたりして、「あぁ、素晴らしい。この自然の美しさはすごい!」と感嘆させる、あるいは聖人の話をするとか、子供に話をしてあげるとか、あるいは子供に玄義の話をして説明するとか、話しかける等をしなければなりません。
すると子供たちは、「あぁ、お父さんとお母さんは僕に何かすごい事を教えようとしている。素晴らしいのだけれど、そういう事を教えようとしてくれている」という事が分かります。
無原罪の聖母の騎士はどうでしょうか?ではこの色々な読む読み物がありますけれども、それの後ろにある事は何でしょうか?その背後にあるこう願いというのは、「これらを読んでもらって、そのマリア様に対する熱情をさらに大きくしてもらいたい」という望みがあります。その小さなチラシの中に綺麗な絵をつけて、マリア様の事を知ってもらいたい。M・Iの無原罪の聖母の旗があったら嬉しいなと思います。あるいはお祈りのカードがあって、それをいつも持っている事ができるように。
私にとって皆さんは子供ですから、その子供に色んな面白い事を与えようと思っています。チラシの後には本も準備しています。その小冊子の後には大きな本も、映画も作ります。あるいはYouTubeではお話も、講話の話も載せます。そしてできるだけ皆さんを起こして、「マリア様の為に何かしよう。マリア様は皆さんを待っている」という事を教え伝えようとします。
聖人についてのほんのちょっとだけの紹介だけでも、若い人たちにとっては「あぁ、すごいなぁ!」と思わせる事ができます。若い世代には理想が必要です、動機付けが必要です。そうする事によって家庭に平和をもたらす事ができます。その一般的な規則はこうです、「皆さんが与えれば与えるほど、たくさんより多くを受ける」という事です。家庭で一人一人は弱いものですけれども、一人一人が弱いながらも平和の為に、家族の平和の為に貢献する、それが大切です。他の家族の成員が持っている辛い思い、困難に対して、私たちもより深く忍耐強くなります。
多忙な人は一日中外で一生懸命働いています。夕方はお腹が減ってペコペコになって帰ってきます。疲れてペコペコで帰って来ても、食べるものが何もない、というのはよく分かります。問題はどこにあるのでしょうか?冷蔵庫に行って下さい。冷蔵庫に行って何かを見つけて、電子レンジに入れてチンとして下されば、2分の後に何か食べる事ができます。そして疲れた妻に何か言う前に、こうやって挨拶して下さい、こうやって挨拶すると「おぉ、愛する妻よ。」すると妻はびっくりする。いつもはお腹が減ってペコペコになって、疲れて何かライオンのよう帰ってくるのですけれども、今日は何か子羊のようになって帰ってきた。なぜかというと、夫は平和をもたらすものとして帰ってきたからです。
そうすると、妻の態度も変わります。「あぁ、すいません、夕食ちょっと間に合わなかったのです。」すると、その何で出来なかったのかという事を、心の中の事をちょっと言うようになります。そこで平和が戻ってきます。もしも怒った顔で夫がこう妻を叱る事から始めると、妻は自分の心にあった事を打ち明けようともしません。
私がマニラの修道院に来るとどうするか知っていますか?そして顔を、ライオンと狼のようにして、「これは何だ!」と小野田神父を見て言ったとします。すると、もしもそうしたとしたら、小野田神父はたとえいつものようにニコニコしているのですけれども、何も説明を受ける事はできないでしょう。
お父さんが家にやって来るとします、「子よ、プレゼントがある。今ちょうどね、誰かが寄付をしてくれた、5万ペソだ。子よ、お前の修道院長としての仕事は大変だという事をよく知っている。大丈夫か。」
「はい神父様、大丈夫です。でもですね…」と言って小野田神父は、私に全てを告白して下さる事でしょう。
これと同じような事を家庭でも修道院でもしなければなりません。そこで私たちはまず、与える事から始めます。与える事から始めると愛が戻ってきて、そして平和が戻ります。今日秋田のマリア様の元に行って、たくさんお願いする事があります。そして私たちの為に、そして私たちの家族の為にたくさんお祈りしたい事があります。
では次の講話では、マリア様はどうやって私たちに、霊魂の平和の元后であって、家庭の平和の元后であって、国の世界の平和の元后であるか、という事をお話したいと思っています。
Regina Caeliを唱えます。
「本当の平和とは天主の秩序を築くこと:個人生活においても家庭生活においても」
同時通訳:小野田圭志神父
先ほどの話の続きをしますと、平和には2つの要素があります。1つは、「知性への天からの光」そしてもう1つは、「意志を強めるもの」です。
それからもう1つ、よくある誤謬・間違いですけれども、「平和」という時に、「戦争の反対」と考える人がいます。街にいる人々に、「平和とは何ですか?」と聞くと、大体の人は、「全てがうまく順調にいっている事だ」と言います。
でもそうではありません。まず私たちは、「原罪を持って生まれてきた、罪を犯した被造物である」という事、そして「たとえ原罪が洗礼によって赦されたとしても、私たちには原罪の傷を負っている」という事です。この原罪の為に私たちが持って生まれた傷というのは、霊魂に無秩序をまだもたらしています。
この傷による無秩序を、秩序立てる為には、戦わなければなりません。ですからこの意味によると、「平和」というのは常に、「戦いの実り」であります。
イエズス様はある時こう言いました、「私はこの地上に平和をもたらす為ではなくて、剣をもたらす為にやって来た」と。イエズス様は、この世が与えるような偽物のプラスチックの人工の平和をもたらす為に来たのではありませんでした。イエズス様がもたらす為に来たのは、本当の平和であって、この本当の平和というのは、戦いの結果です。本当の平和というのは、平和の君が統治する所にのみあります。そしてその統治の為に私たちは働かなければなりません。
そこで私たちは問題を作る者に、悪魔に対して戦わなければなりません。悪魔は私たちを、そのままほっぽらかしてそのままにさせてはおかないので、私たちを何とか誘惑しようと、この世が存在する限り誘惑を挑んできます。そこで、私たちは常に戦い続けなければなりません。ですから「平和」というのと、「戦い・戦争」というのは、この意味では一緒になります。ですから日常、日中の間、戦えば戦うほど、その結果実りとして夜、平和があります。
この観点から聖母の騎士を、無原罪の聖母の騎士を見て下さい。マリア様はご自分の軍隊の騎士たちに戦うように求めています。この戦いは世の終わりまで続きます。この戦いは平和をもたらす為の戦いです。この戦いというのは、ある1人の無原罪の聖母の騎士が、他の霊魂をして、マリア様を知らせ、愛させる事にあります。
「罪人の回心の為に尽くせ」と聖マキシミリアノ・コルベは言っています。「ユダヤ人の回心の為に、異端者の、またあるいは異教徒の回心の為に、フリーメイソンの回心の為に尽くしなさい」と。
なぜフリーメイソンでしょうか?なぜかというと、たとえそれが離教徒であろうと、異端者であろうと、あるいは異教徒であろうと、イエズス様と一致していない限り、彼らの心に平安はありません。しかしフリーメイソンは、ただ単に自分だけがその平和がないのではなく、この平和がない事を他の人々にも広めようとしている、戦っているからです。
フリーメイソンは新しい世界秩序を作ろうとしています。その新しい世界秩序によれば、「人間が天主の地位に立って、人間の世界を作る」という事です。ここに「新世界秩序」という、秩序を作ろうとしています。それは地上における楽園を建設するという事です。
しかし同時に、この秩序には本当の平和の起源がありません。天主の無い、したがって本当の意味での平和を与える力を持たない、しかし人間だけの平和を作る者として、自分を自称しています。そこで彼らは、「天主の無い平和を作る事ができる」と私たちを騙して、嘘をついて、そして常に幻想を抱かせなければなりません。
しかし現実に何が起こっているかを見て下さい。それは恐怖政治であって、どこもかしこも、腐敗と恐怖で充ち満ている世界です。フランス革命の時の、平和を強制させる道具は何かというと、「ギロチン」でした。ギロチンはフランス革命でしたが、その後はそれは別の道具を使います。それが強制収容所であったり、グラーグと言われていたり、あるいはテロリズムに対する戦いであったりします。そのようなカギ括弧付きの平和の道具を作って、世界に平和を強制しようとしますけれども、世界の状況はますます無秩序へと転がり落ちています。
しかしファチマではマリア様は約束しました、「最後には、私の汚れなき御心が凱旋するでしょう。そして平和の時が与えられるでしょう。」
この平和は、まず私たちの心に霊魂にあるものです。この国家間の平和とか、あるいはどこかの団体の平和の前に、私たちの心になければなりません。この心の平和を得る為には、朝から夜に至るまで、私たちは戦い続けなければ、悪魔と無秩序に対して戦わなければなりません。
「無秩序」と戦うというのは何かというと、「天主の御旨が私たちの霊魂において尊重されていない」という無秩序です。
第1の無秩序というのはこれです、「願わくは、私の御旨が天に行われる如く、地にも行われん事を。」「私の意志が、私のやりたい事が行われる事を」というのは、これこそが無秩序の根源であって、非常に悪い願いです。
私たちは「主の御旨が、御身の御旨が行われん事を」と言わなければなりません。でもよく、「それから、私のやりたい事も」とそれに付け加えます。そこに問題があります、ここに無秩序の起源があります。
イエズス様はゲッセマニの園で、「私の望みではなく、御身の御旨がなされますように」と祈りました。
なぜかというと、私のやりたい事、私の思いというのは、原罪によって傷つけられた利己主義や、あるいは自分勝手といつもリンクしているからです。平和の為には、天主の御旨、そしてインマクラータの御旨を果たさなければなりませんが、私たちは朝起きたら一体何をするでしょうか?最初に何をしますか?朝、皆さんは何をしますか?
まず私たちは朝起きます。皆さんどうやって起きるのでしょうか?ここに有名なアラームがあります、スヌーズ機能が付いています。
「私は朝6時に起きなければならない。なぜならば、6時に起きて、朝のお祈りをする。それから黙想をする。その為に何分必要だ、だから必ず6時に起きないと遅れてしまう。6時に起きる。」まず考えを分析して下さい。まず秩序と調和に満ちた1日を送ろう、という決意を取っています。そのその後に、エネルギーを祈りによって得た後に、仕事につきたいと思っています。カトリックとして1日を始めようと思っています。ですからまず私たちは寝る前に、素晴らしい明日の計画とプランを立てます。
イエズス様もヨゼフ様もマリア様も、皆聖家族はこうやって起きていました、朝早く。最初の、朝の最も最初の瞬間は、祈りに捧げられました。その後に朝必要なものの準備をします。美味しい朝食と美味しいコーヒーも飲む事ができます。そして仕事につく事ができます。霊魂は祈りによって御恵みで満たされて、体も美味しい朝食で満たされています。お祈りによって、知性は今日何をすべきかよく分かっています。そして私たちの意思も、天主の御旨を果たそうと愛に燃えています。
そして翌日、朝がやってきました。ですから、「私はその全てを得る為に、朝の祈りをする為に、5時半に起きなければならない」とアラームをセットしたからです。ですから5時半に起きる事ができるように、携帯を2つ準備して、2つアラームをセットします。こちら側は5時29分にセットしてあって1分早く、そしてこちらは本物で5時30分に鳴ります。最初のアラームと第2のアラームは音が違っています。さぁ5時29分、30分になりました。
「あぁ、外は雨が降っている。まだ太陽も上がっていない。ベッドは本当に暖かくて気持ちがいい。」そしてベッドから手を出してアラームを1つずつ消します。「どうせ10分経つとまたスヌーズがもう1回なるから、大丈夫。まだ遅刻しない。もう10分。」そして10分後、また携帯が鳴ります、アラームが鳴ります。
そして何10分か後に、本当にもう遅刻するという時、「あぁもうこんな時間だ!あぁ起きなきゃ!あぁバスに乗り遅れる!あぁ電車に遅れる!」そして「乗り遅れる!」と言って服をまず無心に取ります。そしてちょっと洗面所に行こうとすると、誰かがもう入っています。「ちょっと遅刻してるから早く早く早く!」と言って、「あぁ、おはようございま~す。よく眠れた?」「あぁ!それどころじゃないの!」そしてちょうどバス停に一生懸命行くのですけれども、バス停に到着したその瞬間、バスがその目の前をスーッと通って行ってしまいます。
朝の祈りをする事ができませんでした。それから何度も何度もイライラして怒りました。家族の皆にはたくさん嫌な言葉を吐きました。腐ったリンゴのように顔はもうクシャクシャです。みんな、皆さんの事を恐れがっています。そして職場に着いたらもう疲れ果てて、ハァハァ息を切らせて、もう仕事どころではありません。平和がありません。そしてこの朝からこのように始まってしまうと、1日中このように終わります。
朝アラームが鳴った時に起きるというのは、これは戦いです。私たちはこの敵を、取ってこう戦って参らせなければなりませんが、私たちの本当の敵とは何でしょうか?
自分の「利己主義」と「自分勝手」です。1日の間、私たちの原罪の傷が自分勝手が顔を覗かせて、「自分の思い通りにさせたい」という事が来ると、それを黙らせるように戦わなければなりません。「怠慢」という原罪の傷をお見せました。私の義務、果たすべき義務よりも、私の安楽さ快楽さを求める、という事です。
もしも天主の御旨を果たしたとしたら、平和がありました。それに対して、私の思い通りに、私のやりたいように、私の快楽を求めると、平和がありません。もちろん怠慢という事もそうですけれども、他の隣人たちとの関係、良い関係という事についても同じです。
しかし、もしも私たちが5時30分にアラームの通り起きて、お祈りもして、黙想して、ちゃんと計画を立てて、全て準備をして職場に着いたとします。「あぁマリア様お母様、イエズス様、今日は1日本当に素晴らしい平和を頂く事ができそうです。ありがとうございます。」
皆さん、でも悪魔は眠っていません。携帯が鳴っています、「あ、メッセージが来た。」このいきなり携帯にメッセージがやって来て、それによると何か私たちの反対とか、あるいは反対するような苛立たせるような事が書いてある。「何だこれは!」すぐ返事をして、そうするとすぐ返事が返ってきて、「何だ!」すぐ返事をして、すぐ返事が返ってきて、もう平和がありません。携帯のちょっとしたメッセージ、あるいはちょっとした電話が、私たちの平和を奪ってしまう事があります、あっという間に。ここに問題があります。
これは私たちの傲慢です、謙遜の欠如です。私の言っている事をよく理解して下さい。「謙遜」というのは、「私は無であって、私の持っている物は何もなくて、全て天主から頂いたものだ」という事です。したがって、「全ては天主様の御手の内にある」という事です。「全て天主のコントロールの元にある」という事です。「天主の力の及ばないものは何もない」という事です。
天主は全てを御存知です。全てを知っているのみか、全能であります。しかも私を愛しています。この3つを集めて下さい。という事は、私の平和を混乱させるものは何もあり得ない、という事です。しかし下らない事の為に平和を失ってしまっています。という事は、私たちの心、霊魂の中は秩序立っていないという事を示しています。したがって私たちは秩序立てなければなりません。
では、否定的なメッセージに対してどうすれば良いのでしょうか?誰かが皆さんの事を叱った、あるいは忠告した、あるいはちょっと辱められた、という時は。あるいはちょっと腹立たしい事がある。私たちがよく一番頻繁に告解するのは何でしょうか?「私はイライラしました」「腹が立ちました」「私は憎しみました」ですから私はよく叫んだり怒ったりします。もしも私たちが却って弱々しい性格ですと、そういうのを見ると怒る代わりに、泣いたり悲しんだりします。私たちの霊魂が秩序立っていないからです。
秩序を立てる為には戦わなければなりません。マリア様は私たちに約束しました、「もしもマリア様の元に行くなら、私たちに本当の平和を与えて下さる。」まずマリア様が私たちのベッドにやって来て、子供をベッドから出して下さらなければなりません、私たちができないような事を。マリア様が私たちに怠慢さと戦う力を与えてくれます。これがマリア様の汚れなき御心に対する信心です。
もしも私たちがマリア様の汚れなき御心に対する信心を強く持てば強く持つほど、マリア様の御心の動きが私たちの心を支配します。マリア様の心にはいつも平和がありました。マリア様の心は汚れない御心だからです。これが天主との調和だからです。怠慢さがありません。そして色々な否定的なメッセージや否定的な評価が与えられても、マリア様はそれを、うまくそれに対応します。なぜならマリア様はとてもご謙遜だったからです。この心をご自分の子供たちに与えようとされます。
まずマリア様の謙遜を見て下さい。何か私たちを苛立たせる事、腹立たしい事がある時には何をしたら良いでしょうか?「壁」を作って下さい。もしも私たちが壁を作らなければ、誰かが攻撃してくれば私たちはその攻撃をまともに受けます。ですから平和がありません。
では壁を作るとはどういう事でしょうか?それはどういう事かというと、「あぁ関係ないよ、無関心だ」というのではありません。そういう特に私たちの愛すべき人たちにそのような事をしては、私たち自身が傷付きます。特に私たちのこの愛すべき家族のメンバーが私たちを苛立たせたり、苦しめたりする時に一番悲しみます。
「壁」というのは、マリア様、「マリア様がこの私たちの間にいて下さる」という事です。
よくあり得る事ですけれども、夫が家に帰ってくると夕食がまだできていない。朝からずっと働いていてもう疲れている。美味しい冷たく冷えたビールと、美味しいスープとお蕎麦が準備されているのを期待して家に帰ってくると、何も準備はされていません。そこでその責任者にまずすぐ行きます、つまり妻の所に行きます、「一体何だ、どうしたのだ!?夕食はどうなったのだ!」
もしもこう疲れた夫と疲れた妻の間に、「聖なるマリア様」という壁がなかったら、この2人の戦いが始まってしまいます。なぜかというと、疲れた夫は私の権利を主張します。そこでその妻は、なぜ作る事ができなかったという説明をします、「なぜ作る事ができなかったかというと、作る事ができなかったから!」そして妻は言います、「私はね、あなたの奴隷ではありません。召使いでもありません。私は子供の世話をずっと朝から晩までみてました。あなたは外に行っていたから何も知らないですけれど、この家でこの家事をする事がどれほど大変か知っていますか!?」
最初はそういう事から始まります、「妻よ、一体何でこれが出来なかったのか?」その事から始まって、「おぉ、ではどうして朝ごはんの時にもパンがなかったのか!?」すると妻はそのような事から、「じゃぁ一体なぜ朝早く起こしてくれなかったのか!あのね、あなたがね一晩中いびきをかいているから眠れなかったの!何でいびきをするの!」そしてその夕食の準備の話から色んな話まで展開していって、戦争が始まります。
そこで、皆さんの愛する人々と自分の間に、マリア様の汚れなき御心とイエズス様の至聖なる聖心を壁として立てて下さい。
「イエズス様こそが私たちの平和である」と聖パウロは言っています。
まず家庭生活で私たちが確信していなければならない事は、私たち皆が聖人ではない、という事です。聖人ではなくて豚の集団だという事です。つまり自分勝手の主張をする集団が家族を作っているという事です。これが私たちの本性に備わっている事です。
もしも家庭生活の家長が、自分の霊魂に平和がなくて、その平和を追求しようとしなければ、何が起こるでしょうか?これは無秩序第1です。その次の家族のメンバーも平和がなくて自分勝手です、二重の無秩序です。次に5人の子供は自分勝手にやっています、平和がありません。その中には平和が無くて、家族は無秩序が支配しています。
なぜ家庭が崩壊するのでしょうか?聖伝の家族といえども危険があります。毎週日曜日に聖伝のミサに与って御説教を聞くだけでは、家族の生活を1つにまとめるには不十分です。少なくとも夫が、「あぁ、私は家族の家長として、平和をもたらすものでなければならない」と自覚しているならば、あるいは「より少なく問題児でなければならない」と思うならば、そうすると家庭に平和が戻る努力がなされています。
家庭に平和をもたらす為の非常に重要な手段は、「イエズス様が家庭の王」とする事です。「イエズス様の聖心を家庭の中心に据える」事です。
イエズス様が平和の君として家庭に君臨するならば、そして皆がその事を認識するならば、平和が戻ります。「イエズス様の聖心の着座式」というものをする事によって、これがなされます。イエズス様の聖心と同時に、マリア様の汚れなき御心も女王として家庭に君臨させて下さい。マリア様がファチマでするようにと仰った事をなさって下さい、毎日家庭でロザリオを唱えて下さい。
家庭での家族でのロザリオ、そしてイエズス様の聖心の着座式、これが家庭を救います。そしてそれだけでなく、私たちが一人ひとり努力して、家庭の平和をもたらす者として犠牲を払わなければなりません。
父親はどうしたら平和をもたらす事ができるでしょうか?これは家長として最も重要な義務です。父親というのは「権威者」です。権威者とは権威とは何でしょうか?1つだけしか目的がありません、「権威」とは、「秩序と調和をもたらす事」です。
なぜ私たちは司祭の事を、神父様(Father)と呼ぶのでしょうか?なぜかというと、司祭の仕事は権威であって、この秩序と調和をもたらす為にあるからです。天主の秩序を霊魂たちにもたらすという事です。あるいは、それが失われた時にはそれを回復させるという事です。天主の秩序と調和がどのようになされるかという事を教えて、それの模範を示すからです。
しかしもしも司祭が無秩序の起源であったとしたら、そうすると司祭は恐ろしい腐敗と混乱を招き起こします。もしも司祭が祭壇の周りで踊ったり、あるいはいい加減な事をして信徒たちの心に天主のあるべき概念を与える事を教えないとしたら。
では家庭の父親とはどうであるべきでしょうか?家庭の父親は、家庭に平和と調和を与えます。無秩序と醜さを家庭から取り除こうとします。子供たちがやっている事をよく見守る時にこれをします。特に子供たちがテレビやあるいは映画や、あるいは携帯を通してこの世の中の最も汚らしいものや、最も見苦しいものを目にしているにもかかわらず、両親はそれに対して何の関心も払わずにそのままほっぽらかしにしておく、そして家庭が崩壊していく、という事を見て驚かないで下さい。聖伝のカトリックの子供たちといえども、そのような悪い影響をそのまま受け続けていたら、一人一人信仰を失って、家庭から離れて行って、家を出て行ってしまうという事があり得ます。
すると皆さん、私にこう仰るかもしれません、「神父様、私はそんな事を決して子供に許しません!携帯はありません、テレビも家にありません、映画もダメです、毎日お祈りしています、子供たちは厳格な秩序の上に育てられています。」
「しかし、今仰った事はちょっと危険かもしれません。あなたは自画自賛して、あなたは自分のやっている事は素晴らしいと言っていますが、無秩序がないという事がすなわち、秩序立っているとは限りません。」
また聖伝の家族であってもこれはよくある事なのですけれども、そして司祭の中でもあります。これはダメ、これもダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ!というのはよくある事です。しかしこれによって養われるという事もありませんし、秩序が育つという事もありません。
秩序の為には、「光」がなければなりません。そして「調和」がなければなりません。私たちの心を光出すもの、そして心を上げるもの、美しいものを子供たちに与えなければなりません。自由時間に子供たちに、この自然の美しさを見せてあげて下さい。あるいは子供と一緒にこうキャンプファイヤーをしたりとか、あるいは子供と一緒にこう土いじりをしたり、お庭の世話をしたり、あるいは天主様からのこの美しい賜物を見せたりして、「あぁ、素晴らしい。この自然の美しさはすごい!」と感嘆させる、あるいは聖人の話をするとか、子供に話をしてあげるとか、あるいは子供に玄義の話をして説明するとか、話しかける等をしなければなりません。
すると子供たちは、「あぁ、お父さんとお母さんは僕に何かすごい事を教えようとしている。素晴らしいのだけれど、そういう事を教えようとしてくれている」という事が分かります。
無原罪の聖母の騎士はどうでしょうか?ではこの色々な読む読み物がありますけれども、それの後ろにある事は何でしょうか?その背後にあるこう願いというのは、「これらを読んでもらって、そのマリア様に対する熱情をさらに大きくしてもらいたい」という望みがあります。その小さなチラシの中に綺麗な絵をつけて、マリア様の事を知ってもらいたい。M・Iの無原罪の聖母の旗があったら嬉しいなと思います。あるいはお祈りのカードがあって、それをいつも持っている事ができるように。
私にとって皆さんは子供ですから、その子供に色んな面白い事を与えようと思っています。チラシの後には本も準備しています。その小冊子の後には大きな本も、映画も作ります。あるいはYouTubeではお話も、講話の話も載せます。そしてできるだけ皆さんを起こして、「マリア様の為に何かしよう。マリア様は皆さんを待っている」という事を教え伝えようとします。
聖人についてのほんのちょっとだけの紹介だけでも、若い人たちにとっては「あぁ、すごいなぁ!」と思わせる事ができます。若い世代には理想が必要です、動機付けが必要です。そうする事によって家庭に平和をもたらす事ができます。その一般的な規則はこうです、「皆さんが与えれば与えるほど、たくさんより多くを受ける」という事です。家庭で一人一人は弱いものですけれども、一人一人が弱いながらも平和の為に、家族の平和の為に貢献する、それが大切です。他の家族の成員が持っている辛い思い、困難に対して、私たちもより深く忍耐強くなります。
多忙な人は一日中外で一生懸命働いています。夕方はお腹が減ってペコペコになって帰ってきます。疲れてペコペコで帰って来ても、食べるものが何もない、というのはよく分かります。問題はどこにあるのでしょうか?冷蔵庫に行って下さい。冷蔵庫に行って何かを見つけて、電子レンジに入れてチンとして下されば、2分の後に何か食べる事ができます。そして疲れた妻に何か言う前に、こうやって挨拶して下さい、こうやって挨拶すると「おぉ、愛する妻よ。」すると妻はびっくりする。いつもはお腹が減ってペコペコになって、疲れて何かライオンのよう帰ってくるのですけれども、今日は何か子羊のようになって帰ってきた。なぜかというと、夫は平和をもたらすものとして帰ってきたからです。
そうすると、妻の態度も変わります。「あぁ、すいません、夕食ちょっと間に合わなかったのです。」すると、その何で出来なかったのかという事を、心の中の事をちょっと言うようになります。そこで平和が戻ってきます。もしも怒った顔で夫がこう妻を叱る事から始めると、妻は自分の心にあった事を打ち明けようともしません。
私がマニラの修道院に来るとどうするか知っていますか?そして顔を、ライオンと狼のようにして、「これは何だ!」と小野田神父を見て言ったとします。すると、もしもそうしたとしたら、小野田神父はたとえいつものようにニコニコしているのですけれども、何も説明を受ける事はできないでしょう。
お父さんが家にやって来るとします、「子よ、プレゼントがある。今ちょうどね、誰かが寄付をしてくれた、5万ペソだ。子よ、お前の修道院長としての仕事は大変だという事をよく知っている。大丈夫か。」
「はい神父様、大丈夫です。でもですね…」と言って小野田神父は、私に全てを告白して下さる事でしょう。
これと同じような事を家庭でも修道院でもしなければなりません。そこで私たちはまず、与える事から始めます。与える事から始めると愛が戻ってきて、そして平和が戻ります。今日秋田のマリア様の元に行って、たくさんお願いする事があります。そして私たちの為に、そして私たちの家族の為にたくさんお祈りしたい事があります。
では次の講話では、マリア様はどうやって私たちに、霊魂の平和の元后であって、家庭の平和の元后であって、国の世界の平和の元后であるか、という事をお話したいと思っています。
Regina Caeliを唱えます。