Quantcast
Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き17)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

$
0
0
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き17)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


五、使徒は、無原罪の聖母に対して、熱烈な信心をもっていなければならぬ。

筆者は、聖母マリアに奉献された修道会である、厳律シトー(トラピスト)会の一員として、また、約半世紀にわたって、ヨーロッパの比類なき使徒としての盛名を馳せた聖ベルナルドの子どもの一人として、わが聖なる父ベルナルドについて一言しなければ気がすまないと思う。

聖ベルナルドは、おのれのイエズスとの一致における進歩をすべて、聖母マリアに帰していた。おのれの使徒職における成功もすべて、聖母に帰していた。

聖ベルナルドは、修道者の太祖といわれている聖ベネジクトの、最も卓越した子どもである。かれが、当時の民衆にたいして、王侯らにたいして、カトリック公会議にたいして、教皇たちにたいして、どれほど有力な使徒職を発揮したかは、万人のひとしく認めるところである。

聖ベルナルドを知る人は、みな一様に、かれの聖徳、かれの宗教的天才を称揚する。かれの深遠該博な,聖書知識をほめたたえる。聖ベルナルドは、“最後の教父”といわれているが、かれの著書には至る所に、聖霊の感動があふれている。

この卓越した教会博士に、もろもろの世紀がささげる最大の賛辞は、かれが“マリアの歌い手”である、ということである。そしてこれこそは、かれを他の教父たちと区別する特長とさえなっている。

マリアの歌い手! げに、聖ベルナルドは、聖母の栄光をうたったすべての人にもまさって、聖母の賛美をみごとにうたった。シエナの聖ベルナルディノ、聖フランシスコ・サレジオを始め、ボスエ司教、聖アルホンソ、聖グリニョン・ド・モンホールらは、聖ベルナルドの宝庫から、聖母マリアを賛美するための、豊富な材料を入手した。かれらは、聖ベルナルドが口ぐせのように強調していた、「いっさいの恩寵は、聖母の御手をへて、われわれに与えられる」という真理を、自分たちも更に解説し、敷衍している。

聖ベルナルドの左の一句は、とくに有名である。
「兄弟たちよ、天主は、私たちが熱烈な信仰をもって、聖母マリアさまを崇敬することを、どれほどお望みになることでしょう。天主は、聖母マリアさまのみ手に、あらゆる恩寵を、あふれるまでにお置きになりました。

私たちが、何かの希望をもっておりますなら、何かの恩寵を、何かの救霊の保証をもっておりますなら、それはみんな、恩寵に満ちみてるおん者――聖母マリアさまのみ手から、私たちの霊魂にそそぎ入れられたのである、ということを、かたく信じなければならないのです。

聖母は、この世を照らす太陽でいらっしゃいます。この太陽を、取り去ってごらんなさい。この世は、常闇(とこやみ)です。どこに光りがありますか。

聖母は、海の星でいらっしゃいます。浮き世――というこの巨大なわだつみの、その星でいらっしゃいます。この星を取り去ってごらんなさい。なにが残りますか。浮き世は、まっくらな闇に包まれます。死の影が、ふかい濃厚な闇が、そこには、ただようだけです。

ですから、私たちは、心の底から、はらわたをしぼって、そして熱烈な念願をかたむけて、この聖母を尊ばなければなりません。なぜなら、そうすることは、私たちがいっさいの恩寵を、聖母マリアさまのみ手をへて頂くようにとお定めになった、天主のご意志なのですから……」(『聖母のご誕生の祝日の説教』)

筆者は、右の教えを、心から信じる者である。だから、なんのちゅうちょもなく、こう断言することができる。――使徒が、もし聖母マリアにたいして、特別の信心をもたないなら、また、その活動もこの信心のうえに土台をおいていないなら、かれがどんなに懸命におのれの救霊のために、おのれの霊的進歩のために、おのれの使徒職がゆたかな実を結ぶために、どれほど必死に働いても、それは結局“砂の上に家を建てる”ようなものだ。

(a) 聖母マリアにたいする信心は、使徒にとって、かれ自身の内的生活のために極めて必要である

もし使徒が、聖母マリアにたいして、絶対的信頼をもっていないなら、その信頼にいっこう感激がともなっていないなら、また、かれの聖母マリアにたいする信心が、ただうわべだけのものに過ぎないのなら、かれの聖母信心は、十分に熱烈であるとはいえない。

御子イエズス・キリストがそうされるように、聖母もまた、われわれの心だけしかごらんにならない。われわれの聖母への愛が、聖母のわれわれへの愛に、強く応えるときにのみ、聖母はわれわれを、ご自分のほんとうの子どもとして、お受けになるのだ。

聖母マリアのほんとうの子どもとなるためには、その心が、天主の母であり同時に人類の母でいらっしゃる聖母マリアの、偉大な尊厳について、その特権、そのご使命について、強い確信をもっていなければならぬ。

もし、使徒の心が、右の真理を体得したら、おのれの欠点との戦いにおいて、あらゆる善徳の修得において、イエズスのみ国がおのれの霊魂に来たることにおいて、そして必然的に、おのが救霊と聖化の安全確保において、どんなにすばらしい成果を収めることができるだろうか。

聖母と共に、聖母と一致して仕事をするとき、内的生活のいとなみにおいては、すべてがいっそうやさしくなる。いっそう確実になる。いっそう甘美になる。いっそう迅速になる。――この真理を、使徒は心に銘記していなければならぬ。

使徒の心はまた、聖母への子たる信頼に波うっていなければならぬ。どんな出来ごとが、どのように起こっても、かれは自分の経験によって、聖母のおやさしさを知っている。ご愛情の深さを知っている。ご慈悲とご寛容を知っている。だから、すこしも悲観しない。

使徒の心はまた、聖母への愛にますます燃えて、かれのすべての喜び、すべての悲しみは、聖母に披歴され、すべての愛情は、聖母にそそがれねばならぬ。

このような心をもっている使徒は、さいわいである。かれこそは、本当に聖母の子どもだからである。そして、これらの心のすべてを、聖ベルナルドはもっていたのだ。かれの心は聖母にたいして、右にいった聖なる感動のしらべに、いつも鼓動していた。かれが弟子たちの前で、聖ルカ福音書の一節(受胎告知の記事)を解説するとき、その魂の秘奥からほとばしりでる感激のしらべについては、なにをいったものだろう。かれはこう叫んでいる。

「あなたは、浮き世の荒波にもてあそばれ、浮きつ沈みつしている。あなたは、たけりくるうあらしと暴風雨のまっただなかに放りだされ、陸地から遠く離れて、波間にただよっている。こんなとき、ああ、人よ、この星を眺めなさい、海の星を! 
あらしのなかで滅びないために、ぜひそうしなさい。
誘惑のあらしが、あなたのまわりに吹きすさぶとき、試練の波が、あなたの魂の小舟を海底に沈めようとするとき、ああ、人よ、この星をあおぎなさい。“マリア!”――と、ひとこと呼ばわりなさい。
憤怒と貪欲、邪欲と過激のあらしが、あなたの魂のもろい小舟を襲うとき、目をあげて、マリアを、あおぎなさい。
こしかたの罪とがの大きさに驚き入るとき、良心の恐ろしい傷に恥じ入るとき、天主のさばきの恐怖に心がわななくとき、あなたの魂は、悲愁と絶望の大海に沈もうとする。ああ、そんなとき、人よ、マリアを心に念じなさい。
危険にとりかこまれるとき、苦悩にあえぐとき、懐疑の雲が魂の空にひくく立ちこめるとき、ああ、そんなとき、人よ、マリアのことを考えるがいい、マリアのお助けを呼ばわるがいい!
マリアのみ名が、いつでも、どこでも、あなたの心から離れないように! 
聖母からききいれて頂くためには、彼女の生涯を、まねることを忘れてはならない。
聖母の後からついてさえいけば、道に迷うことはない。
聖母に祈りさえすれば、失望することはない。
聖母に目をそそいでさえいれば、わき道にはずれることはない。
聖母に支えてさえ頂けば、倒れる心配はない。
聖母に護ってさえ頂けば、なんの恐れるところもない。
聖母にお手ずから導いてさえ頂けば、疲れることはない。
聖母が慈悲のおまなざしをそそいでさえくだされば、あなたの霊魂は確実に、救いの港に到着することができるであろう……」

聖ベルナルドの、聖母についての教えをみごとに集約したものに、ルモー師の『聖グリニョン・ド・モンホールの学校における内的生活』があるから、聖母のほんとうの子どもとなるためには、右の本の教えにまさるものはないと思うゆえ、筆者は敬愛する同僚の聖職者諸賢に、この本を推奨してやまない。

聖アルホンソの著作といい、これを解説したデシュルモン師の著作といい、フェーバー師、ラ・サレット師、ルモー師らの著作といい、これらはいずれも、聖ベルナルドの聖母神学の忠実な解説であって、深奥な神学に基づき、感動にあふれ、実行的であり、したがって聖ベルナルドの持論であった、“いつも聖マリアのみもとに馳せていく必要と、聖母と一つ心になって生活する”ということを、読者の霊生に確立させるために、すばらしい効果がある。

最後に、聖女ジェルトルードが、親しく聖母のお口からうけたまわった、というお言葉を左にしるして、本項を結ぶことにする。
「私のいともやさしいイエズスのことを、福音書には、私の独り子とはいわないで、私の“初児(ういご)”と呼んでいる点に注意していただきたいのです。私が最初に、おなかに宿しましたのは、イエズスでした。しかし、その次に、いいえむしろ、初児のイエズスによって、私はあなたがたすべての人類を、私のいつくしみのおなかに宿したのです。――あなたがたすべての人類を、イエズスの兄弟となすために。したがって、あなたがたすべての人類を、イエズスによって、私の養子となすために……」

聖女ジェルトルードの著作には、その師父聖ベルナルドの精神が、力づよく脈打っている。とくに、聖母と一つ心になって生きる、という内的生活にかんして。
(五章 つづく)

Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

Trending Articles