2016年8月11日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【2】
同時通訳:小野田圭志神父
最初の講話では、イエズス様の御生涯とマリア様の役割について黙想しました。イエズス様がいらっしゃる時にマリア様が大きな役割を果たしたのみならず、全生涯においてイエズス様はマリア様に全く従順で、それに服しておられました。イエズス様は御自分を全くマリア様に捧げていて、奇跡を起こす事でさえも、マリア様を通してのみ行いました。
イエズス様ははっきりと仰いました、「私は模範を示した。だから私に倣え。」
ではどのような模範を示して下さったのでしょうか?イエズス様は御自分の全生涯において、特に私生活において隠された生活において、自分の生涯を全てマリア様に服従させて、マリア様が御自分の長上となり、目上となり、指導者となり、権威となりました。そしてそれに、マリア様に全く従った生活をした、という模範です。イエズス様は「自分の真似をしなさい」と言ったのですから、「私のした事をしなさい」と言ったのですから、マリア様は私たちにとっても目上となり、権威となり、それに全く全てを従わせなければなりません。
でもイエズス様の生活において、マリア様の役割を全て説明し終えたわけではありません。イエズス様がこの世に来られた理由は、私たちを永遠の火から救う為です。天国の門を開く為です。アダムの罪を償う為でした。人類を新しく創り直す為でした。失われたエヴァの子たちをもう一度、天主の子供とする為でした。これを御自分の十字架のいけにえと死をもって、達成されようとしました。
イエズス様がどのように十字架の上に付けられて御死去されたか、というのを見ると、これを見ると、御自分の贖いの業をどのようにマリア様と密接に結び付けようとしたのか、という事が分かります。マリア様は十字架の足下に立って、第2のエヴァとなります。イエズス様と共に、マリア様はこの世を贖います。マリア様のおかげで、マリア様はもちろんイエズス様により、私たちは救われました。イエズス様はマリア様の参与のご協力を以てのみ、この世を救われました。
聖アウグスティヌスは既にこう言っています、「イエズス様が肉体において苦しんだように、マリア様が心において苦しむ事を許された」と。
私たちの聖ピオ十世会の守護者である聖ピオ十世教皇様は、「イエズス・キリスト様の苦しみがマリア様の苦しみと一致する事によって、マリア様は共贖者となる功徳を得て、そして第2のエヴァとなり、そして私たちの霊的な母となった」と。
大聖アルベルトはこう言います、「第1のエヴァが、人間の出産においてアダムの伴侶であったように、マリアは新しい人類の出産の為に第2のアダム、イエズス・キリストの伴侶である。」
ですからマリア様は私たちの母にもなりました。マリア様がイエズス様の御生涯においてどれだけ現存されていたか、どれだけ重要であったか、という事についてはこれで全てというわけではありません。
聖グリニョン・ド・モンフォールは言います、「第2のペルソナが偉大な御業を果たす時に、マリア様と一致していたいと思ったのみならず、第3のペルソナである聖霊も、御自分の御業をする為にマリア様と一致していたいと望んでいる。」
したがって聖霊は、マリア様の御受胎、マリア様が存在し始めたその瞬間から、「無原罪の御宿り」として御自分の特別の聖寵を満たされました。聖マキシミリアノ・コルベは、聖霊とマリア様との緊密な結合をこう説明しています。
私たちは聖霊が、聖父と聖子とからこの世に発出された、この世に送られたという事を知っています。私たちが先ほど歌ったように、いとも高きものの賜物として送られてきました。この賜物は私たち一人一人に与えられるものとして送られました。
ではこの賜物を完璧に得た霊魂とは一体どなたでしょうか?それはこの贈り物を拒否しない、何も拒否しない霊魂でした。これは聖霊の働きに全くオープンであった、開かれていた霊魂でした。そのような霊魂はたった一人しかありませんでした。聖霊の働きに対して妨害を置くという事はつまり、罪を犯すという事ですから、全く罪の汚れのない存在は、そのような霊魂はたった一人でした。
マリア様には全く妨害が邪魔者が、聖霊の働きを邪魔するものがありませんでした。あったのはたった1つ、天主への燃える愛の炎であって、「我になれかし“Fiat mihi”」という事だけでした。したがって聖霊は、御自分をマリア様に全く与え尽くす事ができて、それはあまりにも強かったので、あたかもこの二人は一体となったかのようでした。したがって聖霊の働きは、今後一切、マリア様と結び付けられて語らなければなりません。
では、マリア様と共に聖霊がした最初の事業とは何でしょうか?
それは天主の御子が肉体となって、人となる事でした。「聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ」と、「聖霊の力によってマリアから生まれたイエズス・キリスト」と使徒信経では言う通りです。
聖母マリア様が、イエズス・キリスト様の肉体を造るその原因となったのみか、イエズス・キリストの神秘体を作り出す原因ともなりました。先ほども申しましたように、聖霊が働く時には必ず、マリア様を通して働くからです。では聖霊はマリア様を通して一体、正確に何をするのでしょうか?
それは、「私たちにおいてイエズス様を形造る」という事です。もっと良いうまい言い方をすると、「イエズス・キリスト様の神秘体の、生きる肢体の、生ける部分を作る」という事です。
では22番から36番のパラグラフを読んで下さい。22番から36番です。たくさん読む事があります。次の講話は14時半ですから、それまでの間にここを是非読んで下さい。
聖グリニョン・ド・モンフォールは、「霊魂の聖化にマリア様がどれほど参与しているか」という事を説明します。イエズス様がこの地上で生活して霊魂の救いの為に働いた時に、マリア様が協力してそれと一致していたのみならず、この世の終わりまでキリストの神秘体において、その聖化の為にマリア様はずっと働き続けます。
23番、24番、25番をご覧になると、聖グリニョン・ド・モンフォールが、「いかにして聖三位一体の一位一位が、教会において霊魂の聖化をする為に働いているか」という事を説明しているのが分かります。この3つのポイントをご覧になると、「マリア様が全ての聖寵の仲介者である、という事がどういう事か」という事をうまく説明しています。
全ての御恵みの根源は源は、イエズス様の十字架の元から来ています。イエズス様の十字架から流れ出る全ての御恵みと功徳は、1つの場所に集められました。その集められた場所は、マリア様の汚れなき御心です。イエズス様は十字架の上で私たちの為に、全ての御恵みと贖いの功徳を捧げましたけれども、その事を望みましたけれども、それと同時に、この全ての功徳と贖いの御業の御恵みを、マリア様を通して私たちに配る事を御望みになりました。
聖グリニョン・ド・モンフォールは聖ベルナルドを引用して言います、25番にこう言います、「マリア様の童貞の手を通らずに、私たちに与えられた賜物はない。これが天主様の御旨であって、全てはマリア様の手を通してのみ配られる」という御旨でした。
この事をよく私たちは頭の中に深く刻み込んで、記憶しなければなりません。天主様は私たちの霊魂にどのように働きかける事を望んでいるか、という事です。もしも天主様が全てをマリア様を通して、マリア様によって私たちに与える事を望むならば、マリア様の前で私たちはこう尋ねなければなりません、「おぉマリア様、一体あなたはどなたですか?」
イエズス様は、私たちが全てをマリア様を通して受ける事を望んでいます。もしもこのイエズス様の尊い御望みを無視するならば、イエズス様のこの御望みを大切に考えないならば、それはイエズス様に対して侮辱をする事であって、誠意ある態度ではありません。
天主様は皆さんを御覧になって、飢え、渇き、食べ物が必要、飲み物が必要だ、という事を見て、「ぜひ食べ物を与えたい。飲み物を与えたい」と願っています。でもイエズス様はこれを、小野田神父を通して皆さんに配ろうと望みました。
「おぉイエズス様、私は今お腹が減って、喉が渇いています。どうぞ食べ物を下さい、飲み物を下さい、与えて下さい。」
でも皆さんは小野田神父の事は全く無視、「関係ない」と無視しています。皆さんには食べ物が与えられません。もしも天主様が私たちに、全てをマリア様を通して与えようとしているにもかかわらず、それを無視するならば、私たちは死んでしまうしかありません。
ここで私たちの人生において、マリア様がどれほど大切か、という事が分かります。もしも天主の御旨を果たして、マリア様を通して私たちが御恵みを受けるならば、私たちは生き、救われますけれども、天主の御旨ではなく、「私の、自分の思い通りにやりたい」と思うならば、私たちはこれで人生の意味は終わってしまいます。
私の霊魂の聖化において、私の霊魂の救いにとって、マリア様がどれほどの位置を持つ事を天主様が望まれているか、という事はこの次で書いています。皆さん、このグリニョン・ド・モンフォールの本を読んで、「マリア様は霊魂たちの母である」と書いてあったら、これをすぐ翻訳して、「マリア様は『私の』霊魂の母である」と読んで下さい。
36番をご覧下さい、翻訳します、「御身マリア様、マリア様の夫である聖霊が、『私の』霊魂の中に、あなたマリア様を見出すと、すぐに聖霊はそこに飛んで行きそこに入り、その『私の』霊魂の中に御自分を豊かにお与えになります。」
35番もご覧下さい。マリア様こそが全ての聖人を形造り、養成しました。聖人伝を読むのを私たちは好んでいます。この聖人伝を読むと、本当に彼らがやった大きな業に驚きます。特にこの聖人たちのなした英雄的な聖徳にびっくりします。この聖人たちの一人一人の生涯は、マリア様がどなたであるか、そしてマリア様が私たちに何をする事ができるか、という事の説明なのです。
マリア様の御業の果実である実りである、多くの聖人たちを教会の中に見る事ができます。マリア様が多くの霊魂を聖化したという歴史が、教会の歴史です。マリア様は私たちに回心のそしてこのお恵みと、そして聖化のお恵みを誰にも与えて下さいます。これは人々の回心、あるいはある地域の回心、あるいは全国家が回心したというのを見る時に、マリア様が必ず仲介、介入している事が分かります。
グァダルーペのマリア様の介入によって御出現によって、南アメリカが全大陸がカトリック信仰を持つようになったという事は、マリア様がどれほど力強いか、という事を表しています。マリア様の仲介、介入によって、教会の敵であったラティスボンが回心した事も、本当にマリア様の力を表しています。マリア様の介入や仲介によって、罪人であった人、あるいは誤謬の暗闇の中にいた人が光を見出して、回心したというのを知ると、そのマリア様の力の介入の強さに驚きます。
キリスト教生活の最初のこの回心のお恵みだけでなく、その回心の後もずっと、聖化のお恵みをマリア様が私たちに下さる、という事も大きな驚きです。皆さんがよく知っている聖人たちの伝記を読んで下さい。それが皆さんの人生となるはずです。そして皆さんの人生をご覧下さい。どのように回心したか、皆さんはもしかしたらマリア様の仲介の直接のものをはっきりとご覧になる事はないかもしれません。なぜかというと、私たちは表面づらだけしか見る事ができなくて、その多くを見る事ができないからです。
「小野田神父のおかげでカトリックの信仰になりました」と言うかもしれません。でも小野田神父とは一体誰でしょうか?全く無です。なぜかというと、マリア様が小野田神父を送ったからです。もしもマリア様がいなければ、小野田神父が言った言葉は、右の耳から入って左からザッと抜けるだけしかないからです。もし耳から入って心の中に降りてきたとしたら、これは小野田神父ではなくてマリア様です。そしてその初めて心に来た時に、「あぁ、生活を改めなければならない」と思うのです。
小野田神父はこう口では「回心しなさい!」と叫ぶかもしれません。でもマリア様がなければ、「あぁ、それは難しい、大変だ」と言うしかありません。でもマリア様が力を与えて、「あぁ、その通りだ」と思わせるのです。マリア様が、「あぁ、頑張りなさい。さぁ、やりなさい」と力を与えてくれます。小野田神父はちょうどこのスピーカーと拡声器に過ぎません。私たちはそのようなものです。
回心した後には、「マリア様、本当にこの光の中に、信仰の光に導いて下さってありがとうございます。感謝します」と申し上げます。そうしなければなりません。昨日も今日もそして明日も、聖化の、ますます聖となるお恵みをマリア様から頂き続けているのです。ですから私たちは罪の痛悔をする事ができますし、良い告解をする事もできるようになります。より多くの熱心と愛を込めて、ミサに与る事もできるようにもなりますし、昔よりももっとよく隣人を愛する事ができるようになりますし、願わくば、ますます日々日々、より少なく怒りっぽくなる、そしてより少なくがっかりしたり、落胆したりしなくなります。
「マリア様は、」聖ベルナルドによれば、「お恵みの運河であって、そこをいつもお恵みが通る道であって、特に今ここでマリア様は私たちの為に運河となって、お恵みを下さっています。」
この後に、私たちの今話した事の実際の現実の適用が待っています。もしもマリア様がそのような事をいつもいつも私たちになさって下さっているのならば、私たちはマリア様に対してどのような返答をしなければならないのでしょうか?
もしもこの事を私が少しでも理解できたら本当に嬉しく思います。つまり、「私にあるどんな良い事であっても、私がする事ができるどんな良い事業であっても、それは実はマリア様から来て、マリア様を通して私においてする事ができた」という事が理解できたら。
私に起こっている事を見て下さい。フェレー司教様が総長様がやって来て、「あぁ、シュテーリン神父様はよくやっているな。偉大な業をしている。」「あぁ総長様、あぁそれはちょっとオーバーな言い方ですよ。」
「私はとても良い偉大な業をしたんだ」と私は満足するかもしれません。でもこれは本当の話ではありません、マリア様がして下さったのです。もしも私だったとしたら、もしも私がやったのでしたら、それは全くの大失敗で悲惨な結果に終わっていたに違いありません。
では私のこの貧しい頭の中に、どうしたらこの現実のこの事実を入れる事ができるでしょうか?
今から聖グリニョン・ド・モンフォールが私たちにそれを教えてくれます。これはもうちょっと後にその話が出てきます。まず、「マリア様の本当の役割が何か」という事をよく理解して下さい。まずここで確認した事が、「マリア様が私たちの回心、そして日々の聖化においてとても大切な役割を果たしている」という事です。
しかし第3の点があります。そしてこの第3の点を私たちはいつも忘れています。
ではこの最高の母が、全ての聖寵の仲介者であるマリア様が、どの瞬間に、いつ働きかけるのでしょうか?では母親が一体いつ、子供の方に向かって働いて、そして走り寄り、そして母親としての役割を果たすかを聞いて下さい。
それは、「子供が危険にさらされた時」です。
皆さんは全ての方々を愛しています。皆さんは日本の全ての霊魂の救いの為に祈っています。そして私たちは秋田の巡礼で、秋田教会に行きました。バスに戻ると女の子がいたのを覚えていますか?するとこの巡礼者の敬虔な聖なる女性の方々は、この女の子に悲しんでいる女の子の方に近寄って、「何とか助けてあげたい」と言って、その元に駆け寄って時間を費やして、何とかしようとしました。
マリア様にしても同じです。もしも小さな子供がもう倒れて、あるいはもう危険な状態にあったというのを見れば、すぐに駆け寄って、「何とかしよう」と助けようと走り寄って、一生懸命になります。
この事を今私たちが生きているこの現代に適用させなければなりません。キリスト教世界が今崩壊しようとして、今大きな危険に直面している時に、マリア様は立ち上がって、目覚めて立ち上がって走り寄って、何とかしてこれを救おうとされます。
聖人の生涯のみならず、私たち一人一人の生涯のみならず、全世界の生涯は、マリア様の驚くべき業を証明しています。これが教会の歴史、全歴史を形取っています。私たちの敵がますます危険化して、そしてこの終末の時代における現代、ますますこのマリア様が特に私たちを助けに来て下さっている、という事を強く記憶しなければなりません。
皆さん3つの、敵が増長する3つの日というのを知っていますか?これは過去の話でした、1517年と、1717年と、1917年と、この3つの時でした。もうこれについては何度もお話しましたので、もうこれ以上皆さんを困らせる事は致しません。この3つの時期を見て皆さんが記憶しなければならない事はこれです、「ますます敵が力を付ければ、敵がますます恐ろしくなればなるほど、天主様は、マリア様が立ち上がってその自分の力を発揮する事を望まれる」という事です。
この歴史の教訓としてこれを覚えて下さい、「皆さんが危ない時に、皆さんが危険にさらされた時には、マリア様はすぐに立ち上がって、皆さんを助けに来る」という事です。もしも敵がますます危険であって、あるいは皆さんが難しい状況に立ち置かれた時、あるいはもう助け手が誰もなくて、たった一人もう打ち捨てられて、もう一人ぼっちになってしまった時に、マリア様はすぐに立ち上がって、皆さんを助けに来て下さいます。
マリア様は現代ほど私たちの近くに来る事はありませんでした。なぜかというと、現代という時代が非常に危険な時代であるからです。問題はマリア様があまりにも遠くにいるという事ではありません、近くにいるのですから。そこで問題は「私たちの心が閉ざされている」という事です。問題は、ではどうやったら私たちの心をマリア様に開く事ができるか、あるいはマリア様に許可して、私を危険から救ってくれるようにする事ができるか、という事です。
これを聖グリニョン・ド・モンフォールが私たちに教えています。
提案をしてもよろしいでしょうか?今から22番から36番について黙想なさって下さる事はできるでしょうか?昼食後、少し時間が予定されています。私もそうしますけれども、ぜひ皆さんにですね、良いお昼寝をして頂きたいと思っています。そしてお昼を食べてですね、この休まったらですね、もう一度、1番から36番をもう1回お読みになって下さい。午後にですね、次のようなやり方で読んでみて下さい。
今は、今からは一語一語考えながら、黙想しながら読んで下さい。でも午後はですね、1番から36番までこうずっとこう読みながら、「あ!ここは」と思ったところでストップして下さい。そうすると、マリア様に対する素晴らしい近付きができる事ができます。
同時通訳:小野田圭志神父
最初の講話では、イエズス様の御生涯とマリア様の役割について黙想しました。イエズス様がいらっしゃる時にマリア様が大きな役割を果たしたのみならず、全生涯においてイエズス様はマリア様に全く従順で、それに服しておられました。イエズス様は御自分を全くマリア様に捧げていて、奇跡を起こす事でさえも、マリア様を通してのみ行いました。
イエズス様ははっきりと仰いました、「私は模範を示した。だから私に倣え。」
ではどのような模範を示して下さったのでしょうか?イエズス様は御自分の全生涯において、特に私生活において隠された生活において、自分の生涯を全てマリア様に服従させて、マリア様が御自分の長上となり、目上となり、指導者となり、権威となりました。そしてそれに、マリア様に全く従った生活をした、という模範です。イエズス様は「自分の真似をしなさい」と言ったのですから、「私のした事をしなさい」と言ったのですから、マリア様は私たちにとっても目上となり、権威となり、それに全く全てを従わせなければなりません。
でもイエズス様の生活において、マリア様の役割を全て説明し終えたわけではありません。イエズス様がこの世に来られた理由は、私たちを永遠の火から救う為です。天国の門を開く為です。アダムの罪を償う為でした。人類を新しく創り直す為でした。失われたエヴァの子たちをもう一度、天主の子供とする為でした。これを御自分の十字架のいけにえと死をもって、達成されようとしました。
イエズス様がどのように十字架の上に付けられて御死去されたか、というのを見ると、これを見ると、御自分の贖いの業をどのようにマリア様と密接に結び付けようとしたのか、という事が分かります。マリア様は十字架の足下に立って、第2のエヴァとなります。イエズス様と共に、マリア様はこの世を贖います。マリア様のおかげで、マリア様はもちろんイエズス様により、私たちは救われました。イエズス様はマリア様の参与のご協力を以てのみ、この世を救われました。
聖アウグスティヌスは既にこう言っています、「イエズス様が肉体において苦しんだように、マリア様が心において苦しむ事を許された」と。
私たちの聖ピオ十世会の守護者である聖ピオ十世教皇様は、「イエズス・キリスト様の苦しみがマリア様の苦しみと一致する事によって、マリア様は共贖者となる功徳を得て、そして第2のエヴァとなり、そして私たちの霊的な母となった」と。
大聖アルベルトはこう言います、「第1のエヴァが、人間の出産においてアダムの伴侶であったように、マリアは新しい人類の出産の為に第2のアダム、イエズス・キリストの伴侶である。」
ですからマリア様は私たちの母にもなりました。マリア様がイエズス様の御生涯においてどれだけ現存されていたか、どれだけ重要であったか、という事についてはこれで全てというわけではありません。
聖グリニョン・ド・モンフォールは言います、「第2のペルソナが偉大な御業を果たす時に、マリア様と一致していたいと思ったのみならず、第3のペルソナである聖霊も、御自分の御業をする為にマリア様と一致していたいと望んでいる。」
したがって聖霊は、マリア様の御受胎、マリア様が存在し始めたその瞬間から、「無原罪の御宿り」として御自分の特別の聖寵を満たされました。聖マキシミリアノ・コルベは、聖霊とマリア様との緊密な結合をこう説明しています。
私たちは聖霊が、聖父と聖子とからこの世に発出された、この世に送られたという事を知っています。私たちが先ほど歌ったように、いとも高きものの賜物として送られてきました。この賜物は私たち一人一人に与えられるものとして送られました。
ではこの賜物を完璧に得た霊魂とは一体どなたでしょうか?それはこの贈り物を拒否しない、何も拒否しない霊魂でした。これは聖霊の働きに全くオープンであった、開かれていた霊魂でした。そのような霊魂はたった一人しかありませんでした。聖霊の働きに対して妨害を置くという事はつまり、罪を犯すという事ですから、全く罪の汚れのない存在は、そのような霊魂はたった一人でした。
マリア様には全く妨害が邪魔者が、聖霊の働きを邪魔するものがありませんでした。あったのはたった1つ、天主への燃える愛の炎であって、「我になれかし“Fiat mihi”」という事だけでした。したがって聖霊は、御自分をマリア様に全く与え尽くす事ができて、それはあまりにも強かったので、あたかもこの二人は一体となったかのようでした。したがって聖霊の働きは、今後一切、マリア様と結び付けられて語らなければなりません。
では、マリア様と共に聖霊がした最初の事業とは何でしょうか?
それは天主の御子が肉体となって、人となる事でした。「聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ」と、「聖霊の力によってマリアから生まれたイエズス・キリスト」と使徒信経では言う通りです。
聖母マリア様が、イエズス・キリスト様の肉体を造るその原因となったのみか、イエズス・キリストの神秘体を作り出す原因ともなりました。先ほども申しましたように、聖霊が働く時には必ず、マリア様を通して働くからです。では聖霊はマリア様を通して一体、正確に何をするのでしょうか?
それは、「私たちにおいてイエズス様を形造る」という事です。もっと良いうまい言い方をすると、「イエズス・キリスト様の神秘体の、生きる肢体の、生ける部分を作る」という事です。
では22番から36番のパラグラフを読んで下さい。22番から36番です。たくさん読む事があります。次の講話は14時半ですから、それまでの間にここを是非読んで下さい。
聖グリニョン・ド・モンフォールは、「霊魂の聖化にマリア様がどれほど参与しているか」という事を説明します。イエズス様がこの地上で生活して霊魂の救いの為に働いた時に、マリア様が協力してそれと一致していたのみならず、この世の終わりまでキリストの神秘体において、その聖化の為にマリア様はずっと働き続けます。
23番、24番、25番をご覧になると、聖グリニョン・ド・モンフォールが、「いかにして聖三位一体の一位一位が、教会において霊魂の聖化をする為に働いているか」という事を説明しているのが分かります。この3つのポイントをご覧になると、「マリア様が全ての聖寵の仲介者である、という事がどういう事か」という事をうまく説明しています。
全ての御恵みの根源は源は、イエズス様の十字架の元から来ています。イエズス様の十字架から流れ出る全ての御恵みと功徳は、1つの場所に集められました。その集められた場所は、マリア様の汚れなき御心です。イエズス様は十字架の上で私たちの為に、全ての御恵みと贖いの功徳を捧げましたけれども、その事を望みましたけれども、それと同時に、この全ての功徳と贖いの御業の御恵みを、マリア様を通して私たちに配る事を御望みになりました。
聖グリニョン・ド・モンフォールは聖ベルナルドを引用して言います、25番にこう言います、「マリア様の童貞の手を通らずに、私たちに与えられた賜物はない。これが天主様の御旨であって、全てはマリア様の手を通してのみ配られる」という御旨でした。
この事をよく私たちは頭の中に深く刻み込んで、記憶しなければなりません。天主様は私たちの霊魂にどのように働きかける事を望んでいるか、という事です。もしも天主様が全てをマリア様を通して、マリア様によって私たちに与える事を望むならば、マリア様の前で私たちはこう尋ねなければなりません、「おぉマリア様、一体あなたはどなたですか?」
イエズス様は、私たちが全てをマリア様を通して受ける事を望んでいます。もしもこのイエズス様の尊い御望みを無視するならば、イエズス様のこの御望みを大切に考えないならば、それはイエズス様に対して侮辱をする事であって、誠意ある態度ではありません。
天主様は皆さんを御覧になって、飢え、渇き、食べ物が必要、飲み物が必要だ、という事を見て、「ぜひ食べ物を与えたい。飲み物を与えたい」と願っています。でもイエズス様はこれを、小野田神父を通して皆さんに配ろうと望みました。
「おぉイエズス様、私は今お腹が減って、喉が渇いています。どうぞ食べ物を下さい、飲み物を下さい、与えて下さい。」
でも皆さんは小野田神父の事は全く無視、「関係ない」と無視しています。皆さんには食べ物が与えられません。もしも天主様が私たちに、全てをマリア様を通して与えようとしているにもかかわらず、それを無視するならば、私たちは死んでしまうしかありません。
ここで私たちの人生において、マリア様がどれほど大切か、という事が分かります。もしも天主の御旨を果たして、マリア様を通して私たちが御恵みを受けるならば、私たちは生き、救われますけれども、天主の御旨ではなく、「私の、自分の思い通りにやりたい」と思うならば、私たちはこれで人生の意味は終わってしまいます。
私の霊魂の聖化において、私の霊魂の救いにとって、マリア様がどれほどの位置を持つ事を天主様が望まれているか、という事はこの次で書いています。皆さん、このグリニョン・ド・モンフォールの本を読んで、「マリア様は霊魂たちの母である」と書いてあったら、これをすぐ翻訳して、「マリア様は『私の』霊魂の母である」と読んで下さい。
36番をご覧下さい、翻訳します、「御身マリア様、マリア様の夫である聖霊が、『私の』霊魂の中に、あなたマリア様を見出すと、すぐに聖霊はそこに飛んで行きそこに入り、その『私の』霊魂の中に御自分を豊かにお与えになります。」
35番もご覧下さい。マリア様こそが全ての聖人を形造り、養成しました。聖人伝を読むのを私たちは好んでいます。この聖人伝を読むと、本当に彼らがやった大きな業に驚きます。特にこの聖人たちのなした英雄的な聖徳にびっくりします。この聖人たちの一人一人の生涯は、マリア様がどなたであるか、そしてマリア様が私たちに何をする事ができるか、という事の説明なのです。
マリア様の御業の果実である実りである、多くの聖人たちを教会の中に見る事ができます。マリア様が多くの霊魂を聖化したという歴史が、教会の歴史です。マリア様は私たちに回心のそしてこのお恵みと、そして聖化のお恵みを誰にも与えて下さいます。これは人々の回心、あるいはある地域の回心、あるいは全国家が回心したというのを見る時に、マリア様が必ず仲介、介入している事が分かります。
グァダルーペのマリア様の介入によって御出現によって、南アメリカが全大陸がカトリック信仰を持つようになったという事は、マリア様がどれほど力強いか、という事を表しています。マリア様の仲介、介入によって、教会の敵であったラティスボンが回心した事も、本当にマリア様の力を表しています。マリア様の介入や仲介によって、罪人であった人、あるいは誤謬の暗闇の中にいた人が光を見出して、回心したというのを知ると、そのマリア様の力の介入の強さに驚きます。
キリスト教生活の最初のこの回心のお恵みだけでなく、その回心の後もずっと、聖化のお恵みをマリア様が私たちに下さる、という事も大きな驚きです。皆さんがよく知っている聖人たちの伝記を読んで下さい。それが皆さんの人生となるはずです。そして皆さんの人生をご覧下さい。どのように回心したか、皆さんはもしかしたらマリア様の仲介の直接のものをはっきりとご覧になる事はないかもしれません。なぜかというと、私たちは表面づらだけしか見る事ができなくて、その多くを見る事ができないからです。
「小野田神父のおかげでカトリックの信仰になりました」と言うかもしれません。でも小野田神父とは一体誰でしょうか?全く無です。なぜかというと、マリア様が小野田神父を送ったからです。もしもマリア様がいなければ、小野田神父が言った言葉は、右の耳から入って左からザッと抜けるだけしかないからです。もし耳から入って心の中に降りてきたとしたら、これは小野田神父ではなくてマリア様です。そしてその初めて心に来た時に、「あぁ、生活を改めなければならない」と思うのです。
小野田神父はこう口では「回心しなさい!」と叫ぶかもしれません。でもマリア様がなければ、「あぁ、それは難しい、大変だ」と言うしかありません。でもマリア様が力を与えて、「あぁ、その通りだ」と思わせるのです。マリア様が、「あぁ、頑張りなさい。さぁ、やりなさい」と力を与えてくれます。小野田神父はちょうどこのスピーカーと拡声器に過ぎません。私たちはそのようなものです。
回心した後には、「マリア様、本当にこの光の中に、信仰の光に導いて下さってありがとうございます。感謝します」と申し上げます。そうしなければなりません。昨日も今日もそして明日も、聖化の、ますます聖となるお恵みをマリア様から頂き続けているのです。ですから私たちは罪の痛悔をする事ができますし、良い告解をする事もできるようになります。より多くの熱心と愛を込めて、ミサに与る事もできるようにもなりますし、昔よりももっとよく隣人を愛する事ができるようになりますし、願わくば、ますます日々日々、より少なく怒りっぽくなる、そしてより少なくがっかりしたり、落胆したりしなくなります。
「マリア様は、」聖ベルナルドによれば、「お恵みの運河であって、そこをいつもお恵みが通る道であって、特に今ここでマリア様は私たちの為に運河となって、お恵みを下さっています。」
この後に、私たちの今話した事の実際の現実の適用が待っています。もしもマリア様がそのような事をいつもいつも私たちになさって下さっているのならば、私たちはマリア様に対してどのような返答をしなければならないのでしょうか?
もしもこの事を私が少しでも理解できたら本当に嬉しく思います。つまり、「私にあるどんな良い事であっても、私がする事ができるどんな良い事業であっても、それは実はマリア様から来て、マリア様を通して私においてする事ができた」という事が理解できたら。
私に起こっている事を見て下さい。フェレー司教様が総長様がやって来て、「あぁ、シュテーリン神父様はよくやっているな。偉大な業をしている。」「あぁ総長様、あぁそれはちょっとオーバーな言い方ですよ。」
「私はとても良い偉大な業をしたんだ」と私は満足するかもしれません。でもこれは本当の話ではありません、マリア様がして下さったのです。もしも私だったとしたら、もしも私がやったのでしたら、それは全くの大失敗で悲惨な結果に終わっていたに違いありません。
では私のこの貧しい頭の中に、どうしたらこの現実のこの事実を入れる事ができるでしょうか?
今から聖グリニョン・ド・モンフォールが私たちにそれを教えてくれます。これはもうちょっと後にその話が出てきます。まず、「マリア様の本当の役割が何か」という事をよく理解して下さい。まずここで確認した事が、「マリア様が私たちの回心、そして日々の聖化においてとても大切な役割を果たしている」という事です。
しかし第3の点があります。そしてこの第3の点を私たちはいつも忘れています。
ではこの最高の母が、全ての聖寵の仲介者であるマリア様が、どの瞬間に、いつ働きかけるのでしょうか?では母親が一体いつ、子供の方に向かって働いて、そして走り寄り、そして母親としての役割を果たすかを聞いて下さい。
それは、「子供が危険にさらされた時」です。
皆さんは全ての方々を愛しています。皆さんは日本の全ての霊魂の救いの為に祈っています。そして私たちは秋田の巡礼で、秋田教会に行きました。バスに戻ると女の子がいたのを覚えていますか?するとこの巡礼者の敬虔な聖なる女性の方々は、この女の子に悲しんでいる女の子の方に近寄って、「何とか助けてあげたい」と言って、その元に駆け寄って時間を費やして、何とかしようとしました。
マリア様にしても同じです。もしも小さな子供がもう倒れて、あるいはもう危険な状態にあったというのを見れば、すぐに駆け寄って、「何とかしよう」と助けようと走り寄って、一生懸命になります。
この事を今私たちが生きているこの現代に適用させなければなりません。キリスト教世界が今崩壊しようとして、今大きな危険に直面している時に、マリア様は立ち上がって、目覚めて立ち上がって走り寄って、何とかしてこれを救おうとされます。
聖人の生涯のみならず、私たち一人一人の生涯のみならず、全世界の生涯は、マリア様の驚くべき業を証明しています。これが教会の歴史、全歴史を形取っています。私たちの敵がますます危険化して、そしてこの終末の時代における現代、ますますこのマリア様が特に私たちを助けに来て下さっている、という事を強く記憶しなければなりません。
皆さん3つの、敵が増長する3つの日というのを知っていますか?これは過去の話でした、1517年と、1717年と、1917年と、この3つの時でした。もうこれについては何度もお話しましたので、もうこれ以上皆さんを困らせる事は致しません。この3つの時期を見て皆さんが記憶しなければならない事はこれです、「ますます敵が力を付ければ、敵がますます恐ろしくなればなるほど、天主様は、マリア様が立ち上がってその自分の力を発揮する事を望まれる」という事です。
この歴史の教訓としてこれを覚えて下さい、「皆さんが危ない時に、皆さんが危険にさらされた時には、マリア様はすぐに立ち上がって、皆さんを助けに来る」という事です。もしも敵がますます危険であって、あるいは皆さんが難しい状況に立ち置かれた時、あるいはもう助け手が誰もなくて、たった一人もう打ち捨てられて、もう一人ぼっちになってしまった時に、マリア様はすぐに立ち上がって、皆さんを助けに来て下さいます。
マリア様は現代ほど私たちの近くに来る事はありませんでした。なぜかというと、現代という時代が非常に危険な時代であるからです。問題はマリア様があまりにも遠くにいるという事ではありません、近くにいるのですから。そこで問題は「私たちの心が閉ざされている」という事です。問題は、ではどうやったら私たちの心をマリア様に開く事ができるか、あるいはマリア様に許可して、私を危険から救ってくれるようにする事ができるか、という事です。
これを聖グリニョン・ド・モンフォールが私たちに教えています。
提案をしてもよろしいでしょうか?今から22番から36番について黙想なさって下さる事はできるでしょうか?昼食後、少し時間が予定されています。私もそうしますけれども、ぜひ皆さんにですね、良いお昼寝をして頂きたいと思っています。そしてお昼を食べてですね、この休まったらですね、もう一度、1番から36番をもう1回お読みになって下さい。午後にですね、次のようなやり方で読んでみて下さい。
今は、今からは一語一語考えながら、黙想しながら読んで下さい。でも午後はですね、1番から36番までこうずっとこう読みながら、「あ!ここは」と思ったところでストップして下さい。そうすると、マリア様に対する素晴らしい近付きができる事ができます。