2018年7月7日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年7月7日、7月の初土曜日で、そして聖母の汚れなき御心の随意ミサ、初土の信心として行なっています。
今日この御ミサの終わった後には、いつものように感謝のお祈りを致しましょう。
今日は公教要理の時間に、御聖体降福式をするのを提案します。初土の信心をする為、そして聖ピオ十世会の総会がもうすぐ始まろうとして、その総会に参加する管区長や長上たちも40名ほど黙想会をしていて、その準備をしています。この総会が聖ピオ十世会にとって非常に大切なものですので、非常にうまくなされますように、そして大阪で地震で大きな被害を受けた所もありますが、この御聖堂はそれでも大きな被害を免れた事を感謝する為に、そして今日実は大雨で来たくても来れない方がたくさんいると思うので、その方々の為にもお捧げしたいと思います。
次のミサは来週のすぐ金・土・日・月とあります、いらして下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、昨日初金曜日でイエズス様の信心をして、そして「私たちはそのイエズス様の聖心に行く為にマリア様にも、汚れなき御心、天主への道であるマリア様の汚れなき御心に行くのが最高の道だ」という事を申しました。
そこでこの今日は、「このマリア様の汚れなき御心が天主へと導く道、イエズスの至聖なる聖心へと導く道である」という事、言い換えると、「イエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心が、分かち難く一致している」というその神秘について、一緒に黙想する事を提案します。
⑴ 一体なぜ、マリア様の御心とイエズス様の聖心はそんなに一致しているのか?
⑵ どれほど一致しているのか?
⑶ それは現代の私たちにとってどんな意味があるのか?
⑷ そして最後に、今日の遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴ では一体なぜ、イエズス様の聖心とマリア様の御心がそんなに一致しているのでしょうか?その理由は何なのでしょうか?
イエズス様は永遠の昔から天主であって、愛であります。「天主は愛である」と聖ヨハネは言います。人間としてイエズス様の聖心が、愛によって鼓動を始めた時、マリア様の御胎内で御託身された時、イエズス様の人間としての聖心が鼓動を、愛の鼓動を始めました。その時に、愛に燃えたその対象は、最高の対象は、聖父への愛でした。「天に在す我らの聖父よ、願わくは御名の尊まれん事を。御国の来たらん事を。御旨の天に行なわるる如く、地にも行われん事を。」イエズス様はこれを望んでいました。聖父の栄光が、御名が聖とされん事を。聖父の御旨が全てにおいて果たされん事を。
またイエズス様の聖心は、被造物である人間への愛に満ちていました。救霊、私たち罪人である人間を贖い、天国に導く、その為に自分の全てを与える、という愛に燃えていました。その中で一番、特別の愛の選びを受けて、イエズス様から特に愛を注がれた方が、マリア様でした。マリア様の霊魂がなぜそれほど特別だったかというと、特別の愛の選びによって、マリア様の霊魂はイエズス様の、天主からの愛を全て、全く一つの拒みもなく、躊躇いもなく、ありのままを全て受け入れたからです。太陽の光が照らされた時に、その曇りの一点のないガラスのように、光をそのまま受けた霊魂だったからです。
マリア様は、罪、あるいは怒り、あるいは汚れ、あるいは自分の思い、あるいは自分の都合、というものは全くありませんでした。天主の愛を全てそのまま、自分のものとして愛し返したのでした。マリア様こそが、その愛を全て愛で返した、被造物として出来るその最高度のものとして愛し返した方でした。ですからマリア様こそ、天主の愛を完全に透き通す被造物でした、最高の被造物でした。
⑵ ではその度合いはどれほどだったのでしょうか?第2のポイントです。
2つ例をとると、これは聖ヨハネ・ユードの言った言葉ですが、先月6月で、「司祭をイエズス様がどれほど愛されているか」という事を黙想した時に、聖パウロの事が出ました。聖パウロはイエズス・キリストの愛を受け、イエズス・キリストの愛で返そうとした最高の一人です。
聖パウロはその書簡の中で書いています、「私にとって、この世の全てのものは塵芥である。イエズス・キリストを知るという事に比べたら、全く下らない塵であり、ゴミである、芥である。」
本当は聖パウロは、トイレで私たちが捨てるような物についてラテン語で書いております「…だ」と。(- -;)
そして「我にとって生きるというのはキリストである。もはや私が生きているのではない、キリストが私において生きている。私はこの事しか知ろうしない、イエズス・キリスト、十字架に付けられたイエズス・キリストだけを。」
そこで聖ヨハネ・クリゾストモはこう言っています、「聖パウロの心はイエズス様の心である。そして聖パウロは司祭の模範だ。パウロの心はキリストの心だ」と。
このヨハネ・クリゾストモの言葉を引用して、聖ヨハネ・ユードは言うのです、「もしも聖パウロが、『聖パウロの心がキリストの心だ』と言う事ができたとしたら、マリア様の御心については更に言わなければならない」と。「マリア様の汚れなき御心は、イエズス様の聖心と全く一致している」と。
もう1つの点は、聖ヨハネ・ユードによると、「愛、あるいは友情とは何か」という事を説明してこう言います、「人が誰かを愛するようになると、誰かと友達となると、その友達となった人は、友達と同じ事を望み、友達と同じ事を望まない。もしも友達が、『この事を好きだ』と言えば、自分も『このこれが好きだ』となるし、もしも『これが気に入らない』となると、自分も気に入らなくなる」と。「これは愛の影響で、同じものを望み、同じものを望まなくなる」と。
マリア様も、天主が望むものを望み、天主が望まない罪を忌み憎むようになりました。マリア様の中には、天主への愛に燃え立ち、そして罪への忌み嫌いに燃えていました。汚れなき御心は天主への愛に燃え立っていたのです。聖寵に充ち満ちた御心だったからです。ですからマリア様の御心は、イエズス様の聖心と同じものを望み、同じものを忌み憎んでいました。
ですから聖ヨハネ・ユードは言います、「マリア様の御心とイエズス様の聖心は一致している」と。「1つだ」と。
⑶ では第3に、私たちにとってどんな意味があるのでしょうか?
ファチマの100周年を私たちは祝ってきました。その100周年を祝って、今からそのもう一度ファチマの出来事を思い返すと、こういう事に気が付きます、「天使は最初から、この2つの一致した聖心について語っていた」と。
天使が最初に現れた時に、子供たちに言います、「イエズスとマリアの聖心は、お前たちの懇願の祈りの声に、非常に注意深く耳を傾けている。」イエズスとマリアの聖心について話しています。
第2回目に現れた時には、「イエズスとマリアの至聖なる聖心は、お前たちに憐れみの計画がある」と言っています。もちろん子供たちを通して、私たちについても言っています、「イエズス様とマリア様の汚れなき御心は聖なる聖心は、私たちに、皆さんと私について、憐れみの御計画がある」と。
そして最後に天使が現れた時には、私たちがいつもお祈りしているお祈りの中でこう言いました、「イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を乞い願い奉る。」私もこれを翻訳する時に、とても不思議だなぁ、と思いながら翻訳しました。なぜかというと、「無限の功徳」という言葉は、「イエズス様の聖心の無限の功徳」だけではなくて、「イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳」この「2つの聖心の無限の功徳」と天使が言っているからです。これは、この2つの聖心が一致している、という事ではなくて一体何なのでしょうか。
もちろんイエズス様は天主として、全知全能永遠の天主が人となったその聖心として、無限の功徳があります。マリア様は、イエズス様の御憐れみと、イエズス様と一致している事によって、祈りによって、無限の功徳があります。御憐れみによって無限の功徳があります。
イエズス様が天主として私たちにその御恵みを与えようと望んでいるならば、マリア様の汚れなき御心は、イエズス様の至聖なる聖心によって私たちに同じものを与えようとしています。ですからマリア様が6月13日に、「私の汚れなき御心は避難所であって、天主へと導く道である、イエズスの聖心へと導く道である」と仰ったのは当然だと言えます。なぜかというと、私たちはマリア様の御心に行くと、イエズス様の聖心を見出すからです。イエズスの御望みと、イエズスの愛を見出すからです、それだけを見出すからです。「マリア様」というものは一切無くて、イエズス様の事だけがあるからです。
ちょうどこの「イエズス様の聖心とマリア様の御心が一致している」というのを7月に黙想するのは、ファチマの100周年の直後に黙想するというのは、ですから特別に意味があると思います。なぜかというと私たちは、聖ピオ十世会の2つの聖心が合わさった、聖ピオ十世会のシンボルマーク、このロゴを抱いた修道会であるからです。聖ピオ十世会が特に総会で、総長様やその管区長たちが長上たちが、聖ピオ十世会が創立の目的に適って、教会から与えられたその創立の目的に適って、会憲と自分のこの為すべき使命を果たしているか、自分のミッションを果たしているか、という事を吟味する総会が始まろうとしますけれども、その聖ピオ十世会の最もシンボル的なものは、「この2つの聖心が一致している、イエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心が1つである」という事ですから、私たちにとってこれを深く極めるという事は、どれほど大切でしょうか。
⑷ では、私たちはどんな決心を立てたら良いでしょうか?
イエズス様の聖心を深く愛して知るためにも、マリア様の汚れなき御心の信心を深める事に致しましょう。そしてマリア様の汚れなき御心を深く知り、愛する為にも、そのマリア様を特別に愛したイエズス様の聖心を深く知り、愛する事に致しましょう。そしてこの2つの聖心への信心を深めるば深めるほど、私たちはこの2つの聖心が1つである、と確信せざるを得ません。
そして私たちがこの2つの聖心への信心をすればするほど、ますますより早く、より簡単に、より完璧に、この聖心に近付き、それに似通ったものとなります。なぜかというと、マリア様が私たちの心をイエズス様へと近付けてくれるからです。私たちが真似るべき鋳型となってくれるからです。その鋳型に私たちがより良く入る事ができるように、イエズス様の聖心も手伝って下さいます。
今日は、この2つの聖心の神秘の中に深く入る事に致しましょう。そしてこのミサの後の御聖体降福式の時には、ぜひマリア様の汚れなき御心の信心をする事に致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年7月7日、7月の初土曜日で、そして聖母の汚れなき御心の随意ミサ、初土の信心として行なっています。
今日この御ミサの終わった後には、いつものように感謝のお祈りを致しましょう。
今日は公教要理の時間に、御聖体降福式をするのを提案します。初土の信心をする為、そして聖ピオ十世会の総会がもうすぐ始まろうとして、その総会に参加する管区長や長上たちも40名ほど黙想会をしていて、その準備をしています。この総会が聖ピオ十世会にとって非常に大切なものですので、非常にうまくなされますように、そして大阪で地震で大きな被害を受けた所もありますが、この御聖堂はそれでも大きな被害を免れた事を感謝する為に、そして今日実は大雨で来たくても来れない方がたくさんいると思うので、その方々の為にもお捧げしたいと思います。
次のミサは来週のすぐ金・土・日・月とあります、いらして下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、昨日初金曜日でイエズス様の信心をして、そして「私たちはそのイエズス様の聖心に行く為にマリア様にも、汚れなき御心、天主への道であるマリア様の汚れなき御心に行くのが最高の道だ」という事を申しました。
そこでこの今日は、「このマリア様の汚れなき御心が天主へと導く道、イエズスの至聖なる聖心へと導く道である」という事、言い換えると、「イエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心が、分かち難く一致している」というその神秘について、一緒に黙想する事を提案します。
⑴ 一体なぜ、マリア様の御心とイエズス様の聖心はそんなに一致しているのか?
⑵ どれほど一致しているのか?
⑶ それは現代の私たちにとってどんな意味があるのか?
⑷ そして最後に、今日の遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴ では一体なぜ、イエズス様の聖心とマリア様の御心がそんなに一致しているのでしょうか?その理由は何なのでしょうか?
イエズス様は永遠の昔から天主であって、愛であります。「天主は愛である」と聖ヨハネは言います。人間としてイエズス様の聖心が、愛によって鼓動を始めた時、マリア様の御胎内で御託身された時、イエズス様の人間としての聖心が鼓動を、愛の鼓動を始めました。その時に、愛に燃えたその対象は、最高の対象は、聖父への愛でした。「天に在す我らの聖父よ、願わくは御名の尊まれん事を。御国の来たらん事を。御旨の天に行なわるる如く、地にも行われん事を。」イエズス様はこれを望んでいました。聖父の栄光が、御名が聖とされん事を。聖父の御旨が全てにおいて果たされん事を。
またイエズス様の聖心は、被造物である人間への愛に満ちていました。救霊、私たち罪人である人間を贖い、天国に導く、その為に自分の全てを与える、という愛に燃えていました。その中で一番、特別の愛の選びを受けて、イエズス様から特に愛を注がれた方が、マリア様でした。マリア様の霊魂がなぜそれほど特別だったかというと、特別の愛の選びによって、マリア様の霊魂はイエズス様の、天主からの愛を全て、全く一つの拒みもなく、躊躇いもなく、ありのままを全て受け入れたからです。太陽の光が照らされた時に、その曇りの一点のないガラスのように、光をそのまま受けた霊魂だったからです。
マリア様は、罪、あるいは怒り、あるいは汚れ、あるいは自分の思い、あるいは自分の都合、というものは全くありませんでした。天主の愛を全てそのまま、自分のものとして愛し返したのでした。マリア様こそが、その愛を全て愛で返した、被造物として出来るその最高度のものとして愛し返した方でした。ですからマリア様こそ、天主の愛を完全に透き通す被造物でした、最高の被造物でした。
⑵ ではその度合いはどれほどだったのでしょうか?第2のポイントです。
2つ例をとると、これは聖ヨハネ・ユードの言った言葉ですが、先月6月で、「司祭をイエズス様がどれほど愛されているか」という事を黙想した時に、聖パウロの事が出ました。聖パウロはイエズス・キリストの愛を受け、イエズス・キリストの愛で返そうとした最高の一人です。
聖パウロはその書簡の中で書いています、「私にとって、この世の全てのものは塵芥である。イエズス・キリストを知るという事に比べたら、全く下らない塵であり、ゴミである、芥である。」
本当は聖パウロは、トイレで私たちが捨てるような物についてラテン語で書いております「…だ」と。(- -;)
そして「我にとって生きるというのはキリストである。もはや私が生きているのではない、キリストが私において生きている。私はこの事しか知ろうしない、イエズス・キリスト、十字架に付けられたイエズス・キリストだけを。」
そこで聖ヨハネ・クリゾストモはこう言っています、「聖パウロの心はイエズス様の心である。そして聖パウロは司祭の模範だ。パウロの心はキリストの心だ」と。
このヨハネ・クリゾストモの言葉を引用して、聖ヨハネ・ユードは言うのです、「もしも聖パウロが、『聖パウロの心がキリストの心だ』と言う事ができたとしたら、マリア様の御心については更に言わなければならない」と。「マリア様の汚れなき御心は、イエズス様の聖心と全く一致している」と。
もう1つの点は、聖ヨハネ・ユードによると、「愛、あるいは友情とは何か」という事を説明してこう言います、「人が誰かを愛するようになると、誰かと友達となると、その友達となった人は、友達と同じ事を望み、友達と同じ事を望まない。もしも友達が、『この事を好きだ』と言えば、自分も『このこれが好きだ』となるし、もしも『これが気に入らない』となると、自分も気に入らなくなる」と。「これは愛の影響で、同じものを望み、同じものを望まなくなる」と。
マリア様も、天主が望むものを望み、天主が望まない罪を忌み憎むようになりました。マリア様の中には、天主への愛に燃え立ち、そして罪への忌み嫌いに燃えていました。汚れなき御心は天主への愛に燃え立っていたのです。聖寵に充ち満ちた御心だったからです。ですからマリア様の御心は、イエズス様の聖心と同じものを望み、同じものを忌み憎んでいました。
ですから聖ヨハネ・ユードは言います、「マリア様の御心とイエズス様の聖心は一致している」と。「1つだ」と。
⑶ では第3に、私たちにとってどんな意味があるのでしょうか?
ファチマの100周年を私たちは祝ってきました。その100周年を祝って、今からそのもう一度ファチマの出来事を思い返すと、こういう事に気が付きます、「天使は最初から、この2つの一致した聖心について語っていた」と。
天使が最初に現れた時に、子供たちに言います、「イエズスとマリアの聖心は、お前たちの懇願の祈りの声に、非常に注意深く耳を傾けている。」イエズスとマリアの聖心について話しています。
第2回目に現れた時には、「イエズスとマリアの至聖なる聖心は、お前たちに憐れみの計画がある」と言っています。もちろん子供たちを通して、私たちについても言っています、「イエズス様とマリア様の汚れなき御心は聖なる聖心は、私たちに、皆さんと私について、憐れみの御計画がある」と。
そして最後に天使が現れた時には、私たちがいつもお祈りしているお祈りの中でこう言いました、「イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を乞い願い奉る。」私もこれを翻訳する時に、とても不思議だなぁ、と思いながら翻訳しました。なぜかというと、「無限の功徳」という言葉は、「イエズス様の聖心の無限の功徳」だけではなくて、「イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳」この「2つの聖心の無限の功徳」と天使が言っているからです。これは、この2つの聖心が一致している、という事ではなくて一体何なのでしょうか。
もちろんイエズス様は天主として、全知全能永遠の天主が人となったその聖心として、無限の功徳があります。マリア様は、イエズス様の御憐れみと、イエズス様と一致している事によって、祈りによって、無限の功徳があります。御憐れみによって無限の功徳があります。
イエズス様が天主として私たちにその御恵みを与えようと望んでいるならば、マリア様の汚れなき御心は、イエズス様の至聖なる聖心によって私たちに同じものを与えようとしています。ですからマリア様が6月13日に、「私の汚れなき御心は避難所であって、天主へと導く道である、イエズスの聖心へと導く道である」と仰ったのは当然だと言えます。なぜかというと、私たちはマリア様の御心に行くと、イエズス様の聖心を見出すからです。イエズスの御望みと、イエズスの愛を見出すからです、それだけを見出すからです。「マリア様」というものは一切無くて、イエズス様の事だけがあるからです。
ちょうどこの「イエズス様の聖心とマリア様の御心が一致している」というのを7月に黙想するのは、ファチマの100周年の直後に黙想するというのは、ですから特別に意味があると思います。なぜかというと私たちは、聖ピオ十世会の2つの聖心が合わさった、聖ピオ十世会のシンボルマーク、このロゴを抱いた修道会であるからです。聖ピオ十世会が特に総会で、総長様やその管区長たちが長上たちが、聖ピオ十世会が創立の目的に適って、教会から与えられたその創立の目的に適って、会憲と自分のこの為すべき使命を果たしているか、自分のミッションを果たしているか、という事を吟味する総会が始まろうとしますけれども、その聖ピオ十世会の最もシンボル的なものは、「この2つの聖心が一致している、イエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心が1つである」という事ですから、私たちにとってこれを深く極めるという事は、どれほど大切でしょうか。
⑷ では、私たちはどんな決心を立てたら良いでしょうか?
イエズス様の聖心を深く愛して知るためにも、マリア様の汚れなき御心の信心を深める事に致しましょう。そしてマリア様の汚れなき御心を深く知り、愛する為にも、そのマリア様を特別に愛したイエズス様の聖心を深く知り、愛する事に致しましょう。そしてこの2つの聖心への信心を深めるば深めるほど、私たちはこの2つの聖心が1つである、と確信せざるを得ません。
そして私たちがこの2つの聖心への信心をすればするほど、ますますより早く、より簡単に、より完璧に、この聖心に近付き、それに似通ったものとなります。なぜかというと、マリア様が私たちの心をイエズス様へと近付けてくれるからです。私たちが真似るべき鋳型となってくれるからです。その鋳型に私たちがより良く入る事ができるように、イエズス様の聖心も手伝って下さいます。
今日は、この2つの聖心の神秘の中に深く入る事に致しましょう。そしてこのミサの後の御聖体降福式の時には、ぜひマリア様の汚れなき御心の信心をする事に致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。