アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
独逸パルツハムの聖コンラード修士の伝記の続きをご紹介いたします。
【東京では8月12日の午後6時にミサが追加されました!】
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
+ + +
彼は如何なる仕事をも之を聖化するという術(すべ)を知っていた。最も卑しい働きも「天主の御名に由って」と云う射禱と共に一息毎に高き目的へと高められ運ばれて行った。「祈祷と労働」とが一つの流れに合流して流れ、そして、彼の働きと彼の全生涯とは間断(たえま)なき天主への讃美、天主への永続奉仕と化していたのであった。
聖務日課や共同で誦える口祷の貴いものであることを見たが、日中は務めのためそれ等の仲間入りをする事が出来なかった。それで非常な疲労を感じながらも、真夜中の朝課には生涯の最後の日まで一度も欠かさずに出席していた。これは大きな苦業であった。何故かと云うと、平常(ふだん)は十時前には決して床に就かない。時にはもっと遅るる事もあるので、玄関の呼鈴はやっと睡眠(ねむり)に入ったか入らないかの彼を呼び起こすことさえ稀でなかった。その上長年(ながねん)の間、朝課の後にはもう再び床に入らず、亡くなった修士達の墓のある聖堂の中で夜を祈り明していたが、長上(めうえ)から禁じられて止めた。
日中一寸(ちょっと)した暇がある時は、修院の階下の小部屋に身をかくして、其処から聖堂が見えるので、御聖体を拝礼していた。しかし彼は職務中にも決して祈りを止めなかった。彼と一緒に暮らした人々が度々見ることの出来た様に、どこにいても、部屋の中(うち)か外か、勤務中か休憩中を問わず、何處にあっても祈っていた。斯くして彼の生涯は絶え間なき祈祷(いのり)であった。
ギルベルト修士は彼に就いて次の様に語っている。「或日(あるひ)聖修士が夜更けに聖アレクシウスの聖堂の床に倒れているのを見た。眠さと過労の為め疲れに負けてしまったのであった。後日(ごじつ)他(ほか)の修士が彼に頭の傷はどこで作(こしら)えたのかと訊ねると、彼は正直に眠って倒れたのだと答えた。
何處でもいつも熱心ではあったが、彼が特に好む場所があった。それは聖アレクシウスの小部屋と、地下室に在る亡くなった修士等の墓、憐れみの聖母の像のある聖堂、血の流れているキリストの十字架のある自分の小部屋、殊に聖母に捧げられた聖堂が一番好きであった。すべて是等の場所は皆、彼の熱心な祈を直接目撃していたのであるから、言葉あらば、それについて多くを語り得たであろう。
彼は又特別の愛情を込めてご苦難の救い主を尊敬し奉っていた。毎日十字架の道行を為し、こう書いている、「十字架は私の書物である。十字架を一目見ると私が瞬間毎に如何に振舞うべきかを教えて下さる。其処で、私は、万事(すべてのこと)が十字架によって忍耐強く謙遜になれることを学びます。そして苦しみが却って甘美にそして軽く感じられるまでになります。」
祈祷(いのり)と労働(はたらき)と苦しみとが41年余りの聖コンラードの修道生活を満たした。間もなく彼の休みの時を告げる天のラッパが聞こえるであろう。
75歳の時、突然重い病にかかった。皆は彼の死を予感したので、彼が病床から聖堂の聖母の祭壇を見ることの出来る様にと他の小部屋に病室を移した。苦痛が酷いにも拘(かかわ)らず彼の顔には常に喜びが溢れていた。
最後が又、実に立派なものであった。歓喜(よろこび)に満たされた、幸福な最後であった。
彼の愛する聖母(みはは)の御像から目を離したかと思うと、彼は其の時から永久に彼の御やさしき聖母と再び一緒に在ることが出来たのである。時は1894年4月24日であった。
1934年の聖霊降臨の大祝日に、永遠の都ローマに於いて、聖なるコンラード修士の荘厳なる列聖式が執行(とりおこな)われた。(終了)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
重大な苦難に際して 聖修士コンラードの助けを求むる祈
聖なるコンラード修士よ、御身は聖にして犠牲に充ちたる生活によりて、今永久に、天(あま)つ故郷(ふるさと)にて、天主の御(み)すがたを目前(まのあたり)に見奉りて楽しみ給ふ。又、栄光(さかえ)の冠は天使の群の中に、御身の徳の報(むくい)として御身の上に在るなり。御身は我等すべての信者等より愛され給ふ。我等の中(うち)、多くの者は、御身の取次の功力(くりき)に、大いなる信頼を置き、既に彼等の祈祷(いのり)の聞き入れられしこと数多し。故に最(いと)も善良なるコンラード修士よ、我が此の重大なる困難に当(あた)りて我を顧み、憐み深き天主の玉座の御前にて我が為に取次ぎ給へ。御身が嘗(かつ)て此の世に在りし時、総べての必要応じて、出来得(できう)る限り、人々を助け、慰め、励ますことを以て、御身の唯一の喜びと為し給ひしを思い給へ。天国にても御身の特性は変る事なく、却って御身の愛徳が愛そのものにて在(ましま)す御者と一致し給ふが故に、我等に対する愛の理解力も情(なさけ)も弥(いや)勝(まさ)るなり。イエズスの御許にて我が為に取次ぎ給へ。御身は救主(すくいぬし)の御苦難を最(いと)もやさしき情(こころ)もて敬ひ、又御聖体の中の聖主(みあるじ)への訪(おとづ)れは地上に於ける御身の楽園なりしなり。イエズスは御身の願(ねがひ)を決して軽んじ給ふことなかるべし。聖母は尚のことなり。何故なれば御身は聖母の忠実なる僕にて在りしが故なり。聖母は御身の願に御自らの願をも合せ給ふ。然(しか)れど我は、総べてに於て只管(ひたすら)主の御思召(おんおぼしめし)のみを望み主の聖心を喜ばせ参せし御身の愛と忠実さとを以て、主の御旨に我が身を委(まか)せ参らせむと望み奉る。されど現在(いま)の我が苦難(くるしみ)に当りて、我は必ずや御身の助けと慰めとを受け得(そ)むことを信じ且つそを希望し奉る。我は主の御掟(おんおきて)を己(おの)が行為(おこない)の鑑(かがみ)と為す眞(まこと)のキリスト信者の生活を営みて御身に感謝を表し度(た)き心なり。聖コンラード修士よ、我は我が苦しみに於て御身が我が助け手となり給はんことを御身に希(こいねが)ひ奉る。
主禱文………………
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
苦難に於て忍耐を得るための祈
十字架にかかり給へる救主(すくいぬし)よ、主は御身の僕コンラードに、聖なる十字架の玄義を表し給へり。この貴き十字架こそは彼が忍耐、謙遜及び総べての徳を学びし彼の書物なりしなり。我にも彼の取次によりて十字架の聖(とうと)さを知り、これを愛し、忍耐もて我が罪の償(つぐのひ)となし、生涯の苦難を甘んじて堪へ忍ぶやう誨(おし)へ給はん事を、偏(ひとへ)に希(こいねが)い奉る。
主禱文………………
聖コンラード修士に対する九日間の祈
最(いと)もやさしき聖コンラード修士よ、我は御身と共に天主の御霊威を恭しく礼拝し奉る。主の御慈悲が御身が現世(このよ)に在(いま)しし間に惠み給へる数々の御恩寵と死後に与え給ひし永遠の光栄(さかえ)とを心より慶び奉る。又、我は御身に切に願ひ奉る。我にも聖なる生涯及び幸福(さいわい)なる死の惠を得しめ給はんことを。聖主(みあるじ)は御身の御取次によりて此の願を必ずきき入れ給はんと信ずるが故に、我は今、此の難儀(なんぎ)に際して御身によりすがり奉る。然(さ)れど此の願(ねがい)の天主の御光栄(みさかえ)と我が霊魂に障害(さまたげ)となるものならば、希(こひねが)はくは我が救霊(たすかり)に適ふべき他の惠を与え給はん事を。
(この祈りは毎日其日の祈に合せて誦へる)
第一日目
聖なる修士よ、御身は幼き時より天主をよろこばせ奉れり。そは天主が御身を母の胎内より特に選み給ひしが故なり。我は天主の此の御身に対する御寵愛を喜び、御身と共に主に感謝し奉る。而して御身の聖徳の功力によりて、我にも此の選まれし者の中に属する惠を得しめ給はん事を偏(ひとへ)に希(こいねが)い奉る。聖主(みあるじ)よ、主の僕(しもべ)聖コンラード修士を重んじて今我が願ふ祈をきき入れ給へ。我自らの徳には頼り得ざれば彼(か)の聖なる修士の懇願に依りて我を助け給はんことを希願(こいねが)ひ奉る。
第二日目
諸徳の泉、清き霊魂に愛され給ふ御者、且(かつ)悪魔の最(いと)も強き勝利者に在(ましま)すイエズスよ、いと弱き我に御憐みの眼(まなこ)を注ぎ給へ。聖母及び主の僕聖コンラードの御取次によりて、罪悪(つみ)の快楽(たのしみ)を軽んじ、天上の富を愛せん為め、御身の惠を与え給へ。我をして犯せる罪を深く悔み、誘惑(いざない)に打ち勝ち、徳の道を歩み、終まで忠実に堪え忍ばしめ給はん事を只管(ひたすら)に希願(こいねが)ひ奉る。
第三日目
嗚呼(ああ)天主、独り御身をのみ愛せんとの正しき意向(こころあて)を我が心の中(うち)に見給ふ上智・賢明に在(ましま)す主よ、我れ偏(ひとへ)に希(こいねが)くは、聖コンラードの取次によりて、我をして常に又総べてに於て、主の聖旨(みむね)を悟らしめ、雄々しき心もて之を完(まった)うし、以て主の御光栄(みさかえ)を挙げ、我が救霊(たすかり)を成就し、主の聖旨(みむね)を忠実に果す者に約束せさせ給ひし天国の永福を得しめ給はんことを。
第四日目
嗚呼(ああ)主よ、我が生命(いのち)は例へ如何なる境遇にあろうとも常に御身のものなり。然(さ)れば我れ聖コンラードと共に言わん、「主よ我は御身の僕とならん」と。而して主が我に与え給ふもの或(あるひ)は人々が我に為す総べては御身の御業(みわざ)、御身が斯く為すべく許し給ふ事なりと常に考へんと欲す。主よ聖コンラードの心を我に与え給へ。主よ、御身が彼に求め給ひし総べての犠牲を捧げつくせし彼の寛大なる心、困難に際して挫けざる雄々しき心、且つ有害なる情欲の何物にも繋がれざる自由なる心を、我にも与え給はんことを切に希願(こいねが)ひ奉る。
第五日目
聖コンラードよ、御身は幼き時より心の清浄無垢を保たれしに尚も苦業・犠牲・自己放棄の厳しき道を歩め
り。これ我にとりて最(い)と善き模範にこそ。そは天主、我にも犠牲を求め給へばなり。主は我に主の十字架を下し、我が情欲の苦き盃(さかづき)を飲ましめんとて其を与え給ふ。然れば聖コンラードよ、我をも、御身に倣いて、苦業と自己放棄の峻(けわ)しき道を雄々しく犠牲心もて歩ましめ、我を助けて此の惠を得しめ給へ。
第六日目
最(いと)も愛すべき聖母(みはは)マリア、御身はいと汚れなく、上智なる天主の宿らせ給ふ生(い)ける聖櫃に在(ましま)し給ふ。めでたき哉(かな)天地の元后よ、御身の忠実なる僕(しもべ)聖コンラードの取次によりて我にも眞(まこと)の上智を与え給はんことを御身に願い奉る。
御身が愛し、教え、導き、育て、護(まも)り給ふ御身の特に愛し給ふ子供の中(うち)に我をも加え給へ。そは聖なるコンラードの如く御身を見出すは、生命(いのち)、超自然の聖寵の生命(せいめい)、完全なるキリスト教的生命(せいめい)、又、天の諸聖人等の生命(せいめい)を見出すことなればなり。
第七日目
聖コンラードよ、御身は統べての犠牲と困難に際し、御身の務(つとめ)を忠実に果さん為に聖体のイエズスの中に力と勇気とを求められたり。十字架への一瞥(いちべつ)、ミサ聖祭、聖体拝領、之等(これら)又、御身が一切の苦しみを和(やわら)げたり。我も御身の模範(かがみ)に倣いて、イエズスを御身が愛せし如く深く愛せしめ給へ、十字架を観想し聖体を敬い尊ぶところに、我が唯一の慰安(なぐさめ)と扶助(たすけ)とを見出すことを教へ給はん事を希(こいねが)い奉る。
第八日目
聖コンラードよ、我をして幸(こう)にも不幸(ふこう)にも、悩みにも喜びにも、我が心に天主への愛の焔(ほのお)を燃(もや)さしめ給へとの我が祈を、御身は必ずきき入れ給ふべきを我は信ず。今日(こんにち)よりは我が聖主(みあるじ)の愛より何物も我を引き離す事あらざるべし。この地上の苦難に於て、「天主を愛する者にとりては、総べて益ならざるは無し」との言葉の幸(さち)を味はしめ給へ。嗚呼(ああ)、天主をのみ愛せば最早(もはや)我を害する何物も在らじ。そは総べては我にとりて善に化すべければなり。如何に頼もしき事ならずや。
第九日目
聖コンラードよ、我にとりて最上(さいじょう)の惠(めぐみ)は死に至るまで忠実に堪へしのぶ恩寵(めぐみ)なり。そは天主は最後まで熱心に保つ者にのみ永遠の生命(いのち)の冠を与えんと約束し給へばなり。御身はこの世にて堪えさる心戦と熱心なる祈とによりて光栄(さかえ)の冠をば獲得し給へり。然れば我が生命(いのち)の流転の中に我をも励(はげま)し、特に今乞い願ふ所の惠(めぐみ)を得しめ給へかし。我をして常に罪を避け、一生涯、死に至るまで、天主に忠実に仕え奉らしめ給はん事を偏(ひとえ)に祈り奉る。
(をはり)
愛する兄弟姉妹の皆様、
独逸パルツハムの聖コンラード修士の伝記の続きをご紹介いたします。
【東京では8月12日の午後6時にミサが追加されました!】
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
+ + +
彼は如何なる仕事をも之を聖化するという術(すべ)を知っていた。最も卑しい働きも「天主の御名に由って」と云う射禱と共に一息毎に高き目的へと高められ運ばれて行った。「祈祷と労働」とが一つの流れに合流して流れ、そして、彼の働きと彼の全生涯とは間断(たえま)なき天主への讃美、天主への永続奉仕と化していたのであった。
聖務日課や共同で誦える口祷の貴いものであることを見たが、日中は務めのためそれ等の仲間入りをする事が出来なかった。それで非常な疲労を感じながらも、真夜中の朝課には生涯の最後の日まで一度も欠かさずに出席していた。これは大きな苦業であった。何故かと云うと、平常(ふだん)は十時前には決して床に就かない。時にはもっと遅るる事もあるので、玄関の呼鈴はやっと睡眠(ねむり)に入ったか入らないかの彼を呼び起こすことさえ稀でなかった。その上長年(ながねん)の間、朝課の後にはもう再び床に入らず、亡くなった修士達の墓のある聖堂の中で夜を祈り明していたが、長上(めうえ)から禁じられて止めた。
日中一寸(ちょっと)した暇がある時は、修院の階下の小部屋に身をかくして、其処から聖堂が見えるので、御聖体を拝礼していた。しかし彼は職務中にも決して祈りを止めなかった。彼と一緒に暮らした人々が度々見ることの出来た様に、どこにいても、部屋の中(うち)か外か、勤務中か休憩中を問わず、何處にあっても祈っていた。斯くして彼の生涯は絶え間なき祈祷(いのり)であった。
ギルベルト修士は彼に就いて次の様に語っている。「或日(あるひ)聖修士が夜更けに聖アレクシウスの聖堂の床に倒れているのを見た。眠さと過労の為め疲れに負けてしまったのであった。後日(ごじつ)他(ほか)の修士が彼に頭の傷はどこで作(こしら)えたのかと訊ねると、彼は正直に眠って倒れたのだと答えた。
何處でもいつも熱心ではあったが、彼が特に好む場所があった。それは聖アレクシウスの小部屋と、地下室に在る亡くなった修士等の墓、憐れみの聖母の像のある聖堂、血の流れているキリストの十字架のある自分の小部屋、殊に聖母に捧げられた聖堂が一番好きであった。すべて是等の場所は皆、彼の熱心な祈を直接目撃していたのであるから、言葉あらば、それについて多くを語り得たであろう。
彼は又特別の愛情を込めてご苦難の救い主を尊敬し奉っていた。毎日十字架の道行を為し、こう書いている、「十字架は私の書物である。十字架を一目見ると私が瞬間毎に如何に振舞うべきかを教えて下さる。其処で、私は、万事(すべてのこと)が十字架によって忍耐強く謙遜になれることを学びます。そして苦しみが却って甘美にそして軽く感じられるまでになります。」
祈祷(いのり)と労働(はたらき)と苦しみとが41年余りの聖コンラードの修道生活を満たした。間もなく彼の休みの時を告げる天のラッパが聞こえるであろう。
75歳の時、突然重い病にかかった。皆は彼の死を予感したので、彼が病床から聖堂の聖母の祭壇を見ることの出来る様にと他の小部屋に病室を移した。苦痛が酷いにも拘(かかわ)らず彼の顔には常に喜びが溢れていた。
最後が又、実に立派なものであった。歓喜(よろこび)に満たされた、幸福な最後であった。
彼の愛する聖母(みはは)の御像から目を離したかと思うと、彼は其の時から永久に彼の御やさしき聖母と再び一緒に在ることが出来たのである。時は1894年4月24日であった。
1934年の聖霊降臨の大祝日に、永遠の都ローマに於いて、聖なるコンラード修士の荘厳なる列聖式が執行(とりおこな)われた。(終了)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
重大な苦難に際して 聖修士コンラードの助けを求むる祈
聖なるコンラード修士よ、御身は聖にして犠牲に充ちたる生活によりて、今永久に、天(あま)つ故郷(ふるさと)にて、天主の御(み)すがたを目前(まのあたり)に見奉りて楽しみ給ふ。又、栄光(さかえ)の冠は天使の群の中に、御身の徳の報(むくい)として御身の上に在るなり。御身は我等すべての信者等より愛され給ふ。我等の中(うち)、多くの者は、御身の取次の功力(くりき)に、大いなる信頼を置き、既に彼等の祈祷(いのり)の聞き入れられしこと数多し。故に最(いと)も善良なるコンラード修士よ、我が此の重大なる困難に当(あた)りて我を顧み、憐み深き天主の玉座の御前にて我が為に取次ぎ給へ。御身が嘗(かつ)て此の世に在りし時、総べての必要応じて、出来得(できう)る限り、人々を助け、慰め、励ますことを以て、御身の唯一の喜びと為し給ひしを思い給へ。天国にても御身の特性は変る事なく、却って御身の愛徳が愛そのものにて在(ましま)す御者と一致し給ふが故に、我等に対する愛の理解力も情(なさけ)も弥(いや)勝(まさ)るなり。イエズスの御許にて我が為に取次ぎ給へ。御身は救主(すくいぬし)の御苦難を最(いと)もやさしき情(こころ)もて敬ひ、又御聖体の中の聖主(みあるじ)への訪(おとづ)れは地上に於ける御身の楽園なりしなり。イエズスは御身の願(ねがひ)を決して軽んじ給ふことなかるべし。聖母は尚のことなり。何故なれば御身は聖母の忠実なる僕にて在りしが故なり。聖母は御身の願に御自らの願をも合せ給ふ。然(しか)れど我は、総べてに於て只管(ひたすら)主の御思召(おんおぼしめし)のみを望み主の聖心を喜ばせ参せし御身の愛と忠実さとを以て、主の御旨に我が身を委(まか)せ参らせむと望み奉る。されど現在(いま)の我が苦難(くるしみ)に当りて、我は必ずや御身の助けと慰めとを受け得(そ)むことを信じ且つそを希望し奉る。我は主の御掟(おんおきて)を己(おの)が行為(おこない)の鑑(かがみ)と為す眞(まこと)のキリスト信者の生活を営みて御身に感謝を表し度(た)き心なり。聖コンラード修士よ、我は我が苦しみに於て御身が我が助け手となり給はんことを御身に希(こいねが)ひ奉る。
主禱文………………
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
苦難に於て忍耐を得るための祈
十字架にかかり給へる救主(すくいぬし)よ、主は御身の僕コンラードに、聖なる十字架の玄義を表し給へり。この貴き十字架こそは彼が忍耐、謙遜及び総べての徳を学びし彼の書物なりしなり。我にも彼の取次によりて十字架の聖(とうと)さを知り、これを愛し、忍耐もて我が罪の償(つぐのひ)となし、生涯の苦難を甘んじて堪へ忍ぶやう誨(おし)へ給はん事を、偏(ひとへ)に希(こいねが)い奉る。
主禱文………………
聖コンラード修士に対する九日間の祈
最(いと)もやさしき聖コンラード修士よ、我は御身と共に天主の御霊威を恭しく礼拝し奉る。主の御慈悲が御身が現世(このよ)に在(いま)しし間に惠み給へる数々の御恩寵と死後に与え給ひし永遠の光栄(さかえ)とを心より慶び奉る。又、我は御身に切に願ひ奉る。我にも聖なる生涯及び幸福(さいわい)なる死の惠を得しめ給はんことを。聖主(みあるじ)は御身の御取次によりて此の願を必ずきき入れ給はんと信ずるが故に、我は今、此の難儀(なんぎ)に際して御身によりすがり奉る。然(さ)れど此の願(ねがい)の天主の御光栄(みさかえ)と我が霊魂に障害(さまたげ)となるものならば、希(こひねが)はくは我が救霊(たすかり)に適ふべき他の惠を与え給はん事を。
(この祈りは毎日其日の祈に合せて誦へる)
第一日目
聖なる修士よ、御身は幼き時より天主をよろこばせ奉れり。そは天主が御身を母の胎内より特に選み給ひしが故なり。我は天主の此の御身に対する御寵愛を喜び、御身と共に主に感謝し奉る。而して御身の聖徳の功力によりて、我にも此の選まれし者の中に属する惠を得しめ給はん事を偏(ひとへ)に希(こいねが)い奉る。聖主(みあるじ)よ、主の僕(しもべ)聖コンラード修士を重んじて今我が願ふ祈をきき入れ給へ。我自らの徳には頼り得ざれば彼(か)の聖なる修士の懇願に依りて我を助け給はんことを希願(こいねが)ひ奉る。
第二日目
諸徳の泉、清き霊魂に愛され給ふ御者、且(かつ)悪魔の最(いと)も強き勝利者に在(ましま)すイエズスよ、いと弱き我に御憐みの眼(まなこ)を注ぎ給へ。聖母及び主の僕聖コンラードの御取次によりて、罪悪(つみ)の快楽(たのしみ)を軽んじ、天上の富を愛せん為め、御身の惠を与え給へ。我をして犯せる罪を深く悔み、誘惑(いざない)に打ち勝ち、徳の道を歩み、終まで忠実に堪え忍ばしめ給はん事を只管(ひたすら)に希願(こいねが)ひ奉る。
第三日目
嗚呼(ああ)天主、独り御身をのみ愛せんとの正しき意向(こころあて)を我が心の中(うち)に見給ふ上智・賢明に在(ましま)す主よ、我れ偏(ひとへ)に希(こいねが)くは、聖コンラードの取次によりて、我をして常に又総べてに於て、主の聖旨(みむね)を悟らしめ、雄々しき心もて之を完(まった)うし、以て主の御光栄(みさかえ)を挙げ、我が救霊(たすかり)を成就し、主の聖旨(みむね)を忠実に果す者に約束せさせ給ひし天国の永福を得しめ給はんことを。
第四日目
嗚呼(ああ)主よ、我が生命(いのち)は例へ如何なる境遇にあろうとも常に御身のものなり。然(さ)れば我れ聖コンラードと共に言わん、「主よ我は御身の僕とならん」と。而して主が我に与え給ふもの或(あるひ)は人々が我に為す総べては御身の御業(みわざ)、御身が斯く為すべく許し給ふ事なりと常に考へんと欲す。主よ聖コンラードの心を我に与え給へ。主よ、御身が彼に求め給ひし総べての犠牲を捧げつくせし彼の寛大なる心、困難に際して挫けざる雄々しき心、且つ有害なる情欲の何物にも繋がれざる自由なる心を、我にも与え給はんことを切に希願(こいねが)ひ奉る。
第五日目
聖コンラードよ、御身は幼き時より心の清浄無垢を保たれしに尚も苦業・犠牲・自己放棄の厳しき道を歩め
り。これ我にとりて最(い)と善き模範にこそ。そは天主、我にも犠牲を求め給へばなり。主は我に主の十字架を下し、我が情欲の苦き盃(さかづき)を飲ましめんとて其を与え給ふ。然れば聖コンラードよ、我をも、御身に倣いて、苦業と自己放棄の峻(けわ)しき道を雄々しく犠牲心もて歩ましめ、我を助けて此の惠を得しめ給へ。
第六日目
最(いと)も愛すべき聖母(みはは)マリア、御身はいと汚れなく、上智なる天主の宿らせ給ふ生(い)ける聖櫃に在(ましま)し給ふ。めでたき哉(かな)天地の元后よ、御身の忠実なる僕(しもべ)聖コンラードの取次によりて我にも眞(まこと)の上智を与え給はんことを御身に願い奉る。
御身が愛し、教え、導き、育て、護(まも)り給ふ御身の特に愛し給ふ子供の中(うち)に我をも加え給へ。そは聖なるコンラードの如く御身を見出すは、生命(いのち)、超自然の聖寵の生命(せいめい)、完全なるキリスト教的生命(せいめい)、又、天の諸聖人等の生命(せいめい)を見出すことなればなり。
第七日目
聖コンラードよ、御身は統べての犠牲と困難に際し、御身の務(つとめ)を忠実に果さん為に聖体のイエズスの中に力と勇気とを求められたり。十字架への一瞥(いちべつ)、ミサ聖祭、聖体拝領、之等(これら)又、御身が一切の苦しみを和(やわら)げたり。我も御身の模範(かがみ)に倣いて、イエズスを御身が愛せし如く深く愛せしめ給へ、十字架を観想し聖体を敬い尊ぶところに、我が唯一の慰安(なぐさめ)と扶助(たすけ)とを見出すことを教へ給はん事を希(こいねが)い奉る。
第八日目
聖コンラードよ、我をして幸(こう)にも不幸(ふこう)にも、悩みにも喜びにも、我が心に天主への愛の焔(ほのお)を燃(もや)さしめ給へとの我が祈を、御身は必ずきき入れ給ふべきを我は信ず。今日(こんにち)よりは我が聖主(みあるじ)の愛より何物も我を引き離す事あらざるべし。この地上の苦難に於て、「天主を愛する者にとりては、総べて益ならざるは無し」との言葉の幸(さち)を味はしめ給へ。嗚呼(ああ)、天主をのみ愛せば最早(もはや)我を害する何物も在らじ。そは総べては我にとりて善に化すべければなり。如何に頼もしき事ならずや。
第九日目
聖コンラードよ、我にとりて最上(さいじょう)の惠(めぐみ)は死に至るまで忠実に堪へしのぶ恩寵(めぐみ)なり。そは天主は最後まで熱心に保つ者にのみ永遠の生命(いのち)の冠を与えんと約束し給へばなり。御身はこの世にて堪えさる心戦と熱心なる祈とによりて光栄(さかえ)の冠をば獲得し給へり。然れば我が生命(いのち)の流転の中に我をも励(はげま)し、特に今乞い願ふ所の惠(めぐみ)を得しめ給へかし。我をして常に罪を避け、一生涯、死に至るまで、天主に忠実に仕え奉らしめ給はん事を偏(ひとえ)に祈り奉る。
(をはり)