2016年8月11日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【3】
同時通訳:小野田圭志神父
今朝、マリア様が贖いの業に対してどれほど重要であるか、という事を見ました。
聖グリニョン・ド・モンフォールは、マリア様が聖三位一体の神秘の中に、全く唯一、そして非常に神秘的な素晴らしいやり方でその中に深く組み込まれている、という事を指摘しています。これはこの本の後半部には無いのですけれども、最初の部分にだけ出てくるものです。マリア様と聖父との関係、聖子との関係、聖霊との関係などが出てきます。
今朝は聖父とマリア様との関係について深く研究する事ができませんでした。
この聖父というのは聖三位一体の起源であり、そしてこの天主の外における全ての業の起源でもあります。聖父の神秘は、三位一体の中で最も深い根源の神秘であります。しかし私たちにとって一番親しみ深い、馴染みがあるものは、イエズス様、天主聖子とのマリア様との関係です。もちろんこれは啓示と関係があるからです。この事について教父たちやあるいは教会博士たち、教皇様たちが深く話しています。これが「マリア神学」と言われています。
ところで聖グリニョン・ド・モンフォールはこの本の中で、マリア神学の講義を皆さんにしようとするのではなくて、ただ単純に、「救い主イエズス・キリストは、御母マリア様なくてはこの世に来る事ができずに、御母なくしては救いをする事ができない、望まなかった」という事を指摘します。
と同時に、別の危険を避けようと望みます。それは多くの人々が陥ってしまう危険です。多くの人々は三位一体の神秘、あるいは贖いの神秘全て、つづめて言えば公教要理の教えをそれらを脇においてしまって、多くの人々は間違って、「マリア様だけ」「マリア様だけ」「マリア様だけ」という誤解を間違いを犯します。
「マリア様がここに御出現になった」「マリア様はこう仰った」「マリア様はこうだ」という事だけを強調する人です。シンガポールではそうです。すみません、頭痛を下さる方もいらっしゃいます。
確かにこのような方々は非常に信心深い方で、熱心な方で、イエズス様を愛しているのですけれども、この罠に陥ってしまいます。その誤解された信心とは、カトリック信心を2つに分裂してしまって、「1つはこっち」、「もう1つはこっち」として、「何の関係もない」とする立場です。
つまり「聖伝の教え、これは聖ピオ十世会の司祭が教えている。」そしてもう1つの別の世界は、またマリア様と特別の形態を持っている人々のグループの集まりで、「私の世界だ」という2つの世界を持つ方です。
マリア様は自分の為だけに注目を引き寄せようとしているのでありません。マリア様は全てイエズス様に導こうとされています。もしも聖ピオ十世会、もしも聖伝が、「イエズス様はマリア様なしにはいらっしゃらなかった。仕事を救霊の業をなさらなかった」と言うとしたら、同時に、「イエズス様なしにマリア様はない。そのマリア様とイエズス様は1つだ」と言わなければなりません。
次に第3は、インマクラータと聖霊との結び付きです、関連でした。聖グリニョン・ド・モンフォールは、以前教父たちがはっきりと書かなかったような事を、ここではっきりと書きます。これは必ずしも聖グリニョン・ド・モンフォールが自分で発明したというわけではありません。グリニョン・ド・モンフォールはいつも教父や教会の教えを引用します。なぜかというと、グリニョン・ド・モンフォールは教会の聖伝に根を持たないようなものを教えようと望まなかったからです。しかしグリニョン・ド・モンフォールはマリア様から特別の光を、特別のインスピレーションを頂きました。聖子とマリア様との関係のみならず、聖霊との関係について、他の人々よりも更に深い理解ができました。
ポーランド語で私は本を出版しましたが、まだ残念ながらポーランド語でしかありません。それは聖霊の浄配という、この「浄配」という言い方が一体、教会の中でいつ頃から始まって、誰から始まって、どのように説明したか、という事で、聖グリニョン・ド・モンフォールがこの重要な地位を占めています。
聖グリニョン・ド・モンフォールの後には著名な立派な方々がこの言い方を言いますけれども、その中に特に際立っていたのが聖マキシミリアノ・コルベで、マキシミリアノ・コルベ神父様はこの「聖霊の浄配」というものを、限りなくできるだけ明確にこれを説明しています。
第2のテーマは今朝、「マリア様がイエズス様の贖いの業に単に協力したのみならず、イエズス様の聖化の御業にも深く関わっている」という事を見ました。罪の状態から聖寵の状態への回心の恵みは、全てこれはマリア様を通して私たちに与えられます。多くのケースがあります。そしてこの私たちの聖化の段階の1つ1つ、特にその頂点に至るまで、マリア様を通して働きます。皆さんの回心の歴史を、皆さんのこの信仰生活の歴史をご覧になって、いつもその聖化や聖徳への道のりで、マリア様が御恵みを勝ち取ってきて下さっている事をどうぞ認識して、その事を思い出して下さい。そしてその事を感謝して下さい。
第3に見た事は、特に皆さんが危険な時に、あるいは人々が人類が危険な時に、マリア様が立ち上がってすぐに助けに来て下さる、という特別な役割を見ました。ライオンの家族、動物のライオンですけれども、大体メスのライオンはのろのろしていて、ちょっと怠け者のようですが、自分の子供のライオンが危ない、攻撃されている、というと非常に怒り狂って、その子供を守る為には自分の命さえも顧みないほどの凶暴の動物に変わります。
グリニョン・ド・モンフォールは更にこう言います、「誰もが、救われる為にマリア様が必要だ」と。
「もしもマリア様の役割を無視するならば、救われる事はないだろう。」
「マリア様が必要だ、という原理は認めても、それを実際に認めない場合には、それでも救われない。」
「マリア様が必要だというその原理を認めて、それを多かれ少なかれ実践したとしたら、救われるでしょうが、しかし聖人にはならない。」
「このマリア様が必要だ、という原理を認めて、それを完全に認めて、それを完璧に私たちが実践したら、それを適用した時に、私たちは聖人になる事ができます。」
これは色々な証明が証拠があります。聖人たちの生涯です。聖人たちがみんな聖人になったというのは、マリア様への信心があったからです。
グリニョン・ド・モンフォールは更に言葉を進めます。今から言う事が私たちにとって非常に大切な言葉です。この講話の直後に皆さんこの言葉を黙想して下さい。この事は、このグリニョン・ド・モンフォールは自分の生きていた時代の人々の為には書いたのではなくて、私たちの為に書いた言葉です。
「もしも人類の歴史において、マリア様が救いの為に必要だ、という事が本当ならば、事実であれば、これは最も終末の時代において生きる人々にとって、最も重要な事実となる」と。聖グリニョン・ド・モンフォールは、黙示録的な終末の時代についてのマリア様の役割がどれほど重要か、という事を非常に極めて強く強調した一人だからです。
神学者たちは、「時の終わり」とか「歴史の終わり」についてよく語っています。イエズス様御自身も福音の中で何度も何ページにも渡って終末の時代についてお話しています。この終末の時代は人類の歴史において最悪の時となるでしょう。イエズス様は「厭わしいもの憎ましいものが至聖所に来るだろう」とか、あるいは「信仰の光を見つける事ができるだろうか」とか、あるいは「愛は冷えきってしまうだろう」等と予言しています。
特に黙示録においては、新約聖書の最後において「最後の時代はどうなるか」という事について予言しています。使徒たちやイエズス様はこの時の終わりについて、「恐ろしい時代であって、ものすごい状況が来る」という事を描写しています。
グリニョン・ド・モンフォールはこの事について話をしています。でも聖グリニョン・ド・モンフォールは別のやり方で、この時の終わりについて話をします。もちろんグリニョン・ド・モンフォールも、イエズス様やあるいは他の聖人たちと同じような見解を取るのですけれども、別の見方があります。終末の事については、私たちの目ではなくて、天主の目において、聖グリニョン・ド・モンフォールは語っています。
「この現世の時、時代というのは、今の世界は、永遠の生命への準備に過ぎない。祖国に帰る帰路であって道であって、永遠の至聖所に戻る道である。この私たちの旅には始めがあり、終わりがある。」
私は昨日長い旅をしてきましたけれども、ようやくホテルに着いて、「旅が終わって良かった」とベッドの中で嬉しく思いました。旅が終わったというのは、必ずしも悲しい究極的な大不幸だというわけではありません。なぜかというと旅の終わりは、新しい生活の始まりであって、黙想会が始まるので私は本当に嬉しいのです。
私たちのこの地上での旅も終わりを告げて、そして新しい永遠の命、天主様との命が始まります。「喜べ」という事は、私たちのこの地上での生活の終わりから始まる新しい生活というのは、黙想会のつまらない講話を聞かなければならないのではなくて、天主様との楽しい美しい命が始まる、という事だからです。
では私たちの天主への道行きの旅路の最初はどうやって始まったでしょうか?それは、イエズス様が天から地上に降りた時から始まりました。イエズス様はマリア様を通して、この地上に来られました。論理的に、マリア様を通し始まったこの旅の始まりも、マリア様を通して終わる事になります。
では私たちが、「終わり」「究極」「終末」と言われる事の深い意味は何でしょうか?「天主様は究極には、論理的な全ての終わりまで、全ての意味を私たちに教えて下さる」という事です。まずイエズス様は御自分についての、天主についての真理を私たちに掲示して下さるでしょう。私たちにもたらされた真理、イエズス様に関する真理を私たちが完璧に知る事になります。
イエズス様はまずこの真理を使徒たちに教えました。使徒たちは素晴らしい真理の大きな花束を受け取りました。バラや百合や美しい花々の真理を頂きました。でもこれらの花はまだその時には蕾で、花は開いていたとは限りません。
もちろん当時全ての人が、「唯一の天主が在す」という事を知っていました。「聖父と聖子と聖霊」という事を知っていました。ところで3世紀とか4世紀にアリウス派の異端が来た時に、初めてその時に、神学者たちがその異端に対抗する為に詳しく説明して、この原理を展開させて、「一体この原理から来る究極的な結論は何か」という事を説明しました。
聖ヒラリオ、聖アタナシウス、聖アウグスティヌスなど、多くの偉大な教父たちや聖人たちが、この三位一体の神秘を通して、その開かれた、その花の蕾が開いて、その「唯一の天主であると同時に三位の天主」という事のそれを理解しようとして、それを説明して、その事を黙想した時の喜びを読んで下さい。これは本当にこの教父たちがこの理解できた時の喜びが私たちに伝わってきます。
天主様はこの花が開くように、「太陽」と「雨」を下さいます、2つが必要です。「太陽」というのは、聖霊の光を受けた教父たちの説明や、黙想の結果の事です。「雨」というのは、この真理を攻撃するような人々たちの異端説です。
例えばアリウスは、「イエズス様は天主の御子であるけれども、イエズス様は天主ではない」などと異端説を述べました。アリウスはちょっと下らない話を書いたというわけではありません。アリウスはこの自分の説が正しいという事を説明しようとして、色々な議論を書きました。多くの方が間違って彼の後に従ってしまいました。しかし教父たちはアリウスの書いた議論を見て、その議論を分析して、そこに隠されていた誤謬がどこにあるかを指摘して、「ここに詭弁がある。ここに誤りが潜んでいる」という事を指摘して、その間違いを正しました。
天主様は異端でさえも使って、その暗闇の中に光が燦然と輝くように使います。三位一体の神秘が明確にされると、今度はイエズス様について攻撃が始まりました。これが5世紀、6世紀、7世紀の話です。誰もが「イエズス様が天主の御子である」という事を知っていました。公会議の後に、誰もが「イエズス様が御子である、そして天主である」という事を知っています。ではこの2つが一体どうやって調和するのでしょうか?
ここで異端者が出ました。司教様や司祭たちでも、異端説を述べてしまいました。立派な司祭たちもその中にはいました。例えばこの異端説の1つは、「天主様が人間となった時に人間の本性を取ってくるのだけれども、その本性は天主の本性の中に、あたかも大海の海の中の水に1滴の水を落としたと同じように、海の水と一緒になってしまって、人間の本性は消えて無くなってしまった。」例えばまた別の人は、「聖ラファエルが人間の体の見かけだけを取って現れたように、イエズス様も実は天主は、体の見かけだけは人間だけれども、本当の人間ではなかった。」それでまた別の異端は、「いやいやそうではない。イエズス様は本当の人間であって、マリア様から生まれて、走ったり動いたり食べたりして、人間として生きた。でもこのキリストには2つがある。この2つのキリスト、天主であるキリストと、人間であるキリストがあまりにも2つが1つになったので、区別ができないほどになってしまった。」
色んな説が出てきました。色んな議論や色んな異端説の中から、「本当の真理はこうだ。イエズス・キリストにおいて、天主の本性と人間の本性が一致した」という事を説明します。
アレクサンドリアの聖チリロは444年に亡くなって、それから大聖レオ教皇様、このような方々の御説教を例えば聖務日課などで私たちは読みますけれども、本当に深い真理を話しているのでびっくりするほどです。
信仰の啓示が花開いて、このうまく説明されて、その美しさに私たちは本当にますますイエズス様の事をお愛し申し上げるようになります。信仰の美しい蕾がそれが開かれて、明示されて、こう明確に説明されて見えるようになると、ちょうど花が開いたように、私たちに綺麗に提示されます。
12世紀から16世紀の間にかけては、「秘跡」について、あるいは「教会」について詳しい花が開きました。イエズス様が私たちに啓示された信仰の花が1つ1つ開かれて、そしてそれについて私たちに詳しい真理が明らかにされています。
もちろん「花が開いた」と言っても、私たちがそれを全て理解し尽くしたというわけではありません。これはどういう事かというと、「花開いた」という事はどういう事かというと、「人間の知性が考えて説明する事ができるという事の極度にまで、それを説明し尽くす事ができた」という事です。
この最後の美しい啓示の花が今、開かれようとしています。これが「マリア様」に関する真理の花です。1854年に「マリア様の無原罪の御宿り」のドグマが発表されました。1950年、マリア様に関する最後のドグマが発表されました。それは「被昇天」であって、この来週の月曜日に私たちはそれを祝います。ピオ十二世教皇様は特に、「マリア様が共贖者である。贖いの業をイエズス様と共になさった方である」という事を教えていました。
立派な神学者たちが説明するには、天主様から与えられた啓示は明確にはっきりと説明されていて、もはやこれ以上説明する物が残っていない、というほどまで開かれました。
このように人類の歴史を、教会の歴史を考える事ができます。天主様は全てを、自分の栄光の為に創造されました。自分で自分の事を説明して、自分の事が知られるという事をとても喜びとするという事です。そして天主様が全て説明し尽くして、神秘をもうこれ以上人間の知性で言う事ができないほどはっきり示した時に、それでこの人類は天主へと戻らなければならない、という風に。
イエズス様が天主様がこの地上に降りて来て、私たちの手に最も美しい花々を置いたと考えて下さい。そして私たちが受けたこの花が、この時が経つにつれて、1つ開き、また1つ開き、大きな蕾が非常に大きな花となって咲き乱れて、その美しい花の造形に私たちは脱魂したようになって、本当に喜ばしく思って、それを感嘆して見て眺めている。そして最後にこの受けた花束はもうみんな咲き乱れて、咲き誇ってしまって、全てもう花がついてしまう。そしてこの開かれた全ての花束を持って行って、それを天主様の代理者にふさわしい方にそれを返す。つまりマリア様に返すと、マリア様はそれを受けて、マリア様はそのお花を天主様にお返しする。という事で、この循環の業が、また元に戻って天主へと戻った、という事になります。
天主様はまず御自分の事から始まって、全ての神秘を啓示されます。まず天主の事から始まって、この世の事について、そしてこの霊魂一人一人についての啓示をされます。では私たちの、皆さんと私の全ての秘密に、真理について啓示されるのはいつでしょうか?
この最後の審判の時には、私たちは全て大きな所に集められて、そして皆さんと私についての真理の啓示が行われるのを見るでしょう。この事が行われる前に、イエズス様は御自分の事について、そして御自分の最高の傑作マリア様について、私たちに全てを啓示させようと思っています。このその時において全世界の前で、マリア様についての本当の秘密を、全ての秘密を真理を啓示して、「おぉマリア様、あなたは一体どなたですか?」という事に答えようとします。
ですから終末の時代には天主様は、マリア様のその美しさ、その力、その魅力について全て啓示しようと思っています。もしも素晴らしい芸術家がいるとしたら、芸術家のその力が、どれほど才能があるかという事を見せる為に、芸術家は自分の大傑作を見せるに違いないからです。
私たちが暗記しなければならない暗唱しなければならないほど深い文章を、また別のところに見せますが、それは49番に書かれています。この最初の言葉です、「世の救いはマリアを通して開始された。だから同じくマリアを通して完成させるべきである。」
グリニョン・ド・モンフォールは、「なぜ一体マリア様は、最初ではなくて最後に、これほど輝かなければならないのか」というその理由を説明します。なぜかというと、マリア様があまりにも美しく、あまりにも魅力的でその力が強いので、マリア様を偶像崇拝してしまう危険があったからです。アレオパゴスの聖ディオニジオは書いています、「マリア様は外見さえもとても美しく、あたかも女神であったかのようだ」と。(真の信心の49番:ce qui est si vrai que saint Denis l'Aréopagite nous a laissé par écrit que, quand il la vit, il l'aurait prise pour une divinité, à cause de ses charmes secrets et de sa beauté incomparable, si la foi, dans laquelle il était bien confirmé, ne lui avait appris le contraire.)
花が咲くのも秩序と段階があります。まず天主三位一体について、それが最初です。その次にイエズス・キリストの神秘。次にイエズス・キリストの御業、秘跡と教会について。次に天上、それはイエズス・キリスト様の御業の結論、結果がどのように現れた、という事で、救われた者に贖なわれた者について現れる効果です。この信仰のこの記念碑、このモニュメントの最高の天上を飾る一番の花は、それはマリア様です。
聖グリニョン・ド・モンフォールは、「終末の時代において、なぜマリア様がよく知られるように望んでいるか」という7つの理由を説明しています。この7つの内の最初の5つは、来たるべき終末の大災害とか、悲惨さとは全く関係のない理由を挙げています。グリニョン・ド・モンフォールが指摘するのは、「もっとマリア様を知る事によって、もっとイエズス様と一致する事ができる」という点です。この7つの理由を黙想して下さい。このグリニョン・ド・モンフォールが言っているこの言葉の1つ1つは、マリア様からの啓示であるかのようです。
例えばこの50番の中にある第4の理由ですけれども、「イエズス様が初めてこの世においでになる時にお通りになったのが、マリア様という道ですから、」もう一度50番の5番をご覧下さい、「マリア様はイエズス様へと至るべき最も確実な道ですから、完璧なガイドですから、マリアを見出す人は命も見出します。」
「私が道であり、真理であり、命である」とイエズス様は言いました。マリア様を探す事ができなければ、見出す事もできません。でもマリア様を知らなければ誰も探そうとする人はいません。ですからマリア様の事を知れば知るほど、よくマリア様を求めるようになって、マリア様を探す事になって、マリア様を探す事によってより良く三位一体の栄光が表れるようになります。
第6と第7において、教会の教えに沿って説明しています。その6番をご覧になると、本当に「私たちの為である」という事が分かります。「マリア様は終末において、憐れみにおいて、また力において、そして恩寵において、力を発揮しなければならない」と言います。皆さんは今、この特別な時代に生きています。この特別な時代におけるマリア様の特別な力がこれです。憐れみと力と恩寵です。
この終わりの時には、私たちが聖寵において生きるのは非常に大変になり、罪に満ち溢れた時代になりますから、マリア様がこの時代この世において、憐れみの母とならなければなりません。この憐れみの対象は皆さんと私です。マリア様が、聖母マリア様が私を見つける事ができたというのは本当に奇跡です。私が聖寵に立ち戻る事ができる為には、マリア様はもうものすごいお恵みを、憐れみの大海の憐れみの大海原を使って、私を戻さなければなりませんでした。
皆さんご自分の事を話しているのだと適用させて下さい。「おぉマリア様、マリア様あなたは慈悲の玉を輝かす事をお望みになりました。憐れみな罪人である私を教会に連れ戻す為に、道を踏み外した私を回心させる為に、頑固な罪人である私、反社会的な私、破壊分子である私に対して力を発揮する為に、何度も何度も天主を侮辱し罪を犯した私を戻す為に、私を寛大に受け止めて下さいました。単に私に忍耐したばかりでなく、単に私を寛容に黙認して下さったのみならず、歓迎して下さって受け入れて下さいました。私を愛してくれました。」
この小さな文章の1つ1つに、多くの意味が含まれています。それは母なる教会の懐に安住させる為です。
ではなぜこの憐れみの聖年である2016年、この事について、「回心させる」とか「母なる教会の元に立ち戻る」という事については、教皇様は仰らないのでしょうか。
この第6番の理由は、現代によくある近代主義の異端に対する誤りに対する宣戦布告をしています。憐れみだけではなくて、力もあります。マリア様はポーランドの言い方では、“ヘドマンカ”「最高司令官」です。マリア様御一人で、全ての異端を踏み砕きました。マリア様は恩寵において力を発揮しなければなりません。イエズス様の為に戦う勇敢な兵士たち、忠実なしもべたちを力づける為に、支える為に、もう落胆しているような司祭などに、あるいは悲しい思いをしている司祭たちに、「この文章を読みなさい」と私は励まします。
第7の理由は、「マリア様は特に、最も悪い敵である悪魔に対して戦う」という事が理由です。終末においてどのようなものであるかという事を、聖グリニョン・ド・モンフォールは1文でこう説明します、「悪魔は時間が既に残されていない。」ですから自分の仕事、つまり多くの霊魂を地獄に引きずり落とすという事をする為に、残されている時間を有効に使う為に、自分の力を倍にして、より多くの霊魂を地獄に落とそうと努力する。
この次のポイントについては次の講話でお話を致します。では47番から54番までをお読みになって下さい。マリア様がこの終末の時代に与えられたこの力の強さ、という事をよく黙想なさって下さい。
同時通訳:小野田圭志神父
今朝、マリア様が贖いの業に対してどれほど重要であるか、という事を見ました。
聖グリニョン・ド・モンフォールは、マリア様が聖三位一体の神秘の中に、全く唯一、そして非常に神秘的な素晴らしいやり方でその中に深く組み込まれている、という事を指摘しています。これはこの本の後半部には無いのですけれども、最初の部分にだけ出てくるものです。マリア様と聖父との関係、聖子との関係、聖霊との関係などが出てきます。
今朝は聖父とマリア様との関係について深く研究する事ができませんでした。
この聖父というのは聖三位一体の起源であり、そしてこの天主の外における全ての業の起源でもあります。聖父の神秘は、三位一体の中で最も深い根源の神秘であります。しかし私たちにとって一番親しみ深い、馴染みがあるものは、イエズス様、天主聖子とのマリア様との関係です。もちろんこれは啓示と関係があるからです。この事について教父たちやあるいは教会博士たち、教皇様たちが深く話しています。これが「マリア神学」と言われています。
ところで聖グリニョン・ド・モンフォールはこの本の中で、マリア神学の講義を皆さんにしようとするのではなくて、ただ単純に、「救い主イエズス・キリストは、御母マリア様なくてはこの世に来る事ができずに、御母なくしては救いをする事ができない、望まなかった」という事を指摘します。
と同時に、別の危険を避けようと望みます。それは多くの人々が陥ってしまう危険です。多くの人々は三位一体の神秘、あるいは贖いの神秘全て、つづめて言えば公教要理の教えをそれらを脇においてしまって、多くの人々は間違って、「マリア様だけ」「マリア様だけ」「マリア様だけ」という誤解を間違いを犯します。
「マリア様がここに御出現になった」「マリア様はこう仰った」「マリア様はこうだ」という事だけを強調する人です。シンガポールではそうです。すみません、頭痛を下さる方もいらっしゃいます。
確かにこのような方々は非常に信心深い方で、熱心な方で、イエズス様を愛しているのですけれども、この罠に陥ってしまいます。その誤解された信心とは、カトリック信心を2つに分裂してしまって、「1つはこっち」、「もう1つはこっち」として、「何の関係もない」とする立場です。
つまり「聖伝の教え、これは聖ピオ十世会の司祭が教えている。」そしてもう1つの別の世界は、またマリア様と特別の形態を持っている人々のグループの集まりで、「私の世界だ」という2つの世界を持つ方です。
マリア様は自分の為だけに注目を引き寄せようとしているのでありません。マリア様は全てイエズス様に導こうとされています。もしも聖ピオ十世会、もしも聖伝が、「イエズス様はマリア様なしにはいらっしゃらなかった。仕事を救霊の業をなさらなかった」と言うとしたら、同時に、「イエズス様なしにマリア様はない。そのマリア様とイエズス様は1つだ」と言わなければなりません。
次に第3は、インマクラータと聖霊との結び付きです、関連でした。聖グリニョン・ド・モンフォールは、以前教父たちがはっきりと書かなかったような事を、ここではっきりと書きます。これは必ずしも聖グリニョン・ド・モンフォールが自分で発明したというわけではありません。グリニョン・ド・モンフォールはいつも教父や教会の教えを引用します。なぜかというと、グリニョン・ド・モンフォールは教会の聖伝に根を持たないようなものを教えようと望まなかったからです。しかしグリニョン・ド・モンフォールはマリア様から特別の光を、特別のインスピレーションを頂きました。聖子とマリア様との関係のみならず、聖霊との関係について、他の人々よりも更に深い理解ができました。
ポーランド語で私は本を出版しましたが、まだ残念ながらポーランド語でしかありません。それは聖霊の浄配という、この「浄配」という言い方が一体、教会の中でいつ頃から始まって、誰から始まって、どのように説明したか、という事で、聖グリニョン・ド・モンフォールがこの重要な地位を占めています。
聖グリニョン・ド・モンフォールの後には著名な立派な方々がこの言い方を言いますけれども、その中に特に際立っていたのが聖マキシミリアノ・コルベで、マキシミリアノ・コルベ神父様はこの「聖霊の浄配」というものを、限りなくできるだけ明確にこれを説明しています。
第2のテーマは今朝、「マリア様がイエズス様の贖いの業に単に協力したのみならず、イエズス様の聖化の御業にも深く関わっている」という事を見ました。罪の状態から聖寵の状態への回心の恵みは、全てこれはマリア様を通して私たちに与えられます。多くのケースがあります。そしてこの私たちの聖化の段階の1つ1つ、特にその頂点に至るまで、マリア様を通して働きます。皆さんの回心の歴史を、皆さんのこの信仰生活の歴史をご覧になって、いつもその聖化や聖徳への道のりで、マリア様が御恵みを勝ち取ってきて下さっている事をどうぞ認識して、その事を思い出して下さい。そしてその事を感謝して下さい。
第3に見た事は、特に皆さんが危険な時に、あるいは人々が人類が危険な時に、マリア様が立ち上がってすぐに助けに来て下さる、という特別な役割を見ました。ライオンの家族、動物のライオンですけれども、大体メスのライオンはのろのろしていて、ちょっと怠け者のようですが、自分の子供のライオンが危ない、攻撃されている、というと非常に怒り狂って、その子供を守る為には自分の命さえも顧みないほどの凶暴の動物に変わります。
グリニョン・ド・モンフォールは更にこう言います、「誰もが、救われる為にマリア様が必要だ」と。
「もしもマリア様の役割を無視するならば、救われる事はないだろう。」
「マリア様が必要だ、という原理は認めても、それを実際に認めない場合には、それでも救われない。」
「マリア様が必要だというその原理を認めて、それを多かれ少なかれ実践したとしたら、救われるでしょうが、しかし聖人にはならない。」
「このマリア様が必要だ、という原理を認めて、それを完全に認めて、それを完璧に私たちが実践したら、それを適用した時に、私たちは聖人になる事ができます。」
これは色々な証明が証拠があります。聖人たちの生涯です。聖人たちがみんな聖人になったというのは、マリア様への信心があったからです。
グリニョン・ド・モンフォールは更に言葉を進めます。今から言う事が私たちにとって非常に大切な言葉です。この講話の直後に皆さんこの言葉を黙想して下さい。この事は、このグリニョン・ド・モンフォールは自分の生きていた時代の人々の為には書いたのではなくて、私たちの為に書いた言葉です。
「もしも人類の歴史において、マリア様が救いの為に必要だ、という事が本当ならば、事実であれば、これは最も終末の時代において生きる人々にとって、最も重要な事実となる」と。聖グリニョン・ド・モンフォールは、黙示録的な終末の時代についてのマリア様の役割がどれほど重要か、という事を非常に極めて強く強調した一人だからです。
神学者たちは、「時の終わり」とか「歴史の終わり」についてよく語っています。イエズス様御自身も福音の中で何度も何ページにも渡って終末の時代についてお話しています。この終末の時代は人類の歴史において最悪の時となるでしょう。イエズス様は「厭わしいもの憎ましいものが至聖所に来るだろう」とか、あるいは「信仰の光を見つける事ができるだろうか」とか、あるいは「愛は冷えきってしまうだろう」等と予言しています。
特に黙示録においては、新約聖書の最後において「最後の時代はどうなるか」という事について予言しています。使徒たちやイエズス様はこの時の終わりについて、「恐ろしい時代であって、ものすごい状況が来る」という事を描写しています。
グリニョン・ド・モンフォールはこの事について話をしています。でも聖グリニョン・ド・モンフォールは別のやり方で、この時の終わりについて話をします。もちろんグリニョン・ド・モンフォールも、イエズス様やあるいは他の聖人たちと同じような見解を取るのですけれども、別の見方があります。終末の事については、私たちの目ではなくて、天主の目において、聖グリニョン・ド・モンフォールは語っています。
「この現世の時、時代というのは、今の世界は、永遠の生命への準備に過ぎない。祖国に帰る帰路であって道であって、永遠の至聖所に戻る道である。この私たちの旅には始めがあり、終わりがある。」
私は昨日長い旅をしてきましたけれども、ようやくホテルに着いて、「旅が終わって良かった」とベッドの中で嬉しく思いました。旅が終わったというのは、必ずしも悲しい究極的な大不幸だというわけではありません。なぜかというと旅の終わりは、新しい生活の始まりであって、黙想会が始まるので私は本当に嬉しいのです。
私たちのこの地上での旅も終わりを告げて、そして新しい永遠の命、天主様との命が始まります。「喜べ」という事は、私たちのこの地上での生活の終わりから始まる新しい生活というのは、黙想会のつまらない講話を聞かなければならないのではなくて、天主様との楽しい美しい命が始まる、という事だからです。
では私たちの天主への道行きの旅路の最初はどうやって始まったでしょうか?それは、イエズス様が天から地上に降りた時から始まりました。イエズス様はマリア様を通して、この地上に来られました。論理的に、マリア様を通し始まったこの旅の始まりも、マリア様を通して終わる事になります。
では私たちが、「終わり」「究極」「終末」と言われる事の深い意味は何でしょうか?「天主様は究極には、論理的な全ての終わりまで、全ての意味を私たちに教えて下さる」という事です。まずイエズス様は御自分についての、天主についての真理を私たちに掲示して下さるでしょう。私たちにもたらされた真理、イエズス様に関する真理を私たちが完璧に知る事になります。
イエズス様はまずこの真理を使徒たちに教えました。使徒たちは素晴らしい真理の大きな花束を受け取りました。バラや百合や美しい花々の真理を頂きました。でもこれらの花はまだその時には蕾で、花は開いていたとは限りません。
もちろん当時全ての人が、「唯一の天主が在す」という事を知っていました。「聖父と聖子と聖霊」という事を知っていました。ところで3世紀とか4世紀にアリウス派の異端が来た時に、初めてその時に、神学者たちがその異端に対抗する為に詳しく説明して、この原理を展開させて、「一体この原理から来る究極的な結論は何か」という事を説明しました。
聖ヒラリオ、聖アタナシウス、聖アウグスティヌスなど、多くの偉大な教父たちや聖人たちが、この三位一体の神秘を通して、その開かれた、その花の蕾が開いて、その「唯一の天主であると同時に三位の天主」という事のそれを理解しようとして、それを説明して、その事を黙想した時の喜びを読んで下さい。これは本当にこの教父たちがこの理解できた時の喜びが私たちに伝わってきます。
天主様はこの花が開くように、「太陽」と「雨」を下さいます、2つが必要です。「太陽」というのは、聖霊の光を受けた教父たちの説明や、黙想の結果の事です。「雨」というのは、この真理を攻撃するような人々たちの異端説です。
例えばアリウスは、「イエズス様は天主の御子であるけれども、イエズス様は天主ではない」などと異端説を述べました。アリウスはちょっと下らない話を書いたというわけではありません。アリウスはこの自分の説が正しいという事を説明しようとして、色々な議論を書きました。多くの方が間違って彼の後に従ってしまいました。しかし教父たちはアリウスの書いた議論を見て、その議論を分析して、そこに隠されていた誤謬がどこにあるかを指摘して、「ここに詭弁がある。ここに誤りが潜んでいる」という事を指摘して、その間違いを正しました。
天主様は異端でさえも使って、その暗闇の中に光が燦然と輝くように使います。三位一体の神秘が明確にされると、今度はイエズス様について攻撃が始まりました。これが5世紀、6世紀、7世紀の話です。誰もが「イエズス様が天主の御子である」という事を知っていました。公会議の後に、誰もが「イエズス様が御子である、そして天主である」という事を知っています。ではこの2つが一体どうやって調和するのでしょうか?
ここで異端者が出ました。司教様や司祭たちでも、異端説を述べてしまいました。立派な司祭たちもその中にはいました。例えばこの異端説の1つは、「天主様が人間となった時に人間の本性を取ってくるのだけれども、その本性は天主の本性の中に、あたかも大海の海の中の水に1滴の水を落としたと同じように、海の水と一緒になってしまって、人間の本性は消えて無くなってしまった。」例えばまた別の人は、「聖ラファエルが人間の体の見かけだけを取って現れたように、イエズス様も実は天主は、体の見かけだけは人間だけれども、本当の人間ではなかった。」それでまた別の異端は、「いやいやそうではない。イエズス様は本当の人間であって、マリア様から生まれて、走ったり動いたり食べたりして、人間として生きた。でもこのキリストには2つがある。この2つのキリスト、天主であるキリストと、人間であるキリストがあまりにも2つが1つになったので、区別ができないほどになってしまった。」
色んな説が出てきました。色んな議論や色んな異端説の中から、「本当の真理はこうだ。イエズス・キリストにおいて、天主の本性と人間の本性が一致した」という事を説明します。
アレクサンドリアの聖チリロは444年に亡くなって、それから大聖レオ教皇様、このような方々の御説教を例えば聖務日課などで私たちは読みますけれども、本当に深い真理を話しているのでびっくりするほどです。
信仰の啓示が花開いて、このうまく説明されて、その美しさに私たちは本当にますますイエズス様の事をお愛し申し上げるようになります。信仰の美しい蕾がそれが開かれて、明示されて、こう明確に説明されて見えるようになると、ちょうど花が開いたように、私たちに綺麗に提示されます。
12世紀から16世紀の間にかけては、「秘跡」について、あるいは「教会」について詳しい花が開きました。イエズス様が私たちに啓示された信仰の花が1つ1つ開かれて、そしてそれについて私たちに詳しい真理が明らかにされています。
もちろん「花が開いた」と言っても、私たちがそれを全て理解し尽くしたというわけではありません。これはどういう事かというと、「花開いた」という事はどういう事かというと、「人間の知性が考えて説明する事ができるという事の極度にまで、それを説明し尽くす事ができた」という事です。
この最後の美しい啓示の花が今、開かれようとしています。これが「マリア様」に関する真理の花です。1854年に「マリア様の無原罪の御宿り」のドグマが発表されました。1950年、マリア様に関する最後のドグマが発表されました。それは「被昇天」であって、この来週の月曜日に私たちはそれを祝います。ピオ十二世教皇様は特に、「マリア様が共贖者である。贖いの業をイエズス様と共になさった方である」という事を教えていました。
立派な神学者たちが説明するには、天主様から与えられた啓示は明確にはっきりと説明されていて、もはやこれ以上説明する物が残っていない、というほどまで開かれました。
このように人類の歴史を、教会の歴史を考える事ができます。天主様は全てを、自分の栄光の為に創造されました。自分で自分の事を説明して、自分の事が知られるという事をとても喜びとするという事です。そして天主様が全て説明し尽くして、神秘をもうこれ以上人間の知性で言う事ができないほどはっきり示した時に、それでこの人類は天主へと戻らなければならない、という風に。
イエズス様が天主様がこの地上に降りて来て、私たちの手に最も美しい花々を置いたと考えて下さい。そして私たちが受けたこの花が、この時が経つにつれて、1つ開き、また1つ開き、大きな蕾が非常に大きな花となって咲き乱れて、その美しい花の造形に私たちは脱魂したようになって、本当に喜ばしく思って、それを感嘆して見て眺めている。そして最後にこの受けた花束はもうみんな咲き乱れて、咲き誇ってしまって、全てもう花がついてしまう。そしてこの開かれた全ての花束を持って行って、それを天主様の代理者にふさわしい方にそれを返す。つまりマリア様に返すと、マリア様はそれを受けて、マリア様はそのお花を天主様にお返しする。という事で、この循環の業が、また元に戻って天主へと戻った、という事になります。
天主様はまず御自分の事から始まって、全ての神秘を啓示されます。まず天主の事から始まって、この世の事について、そしてこの霊魂一人一人についての啓示をされます。では私たちの、皆さんと私の全ての秘密に、真理について啓示されるのはいつでしょうか?
この最後の審判の時には、私たちは全て大きな所に集められて、そして皆さんと私についての真理の啓示が行われるのを見るでしょう。この事が行われる前に、イエズス様は御自分の事について、そして御自分の最高の傑作マリア様について、私たちに全てを啓示させようと思っています。このその時において全世界の前で、マリア様についての本当の秘密を、全ての秘密を真理を啓示して、「おぉマリア様、あなたは一体どなたですか?」という事に答えようとします。
ですから終末の時代には天主様は、マリア様のその美しさ、その力、その魅力について全て啓示しようと思っています。もしも素晴らしい芸術家がいるとしたら、芸術家のその力が、どれほど才能があるかという事を見せる為に、芸術家は自分の大傑作を見せるに違いないからです。
私たちが暗記しなければならない暗唱しなければならないほど深い文章を、また別のところに見せますが、それは49番に書かれています。この最初の言葉です、「世の救いはマリアを通して開始された。だから同じくマリアを通して完成させるべきである。」
グリニョン・ド・モンフォールは、「なぜ一体マリア様は、最初ではなくて最後に、これほど輝かなければならないのか」というその理由を説明します。なぜかというと、マリア様があまりにも美しく、あまりにも魅力的でその力が強いので、マリア様を偶像崇拝してしまう危険があったからです。アレオパゴスの聖ディオニジオは書いています、「マリア様は外見さえもとても美しく、あたかも女神であったかのようだ」と。(真の信心の49番:ce qui est si vrai que saint Denis l'Aréopagite nous a laissé par écrit que, quand il la vit, il l'aurait prise pour une divinité, à cause de ses charmes secrets et de sa beauté incomparable, si la foi, dans laquelle il était bien confirmé, ne lui avait appris le contraire.)
花が咲くのも秩序と段階があります。まず天主三位一体について、それが最初です。その次にイエズス・キリストの神秘。次にイエズス・キリストの御業、秘跡と教会について。次に天上、それはイエズス・キリスト様の御業の結論、結果がどのように現れた、という事で、救われた者に贖なわれた者について現れる効果です。この信仰のこの記念碑、このモニュメントの最高の天上を飾る一番の花は、それはマリア様です。
聖グリニョン・ド・モンフォールは、「終末の時代において、なぜマリア様がよく知られるように望んでいるか」という7つの理由を説明しています。この7つの内の最初の5つは、来たるべき終末の大災害とか、悲惨さとは全く関係のない理由を挙げています。グリニョン・ド・モンフォールが指摘するのは、「もっとマリア様を知る事によって、もっとイエズス様と一致する事ができる」という点です。この7つの理由を黙想して下さい。このグリニョン・ド・モンフォールが言っているこの言葉の1つ1つは、マリア様からの啓示であるかのようです。
例えばこの50番の中にある第4の理由ですけれども、「イエズス様が初めてこの世においでになる時にお通りになったのが、マリア様という道ですから、」もう一度50番の5番をご覧下さい、「マリア様はイエズス様へと至るべき最も確実な道ですから、完璧なガイドですから、マリアを見出す人は命も見出します。」
「私が道であり、真理であり、命である」とイエズス様は言いました。マリア様を探す事ができなければ、見出す事もできません。でもマリア様を知らなければ誰も探そうとする人はいません。ですからマリア様の事を知れば知るほど、よくマリア様を求めるようになって、マリア様を探す事になって、マリア様を探す事によってより良く三位一体の栄光が表れるようになります。
第6と第7において、教会の教えに沿って説明しています。その6番をご覧になると、本当に「私たちの為である」という事が分かります。「マリア様は終末において、憐れみにおいて、また力において、そして恩寵において、力を発揮しなければならない」と言います。皆さんは今、この特別な時代に生きています。この特別な時代におけるマリア様の特別な力がこれです。憐れみと力と恩寵です。
この終わりの時には、私たちが聖寵において生きるのは非常に大変になり、罪に満ち溢れた時代になりますから、マリア様がこの時代この世において、憐れみの母とならなければなりません。この憐れみの対象は皆さんと私です。マリア様が、聖母マリア様が私を見つける事ができたというのは本当に奇跡です。私が聖寵に立ち戻る事ができる為には、マリア様はもうものすごいお恵みを、憐れみの大海の憐れみの大海原を使って、私を戻さなければなりませんでした。
皆さんご自分の事を話しているのだと適用させて下さい。「おぉマリア様、マリア様あなたは慈悲の玉を輝かす事をお望みになりました。憐れみな罪人である私を教会に連れ戻す為に、道を踏み外した私を回心させる為に、頑固な罪人である私、反社会的な私、破壊分子である私に対して力を発揮する為に、何度も何度も天主を侮辱し罪を犯した私を戻す為に、私を寛大に受け止めて下さいました。単に私に忍耐したばかりでなく、単に私を寛容に黙認して下さったのみならず、歓迎して下さって受け入れて下さいました。私を愛してくれました。」
この小さな文章の1つ1つに、多くの意味が含まれています。それは母なる教会の懐に安住させる為です。
ではなぜこの憐れみの聖年である2016年、この事について、「回心させる」とか「母なる教会の元に立ち戻る」という事については、教皇様は仰らないのでしょうか。
この第6番の理由は、現代によくある近代主義の異端に対する誤りに対する宣戦布告をしています。憐れみだけではなくて、力もあります。マリア様はポーランドの言い方では、“ヘドマンカ”「最高司令官」です。マリア様御一人で、全ての異端を踏み砕きました。マリア様は恩寵において力を発揮しなければなりません。イエズス様の為に戦う勇敢な兵士たち、忠実なしもべたちを力づける為に、支える為に、もう落胆しているような司祭などに、あるいは悲しい思いをしている司祭たちに、「この文章を読みなさい」と私は励まします。
第7の理由は、「マリア様は特に、最も悪い敵である悪魔に対して戦う」という事が理由です。終末においてどのようなものであるかという事を、聖グリニョン・ド・モンフォールは1文でこう説明します、「悪魔は時間が既に残されていない。」ですから自分の仕事、つまり多くの霊魂を地獄に引きずり落とすという事をする為に、残されている時間を有効に使う為に、自分の力を倍にして、より多くの霊魂を地獄に落とそうと努力する。
この次のポイントについては次の講話でお話を致します。では47番から54番までをお読みになって下さい。マリア様がこの終末の時代に与えられたこの力の強さ、という事をよく黙想なさって下さい。