2018年5月18日(金)殉教者聖ヴェナンチオのミサ
小野田神父説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2018年5月18日、聖ヴェナンチオ殉教者の祝日を祝っています。
明日、5月ではこの御聖堂では御聖体降福式をする事がまだ、5月ではする事ができなかったので、明日ミサが終わった後にする事に致します。
「私に留まれ。そうすれば私は、お前たちの内に留まる。」
イエズス様は福音の中で私たちにこう仰いました。そこで今日、聖ヴェナンチオ殉教者の祝日において、
⑴イエズス様が「私に留まれ」と仰ったその意味を黙想して、
⑵では聖ヴェナンチオは、どのようにしてその御言葉を実現させたのか、
⑶最後に3番目に、私たちはでは聖ヴェナンチオに倣ってどのようにしなければならないかを黙想する事にします。
⑴イエズス様は最後の晩餐の時に、弟子たちに非常に緊密な愛の話をしました、「私はぶどうの樹である。お前たちはその枝だ。私に留まれ、私の愛に留まれ。私に留まらなければ、お前たちは何もする事ができない。お前たちは私がいなければ実を結ぶ事ができない。もしも実を結ぶ事ができなければ、そのような枝は切り取られて火に焼かれてしまうだろう。私に、私の愛に留まれ」と。
全カトリック教会の、イエズス様の創った真の宗教の本質はここにあります。「天主は愛である」という事を信じて、天主が私たちを愛されて、極みまで愛されておられる、という事を信じて、私たちもその愛に応えて、愛に愛で愛し返す。これがカトリックの核心の教えです。
天主は私たちを創造されましたが、これは愛の御業でした。永遠の昔から、私たちを一人ひとりを御存知で、私たちを在らしめて下さいます。もしも私たちが今ここに生まれてきたとしたら、それは天主様が私たちを愛して下さっているからです。私たちがこう存在し始めたその瞬間から、愛を受けました。存在する前から、私たちは天主様によって愛されていますが、存在したその瞬間から本当に愛され、今でも愛され続けています。天主は私たちに恵みを与え、溢れるばかりの恵みを与えて下さっています。
もしも私たちが罪を犯した、あるいは何かの事で苦しみを受ける、罰を受けなければならない、という事も実は、これは天主の無限の愛の表現なのです。愛するがゆえにこそ、正義を実現させます。
もしも私たちがこの自然界の美しい大自然に恵まれているとしたら、これも天主が愛によって私たちに与えられた、素晴らしい贈り物です。私たちが今こう在るのも、こう生きているのも、私たちが持っているもの全ては、三位一体の天主様が私たちを愛するがゆえに与えて下さったものです。私たちの持っているもので、愛によって与えられたものでないものはありません。
その私たちの先祖が、そしてまた私たちが、その愛にどれほど応えなかったでしょうか。天主様の御恵みに、「No!」「嫌だ!」と言った事がどれほどあった事でしょうか。天主様の御旨を悲しませたばかりか、裏切ったり、あるいは御恵みを敢えて悪用したり、それを使って、与えられた才能、時間、能力を使って、天主に逆らう。
それにもかかわらず天主は、私たちの霊魂を探して、敵であったにもかかわらず、私たちを友人であるように、また元に戻して下さるように、憐れみと、また憐れみと、御情けを下さいました。寛大な忍耐と、寛大な御恵みとを頂いて、私たちはまた天主様の友人となり、友となり、天主様の子供の地位を獲得する事ができています。
それのみか、私たちを愛するがあまり、天主は人となって、貧しい生活をされて、そして苦しみを受け、御血潮を流されて、私たちの為に御死去をされました。天主の燃えるような愛の赤い、赤いこの燃える炎の赤と、天主様が流された血潮の赤さは、私たちにとって一致しています。
天主様はイエズス様は、私たちを愛するが為に復活され、私たちにその同じ命を与えようとされています。私たちに天の宝を準備する為に天に昇られました。私たちに天主聖霊を贈り物として与えようと、天に昇られました。聖霊を私たちに与えて下さるばかりか、御自身の御体を私たちに与えて下さいます。
「天主は愛である」と聖ヨハネは言いましたが、まさにここに、天主の全ての御業の核心があります。天主のなさる事は全て愛の御業であって、それ以外のものではありません。愛で始まり、愛で終わって、そして永遠の昔から私たちを愛し、私たちを永遠に愛そうと思っています。つまり私たちを幸せにしよう、私たちを無限に幸せにしようと思っています。
はい、この被造物の中には、被造物は「全て幸せでありたい」と思っています。動物もそのような欲求があります。しかし人間には、「無限に終わりなく、限りなく幸せでありたい。」そうでなければ、この地上のいかなる物も満足させる事ができない、無限の幸せを受ける為に創られてきました。天主を愛するが為に創られてきました。この地上のものでは満足できないように創造されています。
イエズス様は仰います、「私に留まれ、私の愛に留まれ。そうすれば私もお前たちの内に留まる。」
⑵聖ヴェナンチオは、この教えをよく理解した少年でした。15歳の少年、中学校3年生です。中学校3年生ですと、日本ではもしかしたら野球とかサッカーとかに熱中しているか、あるいは高校入試の受験だ、とか言っているまだガキ坊主のような子供ですけれども、このローマの聖ヴェナンチオという少年は、イエズス様のその教えの核心を生き抜きました。
聖ヴェナンチオの御影とかを見ると、首が取れています。お墓に埋葬されて首先に後光が差していて。
どんな事があったかというと、まず最初に、聖ヴェナンチオは鞭打たれました。鞭打たれて、体が傷だらけでボロボロになって、「さぁ、信仰を捨てろ!」と言われました。「捨てない。イエズス様を信じる。」
どのように鞭打たれて、体がもう傷だらけになっても、決して「嫌だ!」信仰放棄をしなかったのを見て、あきれた刑吏たちは、今度は別の手段を、その傷だらけの体に松明で火を付けます。「燃やしてやろう」と。非常に苦しみますけれども、信仰放棄をしませんでした。松明で燃やされて、燃やされて、燃やされて、焼け焦がれても、そのままです。
「これでもダメか」と思った第3に、逆さに吊るして、下に火を焚いて、煙をボーボー炊いて、ゴホゴホと焼き燻製にしようとしました。それでもしかしいくら残酷な拷問をしても、「これでもか」という事でも、聖ヴェナンチオはたとえゴホゴホ咳はしたとしても、苦しむ様子を見せたとしても、信仰は放棄しませんでした。
遂に「それならばいっその事、ライオンに喰わせてしまえ!」腹の減ったライオン達のいる所に競技場に、聖ヴェナンチオをほっぽり投げました。するとライオンは聖ヴェナンチオ、15歳の少年の前にグワーッ!と駈け寄るのですけれども、近寄ると突然、子羊のように優しくなって、顔をこう擦って、おとなしく彼の前に素直に座り込んで、お腹が減っている事をすっかり忘れて、ライオンである事をすっかり忘れて、優しく聖ヴェナンチオの傷口に寄り添うだけです。
それを見て非常に腹を立てた残酷な刑吏たちは、遂に、聖ヴェナンチオの首を切って、殉教させました。15歳の少年でした。
彼は、イエズス様からの受けた愛を愛で返そうと、受けた血を自分の血で返そうと、受けた命を自分の命で捧げて返そうと思ったのでした。
イエズス様も、私たちの全ての存在を、私たちの命とこの人生を、イエズス様の為に、天主の為に使うという事を、愛を愛を以て返す、という事を御望みです。
私たちにとって聖ヴェナンチオの模範はとても大きな励みになりますが、あまりにも偉大すぎるので、私たちは一体どうして良いかと戸惑ってしまいます。
⑶そこで、5月13日のファチマのマリア様の事を思い出します。トゥイのヴィジョンの事を思い出します。聖霊の御恵み、聖霊の愛、剛毅の賜物、聖霊の七つの賜物、あるいはイエズス・キリスト様の贖いの御血とその全ての御恵みは、マリア様の汚れなき御心を通してのみ、私たちに与えられる。
ですから聖ヴェナンチオも、また日本の殉教者も、聖ルドビコも、マリア様を通して殉教の御恵みを、イエズス様をお愛しする御恵みを頂きました。
私たちも、本当にそれに相応しくない身ですけれども、マリア様の御取次ぎによって、マリア様の汚れなき御心に避難して、ぜひ私たちも、聖ヴェナンチオの爪の垢を少し煎じて飲む事ができますように、イエズス様の愛に愛を以て返す事ができますように、イエズス様に私たちの人生を以て、血潮を流す事ができなくても汗を流して、愛を愛で以て返す事ができますように、マリア様の御取次ぎ、聖ヴェナンチオの取次ぎを乞い求める事に致しましょう。
「私に留まれ。そうすれば私もお前たちの内に留まる。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2018年5月18日、聖ヴェナンチオ殉教者の祝日を祝っています。
明日、5月ではこの御聖堂では御聖体降福式をする事がまだ、5月ではする事ができなかったので、明日ミサが終わった後にする事に致します。
「私に留まれ。そうすれば私は、お前たちの内に留まる。」
イエズス様は福音の中で私たちにこう仰いました。そこで今日、聖ヴェナンチオ殉教者の祝日において、
⑴イエズス様が「私に留まれ」と仰ったその意味を黙想して、
⑵では聖ヴェナンチオは、どのようにしてその御言葉を実現させたのか、
⑶最後に3番目に、私たちはでは聖ヴェナンチオに倣ってどのようにしなければならないかを黙想する事にします。
⑴イエズス様は最後の晩餐の時に、弟子たちに非常に緊密な愛の話をしました、「私はぶどうの樹である。お前たちはその枝だ。私に留まれ、私の愛に留まれ。私に留まらなければ、お前たちは何もする事ができない。お前たちは私がいなければ実を結ぶ事ができない。もしも実を結ぶ事ができなければ、そのような枝は切り取られて火に焼かれてしまうだろう。私に、私の愛に留まれ」と。
全カトリック教会の、イエズス様の創った真の宗教の本質はここにあります。「天主は愛である」という事を信じて、天主が私たちを愛されて、極みまで愛されておられる、という事を信じて、私たちもその愛に応えて、愛に愛で愛し返す。これがカトリックの核心の教えです。
天主は私たちを創造されましたが、これは愛の御業でした。永遠の昔から、私たちを一人ひとりを御存知で、私たちを在らしめて下さいます。もしも私たちが今ここに生まれてきたとしたら、それは天主様が私たちを愛して下さっているからです。私たちがこう存在し始めたその瞬間から、愛を受けました。存在する前から、私たちは天主様によって愛されていますが、存在したその瞬間から本当に愛され、今でも愛され続けています。天主は私たちに恵みを与え、溢れるばかりの恵みを与えて下さっています。
もしも私たちが罪を犯した、あるいは何かの事で苦しみを受ける、罰を受けなければならない、という事も実は、これは天主の無限の愛の表現なのです。愛するがゆえにこそ、正義を実現させます。
もしも私たちがこの自然界の美しい大自然に恵まれているとしたら、これも天主が愛によって私たちに与えられた、素晴らしい贈り物です。私たちが今こう在るのも、こう生きているのも、私たちが持っているもの全ては、三位一体の天主様が私たちを愛するがゆえに与えて下さったものです。私たちの持っているもので、愛によって与えられたものでないものはありません。
その私たちの先祖が、そしてまた私たちが、その愛にどれほど応えなかったでしょうか。天主様の御恵みに、「No!」「嫌だ!」と言った事がどれほどあった事でしょうか。天主様の御旨を悲しませたばかりか、裏切ったり、あるいは御恵みを敢えて悪用したり、それを使って、与えられた才能、時間、能力を使って、天主に逆らう。
それにもかかわらず天主は、私たちの霊魂を探して、敵であったにもかかわらず、私たちを友人であるように、また元に戻して下さるように、憐れみと、また憐れみと、御情けを下さいました。寛大な忍耐と、寛大な御恵みとを頂いて、私たちはまた天主様の友人となり、友となり、天主様の子供の地位を獲得する事ができています。
それのみか、私たちを愛するがあまり、天主は人となって、貧しい生活をされて、そして苦しみを受け、御血潮を流されて、私たちの為に御死去をされました。天主の燃えるような愛の赤い、赤いこの燃える炎の赤と、天主様が流された血潮の赤さは、私たちにとって一致しています。
天主様はイエズス様は、私たちを愛するが為に復活され、私たちにその同じ命を与えようとされています。私たちに天の宝を準備する為に天に昇られました。私たちに天主聖霊を贈り物として与えようと、天に昇られました。聖霊を私たちに与えて下さるばかりか、御自身の御体を私たちに与えて下さいます。
「天主は愛である」と聖ヨハネは言いましたが、まさにここに、天主の全ての御業の核心があります。天主のなさる事は全て愛の御業であって、それ以外のものではありません。愛で始まり、愛で終わって、そして永遠の昔から私たちを愛し、私たちを永遠に愛そうと思っています。つまり私たちを幸せにしよう、私たちを無限に幸せにしようと思っています。
はい、この被造物の中には、被造物は「全て幸せでありたい」と思っています。動物もそのような欲求があります。しかし人間には、「無限に終わりなく、限りなく幸せでありたい。」そうでなければ、この地上のいかなる物も満足させる事ができない、無限の幸せを受ける為に創られてきました。天主を愛するが為に創られてきました。この地上のものでは満足できないように創造されています。
イエズス様は仰います、「私に留まれ、私の愛に留まれ。そうすれば私もお前たちの内に留まる。」
⑵聖ヴェナンチオは、この教えをよく理解した少年でした。15歳の少年、中学校3年生です。中学校3年生ですと、日本ではもしかしたら野球とかサッカーとかに熱中しているか、あるいは高校入試の受験だ、とか言っているまだガキ坊主のような子供ですけれども、このローマの聖ヴェナンチオという少年は、イエズス様のその教えの核心を生き抜きました。
聖ヴェナンチオの御影とかを見ると、首が取れています。お墓に埋葬されて首先に後光が差していて。
どんな事があったかというと、まず最初に、聖ヴェナンチオは鞭打たれました。鞭打たれて、体が傷だらけでボロボロになって、「さぁ、信仰を捨てろ!」と言われました。「捨てない。イエズス様を信じる。」
どのように鞭打たれて、体がもう傷だらけになっても、決して「嫌だ!」信仰放棄をしなかったのを見て、あきれた刑吏たちは、今度は別の手段を、その傷だらけの体に松明で火を付けます。「燃やしてやろう」と。非常に苦しみますけれども、信仰放棄をしませんでした。松明で燃やされて、燃やされて、燃やされて、焼け焦がれても、そのままです。
「これでもダメか」と思った第3に、逆さに吊るして、下に火を焚いて、煙をボーボー炊いて、ゴホゴホと焼き燻製にしようとしました。それでもしかしいくら残酷な拷問をしても、「これでもか」という事でも、聖ヴェナンチオはたとえゴホゴホ咳はしたとしても、苦しむ様子を見せたとしても、信仰は放棄しませんでした。
遂に「それならばいっその事、ライオンに喰わせてしまえ!」腹の減ったライオン達のいる所に競技場に、聖ヴェナンチオをほっぽり投げました。するとライオンは聖ヴェナンチオ、15歳の少年の前にグワーッ!と駈け寄るのですけれども、近寄ると突然、子羊のように優しくなって、顔をこう擦って、おとなしく彼の前に素直に座り込んで、お腹が減っている事をすっかり忘れて、ライオンである事をすっかり忘れて、優しく聖ヴェナンチオの傷口に寄り添うだけです。
それを見て非常に腹を立てた残酷な刑吏たちは、遂に、聖ヴェナンチオの首を切って、殉教させました。15歳の少年でした。
彼は、イエズス様からの受けた愛を愛で返そうと、受けた血を自分の血で返そうと、受けた命を自分の命で捧げて返そうと思ったのでした。
イエズス様も、私たちの全ての存在を、私たちの命とこの人生を、イエズス様の為に、天主の為に使うという事を、愛を愛を以て返す、という事を御望みです。
私たちにとって聖ヴェナンチオの模範はとても大きな励みになりますが、あまりにも偉大すぎるので、私たちは一体どうして良いかと戸惑ってしまいます。
⑶そこで、5月13日のファチマのマリア様の事を思い出します。トゥイのヴィジョンの事を思い出します。聖霊の御恵み、聖霊の愛、剛毅の賜物、聖霊の七つの賜物、あるいはイエズス・キリスト様の贖いの御血とその全ての御恵みは、マリア様の汚れなき御心を通してのみ、私たちに与えられる。
ですから聖ヴェナンチオも、また日本の殉教者も、聖ルドビコも、マリア様を通して殉教の御恵みを、イエズス様をお愛しする御恵みを頂きました。
私たちも、本当にそれに相応しくない身ですけれども、マリア様の御取次ぎによって、マリア様の汚れなき御心に避難して、ぜひ私たちも、聖ヴェナンチオの爪の垢を少し煎じて飲む事ができますように、イエズス様の愛に愛を以て返す事ができますように、イエズス様に私たちの人生を以て、血潮を流す事ができなくても汗を流して、愛を愛で以て返す事ができますように、マリア様の御取次ぎ、聖ヴェナンチオの取次ぎを乞い求める事に致しましょう。
「私に留まれ。そうすれば私もお前たちの内に留まる。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。