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2018年7月6日(初金) 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ 「イエズス様の聖心と御血の関係を黙想する」

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2018年7月6日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年7月6日、7月の初金曜日のミサをしています。そして今日のこの御ミサの後に、聖時間を行ないましょう。

大阪では地震がありました。私たちの聖堂では、ヨゼフ様と入り口にあったマリア様の御像が傷んで壊れてしまいました。それから2つの御聖体顕示台も少し被害を受けましたが、しかしその他は無事で、ほんのちょっとあと揺れが多かったらもっと多くの被害を受けていたと思います。しかしそれで済んだ事を感謝します。
皆さんもご家族の中に被害を被られた方もあるかもしれませんが、しかし命が大事で、無事で良かったと思っています。全ての事に感謝致します。

今日は総長様からの特別の指示で、「総会の準備の為に、聖ピオ十世会の会員は大小斎を守る」という命令を受けていますので、もしも皆さんもできれば一緒にこの犠牲を捧げて下さい。少なくとも私たちは初金の聖時間を、総会の為にお捧げ致しましょう。

明日もミサがあります。それから来週も金・土・日とミサがあります。日曜日には主日にはドゥモルネ神父様がいらして下さいます。



聖父と聖子と聖霊との、御名によりて、アーメン。

今日は7月の初金曜日です。そこで7月は特別にイエズス様の聖なるいと尊き御血へ捧げられた月ですので、イエズス様の聖心と御血の、その2つの関係を黙想する事に致しましょう。

そして「イエズス様は永遠の昔から、私たちの霊魂を養う事を、私たちを悪から救う事を、死から救う事を考えておられた」と入祭誦で言われている通りに、永遠の昔からイエズス様の聖心は、御血を、御自分の御血を流される事を御計画でした。

⑴ 一体、イエズス様はその計画をどのように旧約聖書で予言していたのか?

⑵ 第2に、イエズス様の聖心は一体、歴史的にどうやって御血を流されたのか?

⑶ 最後に、私たちはこの2018年7月6日の今日、私たちはどうやったらその予言の成就である、イエズス様の御血の御恵みの功徳を受ける事ができるのか?

その黙想をする事に致しましょう。


⑴ イエズス様の聖心は、永遠の昔から御血を流す事を考えておられました。色々な前兆が旧約聖書の中にありますが、それを全て私たちは黙想する事ができないので、今日は3つだけ、少しだけ垣間見る事にします。

まず第1は、アダムとエヴァのそのすぐに生まれた子供たち、カインとアベルの兄弟の話があります。カインはお兄さんで、アベルは弟です。カインはこの大地の実り、労働の実りを天主にお捧げ致しました。アベルは子羊をヤーウェに天主にお捧げしたのですけれども、カインの生贄は天主に嘉されずに、そうではなく、アベルの生贄を非常に快く思われました。その事を知ったカインは非常に恨み、アベルを妬み、そして妬みの罪と兄弟殺し、殺人の罪がこの世に入りました。最初に人間の血が、殺害の血が流されました。

「アベルの罪の無い血は、天に復讐を求めて叫んでいた」と旧約聖書にありますが、これは来たるべき、罪の無いイエズス・キリストの流される御血の前兆でした。妬みと嫉妬により、イエズス・キリスト様は私たちの罪の償いとして捧げられますけれども、イエズス様の御血は天に復讐を叫ぶのではなく、イエズス様の御血は私たちの為の、憐れみと、赦しと、恵みを叫んで、天に昇られました。

第2の例として、御血の前兆としてエジプトでの話があります。イスラエルの民はエジプトで奴隷状態でした。強制労働、ピラミッド等を造る為などに強制労働をさせられて、そして子供がたくさん生まれるので、その子供たちの産児制限を強制させられました。しかしヤーウェはこのイスラエルの民をエジプトから解放させ、脱出させようと思われました。そしてその時に遣わされたモーゼは、ヤーウェから命令を受けて、「一歳になる傷の無い子羊を選んで、それを屠れ」と、「そしてその子羊の血をドアの鴨居に塗れ。もしもこのドアに子羊の血が塗ってあるならば、破壊をする天使たちがこの過ぎ越しの夜にエジプト中を見て、もしもその血が塗ってあるのならば、その家は守られる。しかしその血が塗ってないのであれば、ファラオの王の子供であれ、奴隷の子供であれ、家畜であれ、最初の男の子は全て殺される、命を奪われる。」そしてそのようになりました。

この子羊の、“一歳の子羊”というのは、イエズス・キリストの、天主の子羊の前兆でした。「イエズス・キリストの御血が私たちに適用される時、私たちがその御血の功徳を受けているならば、すなわち洗礼を受けているのならば、その御血の力を受けて、私たちは地獄の力から守られる。永遠の破滅から守られる」という事の前兆でした。

今晩私が第3に挙げたいと思うのは、イザヤの預言のビジョンです。ある時、預言者イザヤは、ある人がブドウを踏んで、お酒を作る為にブドウ酒を作る為に踏んでいるのですけれども、その服が真っ赤であるのを見ました。そこで、「一体どうして、あなたの服はそんなに赤いのですか?」と聞くと、その男の人は答えて、「私は、たった一人でこの酒槽でブドウを踏まなければならなかった。そして他の人々に、私と一緒に、助けて私と一緒にやってくれるように頼んだけれども、誰も助けに来てくれる人はいなかった。私はたった一人だ」と答えたビジョンがあります。これも、たった一人で、私たちの為に御血を流されて、ブドウが踏み砕かられるように、私たちの罪の重みによって踏み砕かれて、御血を流し尽くされたイエズス・キリスト様、来たるべき御受難の前兆でした、ビジョンでした。

⑵ 実際イエズス様は、歴史上どのように粉々に踏み砕かれて、御血を流し尽くしてしまったのでしょうか?第2のポイントは、実際にイエズス様がなさった事です。

お生まれになったその最初の瞬間から、イエズス様は御血を流されました。まだ赤ちゃんであった時、その時、天主の御摂理と御計画によって、割礼を受けました、8日目。“イエズス”とは“天主は救う”という意味で、その名前を付けられる時に御血を流されました。量はほんの少しだったかもしれません。しかし天主の流された御血であって、そして苦痛をイエズス様に与えた最初の贖いの天主の御血でした。

天主がイエズス様が流された御血は、むしろもしかしたら聖書に書かれていなくてもあったかもしれませんが、私たちの知っている限り、最初に流されたのはゲッセマニの園です。ゲッセマニの園では、罪の恐ろしさのあまり、私たちが犯した全ての罪を、世の初めから終わりまでの全ての罪を、イエズス様はビジョンで御覧になりました。天主のみがその罪の醜さ、その汚らわしさ、その邪悪さを理解する事ができます。なぜかというと、天主こそ聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、三重にして聖なる御方であって、天主こそが、その光り輝く天主こそが、その闇の暗さをよく理解する事ができるからです。

イエズス様は天主としてこの罪を、たった1つの罪であったとしても、粉々に打ち砕かされてしまうほどのその恐ろしさ、この醜さ、そのおどろおどろしさがあったにもかかわらず、この全てのその罪は、イエズス様の身にかかりました。その罪の醜さのあまり、イエズス様は血の汗を流して祈りました。血の汗。私たちも恐ろしい時の冷や汗を流したり、苦しさのあまりに髪の毛が抜ける、真っ白になってしまう、一晩でやつれてしまう、という時があるかもしれません。しかし更に苦悩が募ると、血管からもはや血が流れ出てしまって、皮膚を通り越して、血の汗を出す、と医者は言います。イエズス様はその苦悩の極度で、血の汗をダラダラとゲッセマニの園で流されました。

その次に、ユダは接吻でイエズス様を売り渡します。あれほど愛された、御恵みを受けた使徒であるユダは、お金の為にイエズス様を売り飛ばしました。後にユダは言います、「私は罪の無い人の血を裏切ってしまった、売り飛ばした。」そう言いながら、絶望のあまり、その銀30シェケルを神殿に投げつけます。罪の無い人、天主の御血を裏切ってしまったユダ。

イエズス様は連行されて、どれほどの虐待を受けた事でしょうか。殴り付けられたり、蹴飛ばされたり。その御体からはきっと、傷付けられた体から血が流れ出ていたに違いありません。鎖で縛り付けられた、あるいは叩かれたかもしれません。大司祭は、「お前はどんな事をするのか」と言うと、暴力を受けました。するとイエズス様は言います、「私が一体何か悪い事を言ったのか。もしもそうなら言ってみろ」と。しかし問答無用、残酷な取扱いを受けました。

その後には、食べ物も与えられず、水も与えられず、寝る所も与えられず、捨てられて、その翌日、ポンシオ・ピラトの前に引き渡されます。ポンシオ・ピラトはイエズス様に罪を見出しませんでした。しかし「懲らしめて解放しよう」という破綻した論理によって、「罪が無いけれども懲らしめる」と言われ、鞭打ちの刑を受けました。

イエズス様の敏感なきれいな御体から、鞭を受けた傷から、大量の御血が流されます。特に私たちの肉で犯す罪の為に、償いの為に、尊き御血が流されました。体全身傷だらけになりました。傷の無い所は1つもありませんでした。

イエズス様の受けた御傷の1つを見ても、流された御血の1滴を見ても、私たちに叫んでいます、「これはこの血は、お前を愛する為に流された。私はお前の事をこれほど愛している。私の聖心はこれほど愛している。」このたった1つの御傷が、それほど私たちに叫びかけているとしたら、イエズス様の受けた全身の傷だらけの御体は、私たちにその何十倍何百倍の、何万倍の声で、私たちの事を「愛している」と叫んでいます。

これでも飽き足らなかったローマの兵士たちは、これでも十分だと思わなかったイエズス様は、ローマの兵士たちに考えを息吹かせたのでしょう、茨の冠を被せるように。非常に敏感な御頭に、茨の、大きな茨が突き刺さりました。どれほど痛かった事でしょうか。

イエズス様の流された御血は、体に傷の無い所を残しませんでした。頭の先から足の下まで、全て傷だらけでした。そしてポンシオ・ピラトは、この傷だらけのイエズス様を私たちの前に見せつけます、「この人を見よ!」

「人類をこれほど愛した、この救い主イエズス・キリストを見よ!これほどお前たちを愛した天主はいるだろうか。これほどの愛の証明を私たちに見せつけるものが他にあるだろうか。この人を見よ!」とポンシオ・ピラトは私たちに言っているかのようです。

イエズス様はこの傷だらけの体で、茨の冠を付けたまま、私たちの為に十字架を担います。「私のくびきを取って、私の心に倣え。私は柔和、心の謙遜な者である。私はお前たちを休ませよう。」

イエズス様は私たちの代わりに重い十字架を取って担って、そして私たちにはほんの軽いくびきだけを与えてくれます。イエズス様の担ぐ十字架の後を私たちに歩くように、と御血は招いています。どうやって歩いたら良いかは、その御血でいっぱいになって跡が付いている道を歩けば良いのだ、と教えているかのようです。カルワリオの道は、イエズス様の御血の跡が付いています。

ゴルゴダの上で、イエズス様は十字架に付けられます。手に足に釘を付けられます。イエズス様は全身傷だらけで、手も足も動く事ができませんでした。しかし「傷の無い所は無い、全て傷だらけだ。心臓さえも傷を付けられている」という事を示す為に、あたかもイエズス様が死の眠りについた時に、ローマの兵士が槍で、無傷であった心臓を貫きます。その時に、残っていた御血と、体液である水が流れ出されました。「これで、もうこれ以上流すものは無い。もうブドウのカスも絞り尽くされた」とでも言うかのようです。

第2のアベルの血は、聖父に、憐れみと、赦しと、御恵みを乞い求めて、天に叫んでいます。私たちの為に愛を叫んでいます。
「この御血を受けるならば、私たちは決して滅ぼされる事がない、どのような悪からも守られる」と、「さぁ、この聖心の傷から我が胸の中に入れ」と招いているかのようです。

⑶ では第3の点に、私たちは一体どうしたら良いのでしょうか?

私たちもイエズス様の流された御血、そして十字架のこの御受難の再現であるミサ聖祭に、ぜひ心して与るように致しましょう。私たちがミサに与れば与るほど、御血の功徳をますます受けます。そして私たちを通して、私たちのみならず、私たちの周囲にいる人全てが、御血の御恵みを受けます。どうぞこのミサに与って下さい。このイエズス様の聖心に湛えられた御血を全て受けるように、その意向で与って下さい。

御聖体拝領を受けて下さい。御聖体はその中に、御体と御血、そして御人性、御神性が全て入っています。ファチマの天使も言います、「人類によってかくも恐ろしく冒瀆されたイエズス・キリストを慰める為に、聖体拝領をせよ。」

今日ミサの時に御聖体拝領誦の時に、このように聖歌隊は歌います、「兵士の槍が聖心を貫くと、すぐに御血と水が出た。」

あたかも、御聖体拝領するとその聖心から、開かれた聖心からすぐに、御血とイエズス様の浄めの水の御恵みが私たちの所に注がれるかのようです。
「聖体拝領の御恵みの効果が、今こうなっている」という事を歌っているかのようです。

最後に、マリア様の汚れなき御心に、私たちがその御血の功徳と聖心の愛の中に深く入る事ができるように、お祈り致しましょう。マリア様はいつも十字架の下に留まっておられました。マリア様は仰います、「私の御心はあなたたちの避難所である。そして天主に至るイエズスの聖心に至る道である」と。私たちがイエズス様の聖心にますます近くに行く事ができるように、マリア様に御取次ぎを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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