苦しみの玄義黙想(2018年5月4日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様)
同時通訳:小野田圭志神父
『苦しみの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主がゲッセマニの園にて死するばかり憂い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を痛悔する恵みを乞い願わん。』
秋田のマリア様は、涙のマリア様です。イエズス様は御血を流しましたが、マリア様は涙を流します。御血はイエズス様の御体から流れますが、マリア様の御心からは涙が流れます。
ではなぜマリア様の心から涙が、イエズス様の御体から血が流れるのでしょうか?
第1に、悲しみの涙です。なぜなら、私たちが罪を犯したからです。マリア様の涙は、私たちに罪の痛悔を促します。マリア様は秋田で101回涙を流しました。100回というのは、完全な充満だとも言えるでしょう。そしてその101回は、それを更に満ち溢れるような悲しみの涙であって、私たちのどのような心の頑なになった罪人であってさえも、マリア様はそれを回心させる涙を流した、という事です。
「秋田のマリア様、私の心、霊魂を回心させて下さい。私の罪をますます深く悔悛する御恵みをお願い致します。」
『苦しみの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、 主が鞭打たれ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を償う恵みを乞い願わん。』
マリア様の涙の第2の原因は、マリア様が私たちに対して持つ巨大な愛の為です。101回の充ち満てる涙は、マリア様の巨大な充ち満てる愛を私たちに示しています。毎日、日に夜に、マリア様は私の為に涙を流されています。
マリア様のこの愛する、愛に満ちた御心は、私の為のお恵みの源です。マリア様の御涙は私の心を感動させます。そして私の無関心、冷たい心から、熱心な心に変えてくれます。このマリア様の涙は、私の心の暗闇を光に変えてくれます。マリア様の多くの涙は、私の心を浄めて、浄められた心を下さいます。
「おぉ、み母マリア様、私の汚れた心を御手に取って、そして御身の涙によって洗い浄めて下さい。御子イエズスの鞭打たれた、そして流された御血によって、私の心を浄めて下さい。」
『苦しみの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、主が茨の冠を被せられ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、侮辱を恐れざる恵みを乞い願わん。』
秋田のマリア様の両手は広く広げられています。これはあたかも、マリア様が私たちを招いているかのようです。そして私たちがマリア様の御元に駆け寄る事ができる為のようです。マリア様は私たちの心が貧しいものであったとしても、受け入れて下さいます。そして私たちの心を受け取って、ご自分の御心にしっかりと抱きしめて下さいます。
そしてマリア様はその御心から、イエズス様の聖心へと私たちの心を連れて行って下さいます。イエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心を黙想すると、その2つの一致した心には、2つとも茨の冠が被せられているのを見出します。
なぜかというと、私たちの心を汚れた心を受け取る為に、マリア様とイエズス様はそれの代価を払わなければならなかったからです。なぜかというと、マリア様とイエズス様に、愛の代わりに茨をあげて、多くの茨を捧げてしまったからです。私の無関心によって、イエズス様とマリア様の聖心を傷付けてしまったからです。私の忘れっぽさによって、私の怠慢によって、そして私の数えきれない多くの罪によって、そして特に私の傲慢によって。
「それにもかかわらず、マリア様、秋田のマリア様、私の貧しい心をお受け取り下さい。この私の今、罪の痛悔に満ちた、そして愛に満たされたこの心を受け取って下さい。今日は御身に茨ではなく花を、お花を捧げたいと思います。謙遜と貞潔と、そして従順の花を捧げたいと思います。」
『苦しみの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、 主が十字架を担い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、苦難を甘んじ受くる恵みを乞い願わん。』
秋田のマリア様は、十字架のメッセージです。ファチマ(秋田?)のマリア様が私たちに与える平和、マリア様が私たちに与える慰めとは、実は十字架です。マリア様は十字架の前に立っておられます。マリア様はなぜ立っているかというと、全世界を招いて、ご自分の御心へと招いているからです。そしてその御心から救いへと導こうとしているからです。
そしてマリア様は私たちに、そのお返しとして、私たちが近付くお返しとして、イエズス様から全てのお恵みを私たちに下さろうとしています。ですから十字架の元に立っています。イエズス様からの全ての御恵みを私たちに下さろうとしています。マリア様は手を広く広げています。御心を開いています。回心と聖化の恵みを私たちが受けるように、と招いています。
「秋田のマリア様、あなたは全ての御恵みの仲介者であります。マリア様、御身を通して、イエズスの至聖なる聖心の全ての御恵みが私たちに伝わります。その御恵みによって私は自分の十字架の道を、自分の十字架を取って歩む、道を進む勇気が与えられます。」
『苦しみの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、 主が十字架に釘付けにせられて死し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、救霊の恵みを乞い願わん。』
マリア様はイエズス様と共に、私たちの命の源です。その命の源となる為に、死を通さなければなりませんでした。私たちに命を与える為に、十字架の下でマリア様は1000回、何万回もの死を遂げるほどの苦しみを受けました。もしもマリア様が生きておられたとしたら、それは奇跡でした。
マリア様だけが私たちに、十字架の神秘を、終わりなき愛の神秘を教えて下さる事ができます。マリア様の心をもって、イエズス様を愛する徳を乞い願いましょう。そしてイエズス様の心をもって、マリア様の心を愛する恵みを乞い求めましょう。そして私たち自身をマリア様に与え尽くす御恵みを乞い求めましょう、そして奉献し尽くす御恵みを。
同時通訳:小野田圭志神父
『苦しみの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主がゲッセマニの園にて死するばかり憂い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を痛悔する恵みを乞い願わん。』
秋田のマリア様は、涙のマリア様です。イエズス様は御血を流しましたが、マリア様は涙を流します。御血はイエズス様の御体から流れますが、マリア様の御心からは涙が流れます。
ではなぜマリア様の心から涙が、イエズス様の御体から血が流れるのでしょうか?
第1に、悲しみの涙です。なぜなら、私たちが罪を犯したからです。マリア様の涙は、私たちに罪の痛悔を促します。マリア様は秋田で101回涙を流しました。100回というのは、完全な充満だとも言えるでしょう。そしてその101回は、それを更に満ち溢れるような悲しみの涙であって、私たちのどのような心の頑なになった罪人であってさえも、マリア様はそれを回心させる涙を流した、という事です。
「秋田のマリア様、私の心、霊魂を回心させて下さい。私の罪をますます深く悔悛する御恵みをお願い致します。」
『苦しみの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、 主が鞭打たれ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を償う恵みを乞い願わん。』
マリア様の涙の第2の原因は、マリア様が私たちに対して持つ巨大な愛の為です。101回の充ち満てる涙は、マリア様の巨大な充ち満てる愛を私たちに示しています。毎日、日に夜に、マリア様は私の為に涙を流されています。
マリア様のこの愛する、愛に満ちた御心は、私の為のお恵みの源です。マリア様の御涙は私の心を感動させます。そして私の無関心、冷たい心から、熱心な心に変えてくれます。このマリア様の涙は、私の心の暗闇を光に変えてくれます。マリア様の多くの涙は、私の心を浄めて、浄められた心を下さいます。
「おぉ、み母マリア様、私の汚れた心を御手に取って、そして御身の涙によって洗い浄めて下さい。御子イエズスの鞭打たれた、そして流された御血によって、私の心を浄めて下さい。」
『苦しみの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、主が茨の冠を被せられ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、侮辱を恐れざる恵みを乞い願わん。』
秋田のマリア様の両手は広く広げられています。これはあたかも、マリア様が私たちを招いているかのようです。そして私たちがマリア様の御元に駆け寄る事ができる為のようです。マリア様は私たちの心が貧しいものであったとしても、受け入れて下さいます。そして私たちの心を受け取って、ご自分の御心にしっかりと抱きしめて下さいます。
そしてマリア様はその御心から、イエズス様の聖心へと私たちの心を連れて行って下さいます。イエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心を黙想すると、その2つの一致した心には、2つとも茨の冠が被せられているのを見出します。
なぜかというと、私たちの心を汚れた心を受け取る為に、マリア様とイエズス様はそれの代価を払わなければならなかったからです。なぜかというと、マリア様とイエズス様に、愛の代わりに茨をあげて、多くの茨を捧げてしまったからです。私の無関心によって、イエズス様とマリア様の聖心を傷付けてしまったからです。私の忘れっぽさによって、私の怠慢によって、そして私の数えきれない多くの罪によって、そして特に私の傲慢によって。
「それにもかかわらず、マリア様、秋田のマリア様、私の貧しい心をお受け取り下さい。この私の今、罪の痛悔に満ちた、そして愛に満たされたこの心を受け取って下さい。今日は御身に茨ではなく花を、お花を捧げたいと思います。謙遜と貞潔と、そして従順の花を捧げたいと思います。」
『苦しみの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、 主が十字架を担い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、苦難を甘んじ受くる恵みを乞い願わん。』
秋田のマリア様は、十字架のメッセージです。ファチマ(秋田?)のマリア様が私たちに与える平和、マリア様が私たちに与える慰めとは、実は十字架です。マリア様は十字架の前に立っておられます。マリア様はなぜ立っているかというと、全世界を招いて、ご自分の御心へと招いているからです。そしてその御心から救いへと導こうとしているからです。
そしてマリア様は私たちに、そのお返しとして、私たちが近付くお返しとして、イエズス様から全てのお恵みを私たちに下さろうとしています。ですから十字架の元に立っています。イエズス様からの全ての御恵みを私たちに下さろうとしています。マリア様は手を広く広げています。御心を開いています。回心と聖化の恵みを私たちが受けるように、と招いています。
「秋田のマリア様、あなたは全ての御恵みの仲介者であります。マリア様、御身を通して、イエズスの至聖なる聖心の全ての御恵みが私たちに伝わります。その御恵みによって私は自分の十字架の道を、自分の十字架を取って歩む、道を進む勇気が与えられます。」
『苦しみの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、 主が十字架に釘付けにせられて死し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、救霊の恵みを乞い願わん。』
マリア様はイエズス様と共に、私たちの命の源です。その命の源となる為に、死を通さなければなりませんでした。私たちに命を与える為に、十字架の下でマリア様は1000回、何万回もの死を遂げるほどの苦しみを受けました。もしもマリア様が生きておられたとしたら、それは奇跡でした。
マリア様だけが私たちに、十字架の神秘を、終わりなき愛の神秘を教えて下さる事ができます。マリア様の心をもって、イエズス様を愛する徳を乞い願いましょう。そしてイエズス様の心をもって、マリア様の心を愛する恵みを乞い求めましょう。そして私たち自身をマリア様に与え尽くす御恵みを乞い求めましょう、そして奉献し尽くす御恵みを。