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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き18)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き18)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


五、使徒は、無原罪の聖母に対して、熱烈な信心をもっていなければならぬ。

(b)聖母マリアにたいする信心は、使徒職をみのりゆたかにするために、なくてはならぬものである

使徒職にたずさわる人が、人びとの霊魂を罪のドロ沼から引きあげねばならないとき、または、かれらの善徳の花々でかざらねばならないとき、そのような場合には必らず、聖パウロのように、“イエズス・キリストを、人びとの霊魂に生む”ということを、第一の目的としなければならない。ところで、ボスエ司教がいっているように、天主は聖母マリアのお手をへて、御子イエズス・キリストを、われわれ人類にお与えになった以上、この天主的秩序は絶対に、お変えにならないのである。――すなわち、聖母は、神秘体の頭なるイエズス・キリストを、お生みになったからには、その肢体も、お生みにならなければならぬ。この天主的秩序を無視して、聖母マリアを、使徒職から除外するなら、それは天主のご計画の本質的部分を、忘却することにほかならない。聖アウグスチノはいっている。

「選ばれた者はみな、この世では、聖母のご胎にかくされている。聖母のご胎においてこそ、かれらはよく保護され、よく世話を受け、すくすくと成長していく。これが聖母マリアのお務めである。そして聖母はこのお務めを、その子らの死んだのち、栄光の生命にかれらを生む日まで、お続けになるのである。」

シエナの聖ベルナルディノは、いっている。
「わが主のご托身いらい、聖母は、聖霊の地上におけるすべての使命にかんして、一種の管理権を天主から授けられた。この管理権の行使によって、いかなる被造物も、聖母のみ手をへないでは、一つの恩寵も、天主から賜わることは絶対にないのである」

聖母マリアへのまことの信心をもっている人は、聖母のみ心のうえに、全能にちかい力をふるうことができる。だから、聖母にたいして、まことの信心をもっている使徒なら、自分の使徒職の成果を、すこしも疑うことができない。救世主の尊い御血の分配者なる聖母マリアのお力を、自由に自分のものにし、意のままに活用することができるからである。

そんなわけで、罪びとを改心させることに定評のあった人たちはみな、聖母マリアにたいして、特別の信心をもっていた。罪の深淵におちこんでいる霊魂を、罪の絆から解放しようとするとき、かれらはいかに説得力に富む熱弁をふるうことか! かれらはあたかも自分自身が、罪びとであるかのように信じ込み、罪にたいする憎悪と清浄にたいする愛を、罪びとの心に吹き込むのに、どれほど雄弁であることか! 原罪のけがれなき聖母との、一致の生活を送っているかれらにとって、それはまた、なんと自然なことだろう!

先駆者の聖ヨハネは、聖母のお声を耳にしたればこそ、それによって、イエズスの現存を実感し、自分の母の胎内で、喜びおどったのではないか。聖母はどれほど力づよい雄弁を、ご自分の崇敬者たちに、お与えになることだろう。いままで氷のように固くつめたく閉ざされていた罪びとの心のとびらを、イエズスに向かって大きく開くために! 

聖母マリアにたいして、まことの信心をもっている使徒は、どれほど力づよく優美な言葉をもって、いままで恩寵を濫用しつづけてきた霊魂たちを、失望の深淵から救いだす、すべを心得ていることだろう! 

ここに、聖母マリアのことを知らない、一人の罪びとがいる。聖母の使徒はかれに、聖母マリアこそは、あなたのほんとうの母である、聖母マリアこそは、罪びとのよりどころである、と力づよくいいきかせる。罪びとはこのことを確信する。かくて、希望と歓喜の地平が、かれの眼前に展開するのだ。

アルスの聖司祭は、ときどき妙な罪びとたちに出あった。かれらは錯覚におちていて、聖母にたいして、ある外面的な信心をしてさえいれば、それでいい、心は平和だ、罪をおかしてもいっこう差し支えない、地獄の猛火もすこしも恐わくない、というぐあいに考えていた。これを知った聖司祭は、烈火のように怒り、かれらの信心が、慈悲の母なる聖母マリアにたいして、いかに冒瀆的であるか、かれらのおちっている錯覚から抜けでるために、どうしなければならないか、聖母マリアにたいするまことの信心とはどんなものか、ということを、強い語調で、かれらにいいきかせるのだった。

聖母マリアにたいして、あまり信心をしない使徒は、罪びとにどんな説教をしても、その語る言葉は氷のように、つめたい。熱もない。ちからもない。あわれな罪びとは、おぼれる者が一本のわらをつかむように、かれの説教に救いの期待をかけても、しょせん無駄なことだ。

使徒の心に聖母が生きているなら、かれは罪びとを改心させるための、まことの雄弁を修得する。そのとき使徒は、どんなに絶望的な罪びとでも、これをりっぱに改心させることができる。罪びとの霊魂の征服という、いちばんむずかしい使徒職は、聖母のお取り次ぎによらない限り、主はこれをお与えにならない。聖母と親密に生きている人いがいには、このお恵みを、だれにもお与えにならないのである。「聖母よ、主はあなたによってこそ、われわれのすべての敵を、お打ち砕きになります……」(典礼の祈り)

聖母にたいして、まことの信心をもっている使徒は、絶対に行き詰まらない。論戦においても、手段においても、創意においても。そして、最も絶望的な場合にも、かれはみごとに、弱い者を強め、悲しんでいる者をなぐさめることができる。

聖マリアの連禱に“よきすすめの御母”とあるのは、彼女の“恩寵の宝庫”(Cœlestium gratiarum thesauraria)と、いま一つ、“すべての憂うる者の御なぐさめ”(Consolâtrix universalis)との二つの称号に基づいている。よきすすめの御母なる聖マリアは、ご自分にたいしてまことの信心をもっている人にだけ、よいすすめをお与えになる。――あたかも、そのむかし、カナの結婚披露宴におけるごとく、力と喜びのぶどう酒を手に入れ、かつ、これを他の人びとにもわけ与えるための、秘訣となるよいすすめを!

だが、とりわけ、“人びとの心を魅了するおん者”« Ravisseuse des coeurs »と聖ベルナルドがお呼びしているこの聖母が、ご自分の信心者のくちびるに、火のような言葉をおのせくださるのは、かれが天主の愛について、人びとに語るときである。そしてかれが、聖母から霊感されて語るその言葉こそは、イエズスへの愛を人びとの心に燃えたたせ、そこにあらゆる善徳を芽ばえさせる。

使徒であるわれわれは、ピオ九世教皇が“司祭なる童貞女”とお呼びしたこの聖母を、熱情的にお愛ししなければならぬ。聖母のお位は、すべての司祭、すべての司教の位よりはるかに高い。
Apôtres, nous devons aimer passionnément Celle que Pie IX appelle Virgo sacerdos et dont la dignité dépasse en tout celle des prêtres et des pontifes.

われわれがもし聖母を愛しているなら、もしわれわれの事業を、聖母と共に始めたのなら、また、聖母と共にそれを継続しているのなら、無駄な事業というものは一つもないはずだ。げに、聖母マリアこそは、天主のみ国に関連のあるすべての事業において、その基礎であり同時に完成なのである。

だがしかし、ここに一考をうながしておきたい。――聖母マリアの祭壇を美しく飾りさえすれば、聖母マリアの讃美歌をにぎやかに歌いさえすれば、それで“聖母と共に事業をやっている”と信じてもいい、などと考えてはならぬことだ。聖母がわれわれからお求めになるのは、聖母にたいするまことの信心なのである。自分はたえまなく、常時に、聖母と一つ心になって生きている、自分はいつも聖母のみもとへ馳せていって、よいすすめを、おたすけを、ねがっている、自分の心のなかにある愛情はすべて、聖母のみ心をとおってきたものであるから、すべてが純潔である、自分の願いごとはすべて、聖母のみ手をへて、天主にまでのぼっていく、自分はこれらのことを確信している、といい切れるまでに、強い確信を心にもたせるような、それほどまじめな信心なのである。

だが、とりわけ、聖母がわれわれの信心に期待しておられることは、われわれがこの信心によって、彼女のすべての善徳を模倣すること、聖母が御子イエズスを、われわれに着せてくださるために、われわれが聖母のみ手に、身も心もすっかり委託すること、これである。

いつも聖母のみもとに馳せていく――というこの条件を果たすことによって、われわれも、かつてイスラエルの軍隊がデボラにいった次の言葉を、聖母にむかって申し上げることができよう。「もしあなたが、私とごいっしょに、おいでくださるなら、私は行きましょう。でないと、私は行きますまい」。このようにして、われわれはほんとうに、われわれのすべての事業を“聖母と共に”していくことができるのだ。そのとき聖母は、ただ事業遂行中の大切な、決定的な役割をもつ事がらばかりでなく、万事を――不意の出来ごとも、また、どんなに小さな事がらも――ご自分で、配慮してくださるのである。

聖母はまた、“イエズスの聖心の御母”とも呼ばれているが、この称号のなかに、聖母の他のいっさいの称号も、含まれているように思われる。この聖母と一つ心になって、使徒的事業にたずさわっていきさえすれば、われわれは絶対に、事業を誤る心配はない。その事業によって、自分の内的生活をそこなわれる気づかいはない。その事業の遂行によって、天主の光栄よりも自分の光栄を、求めるような愚を演じない。かえって、事業そのものが、われわれの内的生活を促進してくれる。かくて、聖母との一致もますます深まっていく。聖母との一致によって、御子イエズス・キリストを、永遠にわがものにする、という確信も、ますます深く強くなっていくのだ。
(第五部  終了)


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