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2018年6月17日 聖霊降臨後第4主日 イエズスの聖心の荘厳祭「聖心の愛の傑作と究極の発明~司祭職」

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2018年6月17日(主日)聖霊降臨後第4主日 イエズスの聖心の荘厳祭
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。多くの方々がいらして本当に嬉しく思います。

今日は2018年6月17日、聖霊降臨後第4主日ですが、ミサはイエズスの聖心の荘厳祭を行なっています。

今日この御ミサの感謝の祈りの後に、短い御聖体降福式があります。その後に皆さんが司祭叙階25周年、銀祝を祝って下さるというその温かい心に感謝して、皆さんと一緒に時を過ごしたいと思っています。

明日は朝7時からここでミサがあります。
次回は7月8日と、15日、16日にミサがあります。


「愛に基づいて、あなたたちが全ての聖人たちと共に、主の聖心の愛の、その幅と、長さと、高さと、そして深みを知る事を望む。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、この前の2週間前ここで、私たちは御聖体の荘厳祭を行ないました。そこで「御聖体がどれほど私たちの主イエズス・キリストの愛の傑作であるか、愛の狂気であるか、その狂ったほどの愛であるか」という事を黙想しました。

実はその続きがあります。

イエズス様、私たちの主が私たちを愛するがあまり、その狂ったがあまり、今度はパンを御自分の体ではなく、また生けるまた別の者を、自分の体の様にしようと思った、その愛の愚かさについて、一緒に黙想したいと思っています。

今日聖パウロが書簡の中で、ぜひ私たちに呼びかけています、「全ての聖人たちと一緒になって、私たちがこの事を理解する事ができるようになる事を望む。」

何を理解するかというと、「天主の、この世界を創造した、創り上げた方の愛に基づいて、それに深く根付いて、この全てを創った方のその愛の、幅広さと、その長さと、その崇高さと、その深みを理解する事である。」

そこで私たちも、この言葉をガイドに、私たちの主の聖心の愛を黙想する事にしましょう。

聖パウロが言うこの「幅」を理解するという事は、「天主の創造は全てのものに被造物に及ぶ」という事です。天使たち、人間、あるいは動物、植物、そして鉱物、全て全宇宙に及んでいる、という事です。

つい最近、産経新聞に小さな虫の話がありました。虫は一見羽が無いように見えるのですけれども、実は巧妙に折り畳んであって、飛ぶ時にはパッと出して飛んで、いらない時にはそれを畳んで、というものなのです。その畳み方は非常に精巧にできているので、それを今度人類が人工衛星の為に使うのだと、その畳み方を学ぶのだ、と言っています。

一体誰が、この小さな動物にこの昆虫に、そのような最高の技術を教えたのでしょうか?

この地上には、全宇宙の美しさと、その精巧な作りを見れば見るほど、研究すれば研究するほど、原子から大宇宙に至るまで、その素晴らしさに目を見張るばかりです。そしてこのこれは、天主の愛によって創られました。私たちも同じです。この愛は、ただ幅が広いだけではなくて、この瞬間だけではなく、世の初めから、そしてこの永遠の昔から永遠の未来に向かって、続いています。

今日のミサの入祭誦ではこう言います、「私の考えは、代々永久(とこしえ)に、彼らを飢えから救い、彼らの霊魂を死から救う事だ。」

その愛の「高み」は崇高さは、この「被造物を、御自分の永遠の命と、永遠の喜びに、無限の喜びに入らせようとする事」です。その為に三位一体の、この世を全てを創った方が人間となって、しかも赤子となってお生まれになりました。私たちを最も高い所に連れて行く為です。

ただ赤ちゃんとして貧しく生まれたのみならず、この世の王である王は、更に私たちを高みに連れて行く為に、十字架の上で、最も酷い死刑の残酷な拷問を受けました。私たちの罪が赦される為に、私たちの罪の償いの代わりとして。

イエズス・キリストの御受難を見ると、私たちがどれほど愛されているか、という事が分かります。この十字架に架かったイエズス・キリストの開かれた聖心を見ると、私たちがどれほどこの方から愛されているか、という事を信じて、その証拠となるに十分です。私たちが高み、天へと向かう為にどうすれば良いか、という事を教えてくれています、「私たちもこのキリスト様と共に苦しむ」という事を。

そればかりではありません。私たちはもっと高い一致へと結び付く為に、この前黙想しましたように、何と、この世の創造主である天主は、私たちの為にパンとなります。私たちの糧となり、私たちに拝領されよう、と御望みになりました。御聖体の秘跡です。愛の極みです。

そしてこの私たちは、主の愛の「深み」を見ます。この愛は非常に深い、御謙遜な、そして永遠の深淵のような、地球で一番深い海よりももっと深い愛に根付いています。

ですからどんなに悪意があっても、悪魔の攻撃があっても、どんな反対があっても、決して揺るぐ事はありません。天主の愛は深く、その永遠の全能に、憐れみの深さに根付いています。悪魔の地獄の総攻撃があったとしても、決して揺らぐ事がありません。

私たちはその淵を見ると、あまりにも深いので目がクラクラとしてしまいそうです。私たちはその深みを全て理解する事はできません。ただそれを味わって、それを感謝して、その深みの中に身を投げ込むしかありません。

天主は永遠の昔から私たちを愛して、考えてきましたけれども、でもイエズス様の聖心の神秘に行くと、天主の三位一体の第2の位格が、第2のペルソナが人となられた時に、人間として天主の御言葉は、心臓の鼓動を始めました、打ち始めました。

天主よりの天主、光よりの光、創られずして生まれた、愛によって生まれた愛そのものであるイエズス・キリストは、天主のその本性によって満たされているイエズス・キリストは、御託身の時に人間となって、マリア様の御胎内に人となって宿された時に、その時、最初にこう仰いました、「聖父よ、私は来る。“Ecce venio.”」そしてその人間としてその心臓の鼓動を開始しました。その鼓動は、今復活して天国にいらっしゃるので、永遠に鼓動を止める事はありません。

ではこの愛の鼓動は、一体何の為に、何を愛していたのでしょうか?2つあります。

イエズスの聖心は、天主聖父を愛して、その為に脈打っていました。ドキッドキッドキッと鼓動を打っていました。罪によって傷付いた天主の栄光をもう一度回復させる、という愛に燃えていました。

第2は、同じくこの聖心は、人類の為への愛に燃えていました。天主の愛は、私たちの為に熱烈に、極みなく、焼き尽くされるように、恋い焦がれるように燃えていました。私たちを死と地獄から救いたい、と思っていました。私たちを贖いたい、私たちが本当ならば受けるべき罰を自分がその身によって全て受けて、全ての苦しみと罰を受けて、私たちの為に、私たちの代理として贖いたい、罪を贖いたい、と望んでいました。まず第1にマリア様の事を思っていました、汚れなき御母マリア様。そして罪を犯した人類の為に、その鼓動を鳴らしていました。

この愛の極みが、私たちと1つになりたい、という愛の極みが、御聖体でした。

しかしイエズス・キリスト様は、復活して天に昇るべき御方でした。この世の終わりまで御聖体として留まりたいと思いつつも、一体どうしたら良いのでしょうか。そこで、イエズス・キリストの愛の愚かさは、別の聖変化を、別のキリスト化を望むようになりました。

イエズス・キリストが天主聖父を愛して、人類を愛するが為に、特別に愛された人たちがいます。特別に選ばれて、選択を受けた人々がいます。それが「カトリックの司祭」です。それは天主聖父に最高の光栄と、霊魂をより良く救う事ができる為に、特別に愛された霊魂たちです。

イエズス様がお生まれになる前、まだマリア様の御胎内にいる時に、最初に霊的な奇跡を行ないました。それはマリア様によって運ばれて、洗者聖ヨハネを聖エリザベトを訪問した時に聖化した事です、聖なる者とした事です。実は洗者聖ヨハネは、司祭の家の息子でした。

イエズス様は公生活の3年間の時に、特別にお祈りをしました、ある人々の為に。そして夜中祈った後に、まず自ら行って彼らに名前を呼びかけて、12人の使徒を選びました。12人の使徒たちは、特別に選ばれて、イエズス・キリストの近くに来るように招かれました。全てを捨てて彼らは、イエズス・キリストに従いました。イエズスの聖心は彼らに、自分の持っている天国の宝を全て与えようと思っていました。

もちろんイエズス様は、彼らがどんなに貧しい、頭の疎い漁師で、あるいはその他の者で、その出来る能力にも限りもあるし、弱さもあるし、あまりにも惨めな存在だ、という事をよく知っていましたが、それにもかかわらず彼らを特別に愛して、御自分の高みまで引き上げようと思われました。それは天使たちも羨むような贈り物を与えようと、お恵みを与えようとさえ思ったのでです。

なぜ「天使たちも羨むような」と言うかというと、このイエズス・キリスト様の御受難のその最後の時に、弟子たちを御自分の前に集めて仰ったのです、「私は、この過ぎ越しをお前たちと食べる事を望みに望んだ。」キリスト様は何度も過ぎ越しを食べていました、しかしこの最後の過ぎ越しだけは別でした。なぜかというと彼らに、御自分のみができる奇跡を起こす力を与えようと思ったからです。パンを御自分の御体に聖変化させて、そしてブドウ酒を御自分の御血に聖変化させて、すると「これを私の記念として行なえ」と、それを行なう力を彼らに与えたのです。天使たちは人間よりもはるかに優れた存在ですけれども、これだけはできません。

この司祭職というのは、イエズス・キリストの御体を作る事ができる、聖変化させる事ができる、というのは、イエズス・キリストの愛の愚かさの極致でした。愛の大傑作でした。天主はこれによって私たちと共にいる事ができ、私たちの内にいる事ができます。世の終わりまで留まる事ができます。

イエズス・キリストの御自身の御業を彼らが続ける事ができます。世の終わりまで全世界で続ける事ができるようになります。その為に、御自分の持てる最高の力を特権を、彼らに与えたのでした。

イエズス様はこの弟子たちに特別の力を与えたのみならず、特別の愛情を込めていました。もしも民衆に対しては例えで話したとしても、もしも12の使徒たちが来れば、「一体これはどういう意味ですか?」と聞くと、「天の国の神秘は、お前たちには知る事が与えられている」と言って、それを説明します。

イエズス様がその弟子たちに特別の愛を注いだ、という事は、福音書を見ると明らかです。最後の晩餐の時に何と仰ったか、という事を少し引用するのを許して下さい。

「私はお前たちを孤児としては残さない。私を愛する者は、私の聖父によって愛される。聖父が私を愛したように、私はお前たちを愛した。私の愛に留まれ。」

使徒たちへの言葉で、「お前たちは私の友だ。私はお前たちをしもべとは呼ばない。私はお前たちを友と呼んだ。」

司祭はイエズス・キリストの特別の友です。イエズス・キリストから特別の愛を注がれた友です。特別に選ばれた人々です。

「聖父はお前たちを愛している。なぜならば、お前たちは私を愛したからだ。」

どれほどカトリックの司祭たちは、使徒たちの後継者は、イエズス・キリストから愛されている事でしょう。

しかし見て下さい、使徒たちが一体何をしたかという事を。それだけの特別の特権を与えられて、聖変化を起こす特権を与えられて、司祭、大司祭となり、イエズス・キリストの後継者となり、友と呼ばれ、特別な愛情と神秘を教えられたこの弟子たちは、イエズス・キリストをほっぽらかして逃亡するのです、逃げてしまいます、裏切ってしまいます。

その頭となった聖ペトロは、イエズス・キリストを、「あぁ、この人を知らない」「知らない」「関係ないよ」裏切るのです。愛しているイエズス様の聖心にとって、どれほそれはど御心痛だった事でしょうか。愛すれば愛するほど、それを裏切られたその心は、どれほど悲しかった事でしょうか。

ユダは、お金の為にイエズス様を売り飛ばします。しかしそのユダに対しても、「友よ」と言って、ユダを裏切り者を愛そうとします、極みまで愛そうとします。

イエズス様が御復活なさった後に、まず十字架の下に留まった忠実な婦人たちに、まず会います。もちろんそれに相応しい方々でした、この婦人たちは。そこでイエズス様はこの婦人たちに何と言ったかというと、あたかもその婦人たちにはあまり関心がないかのように、「さぁ、行って、私の兄弟たちに私が復活した事を告げよ。」“私の兄弟”というのは司祭たちの事です、使徒たちの事です。

そして、恐れて隠れていた新しい司祭たちに使徒たちに、イエズス・キリストは現れて、「汝らに平和があるように。」それを繰り返して仰います。そして御叱責「何で俺を裏切ったのか」「何で私を否んだのか」等と一言も仰りませんでした。

そうであるばかりか、平和を残して、更に素晴らしい贈り物をこの弟子たちに、使徒たちに与えるのです、「聖霊を受けよ。お前たちが赦す罪は天国でも赦され、お前たちが赦さない罪は赦されない、天国でも赦されない。」「お前たちの言う事を聞く者は、私の言う事を聞く者だ。お前たちを軽蔑する者は私を軽蔑する。」

そこで、天主のみがする事ができる、『罪の赦し』という特別の権利を、特権を力を、使徒たちに、そして使徒たちの後継者である司祭たちに与えます。

この為に、使徒たちは司祭は、この地上のいかなる王様や、皇帝や、この世の支配者よりも、偉大な者となるようになりました。なぜかというと、王様でさえも、皇帝でさえも、この司祭の前に、田舎の司祭の前に跪いて、罪の赦しを請わなければならないからです。なぜならば司祭のみが、天主の特権によって私たちの罪を赦す事ができるからです。

何という憐れみでしょうか。この裏切った使徒たちに、これほどの贈り物を与える事ができる、このイエズス様の聖心の愛の極みとは。

聖ペトロは頭として選ばれました。それにもかかわらず三度否みました。もちろん、もしも私たちでしたら、「あぁ、君ね、何であんな事言ったの」と言ったかもしれません。しかしイエズス様は違いました。叱るどころか、その「お前のやっていた仕事を取ってしまおう」どころか、別の事をします、1つだけ聞くのです、「シモン、ヨナの子シモン、お前は私を愛しているか。」イエズス様がこの弱い惨めな使徒たちの頭に聞いたのは、たった1つでした。どんな力があるかとか、どんな影響力があるかとか、どんなに頭が良いかとか、全然聞きませんでした。「お前は私を愛しているか。」それで十分でした。

ペトロは言います、「主よ、私は御身を愛しています。」
「私の子羊を牧せよ。」

もう一度聞きます。
「ヨナのシモン、私を愛しているか。」
2回聞いて、「確かにそうだ」という事を確認しょうとされたのでしょうか。
「主よ、もちろんです。私は御身を愛しています。」
「私の子羊を牧せよ。」

するとイエズス様は、3回目を聞きます、「ヨナの子シモン、私を愛しているか。」イエズス様が何をお求めになってるか、という事はこれでもうはっきりしています、明らかです。私たちからの愛だけを求めている、と。

すると、3回目を聞かれたペトロは少し悲しくなって、3回否んだ事を思い出したのでしょう、「主よ、御身は全ての事を御存知です。御身は私が御身を愛している事を御存知です。」これはイエズス・キリストが全知全能の天主である事の告白でした。

するとイエズス様は、聖ペトロに自分の最も大切な群れを委ねます、「私の羊を牧せよ。」

“子羊”というのは、一般の使徒たちの事でした。“羊”というのはその親、つまり司祭たちの事です。そして聖ペトロに、「全世界の司祭、司教たちを指導するように」というローマ教皇としての特権を与えたのでした。

そうする事によって、イエズス・キリストの愛が、司祭たちの中に染み通りますように、イエズス・キリストがこの司祭の中に生きる事ができるように、と御望みなのでした。イエズス・キリストの御業を遂行する事ができるように、イエズス・キリストの生き写しとなる事ができるように、この惨めな、パンよりも惨めな人間、罪人の人間、なぜかというとパンは罪を犯しません、罪人の人間を、イエズス・キリストの高みまで上げた、という愛の奇跡、これがカトリックの司祭職です。愛の大傑作です。

そこでカトリックの司祭は、第2のキリストと、イエズス・キリストの生き写しと、その繁栄とならなければなりません。もしも洗礼を受けた方が「キリスト者」という者であるならば、更にそうならなければなりません。

6月には、聖ピオ十世会では多くの新司祭が生まれます。イエズス・キリストによって特別に選ばれて愛された青年たちが、司祭の職を受けます。第2のキリストたちとなります。どうぞ彼らの為にお祈り下さい。そしてこの皆さんのしもべ、非常に下の、惨めな欠点だらけの下らない者ですが、塵の芥の者ですけれども、憐れみと、御情けと、愛情を特別に注がれて、そのイエズス様の司祭職の高みまで上げられた事を、永遠を以ても、感謝し尽くす事ができません。聖ヨハネ・ビアンネ神父様は、「司祭というものが何かという事を理解したら、もうその場で司祭は死んでしまうだろう。」まさにその通りです。私たちがもしもこの愛のその幅と、その長さと、高みと、その深さを知れば知るほど、頭がクラクラしてしまって、もうそれを味わうだけでそれを理解する事はありません。どうぞこのイエズス様の深い愛を味わって下さい。

そしてどうぞ最後に、マリア様にこの特別の御恵みを求めましょう。私たちも聖パウロが言ったように、イエズス様の私たちに対するその愛の幅と、その長さと、その崇高さと、この深みをますます理解する事ができるように、そしてマリア様がイエズス様と同じものを愛しているのは確かですから、私たちもカトリックの司祭職を愛する事ができるように、マリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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