アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
ローマの宣教聖省から東京大司教区に通知が届いて、東京にネオ・カテクメナートの神学校が設立されるそうです。それによると、東京大司教に何の相談も無く、バチカンが一方的に東京に設立するそうです。東京大司教様が、寝耳に水で驚いているということをニュースで読みました。
この意味は、日本は第二バチカン公会議の改革の成果であるカリスマ運動を十分に受け入れていないので、バチカンが主導して押し付ける、ということです。
それで、三十五年ほど前のことを思い出しました。
藤枝聖アンナ・カトリック教会でのことを。
藤枝カトリック教会は設立百周年を祝ったばかりのことでした。
私たちの心に深く根付いていた御聖体に対する愛と尊敬と信心が、つまりカトリックの伝統的な信仰が、新しく司教様から任命されて藤枝にいらした主任司祭によって根こそぎにされました。
キリスト教の「土着化」というイデオロギーの前に、「カトリック信仰の要請する論理的結論」は無視されました。
御聖体に対する信仰、真の現存という信仰は、理解されませんでした。
ただあったのは、従順、従順、従順。
そう決まったから。
「でも私たち、地元では、百年以上前からこうしております。」
「私たちの主の前で、膝をかがめるのが聖書の教えです。」
今までそうすべきだと教えられて、やり続けてきたことが、突然、禁止されたのです。
カトリック教会がずっと百年以上いつもやり続けてきたことをやると、突然、「教会を離れた」と言われるようになりました!一体どっちが?!
私はまだ学生だったのですが「別の教会を作ったら?」と主任司祭から言われました。一体どっちが?!
昔からの信仰を保とうとする人は「キリステ」られました。これが、聖伝をキリステる新しいキリスト教会、信徒中心の教会、土着化の教会でした。
カトリックの伝統的な信仰、つまり、聖伝の信仰を保とうとするが故に、教会から「離れた」ことになってしまいました。
それから時を経て、今では、御聖体拝領の時だけではなく、ミサの間跪くことが禁止されています。跪く人々は、一致を乱す、教会の交わりにいない人々、離れつつある人々、逆らう人々、です。
教会法はカトリック信仰を守る為に作られました。しかし、教会法の精神と目的によらず、新しいイデオロギーを押し付ける為に権威が使われました。
将来的には、もっと酷いことになるでしょう。例えば、ネオ・カテクメナートの道を公に批判する人々は、教会を離れている、逆らう人々、教皇様と一致していない人々、と。
おっと、今日の話題は、これではありません。
ネオ・カテクメナートの道は、信仰の観点から異端的だと指摘されて来ています。カリスマ運動的で、正統信仰から外れている、と。たとえバチカンがネオ・カテクメナートを「認可」したとしても。
ネオ・カテクメナートの道は、日本の高松教区で痛ましいトラウマを遺し、深い傷をつけてしまいました。苦々しい実りをもたらしました。実りを見て、日本に合わないことは、明らかです。
原因が同じならば、同じ結果になるでしょう。たとえバチカンが一方的に運営するにせよ、東京大司教区では、また同じような悲劇が繰り返されることでしょう。
それどころか日本全体(アジア全体)へとその同じ悲劇が広まり、大混乱となるでしょう。信仰の破壊が進んでしまうでしょう。
日本の司教様たちがバチカンに陳情しても、効果はありませんでした。
カトリックの信仰の観点から話すのでなければ、説得力を持たないことでしょう。
「バチカンが決めたことだから、仕方がないよ。信仰を変えないと教会から離れたことになるから。」
多くの人々は、教会の信仰がどんどん変えられるのをそうやって受け入れてここまでやって来ました。
しかし、改革はまだまだ続きます。終わりを知りません。信仰は変えられ、公教要理はますます変えられるでしょう。
カトリックらしさは失われ切り捨てられ、カトリック教会というよりは、エキュメニカル教会とならなければならないからです。
主よ、憐れみ給え!
聖母の汚れなき御心よ、我らの為に祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様!
ローマの宣教聖省から東京大司教区に通知が届いて、東京にネオ・カテクメナートの神学校が設立されるそうです。それによると、東京大司教に何の相談も無く、バチカンが一方的に東京に設立するそうです。東京大司教様が、寝耳に水で驚いているということをニュースで読みました。
この意味は、日本は第二バチカン公会議の改革の成果であるカリスマ運動を十分に受け入れていないので、バチカンが主導して押し付ける、ということです。
それで、三十五年ほど前のことを思い出しました。
藤枝聖アンナ・カトリック教会でのことを。
藤枝カトリック教会は設立百周年を祝ったばかりのことでした。
私たちの心に深く根付いていた御聖体に対する愛と尊敬と信心が、つまりカトリックの伝統的な信仰が、新しく司教様から任命されて藤枝にいらした主任司祭によって根こそぎにされました。
キリスト教の「土着化」というイデオロギーの前に、「カトリック信仰の要請する論理的結論」は無視されました。
御聖体に対する信仰、真の現存という信仰は、理解されませんでした。
ただあったのは、従順、従順、従順。
そう決まったから。
「でも私たち、地元では、百年以上前からこうしております。」
「私たちの主の前で、膝をかがめるのが聖書の教えです。」
今までそうすべきだと教えられて、やり続けてきたことが、突然、禁止されたのです。
カトリック教会がずっと百年以上いつもやり続けてきたことをやると、突然、「教会を離れた」と言われるようになりました!一体どっちが?!
私はまだ学生だったのですが「別の教会を作ったら?」と主任司祭から言われました。一体どっちが?!
昔からの信仰を保とうとする人は「キリステ」られました。これが、聖伝をキリステる新しいキリスト教会、信徒中心の教会、土着化の教会でした。
カトリックの伝統的な信仰、つまり、聖伝の信仰を保とうとするが故に、教会から「離れた」ことになってしまいました。
それから時を経て、今では、御聖体拝領の時だけではなく、ミサの間跪くことが禁止されています。跪く人々は、一致を乱す、教会の交わりにいない人々、離れつつある人々、逆らう人々、です。
教会法はカトリック信仰を守る為に作られました。しかし、教会法の精神と目的によらず、新しいイデオロギーを押し付ける為に権威が使われました。
将来的には、もっと酷いことになるでしょう。例えば、ネオ・カテクメナートの道を公に批判する人々は、教会を離れている、逆らう人々、教皇様と一致していない人々、と。
おっと、今日の話題は、これではありません。
ネオ・カテクメナートの道は、信仰の観点から異端的だと指摘されて来ています。カリスマ運動的で、正統信仰から外れている、と。たとえバチカンがネオ・カテクメナートを「認可」したとしても。
ネオ・カテクメナートの道は、日本の高松教区で痛ましいトラウマを遺し、深い傷をつけてしまいました。苦々しい実りをもたらしました。実りを見て、日本に合わないことは、明らかです。
原因が同じならば、同じ結果になるでしょう。たとえバチカンが一方的に運営するにせよ、東京大司教区では、また同じような悲劇が繰り返されることでしょう。
それどころか日本全体(アジア全体)へとその同じ悲劇が広まり、大混乱となるでしょう。信仰の破壊が進んでしまうでしょう。
日本の司教様たちがバチカンに陳情しても、効果はありませんでした。
カトリックの信仰の観点から話すのでなければ、説得力を持たないことでしょう。
「バチカンが決めたことだから、仕方がないよ。信仰を変えないと教会から離れたことになるから。」
多くの人々は、教会の信仰がどんどん変えられるのをそうやって受け入れてここまでやって来ました。
しかし、改革はまだまだ続きます。終わりを知りません。信仰は変えられ、公教要理はますます変えられるでしょう。
カトリックらしさは失われ切り捨てられ、カトリック教会というよりは、エキュメニカル教会とならなければならないからです。
主よ、憐れみ給え!
聖母の汚れなき御心よ、我らの為に祈り給え!