2018年6月1日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2018年6月1日、イエズス様の聖心の聖なる月、6月の初金のミサをしています。
今日は御ミサの後に、いつものように初金の聖時間を行ないましょう。明日は初土のミサがあります、10時半からです。そして次のミサは、6月の第2主日の10日・11日、それから15日・16日にミサがあります。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、イエズス様の聖なる、至聖なる聖心の6月、この初金を祝うにあたって、この1ヶ月、イエズス様の聖心の信心の一番大切なものは、何が一番大切な事か、という事を黙想致しましょう。
私たちはこのイエズス様の聖心を考えるに黙想するにあたって、何がイエズス様から求められているか、これをぜひ理解して下さい。そしてこの1ヶ月、その黙想をなさって下さい。それは、「イエズス様が私たちを愛しておられる。イエズス様の聖心というのは、愛だ。そしてイエズス様は私たちに愛を求めている。」これを理解して下さい。
今年の8月11日の山の日から15日の聖母被昇天まで、また去年のように小黙想会をする事を提案します。そして今年はマリア様の、ファチマのマリア様を黙想した後に、マリア様を通してイエズス様の至聖なる聖心を黙想する事を提案します。8月のこの聖母被昇天までの小黙想会は、イエズス様の聖心の小黙想会を致しましょう。
“Credidimus Caritati.”
「私たちは天主の愛を信じた。」
「天主は愛である」と聖ヨハネは言います。天主は1つの事を、いつも思っています。“Cogitationes Cor dis ejus in generatione et generationem.”聖心の思いは、代々に至って1つの事を考えています。それは「愛」です。
天主聖父、聖子、聖霊、三位一体は、これは愛する天主です。天主の愛の、三位一体は愛の構造を持っています。
天主聖父は聖子を愛し、聖子は聖父を愛し、その相互の愛の交流は聖霊となって、聖霊は聖父と聖子を愛し、聖父は聖子と聖霊を愛し、聖子は聖父と聖霊を愛し、この三位一体は相互に完全な愛を以て愛し、愛し返されています。天主の、永遠から永遠の将来に至るまでなさる事は、「愛する」という事です。
天主は私たちを愛によって、純粋な愛によって創造されました。カトリック教会の本質、最も大切な点というのはここにあります。イエズス様の至聖なる聖心に対する信心というのも、カトリック教会のこの核心と全く1つです、同じです、同一です。それは何かというと、カトリック教会の全ての宗教は私たちに、「『天主が愛である』という事を信じよ、信じなさい」と教えています。
その愛、天主が愛であるという事を、その多くの証拠を以て、あれでもか、これでもかという証拠を以て、「これを信じるように、この事実を認めるように。そして天主が愛であるという事を、抽象的な概念のみならず、天主は私たちを具体的に、永遠の昔から永遠の未来に至るまで、私たちを愛しておられる。私たち一人ひとりを全てを愛しておられる、という事を信じよ。」イエズス様の聖心への信心とカトリックの宗教は、これを求めています。
それと、「ただ単に信仰を頭で信じるのみならず、その愛を信じた私たちは、その愛を愛で以て、全てに超えて天主を愛する、イエズス様の聖心を愛する。」これにあります。ここに、イエズス様の至聖なる聖心への信心があります。カトリック教会の本質があります。
これはもう何度も同じ事を聞かされているので、皆さんの耳にタコができているのは知っていますが、天主様の人類に対する態度、そのなさった全ての御業というのは、たった1つの言葉によって表されます、「人類を愛し、愛し尽くした」という事です。
人類が天主様に対してしたその言葉は、その態度は、これには長い話があります。あれでもか、これでもか、これでも足りない、これでも足りない、という長い長い長い長い長い、裏切りと、拒絶と、冷淡と、無関心と、憎しみと、反抗と、逆らいの歴史がありました。
天主は愛をもって人類を創りました。無から創造して、御自分の永遠の無限の喜びと幸せを与えようと、愛をもって創りました。ただ純粋に、天主様が良い方であり、愛に満ちた方であり、その愛を私たちに分け与えたい、と思ったからでした。私たちを創造して何ら得るところも、またより良くなるところもありません。私たちを純粋に、幸せにさせたい、無から有るへと導き出して、永遠の命を与えようとされました。
それに対する人類の答えは、「No!」「嫌だ!」拒否、従うのを拒んだ事でした。
それに対する天主の答えは何だったでしょうか?天主はこの創造の時に与えて下さった愛を、更に超える愛をもって答えました。
天主聖父は、聖子を私たちの身代わりに、私たちの元に送られました。天主は人となって、私たちの内に住み給いました。「聖父は聖子を与えるほどこの世を愛された。ここに天主の愛がある」と聖ヨハネは言っています。
天主の愛は、聖子が天主が人となっただけでは満足しませんでした。本当なら、もう天主が人となっただけで天主がどれほど私たちを愛して下さっているか、というのを知るに十分すぎるほど十分でした。これ以上何の証拠が必要でしょうか。
しかし、それをも越えて更に天主聖子は、私たちを愛するがあまり、その愛の極みに、自分の命さえも投げ出しました。十字架の上に架かって、ぐちゃぐちゃになって、傷だらけになった、ボロボロになったこの御体、御血を流し尽くして、そして茨の冠を被せられて、鞭で打たれて、傷だらけになって、私たちの方をご覧になっている御姿は、私たちに何を訴えているかというと、「愛しているよ。」「極みまで愛している。」人類に対するこの天主の愛を表す、それ以外の何ものでもありませんでした。
イエズス様のこの地上での語った御言葉は、愛の御言葉でした。愛の御教えでした。天主がどれほど私たちを愛して下さっているか、という事の証明でした。イエズス様の行なった全生涯の模範と、そして特に御受難は、天主の愛の神秘を、私たちをどこまで愛しておられるか、という事を雄弁に語っています。
天主がイエズス様の聖心が、この槍にて貫かされた、私たちの為に開かれた聖心が、私たちをどれほど愛して、私たちからどれほどの愛を求めているか、という事を訴えています。このイエズス様が天主が人となって、私たちの為に生まれて、苦しまれた事、これだけでもう十分でした。天主の愛を信じるには十分すぎるほどでした。一体そのような愛の極致を見て、誰が天主を愛する事を拒む事ができたでしょうか。
しかしイエズス様の愛は、狂気まで、愛の狂気の沙汰にまで、正気を失ってしまったかのような程度にまで、私たちを愛し尽くします。ただ天主が「愛している」とイエズス様は仰るのみならず、自分の命を与えるのみならず、更に全てを与え尽くそうとされました。
聖霊降臨、天主の愛それ自身私たちのものに、全く私たちのものとして与えられたのみならず、イエズス様御自身の御体が、私たちに食べ物として与えられました。イエズス様が3年間の使徒職の終わりに、この世を去らなければならないという時が来た時に、聖父の元に帰らなければならないその時に、この弟子たちを見て、愛するがあまり、その彼らの事を思うがあまり、イエズス様は仰います、「心配するな。天主を信じ、私を信じなさい。私はお前たちを決して孤児にはしない。私はお前の元に来る。」
イエズス様は私たちの元に、聖寵をもって恩寵をもって聖霊を送る事によって、私たちの元に来ようとしました。聖父がイエズス様の御名において送る聖霊をもって、私たちの元に留まろうとしました。
それのみならず、御自身を本当に食べ物として、私たちの元に残し、私たちの元にこの世の終わりまで、パンの外見の元に留まろうと望まれました。
「慰め主なる聖霊が来る時、聖父が私の名によって送られるその霊が来る時、聖霊はお前たちに全ての事を教えるだろう。だから決して心を騒がしてはいけない、恐れてはいけない。聖父が私を愛したように、私もお前たちを愛している。私はお前たちを愛した。」最後の晩餐のイエズス様の言葉は、愛と憐れみと、私たちに対する優しさで充ち満ちています。
天主様のこの全能の、その愛に満ちた全能、その愛に満ちた智恵の深さ、そしてその優しさとその充ち満てる慈愛、憐れみ深さは、私たちの理解をはるかに超えています。
天主様が1回十字架の上で、私たちの為に、私たちの身代わりに、御血潮を流されて聖父に捧げられて、そして天国の栄光を受けてそれで十分ではなかったのでしょうか?いえ、イエズス様は私たちの為に、日々、毎瞬間、御聖体という形で屠られるという事を御望みになりました。永遠の犠牲を、いけにえとなる事を望みました。
その昔旧約時代では、その前表としてメルキセデクが、エルサレムの大司祭メルキセデクが、パンとぶどう酒を天主に捧げました。そのメルキセデクの司祭職であるイエズス様は、最高の大司祭として、最も権威のある、荘厳な、威厳のある唯一の大司祭として、そして同時に天主の子羊として、御自分をパンとしてぶどう酒として、御自身の御体と御血を捧げました。
旧約の時代には、聖マラキアの預言によると、「日の昇る所から日の沈む所まで、あらゆる所で、天主の御名に浄いいけにえが捧げられるだろう。」まさに真っ白いイエズス様の汚れのないホスチア、イエズス・キリストの御体こそ、預言された天主の御名を讃美する為のいけにえでした。
その御聖体が私たちに与えられました。イエズス・キリストの御体、御聖体が与えられました。「天主は私たちと共に在す。」エンマヌエル。「天主は愛である。」イエズス・キリストの聖心は私たちに、この御聖体の内に留まり給うのです。イエズス様の愛はこの御聖体の内に、愛熱の燃える竈を以て轟々と燃えて、私たちを愛し、愛の眼差しを以て見つめています。
御聖体の中には、イエズス様の御体と、御血と、御霊魂と、御神性、イエズス・キリストの人間の本性と天主の本性が、キリストの、天主の第2のペルソナにおいて結合した、その全てが含まれています。
毎日、私たちの祭壇の上で、私たちの罪のいけにえとして屠られる、自発的に喜んで屠られるイエズス様、世界中で屠られているイエズス様が、私たちに与えられました。人間の、私たちの日々の糧として、食物として、霊的な糧として、私たちが永遠の旅に行く為の力をつける為の糧として、与えられました。私たちの霊魂がいつも浄められる為に、御血が与えられました。
この御聖体の中に全ての祝福が、祝福の全ての御恵みの創り主である天主御自身がいらっしゃいます。この御聖体の中に、全ての贖いの功徳、救いの恵み、永遠の命が入っています。
人間はどれほど愛された、祝福された特権を持った存在であるでしょうか。天使たちでさえこのような特権を持ってはいません。人間にどれほどの功徳があったというのでしょうか。人間に対するイエズス・キリストの愛、その憐れみの深さ、その愛の広さと、その長さと、その深みと、その高さは、私たちの想像をはるかに超えています。永遠を以ても感謝しても、感謝するに不足しています。御聖体、イエズス・キリストが私たちに与えられました。
愛する兄弟の皆さん、どうぞ今日、イエズス様の至聖なる聖心の聖なる月を始めるにあたって、喜んで下さい、イエズス様に感謝なさって下さい。天主はイエズス・キリストは、私たちと共に在す、イエズス様は私たちのものです。イエズス様は全く私たちをその愛熱の火をもって愛しておられます。イエズス様御自分を全く私たちに与え尽くしています。私たちの為にいけにえとなって、御自分を捧げ尽くしています。
どうぞイエズス様の元にいらして下さい。イエズス様は仰います、「苦しむ者よ、渇ける者、重荷を担う者よ、我が元に来い。私は柔和・謙遜であるから、私のくびきを担え。私はあなたたちを休ませよう。」
「マリア様、イエズス様のその聖心を、マリア様の愛を以て愛させて下さい。イエズス様がどれほど私たちを愛しているか、マリア様、理解させて下さい。」「イエズス様、この初金を、よくイエズス様の愛を深く理解するように助けて下さい。この6月を、イエズス様の聖心を愛する為に使うように助けて下さい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2018年6月1日、イエズス様の聖心の聖なる月、6月の初金のミサをしています。
今日は御ミサの後に、いつものように初金の聖時間を行ないましょう。明日は初土のミサがあります、10時半からです。そして次のミサは、6月の第2主日の10日・11日、それから15日・16日にミサがあります。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、イエズス様の聖なる、至聖なる聖心の6月、この初金を祝うにあたって、この1ヶ月、イエズス様の聖心の信心の一番大切なものは、何が一番大切な事か、という事を黙想致しましょう。
私たちはこのイエズス様の聖心を考えるに黙想するにあたって、何がイエズス様から求められているか、これをぜひ理解して下さい。そしてこの1ヶ月、その黙想をなさって下さい。それは、「イエズス様が私たちを愛しておられる。イエズス様の聖心というのは、愛だ。そしてイエズス様は私たちに愛を求めている。」これを理解して下さい。
今年の8月11日の山の日から15日の聖母被昇天まで、また去年のように小黙想会をする事を提案します。そして今年はマリア様の、ファチマのマリア様を黙想した後に、マリア様を通してイエズス様の至聖なる聖心を黙想する事を提案します。8月のこの聖母被昇天までの小黙想会は、イエズス様の聖心の小黙想会を致しましょう。
“Credidimus Caritati.”
「私たちは天主の愛を信じた。」
「天主は愛である」と聖ヨハネは言います。天主は1つの事を、いつも思っています。“Cogitationes Cor dis ejus in generatione et generationem.”聖心の思いは、代々に至って1つの事を考えています。それは「愛」です。
天主聖父、聖子、聖霊、三位一体は、これは愛する天主です。天主の愛の、三位一体は愛の構造を持っています。
天主聖父は聖子を愛し、聖子は聖父を愛し、その相互の愛の交流は聖霊となって、聖霊は聖父と聖子を愛し、聖父は聖子と聖霊を愛し、聖子は聖父と聖霊を愛し、この三位一体は相互に完全な愛を以て愛し、愛し返されています。天主の、永遠から永遠の将来に至るまでなさる事は、「愛する」という事です。
天主は私たちを愛によって、純粋な愛によって創造されました。カトリック教会の本質、最も大切な点というのはここにあります。イエズス様の至聖なる聖心に対する信心というのも、カトリック教会のこの核心と全く1つです、同じです、同一です。それは何かというと、カトリック教会の全ての宗教は私たちに、「『天主が愛である』という事を信じよ、信じなさい」と教えています。
その愛、天主が愛であるという事を、その多くの証拠を以て、あれでもか、これでもかという証拠を以て、「これを信じるように、この事実を認めるように。そして天主が愛であるという事を、抽象的な概念のみならず、天主は私たちを具体的に、永遠の昔から永遠の未来に至るまで、私たちを愛しておられる。私たち一人ひとりを全てを愛しておられる、という事を信じよ。」イエズス様の聖心への信心とカトリックの宗教は、これを求めています。
それと、「ただ単に信仰を頭で信じるのみならず、その愛を信じた私たちは、その愛を愛で以て、全てに超えて天主を愛する、イエズス様の聖心を愛する。」これにあります。ここに、イエズス様の至聖なる聖心への信心があります。カトリック教会の本質があります。
これはもう何度も同じ事を聞かされているので、皆さんの耳にタコができているのは知っていますが、天主様の人類に対する態度、そのなさった全ての御業というのは、たった1つの言葉によって表されます、「人類を愛し、愛し尽くした」という事です。
人類が天主様に対してしたその言葉は、その態度は、これには長い話があります。あれでもか、これでもか、これでも足りない、これでも足りない、という長い長い長い長い長い、裏切りと、拒絶と、冷淡と、無関心と、憎しみと、反抗と、逆らいの歴史がありました。
天主は愛をもって人類を創りました。無から創造して、御自分の永遠の無限の喜びと幸せを与えようと、愛をもって創りました。ただ純粋に、天主様が良い方であり、愛に満ちた方であり、その愛を私たちに分け与えたい、と思ったからでした。私たちを創造して何ら得るところも、またより良くなるところもありません。私たちを純粋に、幸せにさせたい、無から有るへと導き出して、永遠の命を与えようとされました。
それに対する人類の答えは、「No!」「嫌だ!」拒否、従うのを拒んだ事でした。
それに対する天主の答えは何だったでしょうか?天主はこの創造の時に与えて下さった愛を、更に超える愛をもって答えました。
天主聖父は、聖子を私たちの身代わりに、私たちの元に送られました。天主は人となって、私たちの内に住み給いました。「聖父は聖子を与えるほどこの世を愛された。ここに天主の愛がある」と聖ヨハネは言っています。
天主の愛は、聖子が天主が人となっただけでは満足しませんでした。本当なら、もう天主が人となっただけで天主がどれほど私たちを愛して下さっているか、というのを知るに十分すぎるほど十分でした。これ以上何の証拠が必要でしょうか。
しかし、それをも越えて更に天主聖子は、私たちを愛するがあまり、その愛の極みに、自分の命さえも投げ出しました。十字架の上に架かって、ぐちゃぐちゃになって、傷だらけになった、ボロボロになったこの御体、御血を流し尽くして、そして茨の冠を被せられて、鞭で打たれて、傷だらけになって、私たちの方をご覧になっている御姿は、私たちに何を訴えているかというと、「愛しているよ。」「極みまで愛している。」人類に対するこの天主の愛を表す、それ以外の何ものでもありませんでした。
イエズス様のこの地上での語った御言葉は、愛の御言葉でした。愛の御教えでした。天主がどれほど私たちを愛して下さっているか、という事の証明でした。イエズス様の行なった全生涯の模範と、そして特に御受難は、天主の愛の神秘を、私たちをどこまで愛しておられるか、という事を雄弁に語っています。
天主がイエズス様の聖心が、この槍にて貫かされた、私たちの為に開かれた聖心が、私たちをどれほど愛して、私たちからどれほどの愛を求めているか、という事を訴えています。このイエズス様が天主が人となって、私たちの為に生まれて、苦しまれた事、これだけでもう十分でした。天主の愛を信じるには十分すぎるほどでした。一体そのような愛の極致を見て、誰が天主を愛する事を拒む事ができたでしょうか。
しかしイエズス様の愛は、狂気まで、愛の狂気の沙汰にまで、正気を失ってしまったかのような程度にまで、私たちを愛し尽くします。ただ天主が「愛している」とイエズス様は仰るのみならず、自分の命を与えるのみならず、更に全てを与え尽くそうとされました。
聖霊降臨、天主の愛それ自身私たちのものに、全く私たちのものとして与えられたのみならず、イエズス様御自身の御体が、私たちに食べ物として与えられました。イエズス様が3年間の使徒職の終わりに、この世を去らなければならないという時が来た時に、聖父の元に帰らなければならないその時に、この弟子たちを見て、愛するがあまり、その彼らの事を思うがあまり、イエズス様は仰います、「心配するな。天主を信じ、私を信じなさい。私はお前たちを決して孤児にはしない。私はお前の元に来る。」
イエズス様は私たちの元に、聖寵をもって恩寵をもって聖霊を送る事によって、私たちの元に来ようとしました。聖父がイエズス様の御名において送る聖霊をもって、私たちの元に留まろうとしました。
それのみならず、御自身を本当に食べ物として、私たちの元に残し、私たちの元にこの世の終わりまで、パンの外見の元に留まろうと望まれました。
「慰め主なる聖霊が来る時、聖父が私の名によって送られるその霊が来る時、聖霊はお前たちに全ての事を教えるだろう。だから決して心を騒がしてはいけない、恐れてはいけない。聖父が私を愛したように、私もお前たちを愛している。私はお前たちを愛した。」最後の晩餐のイエズス様の言葉は、愛と憐れみと、私たちに対する優しさで充ち満ちています。
天主様のこの全能の、その愛に満ちた全能、その愛に満ちた智恵の深さ、そしてその優しさとその充ち満てる慈愛、憐れみ深さは、私たちの理解をはるかに超えています。
天主様が1回十字架の上で、私たちの為に、私たちの身代わりに、御血潮を流されて聖父に捧げられて、そして天国の栄光を受けてそれで十分ではなかったのでしょうか?いえ、イエズス様は私たちの為に、日々、毎瞬間、御聖体という形で屠られるという事を御望みになりました。永遠の犠牲を、いけにえとなる事を望みました。
その昔旧約時代では、その前表としてメルキセデクが、エルサレムの大司祭メルキセデクが、パンとぶどう酒を天主に捧げました。そのメルキセデクの司祭職であるイエズス様は、最高の大司祭として、最も権威のある、荘厳な、威厳のある唯一の大司祭として、そして同時に天主の子羊として、御自分をパンとしてぶどう酒として、御自身の御体と御血を捧げました。
旧約の時代には、聖マラキアの預言によると、「日の昇る所から日の沈む所まで、あらゆる所で、天主の御名に浄いいけにえが捧げられるだろう。」まさに真っ白いイエズス様の汚れのないホスチア、イエズス・キリストの御体こそ、預言された天主の御名を讃美する為のいけにえでした。
その御聖体が私たちに与えられました。イエズス・キリストの御体、御聖体が与えられました。「天主は私たちと共に在す。」エンマヌエル。「天主は愛である。」イエズス・キリストの聖心は私たちに、この御聖体の内に留まり給うのです。イエズス様の愛はこの御聖体の内に、愛熱の燃える竈を以て轟々と燃えて、私たちを愛し、愛の眼差しを以て見つめています。
御聖体の中には、イエズス様の御体と、御血と、御霊魂と、御神性、イエズス・キリストの人間の本性と天主の本性が、キリストの、天主の第2のペルソナにおいて結合した、その全てが含まれています。
毎日、私たちの祭壇の上で、私たちの罪のいけにえとして屠られる、自発的に喜んで屠られるイエズス様、世界中で屠られているイエズス様が、私たちに与えられました。人間の、私たちの日々の糧として、食物として、霊的な糧として、私たちが永遠の旅に行く為の力をつける為の糧として、与えられました。私たちの霊魂がいつも浄められる為に、御血が与えられました。
この御聖体の中に全ての祝福が、祝福の全ての御恵みの創り主である天主御自身がいらっしゃいます。この御聖体の中に、全ての贖いの功徳、救いの恵み、永遠の命が入っています。
人間はどれほど愛された、祝福された特権を持った存在であるでしょうか。天使たちでさえこのような特権を持ってはいません。人間にどれほどの功徳があったというのでしょうか。人間に対するイエズス・キリストの愛、その憐れみの深さ、その愛の広さと、その長さと、その深みと、その高さは、私たちの想像をはるかに超えています。永遠を以ても感謝しても、感謝するに不足しています。御聖体、イエズス・キリストが私たちに与えられました。
愛する兄弟の皆さん、どうぞ今日、イエズス様の至聖なる聖心の聖なる月を始めるにあたって、喜んで下さい、イエズス様に感謝なさって下さい。天主はイエズス・キリストは、私たちと共に在す、イエズス様は私たちのものです。イエズス様は全く私たちをその愛熱の火をもって愛しておられます。イエズス様御自分を全く私たちに与え尽くしています。私たちの為にいけにえとなって、御自分を捧げ尽くしています。
どうぞイエズス様の元にいらして下さい。イエズス様は仰います、「苦しむ者よ、渇ける者、重荷を担う者よ、我が元に来い。私は柔和・謙遜であるから、私のくびきを担え。私はあなたたちを休ませよう。」
「マリア様、イエズス様のその聖心を、マリア様の愛を以て愛させて下さい。イエズス様がどれほど私たちを愛しているか、マリア様、理解させて下さい。」「イエズス様、この初金を、よくイエズス様の愛を深く理解するように助けて下さい。この6月を、イエズス様の聖心を愛する為に使うように助けて下さい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。