2018年6月2日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2018年6月2日、初土曜日のミサをしております、マリア様の汚れなき御心のミサをしております。
今日はこのミサが終わった後、特に日本と世界に平和がいつもありますように、今北朝鮮で日本の人を誘拐したり、あるいは核爆弾を作ったり、化学兵器や毒ガスや、危ない武器をたくさん作っているので、何とかそのような物が無くなりますように、という話し合いをするそうです。そこで私たちも、周りから危険が取り除かれますように、平和が来ますように、特にこの初土曜日の信心をする為に、御聖体降福式をしたいと思っています。どうぞいらして下さい。
それから私たちが今ここにいる大阪の大司教区では、大阪の大司教様が、教皇様によって枢機卿になるように任命されました。枢機卿様というのは、カトリック教会で教皇様に次いでとても名誉のある位の人です。世界で数えるばかりしかいません、160名ぐらいしかいません。そしてもしも教皇様が亡くなりになったら、その枢機卿様だけで集まって、次の教皇様は誰かという事を選びます。その内の1人に選ばれました。日本では昔、今までに5名、そういう枢機卿様がいましたけれども、この大阪の大司教様がそういう方に選ばれました。
大阪の大司教様が立派な枢機卿様になりますように、イエズス様の聖心に適う枢機卿様になりますように、私たちはお祈りをしたいと思っています。そこで霊的花束を準備したいと思っていますので、皆さんから少なくとも3環、足りないと仰る方は「うちは1日9環やっている」という方もいらっしゃるかもしれないので、たくさんのお祈りをなさって下さい。それで後で霊的花束をしたいと思いますので、信徒会長に是非、この少なくとも「3環 お祈りします」と報告なさって下さい。枢機卿様にお手紙を書いて、お祝いを渡したいと思っています。
それから今度の来々週の土曜日、6月16日の土曜日には、この皆さんがとても温かい心で、私の司祭の神父になって25周年のお祝いをして下さるとの事です。25年の長い間に、多くの御恵みを頂いて、特に皆さんと知り合って、小さなお友達と知り合って、良い霊魂たちと出会って、世界中のイエズス様を愛する、マリア様を愛する人たちと出会って、本当にこの25年間は幸せでいっぱいの、御恵みでいっぱいの年月でした。
皆さんで祝って下さっているので非常に感謝しています。このその感謝のミサを捧げたいと思います。もしもよろしかったら、ご家族の方やお友達の方もたくさん招待していらして下さい。
次のミサは今度の次の主日、明日ではなくて来週の主日の夕方の18時に、ワリエ神父様がいらしてミサを捧げて下さいます。このミサも忘れないでいらして下さい。
“Stabant juxta crucem Jesu mater ejus. ”
「イエズスの十字架の下に、その母が立っていた。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、6月はイエズス様の聖心の聖なる月です。この6月の間に、イエズス様の聖心、イエズス様のこの燃える、愛に燃える心臓、聖心の黙想を特別にする月です。そこで今日は小さなお友達と一緒に、イエズス様の聖心の黙想をしたいと思っています。
⑴ イエズス様の聖心がどれほど私たちを愛しているか、というのを是非小さなお友達に知ってもらいたいなぁと思うのです。お母さんは小さな子供達を愛していますけれども、イエズス様の聖心はちょうどお母さんのようです。私たちを愛して、愛して、愛しています。どんなにして愛しているかという事をちょっとだけ垣間見てみる事にします。
⑵ そして、イエズス様のそのような愛に満ちた聖心に応えるにはどうしたら良いか。それは、「マリア様のようにイエズス様をお愛しする、という事が最高だ」という事を黙想してみましょう。
今日はその2つのポイントがあります。
⑴ この全宇宙は、非常に綺麗で、秩序があって、美しさに満ちていて、私たちが幸せに住む事ができるようにできています。綺麗なお魚や、そしてたくさんのお魚や、お花や、木々や、歌を歌う鳥や、動物や、多くのもので満たされています。高い山と、深い海と、綺麗な大自然が私たちに与えられました。これはたまたま偶然にあったのではないのです。この全てを創った方が一人、一方おられて、私たちを愛するが為にこれを下さいました。
そして私たちが終わりなく、果てしなく幸せである事ができるように、「天国」という所も創りました。天国という永遠の命も準備して下さいました。そして私たちが天主様と一緒に、この世を全てを創った御方と一緒に、永遠に幸せでありますように、と私たちはこの世に生まれてきました。
でも私たち人間は、そのようなお母さんのような温かい優しい愛に対して、何と答えたかと言うと、「嫌だ!」「嫌いだ!」「知らない!」と。すると、天主様はそのような私たちの態度を見て、非常に悲しみました。
では天主様はそのような私たちに対してどうしたと思いますか?「あぁそう。そんな事言う子は知らないよ!出て行け!」そうじゃなかったのです。
「我が子よ、私の元に帰っておいで。」
その天主様は、永遠の昔から三位一体なのです。聖父と聖子と聖霊。聖父は聖子を愛して、聖子は聖父を愛して、その愛の、その聖父と聖子の愛の、愛は聖霊なのです。
三位一体の天主は、この人類が幸せである事ができるように、自分の聖子をこの地上に送りました。このここにあるステンドグラスを見て下さい。ここに生まれた小さな赤ちゃんは、この世を創った天主が私たちの為にお生まれになった事なのです。この赤ちゃんはマリア様に抱かれています。マリア様は、この世を創った天主の聖子が、私たちの元に人となると言う時に、「はい、私は主の婢女(はしため)です。主のしもべです。仰る通りに私になりますように。私はあなたに従います」と言って、天主の、イエズス・キリストの救い主の御母になりました。
そしてマリア様は一番最初に、この救い主を天主聖父にお捧げになりました。聖子は、天主聖子は私たちの元に人となって、すぐに御自分を聖父に捧げました。マリア様もそれと一緒に、御自分の御子を聖父に捧げました。
私が今これで何を言おうかと言うと、実はこの人類が救われる為に、人類が罪の償いをする為に、私たちに代わって天主聖子が、イエズス・キリスト様が罪の償いを果たして下さった、自分がいけにえとなって、自分が犠牲となって下さった、という事なのです。それはマリア様と共になさったのです。
イエズス様はマリア様と共に30年間、一緒に生活していましたが、イエズス様はいつもいけにえの生活をしていました。生まれたと思ったらすぐに、8日の後には割礼を受けました。割礼というのはとても痛い儀式です、血を流す儀式なのです。イエズス様はそれを捧げました。そしてマリア様はイエズス様を40日後に、イエズス様がお生まれになった40日後に神殿に荘厳に捧げました。そしてマリア様とイエズス様はエジプトで外国の生活をして、非常に苦しみました。ナザレトに戻ってそれから生活をするのですけれども、やはり苦しみと困難の生活を送りました。
この世を全てを創った、この世を全て持っている、所有しているイエズス様ですけれども、あたかも何も所有していないかのように苦しみを捧げました。それはみな、私たちの為でした。イエズス様は私たちを愛するが為に、いけにえとなったのです。
そしてイエズス様はそれと同時に、最高の司祭でした。司祭というのは、天と地の間にある、特別な選ばれた人です。天主様の名前によって、この地上の人々を祝福して、そして人間を代表して、天主様にお祈りといけにえを捧げる特別の人なのです。そのような特別な人は、本物のそのような大司祭は、地上でたった1人しかいません。イエズス・キリストなのです。そしてそのイエズス・キリストは、そのような司祭を使徒たちに、司祭職を使徒たちに与えました。十二の使徒たちに与えて、その十二の使徒たちの後継者が、カトリックの司祭です。カトリックの司祭たちはイエズス様の司祭職に与っているのです。でも唯一の最高の司祭は、イエズス・キリスト様なのです。イエズス様は御自分の御体をいけにえとして捧げました。
ですからイエズス様は、司祭としてお祈りをしました、いけにえを捧げました。ゲッセマネの園にては、血の涙を流してお祈りをしました。時々山に行って、静かに一人でお祈りをして夜を過ごしました。イエズス様は司祭として40日間、荒れ野で断食もしてお祈りをしました。そしてイエズス様は最後に、御自分がこの地上を離れる時に、司祭の紫の深紅の真っ赤な服を着て、御自分の血で染められた服を着て、そして王の冠を、茨の冠を被って、そして荘厳に司祭の行列をして、祭壇に入場します。それはカルワリオという祭壇で、皆と一緒に行列をしました。十字架という祭壇も担ぎながら、カルワリオに登って行きました。
そして御自分は公生活、マリア様の元を離れて生活をしたその最初の時から、洗者聖ヨハネによって言われました、「見よ、天主の子羊を見よ。世の罪を除き給う天主の子羊を見よ。これこそが本物の子羊である。」
この「天主に捧げられた子羊」というのは、昔々モーゼの時代には、その屠った血を家の框に塗るとその家は守られました。それと同じように、本物の天主の子羊であるイエズス様の御血が私たちに塗られると、私たちは滅びから救われる、という事でした。
その通りでした。イエズス様は天主の子羊として、最高の司祭として、いけにえとして、十字架の上で御血を流されて、私たちの為に命を天主聖父に捧げたのです。
これを見ると、私たちをどれほど愛されたか、という事が分かります。
この時々小さなお友達は、デザインでハートの形に矢が刺さっている絵を見た事があるかもしれません。その矢が刺さっているハートは、「あぁ、このハートの持ち主は誰かの事を愛しているのだ」という意味なのです。
イエズス様の聖心は、弓矢ではなくて、ローマの兵士によって貫かされました。これは「イエズス様が私たちを愛しているのだ」という事を意味しています。そしてイエズス様の御胸が開かれて私たちがその中に、私たちがその中に入って来なさい、と大きく開かれています。
マリア様はその御様子を十字架の下で見ていました。涙にむせびて見ていました。しかしこのベトレヘムで捧げた時と同じように、イエズス様を奉献していました、聖父に奉献していました。マリア様の苦しみと涙を見て、イエズス様はどれほど御悲みになった事でしょうか。でもその苦しみさえも、小さなお友達と私を愛する為に、イエズス様は捧げて下さいました。
そればかりじゃないのです。十字架の上で私たちの為に、私たちを愛するが為に命を捧げたのみならず、毎日、全世界のどこでも、毎瞬間、ミサのいけにえで、イエズス様は私たちの為に神秘的に屠られています。神秘的にいけにえとなっています。
そして私たちに御聖体を下さいました。ミサの時に神父様が、丸い白いパンをホスチアを奉挙する時があります。その時にチリンチリンと鐘が鳴るので、皆さん見て下さい。これはイエズス様の本当の御体なのです。司祭がイエズス様の名によって、「これは私の体である」と言うと、このパンはパンでなくなるのです。本物のイエズス様の御体になるのです。見かけはパンですけれども、これはイエズス様の御体なのです。
ブドウ酒も同じなのです。カリスの中に、チリンチリンと鳴って神父様が奉挙する時に、カリスが見えます。その中にはブドウ酒が入っています。でもブドウ酒ではないのです。イエズス様の御血なのです。
これはイエズス様が私たちの為に特別に残して下さった、十字架のいけにえの再現なのです。もう一度私たちの前に、イエズス様が屠られるのです。これは私たちと共に、「永遠に私たちと共にいたい」というイエズス様の愛の表れでした。
考えてもみて下さい。王様が、奴隷の一番下の者の為に、食べ物となって下さる、という事を。イエズス様は私たちといつも一緒にいたい、と思うが為に、このパンの形で御聖櫃の中にいつも留まるのです。そればかりか、私たちの霊魂の中に糧として、食べ物として入られるのです。なぜかというと、イエズス様は私たちの事をそれほど愛しておられるからです。いつも一緒にいたい、いつも愛する小さなお友達の為に、自分の全てを与えたい、と思っているからです。
このパンは、このパンの姿に見える物の中に、イエズス様が全て入っているのです。イエズス様の御体、御血、御霊魂、御神性、そして全ての御恵みと救いが入っています。それは私たちが受ける事ができるように、と特別の愛の発明でした。
イエズス様は私たちにそればかりでなく、もっとすごい事を与えました。私たちに、私たちがそのイエズス様を愛する事ができるように、御自分のお母様をも、私たちのお母様として与えて下さいました。どれほどすごいかというと、マリア様はイエズス様のお母様ですが、一度もイエズス様を悲しませた事がないのです。イエズス様を愛して、イエズス様に特別に選ばれたものですけれども、いつも謙遜でした。特別に罪の無い方でしたけれども、イエズス様に対して純粋な愛を捧げていました。いつも天主の栄光と、霊魂の救いの事だけを考えていました。自分の事は考えていませんでした。そしてイエズス様はこのマリア様の仰る事であれば、どんな事でもなさるのです。
神父様はフィリピンで働いているのですけれども、時々難しい問題があります。時々はあまりにも難しい問題で、困った事です。
たとえば、誰かに何か誤解があったりとかして、屈辱を受けるとか、すごいことをされてしまってもう耐えきれない、というような事があります。でも本当にそういう方がいたのです。それでもしもその方が怒って、「あぁこれはあり得ない!こんな事なら私はあの人を訴える!」と言うと、もっと大変な事になってしまいます。そこで私はその方にお願いしたのです、「よく分かる。でもこの小野田神父に免じてここは、堪忍してあげて下さい」と。昨日あった話です。そしたらその方は涙を流しながら、「神父様の為にそうします。神父様の為だけにならそうします」と言ってくれました。そういう方がいたのです。とっても嬉しかったです。感謝しています。
マリア様がもしもイエズス様にお願いしたら、もっとです!「もうこれは堪忍袋の緒が切れて、もう許せない!これほどの事があってはならない!」と思っても、マリア様が、「私に免じて、息子よ、お願い」と言うと、「お母様、分かりました」と仰るのです。そのような方を私たちに下さいました。
⑵ マリア様はイエズス様の愛がどれほど深いかという事をよく知っているのです。ですからそれに愛を以て返しました。熱烈な愛と、純粋な愛を以て返しました。どんなに犠牲を払っても構わない、という愛でした。その愛が私たちに与えられました。
6月はイエズス様の聖心の黙想をする特別な月です。イエズス様が私たちをどれほど愛しているか、という事は、御聖体を見ると分かります。この御聖体は、御聖体の中にイエズス様の聖心があるからです。
更にイエズス様を私たちが愛する為には、マリア様の御心を見ると分かります。マリア様の御心に倣って、私たちがイエズス様を愛する事ができるように。
「イエズスの母は、十字架の下で立っていた。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2018年6月2日、初土曜日のミサをしております、マリア様の汚れなき御心のミサをしております。
今日はこのミサが終わった後、特に日本と世界に平和がいつもありますように、今北朝鮮で日本の人を誘拐したり、あるいは核爆弾を作ったり、化学兵器や毒ガスや、危ない武器をたくさん作っているので、何とかそのような物が無くなりますように、という話し合いをするそうです。そこで私たちも、周りから危険が取り除かれますように、平和が来ますように、特にこの初土曜日の信心をする為に、御聖体降福式をしたいと思っています。どうぞいらして下さい。
それから私たちが今ここにいる大阪の大司教区では、大阪の大司教様が、教皇様によって枢機卿になるように任命されました。枢機卿様というのは、カトリック教会で教皇様に次いでとても名誉のある位の人です。世界で数えるばかりしかいません、160名ぐらいしかいません。そしてもしも教皇様が亡くなりになったら、その枢機卿様だけで集まって、次の教皇様は誰かという事を選びます。その内の1人に選ばれました。日本では昔、今までに5名、そういう枢機卿様がいましたけれども、この大阪の大司教様がそういう方に選ばれました。
大阪の大司教様が立派な枢機卿様になりますように、イエズス様の聖心に適う枢機卿様になりますように、私たちはお祈りをしたいと思っています。そこで霊的花束を準備したいと思っていますので、皆さんから少なくとも3環、足りないと仰る方は「うちは1日9環やっている」という方もいらっしゃるかもしれないので、たくさんのお祈りをなさって下さい。それで後で霊的花束をしたいと思いますので、信徒会長に是非、この少なくとも「3環 お祈りします」と報告なさって下さい。枢機卿様にお手紙を書いて、お祝いを渡したいと思っています。
それから今度の来々週の土曜日、6月16日の土曜日には、この皆さんがとても温かい心で、私の司祭の神父になって25周年のお祝いをして下さるとの事です。25年の長い間に、多くの御恵みを頂いて、特に皆さんと知り合って、小さなお友達と知り合って、良い霊魂たちと出会って、世界中のイエズス様を愛する、マリア様を愛する人たちと出会って、本当にこの25年間は幸せでいっぱいの、御恵みでいっぱいの年月でした。
皆さんで祝って下さっているので非常に感謝しています。このその感謝のミサを捧げたいと思います。もしもよろしかったら、ご家族の方やお友達の方もたくさん招待していらして下さい。
次のミサは今度の次の主日、明日ではなくて来週の主日の夕方の18時に、ワリエ神父様がいらしてミサを捧げて下さいます。このミサも忘れないでいらして下さい。
“Stabant juxta crucem Jesu mater ejus. ”
「イエズスの十字架の下に、その母が立っていた。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、6月はイエズス様の聖心の聖なる月です。この6月の間に、イエズス様の聖心、イエズス様のこの燃える、愛に燃える心臓、聖心の黙想を特別にする月です。そこで今日は小さなお友達と一緒に、イエズス様の聖心の黙想をしたいと思っています。
⑴ イエズス様の聖心がどれほど私たちを愛しているか、というのを是非小さなお友達に知ってもらいたいなぁと思うのです。お母さんは小さな子供達を愛していますけれども、イエズス様の聖心はちょうどお母さんのようです。私たちを愛して、愛して、愛しています。どんなにして愛しているかという事をちょっとだけ垣間見てみる事にします。
⑵ そして、イエズス様のそのような愛に満ちた聖心に応えるにはどうしたら良いか。それは、「マリア様のようにイエズス様をお愛しする、という事が最高だ」という事を黙想してみましょう。
今日はその2つのポイントがあります。
⑴ この全宇宙は、非常に綺麗で、秩序があって、美しさに満ちていて、私たちが幸せに住む事ができるようにできています。綺麗なお魚や、そしてたくさんのお魚や、お花や、木々や、歌を歌う鳥や、動物や、多くのもので満たされています。高い山と、深い海と、綺麗な大自然が私たちに与えられました。これはたまたま偶然にあったのではないのです。この全てを創った方が一人、一方おられて、私たちを愛するが為にこれを下さいました。
そして私たちが終わりなく、果てしなく幸せである事ができるように、「天国」という所も創りました。天国という永遠の命も準備して下さいました。そして私たちが天主様と一緒に、この世を全てを創った御方と一緒に、永遠に幸せでありますように、と私たちはこの世に生まれてきました。
でも私たち人間は、そのようなお母さんのような温かい優しい愛に対して、何と答えたかと言うと、「嫌だ!」「嫌いだ!」「知らない!」と。すると、天主様はそのような私たちの態度を見て、非常に悲しみました。
では天主様はそのような私たちに対してどうしたと思いますか?「あぁそう。そんな事言う子は知らないよ!出て行け!」そうじゃなかったのです。
「我が子よ、私の元に帰っておいで。」
その天主様は、永遠の昔から三位一体なのです。聖父と聖子と聖霊。聖父は聖子を愛して、聖子は聖父を愛して、その愛の、その聖父と聖子の愛の、愛は聖霊なのです。
三位一体の天主は、この人類が幸せである事ができるように、自分の聖子をこの地上に送りました。このここにあるステンドグラスを見て下さい。ここに生まれた小さな赤ちゃんは、この世を創った天主が私たちの為にお生まれになった事なのです。この赤ちゃんはマリア様に抱かれています。マリア様は、この世を創った天主の聖子が、私たちの元に人となると言う時に、「はい、私は主の婢女(はしため)です。主のしもべです。仰る通りに私になりますように。私はあなたに従います」と言って、天主の、イエズス・キリストの救い主の御母になりました。
そしてマリア様は一番最初に、この救い主を天主聖父にお捧げになりました。聖子は、天主聖子は私たちの元に人となって、すぐに御自分を聖父に捧げました。マリア様もそれと一緒に、御自分の御子を聖父に捧げました。
私が今これで何を言おうかと言うと、実はこの人類が救われる為に、人類が罪の償いをする為に、私たちに代わって天主聖子が、イエズス・キリスト様が罪の償いを果たして下さった、自分がいけにえとなって、自分が犠牲となって下さった、という事なのです。それはマリア様と共になさったのです。
イエズス様はマリア様と共に30年間、一緒に生活していましたが、イエズス様はいつもいけにえの生活をしていました。生まれたと思ったらすぐに、8日の後には割礼を受けました。割礼というのはとても痛い儀式です、血を流す儀式なのです。イエズス様はそれを捧げました。そしてマリア様はイエズス様を40日後に、イエズス様がお生まれになった40日後に神殿に荘厳に捧げました。そしてマリア様とイエズス様はエジプトで外国の生活をして、非常に苦しみました。ナザレトに戻ってそれから生活をするのですけれども、やはり苦しみと困難の生活を送りました。
この世を全てを創った、この世を全て持っている、所有しているイエズス様ですけれども、あたかも何も所有していないかのように苦しみを捧げました。それはみな、私たちの為でした。イエズス様は私たちを愛するが為に、いけにえとなったのです。
そしてイエズス様はそれと同時に、最高の司祭でした。司祭というのは、天と地の間にある、特別な選ばれた人です。天主様の名前によって、この地上の人々を祝福して、そして人間を代表して、天主様にお祈りといけにえを捧げる特別の人なのです。そのような特別な人は、本物のそのような大司祭は、地上でたった1人しかいません。イエズス・キリストなのです。そしてそのイエズス・キリストは、そのような司祭を使徒たちに、司祭職を使徒たちに与えました。十二の使徒たちに与えて、その十二の使徒たちの後継者が、カトリックの司祭です。カトリックの司祭たちはイエズス様の司祭職に与っているのです。でも唯一の最高の司祭は、イエズス・キリスト様なのです。イエズス様は御自分の御体をいけにえとして捧げました。
ですからイエズス様は、司祭としてお祈りをしました、いけにえを捧げました。ゲッセマネの園にては、血の涙を流してお祈りをしました。時々山に行って、静かに一人でお祈りをして夜を過ごしました。イエズス様は司祭として40日間、荒れ野で断食もしてお祈りをしました。そしてイエズス様は最後に、御自分がこの地上を離れる時に、司祭の紫の深紅の真っ赤な服を着て、御自分の血で染められた服を着て、そして王の冠を、茨の冠を被って、そして荘厳に司祭の行列をして、祭壇に入場します。それはカルワリオという祭壇で、皆と一緒に行列をしました。十字架という祭壇も担ぎながら、カルワリオに登って行きました。
そして御自分は公生活、マリア様の元を離れて生活をしたその最初の時から、洗者聖ヨハネによって言われました、「見よ、天主の子羊を見よ。世の罪を除き給う天主の子羊を見よ。これこそが本物の子羊である。」
この「天主に捧げられた子羊」というのは、昔々モーゼの時代には、その屠った血を家の框に塗るとその家は守られました。それと同じように、本物の天主の子羊であるイエズス様の御血が私たちに塗られると、私たちは滅びから救われる、という事でした。
その通りでした。イエズス様は天主の子羊として、最高の司祭として、いけにえとして、十字架の上で御血を流されて、私たちの為に命を天主聖父に捧げたのです。
これを見ると、私たちをどれほど愛されたか、という事が分かります。
この時々小さなお友達は、デザインでハートの形に矢が刺さっている絵を見た事があるかもしれません。その矢が刺さっているハートは、「あぁ、このハートの持ち主は誰かの事を愛しているのだ」という意味なのです。
イエズス様の聖心は、弓矢ではなくて、ローマの兵士によって貫かされました。これは「イエズス様が私たちを愛しているのだ」という事を意味しています。そしてイエズス様の御胸が開かれて私たちがその中に、私たちがその中に入って来なさい、と大きく開かれています。
マリア様はその御様子を十字架の下で見ていました。涙にむせびて見ていました。しかしこのベトレヘムで捧げた時と同じように、イエズス様を奉献していました、聖父に奉献していました。マリア様の苦しみと涙を見て、イエズス様はどれほど御悲みになった事でしょうか。でもその苦しみさえも、小さなお友達と私を愛する為に、イエズス様は捧げて下さいました。
そればかりじゃないのです。十字架の上で私たちの為に、私たちを愛するが為に命を捧げたのみならず、毎日、全世界のどこでも、毎瞬間、ミサのいけにえで、イエズス様は私たちの為に神秘的に屠られています。神秘的にいけにえとなっています。
そして私たちに御聖体を下さいました。ミサの時に神父様が、丸い白いパンをホスチアを奉挙する時があります。その時にチリンチリンと鐘が鳴るので、皆さん見て下さい。これはイエズス様の本当の御体なのです。司祭がイエズス様の名によって、「これは私の体である」と言うと、このパンはパンでなくなるのです。本物のイエズス様の御体になるのです。見かけはパンですけれども、これはイエズス様の御体なのです。
ブドウ酒も同じなのです。カリスの中に、チリンチリンと鳴って神父様が奉挙する時に、カリスが見えます。その中にはブドウ酒が入っています。でもブドウ酒ではないのです。イエズス様の御血なのです。
これはイエズス様が私たちの為に特別に残して下さった、十字架のいけにえの再現なのです。もう一度私たちの前に、イエズス様が屠られるのです。これは私たちと共に、「永遠に私たちと共にいたい」というイエズス様の愛の表れでした。
考えてもみて下さい。王様が、奴隷の一番下の者の為に、食べ物となって下さる、という事を。イエズス様は私たちといつも一緒にいたい、と思うが為に、このパンの形で御聖櫃の中にいつも留まるのです。そればかりか、私たちの霊魂の中に糧として、食べ物として入られるのです。なぜかというと、イエズス様は私たちの事をそれほど愛しておられるからです。いつも一緒にいたい、いつも愛する小さなお友達の為に、自分の全てを与えたい、と思っているからです。
このパンは、このパンの姿に見える物の中に、イエズス様が全て入っているのです。イエズス様の御体、御血、御霊魂、御神性、そして全ての御恵みと救いが入っています。それは私たちが受ける事ができるように、と特別の愛の発明でした。
イエズス様は私たちにそればかりでなく、もっとすごい事を与えました。私たちに、私たちがそのイエズス様を愛する事ができるように、御自分のお母様をも、私たちのお母様として与えて下さいました。どれほどすごいかというと、マリア様はイエズス様のお母様ですが、一度もイエズス様を悲しませた事がないのです。イエズス様を愛して、イエズス様に特別に選ばれたものですけれども、いつも謙遜でした。特別に罪の無い方でしたけれども、イエズス様に対して純粋な愛を捧げていました。いつも天主の栄光と、霊魂の救いの事だけを考えていました。自分の事は考えていませんでした。そしてイエズス様はこのマリア様の仰る事であれば、どんな事でもなさるのです。
神父様はフィリピンで働いているのですけれども、時々難しい問題があります。時々はあまりにも難しい問題で、困った事です。
たとえば、誰かに何か誤解があったりとかして、屈辱を受けるとか、すごいことをされてしまってもう耐えきれない、というような事があります。でも本当にそういう方がいたのです。それでもしもその方が怒って、「あぁこれはあり得ない!こんな事なら私はあの人を訴える!」と言うと、もっと大変な事になってしまいます。そこで私はその方にお願いしたのです、「よく分かる。でもこの小野田神父に免じてここは、堪忍してあげて下さい」と。昨日あった話です。そしたらその方は涙を流しながら、「神父様の為にそうします。神父様の為だけにならそうします」と言ってくれました。そういう方がいたのです。とっても嬉しかったです。感謝しています。
マリア様がもしもイエズス様にお願いしたら、もっとです!「もうこれは堪忍袋の緒が切れて、もう許せない!これほどの事があってはならない!」と思っても、マリア様が、「私に免じて、息子よ、お願い」と言うと、「お母様、分かりました」と仰るのです。そのような方を私たちに下さいました。
⑵ マリア様はイエズス様の愛がどれほど深いかという事をよく知っているのです。ですからそれに愛を以て返しました。熱烈な愛と、純粋な愛を以て返しました。どんなに犠牲を払っても構わない、という愛でした。その愛が私たちに与えられました。
6月はイエズス様の聖心の黙想をする特別な月です。イエズス様が私たちをどれほど愛しているか、という事は、御聖体を見ると分かります。この御聖体は、御聖体の中にイエズス様の聖心があるからです。
更にイエズス様を私たちが愛する為には、マリア様の御心を見ると分かります。マリア様の御心に倣って、私たちがイエズス様を愛する事ができるように。
「イエズスの母は、十字架の下で立っていた。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。