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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き15)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き15)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


四、“心の取り締まり”は、内的生活の鍵である。ゆえに、使徒職には本質的な修業である

心の取り締まりの決心(2/3)

(Ⅰ)心の取り締まりの必要
わが天主よ、あなたは“聖”そのものでいらっしゃいます。ですから、ある霊魂が、あなたとの親しい一致の生活にはいるためには、どうしても、自分の心をけがすものを、すべて滅ぼし尽くすか、またはこれを遠くに捨て去らねばなりません。けがれたものを離脱する努力の度合いに応じて、かれとあなたとの親密さは深さを増していきます。

そんなら、どんなことがあなたとの親睦を妨げるもの――したがって私が、それを遠くに捨て去らねばならぬ、または全く滅ぼし尽くさねばならぬもの――なのでしょうか。

あなたに心を挙げることを面倒くさがって、それをしない精神的怠け、被造物にたいする過度の愛着、粗暴、すぐに怒りやすいこと、うらみ、移り気、柔弱、あまりに身の安楽を求めること、正当な理由もないのに他人の過失を人前にあばくこと、放念、好奇心――こんなものは、あなたの光栄のためには、なんの役にも立ちません。

まだまだ、たくさんあります。――無駄口、おしゃべり、他人をみだりに審くこと、うぬぼれ、他人を軽べつすること、他人の行為をみだりに批判すること、他人から尊敬されたい、賞賛されたい、という動機から、ある仕事をする、自分のためになることなら、なんでもこれを人前に見せびらかす、自負心、頑固、嫉妬心、権威者への尊敬の不足、不平不満、飲食の不節制、などなど。こういうものは、たくさんの小罪を、たくさんの故意の不完全を私におかさせ,どれほどゆたかな恩寵を、私から奪ってしまうことでしょう。永遠の昔から、あなたが私に、お与えになろうと当てにしておいでになる恩寵を。

私は黙想をしている、私は典礼生活をいとなんでいる。――なるほど、そうだろう。それなのに、私の霊魂はいっこう、内部に沈潜しない。沈潜して、純然たる弱さのために心ならずもおちいる過ちを、できるだけ避けようと警戒しない。私の意志が、ある誘惑にあって、まさにくじけようとしている。勇気をふるって、早く立ちなおりたい。だが、だれも助けてくれない。不幸にも、過ちにおちいる。良心に制裁を加えようともしない。――こんな調子では、どうして、私は黙想をしている、典礼生活をいとなんでいる、といえるのだろう。そんなものをやっていたにしても、それが何になろう。無用の長物である。

ああ、イエズスよ、心の取り締まりが十分でないため、私はこのように、私の霊魂におけるあなたのおはたらきを、台なしにしているのです。

私はどれほどしばしば、ミサ聖祭にあずかり、聖体を拝領し、告解の秘跡を受け、そのほか信心の務めにもあずかることでしょう。私の救霊のために、あなたの摂理はどれほど特別の保護を、私に加えてくださるのでしょう。私の守護の天使のご保護については、なんといったものでしょう。ああ、聖母よ、あなたの慈しみ深い母ごころのご加護にたいしては、申し上げることばもありません。ああ、それなのに、このありがたいすべてのお恵みも、せっかくのご聖寵も、ご保護も、私には何の役にもたっておりません。なんの実も結んでおりません。私の過ちのために、心の取り締まりが十分でないために。

ああ、イエズスよ、あなたはおっしゃいました――「天国は、暴力におそわれ、暴力の者のみ、これを奪い取る」(マテオ11・12)と。もし私が善意を欠いで、この“暴力”のみを私に加えませんなら、悪魔は絶え間なく活動し、どうかして私の心を迷いにおち込ませよう、どうかして私の心の力を弱めてやろうと、必死になることでしょう。そして最後には、私の良心を錯覚におちいらせ、すっかり堕落させてしまうのです。

わが魂よ、おまえはよくいっている。――これこれの過ちは、人間性の弱さから、やむをえず、おちいった過ちである、自分には責任がない、あってもごく軽いのだと。だがしかし、天主のおまなざしには、はたしてそれが、純然たる人間性の弱さからおちいった過ちだったろうか。それとは全然ちがったものではなかったろうか。――そうではない、純然たる人間性の弱さの過ちだ、とおまえは断言できるだろうか。 

もしおまえが、“心の取り締まり”の修業をしていないのなら、もしおまえが、自分は一つ一つの行いの動機を、みんなイエズスのために留保しておく、というプログラムを実行していないのなら、どうしておまえは、それが純然たる人間性の過ちだといって、すましておれるだろうか。

心の取り締まりの決心を取らなかったら、私は煉獄で恐ろしい、長い償いをしなければならない。そればかりか、なるほど今、大罪はおかさないだろう。大罪は避けることができるだろう。だが、おまえは、大罪の谷底を見おろす断崖のふちに立っているのだから、宿命的にそこに墜落していくだろう。

わが魂よ、おまえはまじめに、このことを考えたことがあるだろうか。

(Ⅱ)天主の現存の意識――これこそは、心の取り締まりの土台である
至聖なる三位一体の天主よ、もし私が“恩寵の状態”におりますなら――私は、そう信じているのですが――あなたは、私の心のなかに、お住まいになっておられます。あなたのすべての光栄、すべての完徳とともに。ですから、あなたは天国にお住まいになっておられるとおりに、いま、私の心のなかにも、お住まいになっていらっしゃるのです。むろん、信仰のとばりに、かくれてはいらっしゃいますが……。

あなたのおまなざしは、いつも、私の行為のうえにそそがれています。私の行為がどんなものだか、それを見究めるために、あなたが私の行為を、ごらんになっていない瞬間というものはありません。

あなたの正義も、あなたの慈悲も、たえまなく私の内に、救霊と聖化のしごとをしておられます。私があなたに不忠実なとき、その罰として、あなたは私から、特選の恩寵をお奪いになることもあるし、また、すべての出来ごとを私の利益のために、役立てようとの親ごころから出る、み摂理の御手のはたらきを、お止めになることもあります。しかしながら、私を再びあなたのもとにつれもどそうと、新しい恩寵をお恵みくださることもあります。

私の霊魂のなかに、あなたがお住まいになる――これは、私にとって、このうえない幸福であり光栄であって、また、最高に私の注意をひく出来ごとなのですから、どうして私がしばしば、そして長いこと、これを考えないで過ごされましょうか。

私の人生問題の根本をなす、この重要な事実に、私が注意しなかったからこそ、つまり、心の取り締まりをしなかったからこそ、私はこれまでいろいろの、失敗をしでかしたのではないでしょうか。

私が日中たびたびしている射禱こそは、私の霊魂の内部における、あなたの愛にみてるお住まいの事実を、私に思い起こさしてくれたはずなのに、いっこうにそうでなかったのは、いったいどうしたことでしょう。わが魂よ、おまえはこれまで、毎時間せめて一度、自分の生涯の旅路に里程標を立てることを、自分の生活に区切りをつけることを、十分に実行してきたろうか。

おまえはときどき、たとえ数秒間でもいい、おまえの内心の奥間にしりぞいて、至聖なる三位一体の天主を礼拝するために、毎日の黙想を、典礼生活を、よく利用できたろうか。――無限の美なる天主、広大無辺な天主、全能の天主、聖の聖なる天主、生命そのものなる天主、愛そのものなる天主、一言でいえば、最高善、最高完全の善なる天主、しかもおまえの内にお住まいくださり、かしこくもおまえの原初(はじめ)となり終局となってくださる、この三位一体の天主を礼拝するために。

霊的聖体拝領――これは、私の一日の生活において、どんな地位をしめているだろうか。わが魂よ、おまえはこれをよく利用するなら、おまえの内にお住まいくださる至聖なる三位一体の天主の現存を、身にしみて意識することができるはずだ、心ゆくまで。そればかりか、救い主の御血の功徳を、あらたに私の霊魂にそそぎ入れていただくことによって、この天主の現存意識を、ますます深めていくことができるはずだ。

私はこれまで、私の巡礼の途上に咲き乱れていた、これらの信心の花々を大切なものだと思って、これを尊重してきたろうか。それを手折るには、ただ少しだけ腰をかがめさえすればよかったのだ。私はなぜ、この美しい花々で、内心の天主の祭壇をかざらなかったのだろう。

世の中には、感心な霊魂もいる。かれらは、たとえ忙しい仕事にたずさわってはいても、たとえ他人と話はしていても、一日にいくたびとなく、内心の天主に、内心の賓客に、心をよびもどし、礼拝と感謝、祈願と贖罪のささげものをしている。この美しい習慣を、すでに身につけている。そしてかれらの宝のある処に、心もあるのだ。わが魂よ、おまえはどれほど、かれらから遠く離れていることか。どれほどかれらに、似かよっていないことか!

(Ⅲ)聖母マリアの対する信心は、心の取り締まりを容易にする
ああ、原罪のけがれなき童貞聖マリアよ、カルワリオの丘で、あなたの御子イエズスが、「婦人よ、ごらんなさい。これがあなたの子です」(ヨハネ19・26)と仰せられて、私をあなたの子にしてくださいましたのは、とりもなおさず、イエズスによって、至聖なる三位一体の天主と一つになった私の心を、よく取り締まることができるように、あなたが私を助けてくださるためでした。

私はあなたに向かって、ますます熱心なお祈りを、おねがいの叫びを挙げることでしょう。それは、とりわけ、心の取り締まりをめざしての祈りであり、念願なのです。――私の心を、すべての悪い傾向から、すべての不純な意向から、すべてのみだらな愛情と意欲から、きよめていただくためなのです。

私は、あなたのやさしいお声から、心の耳をはなしたくありません。あなたのお声は、私にこう申しておられます。「わが子よ、ちょっとお立ち止まり。そしてあなたの心をまっすぐにおし。いいえ、いいえ、あなたはいま、ただ天主さまのみ栄えばかり求めているとは申せない!」

私が放心しているとき、私が仕事の忙しさに取りまぎれて、心を見だしているとき、聖母よ、そのようなときどれほどしばしば、あなたはこういうやさしいお言葉を、私におかけくださったことでしょう。それなのに、どれほどしばしば、私はこのやさしいお言葉に、耳をかさなかったことでしょう。

ああ、わが母よ、こんご私は心して、慈母のお心からほとばしりでるこのお言葉に、耳をかたむけるでしょう。そして、このお言葉が、私の魂の秘奥にひびきわたりましたら、電光石化、すぐに飛び立って、あなたのお呼びごえに、忠実に従いますでしょう。私は次の問いを自分にかけるのです。『私は、誰のために、いま、この行為をしているのか。もしイエズスさまが、私の立場におありだったら、どんな風に、この仕事をなされるだろうか』と。このような自問自答が、私の心奥にくり返されて、やがてそれが一つの習慣となるとき、そのときこそ私は、心の取り締まりの習慣を身につけるのです。そしてこの習慣こそは、私の霊肉のすべての能力、すべての傾向を、日常生活のすべてのいとなみにおいて、私の霊魂に内住される天主に、常時に従属せしめ、この天主への従属をますます、完全なものにしてくれるのです。

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