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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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「不正な支配人のたとえについて」ー聖ピオ十世会司祭 エティエンヌ・ドモルネ神父

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大阪の信徒のかたがドモルネ神父様に、「不正な支配人」のたとえについて質問したところ、ドモルネ神父様から2年前に作成なさったというお説教が送られてきました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。


はじめに

本日の福音は不正な支配人のたとえです。これはしばしば、人々を少し驚かせるたとえです。なぜなら、主がずるい盗人をほめておられるようにみえるからです。
このたとえをすこし見て、主が私たちに教えようと望んでおられる教訓を得ることにしましょう。

1.状況:金持ちと支配人

―このたとえに出てくる金持ちとは、宇宙とすべてのものの所有者である天主ご自身です。そのすべてのものには、食べ物や飲み物、衣服、すべての目に見える世界のような物質的なもの、また知性や意志、自由のような霊的なもの、さらには成聖の恩寵や聖霊の賜物、秘蹟などのような超自然的なものがあります。

―このたとえに出てくる支配人とは、私たち一人一人です。天主は実際、私たちに天主の物質的なものと霊的なものの一部をお委ねになりました。私たちがいただく食べ物、私たちが飲む水、私たちが着る衣服、私たちが持つ理性、私たちが持つ能力、これらはすべて天主から来たものです。しかし、天主は、私たちが持っているすべてのものを、私たちが望むことは何でもするために私たちにお与えになったのではなく、天主がお望みになることを私たちがするために私たちにお与えになったのです。こういう訳で、このたとえは私たちを「支配人」と呼ぶのです。私たちは自分のものの所有権を持っているのではなく、管理権を持っているだけなのです。

―主は、この支配人は不正な者であり、主人のものを悪用していた、と指摘なさいます。私たちは不正な支配人なのです。なぜなら、私たちは、天主が私たちに与えてくださったものを、あまりにも頻繁に天主に対して罪を犯すために使っているからです。私たちは、貪食によって食べ物を悪用し、酩酊によって飲み物を悪用し、虚栄や官能性によって衣服を悪用し、吝嗇(りんしょく)によってお金を悪用し、野心によって意志を悪用するといったことをしているのです。

2.主人に呼び出された支配人

―支配人は、契約が終わる前に呼び出されました。ですから、天主は、ご自分がお委ねになったものを悪用する人々のいのちを短くなさるのです。聖書は、それについてはっきりとこう言っています。「悪人になりすぎるな。愚か者になるな。時がこないのになぜ死のうとするのか」(コヘレット7章18節)。このいのちを短くするということは、罰であると同時に御あわれみのわざでもあるのです。なぜなら、そうすることによって、天主は、この罪びとが地獄にもっともっと大きな罰を積み上げてしまうことを防ぐからです。

―この天主による審判の座への呼び出しは、警告なく突然やって来るかもしれないのですから、私たちは深く恐れなくてはなりません。あるいは、天主は私たちに少し時間をお与えになり、例えば長きにわたる病を通じて、迫り来る審判の時を私たちに分かるようにさせてくださるかもしれません。そこで、このたとえにおいては、あえて言うとすれば、主人は次のように解雇の告知をするのです。「おまえのことについてこのように聞いた。どういうことだ」。

―もし天主が解雇の告知を私たちになさるとしたら、それは、私たちが審判の時の前に償いをすることをお許しになるということです。死のあとでは、もはや赦しはなく、ただ正義だけがあり、天主は私たちにこうお尋ねになるでしょう。「おまえは、私がおまえに与えた食べ物や飲み物、衣服、家をどのように使ったのか? おまえは、私がおまえのために創造した世界をどのように使ったのか? おまえは、私がおまえに与えた人生の日々をどのように使ったのか? 私がおまえに委ねたすべての才能について説明しなさい。おまえが言った一つ一つの言葉、おまえがなした一つ一つの行い、おまえが心で楽しんだ一つ一つの思いを説明しなさい。私が秘跡を通じておまえに与えたすべての恩寵で、おまえは何をしたのか?」

これは大げさではありません。聖パウロは私たちにこう言います。「私たちはみな、キリストの審判の座の前で正体を現し、おのおのがその体で行ったことの善悪に従って報いを受ける」(コリント後書5章10節)。

3.支配人の対応

このたとえでは、その後、予想されるみじめさから自分自身を救うために、支配人がしようとしたことを私たちは読みます。その言葉の中で、主イエズスは、永遠のみじめさから自分自身を救うために私たちがすべきことを、あわれみ深く私たちに指摘なさいます。実際、私たち一人一人が、この不正な支配人であり、私たち全員が罪びとなのです。私たちは天主が私たちに委ねられたものを悪用しました。私たち全員が、この支配人の置かれた困難な状態にあるのです。私たちは、自分自身をみじめさから救うために何をすればよいのでしょうか?

―主イエズスは第一に、この世の人々がこの世のことについて勤勉であるように、私たちも自分の救いについて勤勉であるよう私たちに警告なさいます。実際、不幸なことですが、私たちは悪しき人々によって教訓を与えられることがしばしばあります。彼らは、死の時には自分にとって役に立たないお金を稼ごうと働くにあたって、いかにやる気を見せるでしょうか、でも、私たちは、永遠の幸せを求めようと働くにあたって、いかに怠惰になることがあるでしょうか!

―次に主は、私たちが自分の罪によってみずからもたらした永遠のみじめさから逃れるためにすべきことを、私たちに指摘なさいます。主は、このたとえにおいて、三つの解決法を示されます。土を耕すこと、乞食をすること、他人に対して負債を許すことです。土を耕すこととは、私たちの心のかたくなさを打ち砕くために償いをすることを意味します。乞食をすることとは、恩寵と助力と取り次ぎを求めて天主と聖人たちに祈ることです。他人に対して負債を許すこととは、天主への愛のために他人に対してする肉体的なあわれみや霊的なあわれみの行為であり、とりわけ他人が私たちに対して犯した罪を赦すことです。

それから、主は私たちにこう言われます。あなたが体や意志の弱さのせいで多くの償いができないなら、あなたが天主の御あわれみと善にほとんど信頼を持てないためにたくさん祈ることができないなら、少なくとも、あなたは、施しによって象徴される他人に対するあわれみの善行をいつもすることができます。私たちが隣人に対して行うどのような善も、私たちが隣人に与える施しのようなものです。ですから、聖書は施しについてこう言っています。「水は火を消し、施しは罪を消す」(集会書3章33節)、「施しは人をすべての罪から、死から解き、闇に行くのを防いでくれる」(トビア4章11節)、「貧しい者の心に施しをしまい込め。そうすれば、あらゆる悪に対して、あなたのために助けを得させるであろう」(集会書29章15節)。

結論

ですから、それが結論です。天主のゆえに、隣人に対する善を行うことに飽くことのないようにしましょう。人々が感謝するかしないかはまったく問題ではなく、私たちは天主への愛のために、それを行わなければならないのであり、ただ天主だけから報いを期待するのです。

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