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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き14)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き14)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


四、“心の取り締まり”は、内的生活の鍵である。ゆえに、使徒職には本質的な修業である
4. La Garde du Coeur, clef de voûte de la Vie intérieure, donc essentielle pour l'Apostolat.

心の取り締まりの決心(1/3)
Résolution de Garde du Coeur.

ああ、イエズスよ、願わくは私がいつも心遣いをしますように。それは、私の心がすべての罪のけがれから守られ、ますます御身の聖心と一つになること、日常生活のすべてのいとなみにおいて、会話の時も、休息の時も、その他どんなことをするときも。
Je veux, ô Jésus, que mon coeur ait la sollicitude habituelle de se préserver de toute tache, et de s'unir de plus en plus à Votre Coeur, dans toutes mes occupations, conversations, récréations, etc.

心の取り締りというこの決心は、消極的な要素ですが、必要欠くべからざるもので、私の行為の動機に、その遂行過程に、忍び入る不純な要素を、私から排除してくれます。(どうしたら意向の純粋さを得ることが出来るだろうか?それは自分に対して大きな注意を払うことによって、私たちの行動の初めと特にその課程において注意することによって得ることが出来る。Comment s'acquiert la pureté d'intention? — Elle s'acquiert par une grande attention sur soi, au commencement et surtout dans le progrès de nos actions.)

心の取り締まりには、しかし、積極的な要素も含まれています。それは、私の聖なる野心をかり立てて、私の行為を霊感する信望愛を、ますます深めようとの熱意に燃えたたせます。

心の取り締まりの決心は、私の朝の黙想と典礼生活の実績を検査するバロメーターです。なぜなら、私の内的生活は、せんじつめれば、心の取り締まりに帰着するからです。「油断することなく、あなたの心を守れ。いのちの泉は、これから流れ出るからである」(格言の書4・23)

黙想と典礼生活は、私の心に飛躍をあたえて、天主と一致させます。

霊魂は、天主との一致をめざして、勇み足で順礼の旅路につく。旅びとがいつも勇ましく、巡礼の途をたどりうるためには、出発の前に用意しておいた旅のかてをとらねばならぬ。また、巡礼の途上で見いだすかてを、常に摂取していなければならぬ。これらのかてを、霊魂に摂取させてくれるのが、“心の取り締まり”である。

では、心の取り締まりとは、どんなことをいうのか。――私の行為を、その動機においてか、遂行過程においてか、そのいずれかにおいて、不純にし有害にするものがある。それが霊魂に忍び入るや否や、すぐにこれを排除しようと、私は絶え間なく、またしばしば、警戒の目を光らせている。――これを、心の取り締まりというのである。

心の取り締まりは、一つの心づかいである。――冷静な、おだやかな、さわがしくない心づかい。同時に、謙遜にみちた、強固な心づかいである。なぜなら、それは、子供のような心で、天主に助けを求める、天主のお助けに絶対に信頼する、という二つのことに基づいているからである。

心の取り締まりは、頭のはたらきというよりむしろ、心と意志のはたらきである。このはたらきは、私の義務を果たすために、精神をいっさいの束縛から解放してくれる。心の取り締まりが、私の行為を束縛して、自由のきかないようにする、と思ったら大間違いである。かえってそれは、私の行為を、天主の精神にしたがって善導し、私を身分上の義務に順応させてくれるから、心の取り締まりは、私の行為を完成する、といわなければならない。

心の取り締まりの修業――私は、これを、時々刻々実行したい。それは、心の目で、私が現在なしつつある行為を、ちらッと眺めることである。私が、これからなそうとしている行為の、いろいろちがった構成要素に、じッと注意をかたむけることである。心の取り締まりは、とりもなおさず、「おまえが現在、なしつつある事をなせ」すなわち、全心全霊をかたむけて、おまえが現在なしつつある業に没頭せよ、との格言を、地で行くものである。

わが魂よ、おまえはちょうど忠実な歩哨のように、私の心のすべての動きに、心の目を光らせている。とりわけ、私の内心に去来するすべてのものにたいして、そうである。すなわち、私の受ける印象にたいして、意向にたいして、欲情にたいして、自然の傾向にたいして、一言でいえば、私の内的・外的のすべての行為にたいして、さらに別言すれば、私のすべての思い、言葉、行いにたいして。

心の取り締まりには、たしかに、ある程度の“潜心”が要求される。私の魂が、いつも気を散らしたままでいるなら、心の取り締まりは実現できない。
しかし、しばしば練習しているうちに、心の取り締まりの“習慣”が身についてくる。
「私は、どこへ行くのか? そして何をしに?」
イエズスだったら、この場合、なにをなされたろうか。イエズスが、私と同じ立場、同じ境遇におかれたら、どうなされたろうか。この場合、なにを私からお求めになるのだろうか。――このような質問が、内的生活に飢えている私の霊魂に、自然に発せられるのである。私がもし、聖母をへてイエズスに行く、という気持ちになるなら、そのとき、この心の取り締まりは、一つの新しい特長をおびる。すなわち、愛情にみちたものとなる。そうなれば、慈しみ深い天上の母君のみもとに馳せていって、そのお助けを求める、ということは、私の心にとって、一つの絶え間なき要求にすらなってくる。

このようにして、「あなたがたは、私につながっていなさい。そうしたら、私もあなたがたに、つながっていよう」(ヨハネ15・4)とのイエズスのお言葉が、私において、めでたく実現する。そして、このお言葉のなかに、内的生活のあらゆる原理が含まっているのだ。

ああ、イエズスよ、「私におり、私もまたその人におる」(ヨハネ6・56)とは、ご聖体の効果について仰せられたお言葉ですが、私はこのお言葉の実現を、私をあなたに一致させる“心の取り締まり”によって、手に入れたいのです。

「私におる」――そうです。主よ、私は、あなたの聖心のなかでは、ちょうど自分の家におるような気がしてならないのです。あなたのすべての宝を、意のままに処置する権利を、私は頂いております。成聖の恩寵のかぎりなき宝を、あなたの尽きざる助力の恩寵を、自由自在に利用する権利を、頂いております。

「私もまた、その人におる」――だがしかし、私の実行する心の取り締まりの修業によって、わがいとも愛する救い主よ、あなたもまた、私の心の中では、ちょうどご自分の家におられるような、気安さをお感じになります。なぜなら、私は絶え間ない努力を傾けて、あなたの支配が、私の霊肉のすべての能力のうえに及びますように、そのためには、あなたのお望みにならないことは何もしないようにと、いつも警戒し、用心しているからです。そればかりか、私の行いの一つ一つに、あなたにたいする愛熱の火をそそぎ入れるように、そしてこの愛熱の火が、日一日と盛んにもえていくようにと、いつも念願しているからです。

主よ、心の取り締まりからは、いろいろりっぱな効果が生まれます。――潜心の習慣が、心戦の習慣が、規則正しい生活が、超自然的功徳の限りない増加が、生まれてまいります。

このようにして、ああ、イエズスよ、私の業によるあなたとの間接的一致――換言すれば、私があなたのみ旨にしたがって、被造物と結ぶいろいろの関係を通じての、あなたとの一致は、黙想とか、典礼生活とか、秘跡とか、こういうもの通じてあなたと結ぶ、直接的一致の必然的結果となってくるのです。そのいずれの場合におきましても、あなたとの一致は、信仰と愛から生まれるのです。そしてあなたとの一致は、いつも、恩寵の影響下にいとなまれます。

直接的一致において、私がねらっておりますのは、ああ、わが天主よ、それはあなたご自身、ただあなただけなのです。間接的一致におきましては、私はあなた以外のものをねらっています。だが、それはただあなたのみ旨に従うためですから、私の注意の焦点をとらえているこれらの被造物は、私があなたとよく一致するために、あなたがお望みになった手段となります。私がいつも、おさがししている者は、主よ、ただあなただけなのです。一途に、そしてみ旨にしたがって……。

あなたのみ旨こそは、私があなたへの奉仕に、何かの活動をおこすとき、この活動を正しい方向にみちびくために、心の取り締まりがいつも、私に目をそそがせ、見つめさせる燈台なのです。直接一致をめざして、ひたすらあなただけをお探しする場合にも、また間接的一致をめざして、その一致の手段として、被造物をあいてにする場合にも、私はいつもこういうことができます。「私にとって、天主と一致することは、よいことだ」(詩篇73・28)と。

ですから、ああ、わが天主よ、あなたと一致するためには、私はこれこれの業を延期しなければならぬ、これこれの業がすむのをまっていなければならぬ、などと考えているなら、大きなまちがいです。ある仕事は、その性質上、またはそれをしている時間のあまり長い関係上、すっかり私の注意力を独占し、精神の自由を奪ってしまう、その結果、あなたのとの一致を不可能にしてしまう、などと考えるのもまた、大きなまちがいです。

いいえ、いいえ、けっしてそんなものではありません。あなたは、私を自由にしたいおぼし召しです。仕事が私を奴隷にし、身動きできないようにすることを、あなたはけっしてお望みになりません。私こそは、仕事の主人であって、けっして仕事の奴隷であってはならぬ。もし私が、心の取り締まりの修業に忠実でさえあれば、そのために必要な恩寵は、きっとあなたから与えて頂きます。

ですから、日中、私の生活に起きるいろいろの出来ごとや、いろいろの事態や、また、あなたの摂理によって、アレンジされる日常の茶飯事を通じて、これこれの仕事はあなたのみ旨から出ている、と私が超自然的感覚で悟るや否や、私の務めは、この仕事を絶対に拒否しないこと、同時に、あなたをすっかり忘れ去ってしまうほどに、この仕事に没頭しないことです。私はこの仕事を、ただあなたのみ旨を果たすため、というただ一つの目的をもって、それに着手し、それを遂行しなければなりません。なぜなら、もしそうでなかったら、私の自愛心が、知らぬ間に霊魂に忍び込んで、この仕事の超自然的価値も功徳も滅殺してしまうからです。

ああ、イエズスよ、もし私が、これこれの仕事はあなたのみ旨である、しかもあなたは、これこれの仕方で、それがなしとげられるのを望んでおられる、ということを悟りましたら、そのとき私は、ただあなたかこれをお望みになられるから、自分はこれをするのだ、というただ一つの動機から、この仕事をしたいのです。そんなわけで、仕事をしながらでも、あなたとの一致は、さまたげを受けるどころか、かえってますます深さを増していくだけです。

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