2018年7月8日(主日)聖霊降臨後第7主日のミサ
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2018年7月8日、聖霊降臨後第7主日のミサをしております。
まず前回のミサの時には、私の司祭叙階25周年のために非常に盛大な祝賀会をして下さいまして感謝致します。皆さんからのお祝いの言葉と祈りに励まされて、ますます忠実な、イエズス・キリストの後を慕う司祭となる事ができるようにと思っています。
総会が7月11日から始まりますが、今日は御ミサの直後、司祭の退場の時に、総長様からの指示によって総会の準備の為のノベナをミサの退場の前にしたいと思います。
「Veni Creator」と「Sub tuum」を歌って祈ります。そこで退場の前にこれを歌いますので、皆さんもどうぞ一緒に歌って下さい。良い、実りのある総会となりますように、お祈り致しましょう。
今日の公教要理は、夏休みでここではありません。
その代わりに、岐部ホールという聖イグナチオ教会の隣にある所で、プロライフの方がDr.リガヤ・アコスタというフィリピンの方が、お話をされるので、そのお話を聞きに行きたいと思っています。
実はこの方をご家族をよく知っていて、フィリピンではいつも一緒にプロライフの話を運動をしていました。そこで聖ピオ十世会のマニラの教会にもお呼びして、お話をして下さった事もありました。ぜひ応援に駆けつけたいと思っております、どうぞ公教要理を夏休みにする事をお許し下さい。明日は7時からミサがあります。
次のミサは、すぐこの次の主日で15日、それから海(産み)の日の16日、10時30分から両方ともあります。特に7月16日の海(産み)の日は、午後16時からマーチ・フォー・ライフがあるので、もしも皆さん時間を作って頂ければ参加して下さればと思っています。
8月はやはり色々な予定があります。8月11日から15日までは聖母の小黙想会を考えています。そしてデ・ガラレタ司教様も来日されます、東京で堅振式も授けて下さいます。堅振を受けたいという方は、聖伝の儀式によって堅振を、という方は是非申請をなさって下さい。よろしければ会長にその旨をお伝え下さい。
“Nunc vero liberati a peccato, servi autem facti Deo, habetis fructum vestrum in sanctificationem.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
「しかし、罪から解放された今、天主の奴隷となって聖徳の実を結んだ。」聖パウロはこの書簡の中でこう言っています。
典礼学者によると、「今日の主日から聖霊降臨後の主日は、これから何回か、2つの対立したイメージを私たちに示す」と説明しています。「今日のミサは、その始まりだ」と言います。
典礼学者によると、イメージは、罪の奴隷と天主の奴隷、この世の王国と天の王国、あるいは悪いキリスト信者と良いキリスト信者の対立のイメージがあります。今日のイメージは「実を結ばない木と、実を結ぶ良い木」です。
今日の書簡と福音のテーマは、「この良い実とは何か?良い実を結ぶとは何か?」という事を話しています。この今日のミサのテキストを黙想してみると、このミサについて考えれば考えるほど、「実を結ぶ」という事が出てきます。
あるいは入祭誦と昇階誦で、「永遠の偉大なる王が出て来る。全ての民よ、この王に拍手喝采を送れ。讃美せよ」という、全ての土地を支配すべき王、イエズス・キリストについて語られる、という事も出てきます。
あるいは、「さぁ子供たちよ、いらっしゃい、おいでなさい。主への畏れを教えよう」等ということも話題になっています。
これらの3つの言葉を見ると、考えれば考えるほど、ちょうどこれはこのミサは、この7月8日の、聖霊降臨後第7主日の、特に東京の私たちの為に、堅振の事を準備させる為に、御摂理によってあるミサであるように思われてなりません。
そこで今日はその堅振の準備の為の第1として、このミサを一緒に黙想する事にしましょう。
⑴ 第1の点はですから、「実りとは何か?」です。
私たちはただ葉っぱを付けるだけでは足りなくて、お花を咲かせるだけでは足りなくて、実を結ばなければならない。実りとは何か?
⑵ 第2には、この「王とは何か?」
「実は2人の王がいるのだ」と聖イグナチオは言います。
⑶ 第3に、では「その王に仕える為の、主への畏れとは何か?」
この3つがどれほど堅振の秘跡に結び付いているか、という事を黙想したいと思っています。
⑴ 第1は実り。
「実り」というのは、果実の木の、あるいは植物の一番最後に、フルーツというのは一番最後にあるものです。そしてこの実りというのは、普通は甘かったり、それを得ると非常に甘美なものです。そして私たちの人生にも、この実りをもたらさなければなりません。最後にこの何か非常に甘美な、とても甘い、デザートに使う事ができるようなものを、実らせなければなりません。
聖パウロは言います、「これは永遠の命だ。」「それに反対する実もある。罪の実であって、罪の実は、永遠の死である。永遠の苦しみ、命とは言う事ができない死である。」「それで私たちは、この本当の甘美な実りをもたらさなければならない。」
⑵ では、それを望むのは一体誰なのでしょうか? 2人の対立する王があります。
これは第2の点ですけれども、聖イグナチオの霊操には「王たるキリストの呼びかけ」という黙想があります。その黙想によると、「王たるキリストは、自分の実りを、甘美な実りをもたらす為に、兵士たちを準備する、しもべたちを準備する」という話があります。
聖イグナチオによると、「最初に出てくるのは、バビロンだ。」バビロンの平地では、煙と炎で薄暗くて、あまりよく分からない、はっきりしないのですけれども、「その奥に高い玉座があって、そこにおどろおどろしい獣のような王が座っている。サタンであって、ルチフェルであって、悪魔の頭が座っている。そしてルチフェルは、自分の支配下に人々を服させようとして、世界中の全ての所に下僕たちを送りつける、奴隷を送りつける、兵士たちを送りつける」とあります。「そしてその兵士たちは、3つの道具を以てルチフェルの方におびき寄せる、誘い寄せる」と言うのです。
「1つは、この世の地上での欲。この地上の物事を、財産をむやみに欲しがらせる。」
「第2は、この地上での虚しい名誉を、人気を望ませる。」
「そして第3には、自分でどうしようもないほどの、膨れ上がってしまった傲慢を植え付ける。」
「これがルチフェルの下僕たちに渡す指令であって、メッセージである。」
ルチフェルは傲慢によって罪を犯しました。そして人々を天主と並ぶものとさせようと、傲慢に落とさせようとするのです。
イエズス会の創立者は、さらに第2の場面を見せて、それによると、エルサレムの小高い所で、そこは天気が良くて、空気が澄み渡っていて、はっきりしています。何もかも明白です。そこにイエズス様が立って、御謙遜に立っておられます、王の王であるイエズス様が立っておられます。そして仰る事は、「私はこの全世界を、私の国の支配下に置きたい。その為に自分の国の拡張の為に、人々を送る、弟子たちを送る、兵士たちを送る。」
そしてその兵士たちに言う事は、「私は、お前たちと同じものを食べ、お前たちと同じ服を着て、お前たちと同じ苦しみを受けて、一緒に戦おう。そしてその最後には、勝った暁には、お前たちと同じものを分かち合おう。私の持っている富を、お前たちに分かち合おう。」
そしてそのこの優しい王は、この弟子たちに、兵士たちに、
「この世の財産への軽蔑」と、
「第2に、十字架とその苦しみを愛する事を教えて、」
「最後には、謙遜を教える」とあります。
「そしてこの十字架の苦しみへの愛と、謙遜の実りは、永遠の命である。」
ところで、イエズス様の為に送られる。この兵士たちというのは一体誰でしょうか?赤子ではありません、兵士です。つまりこれは、洗礼を受けて天主の子供となっただけではなくて、堅振を受けてキリストの兵士となった、私たちの事です。
⑶ 最後の点は、アレルヤ誦で、「子供たちよ、いらっしゃい。私はお前たちに、主への畏れを教えよう」とあります。この「主への畏れ」という言葉を聞いて、もちろん皆さんはピンと来たと思いますが、これは聖霊の七つの賜物の内の、第一です。
聖霊の七つの賜物は、「敬畏」、それから「孝愛」。敬畏というのは、主の畏れ“timor Domini”、そして孝愛というのは、天主を父として、孝行をする愛の事です、“pietas”
次に「剛毅」、それから「知識」。剛毅は“fortitudo”、知識は“scientia”
それから「賢慮」、賢慮というのは、「聖霊からの特別のアドバイス」という意味で、“consilium”
そして第六は「聡明」“intelligentia”これは「天主の神秘を深く知る事ができる」という特別の御恵みです。
そして最後にあるのは「知恵」“ sapientia”、「上智」と専門用語で公教要理ではなっています。
この七つの賜物の最初が出て来ています。主への畏れがなければ、上智までは辿り着けません。聖霊の七つの賜物を全て受けようと思うならば、主への畏れがなければなりません。
「主への畏れ」というのは一体何でしょうか? 「謙遜」の事なのです。なぜかというと、聖トマス・アクィナスによれば、「畏れには2つあって、奴隷の怖れと、あるいは子供の怖れ。」
「奴隷の怖れというのは、私たちが受ける罰を怖れる。」
「しかし子供の怖れというのは、悪を成した事によって、愛すべき方を悲しませてしまうような事を怖れる。」
つまり、私たちが罪を怖れるという事を、罪を犯してしまうという事を怖れる、主を悲しませてしまうという事を怖れる、これが謙遜であるからです。
では、今日聖霊降臨後第7の主日を深く黙想しつつ、堅振の準備を、堅振を受けた御恵みをもう一度確認する事に致しましょう。私たちも実をもたらす事ができますように。
今日、私たちの元にイエズス様と聖父は入って来ます。教会という畑に植えられた木を、一つひとつ、イエズス様と聖父は見ます。イエズス様はその管理人であって、聖父はその畑のオーナーです。そして聖霊は太陽のように御恵みを燦々と降らせて、私たちに「実を成るように」としています。
今日イエズス様と聖父は、一緒にこの木を一つひとつ見ていて、「あれ?この木はあんまり、葉っぱは付いているけれども、実は成っていないなぁ」という木の前に止まるかもしれません。実はこの木は私です。「この木が植わっていると邪魔だから、切ってしまった方がいいんじゃないか?」するとイエズス様は、「待って下さい。今日、この十字架の御血からの水で、肥やしで、豊かになるはずです。御聖体によって養われるはずです。豊かな実りをもたらすはずです。どうぞお待ち下さい。まだこの木は堅振の秘跡を受けていないのですけれども、もうすぐ受けるはずです。お待ち下さい。今度いらっしゃる時には、豊かな実を結んでいる事でしょう。」イエズス様は私たちの為に執り成して下さっています。
マリア様にもお祈りしましょう。マリア様は豊かな実を実らせた方でした。私たちもマリア様に倣って、豊かな実を結ぶ事ができますように。
「しかし、罪から解放された今、天主の奴隷となって聖徳の実を結んだ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2018年7月8日、聖霊降臨後第7主日のミサをしております。
まず前回のミサの時には、私の司祭叙階25周年のために非常に盛大な祝賀会をして下さいまして感謝致します。皆さんからのお祝いの言葉と祈りに励まされて、ますます忠実な、イエズス・キリストの後を慕う司祭となる事ができるようにと思っています。
総会が7月11日から始まりますが、今日は御ミサの直後、司祭の退場の時に、総長様からの指示によって総会の準備の為のノベナをミサの退場の前にしたいと思います。
「Veni Creator」と「Sub tuum」を歌って祈ります。そこで退場の前にこれを歌いますので、皆さんもどうぞ一緒に歌って下さい。良い、実りのある総会となりますように、お祈り致しましょう。
今日の公教要理は、夏休みでここではありません。
その代わりに、岐部ホールという聖イグナチオ教会の隣にある所で、プロライフの方がDr.リガヤ・アコスタというフィリピンの方が、お話をされるので、そのお話を聞きに行きたいと思っています。
実はこの方をご家族をよく知っていて、フィリピンではいつも一緒にプロライフの話を運動をしていました。そこで聖ピオ十世会のマニラの教会にもお呼びして、お話をして下さった事もありました。ぜひ応援に駆けつけたいと思っております、どうぞ公教要理を夏休みにする事をお許し下さい。明日は7時からミサがあります。
次のミサは、すぐこの次の主日で15日、それから海(産み)の日の16日、10時30分から両方ともあります。特に7月16日の海(産み)の日は、午後16時からマーチ・フォー・ライフがあるので、もしも皆さん時間を作って頂ければ参加して下さればと思っています。
8月はやはり色々な予定があります。8月11日から15日までは聖母の小黙想会を考えています。そしてデ・ガラレタ司教様も来日されます、東京で堅振式も授けて下さいます。堅振を受けたいという方は、聖伝の儀式によって堅振を、という方は是非申請をなさって下さい。よろしければ会長にその旨をお伝え下さい。
“Nunc vero liberati a peccato, servi autem facti Deo, habetis fructum vestrum in sanctificationem.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
「しかし、罪から解放された今、天主の奴隷となって聖徳の実を結んだ。」聖パウロはこの書簡の中でこう言っています。
典礼学者によると、「今日の主日から聖霊降臨後の主日は、これから何回か、2つの対立したイメージを私たちに示す」と説明しています。「今日のミサは、その始まりだ」と言います。
典礼学者によると、イメージは、罪の奴隷と天主の奴隷、この世の王国と天の王国、あるいは悪いキリスト信者と良いキリスト信者の対立のイメージがあります。今日のイメージは「実を結ばない木と、実を結ぶ良い木」です。
今日の書簡と福音のテーマは、「この良い実とは何か?良い実を結ぶとは何か?」という事を話しています。この今日のミサのテキストを黙想してみると、このミサについて考えれば考えるほど、「実を結ぶ」という事が出てきます。
あるいは入祭誦と昇階誦で、「永遠の偉大なる王が出て来る。全ての民よ、この王に拍手喝采を送れ。讃美せよ」という、全ての土地を支配すべき王、イエズス・キリストについて語られる、という事も出てきます。
あるいは、「さぁ子供たちよ、いらっしゃい、おいでなさい。主への畏れを教えよう」等ということも話題になっています。
これらの3つの言葉を見ると、考えれば考えるほど、ちょうどこれはこのミサは、この7月8日の、聖霊降臨後第7主日の、特に東京の私たちの為に、堅振の事を準備させる為に、御摂理によってあるミサであるように思われてなりません。
そこで今日はその堅振の準備の為の第1として、このミサを一緒に黙想する事にしましょう。
⑴ 第1の点はですから、「実りとは何か?」です。
私たちはただ葉っぱを付けるだけでは足りなくて、お花を咲かせるだけでは足りなくて、実を結ばなければならない。実りとは何か?
⑵ 第2には、この「王とは何か?」
「実は2人の王がいるのだ」と聖イグナチオは言います。
⑶ 第3に、では「その王に仕える為の、主への畏れとは何か?」
この3つがどれほど堅振の秘跡に結び付いているか、という事を黙想したいと思っています。
⑴ 第1は実り。
「実り」というのは、果実の木の、あるいは植物の一番最後に、フルーツというのは一番最後にあるものです。そしてこの実りというのは、普通は甘かったり、それを得ると非常に甘美なものです。そして私たちの人生にも、この実りをもたらさなければなりません。最後にこの何か非常に甘美な、とても甘い、デザートに使う事ができるようなものを、実らせなければなりません。
聖パウロは言います、「これは永遠の命だ。」「それに反対する実もある。罪の実であって、罪の実は、永遠の死である。永遠の苦しみ、命とは言う事ができない死である。」「それで私たちは、この本当の甘美な実りをもたらさなければならない。」
⑵ では、それを望むのは一体誰なのでしょうか? 2人の対立する王があります。
これは第2の点ですけれども、聖イグナチオの霊操には「王たるキリストの呼びかけ」という黙想があります。その黙想によると、「王たるキリストは、自分の実りを、甘美な実りをもたらす為に、兵士たちを準備する、しもべたちを準備する」という話があります。
聖イグナチオによると、「最初に出てくるのは、バビロンだ。」バビロンの平地では、煙と炎で薄暗くて、あまりよく分からない、はっきりしないのですけれども、「その奥に高い玉座があって、そこにおどろおどろしい獣のような王が座っている。サタンであって、ルチフェルであって、悪魔の頭が座っている。そしてルチフェルは、自分の支配下に人々を服させようとして、世界中の全ての所に下僕たちを送りつける、奴隷を送りつける、兵士たちを送りつける」とあります。「そしてその兵士たちは、3つの道具を以てルチフェルの方におびき寄せる、誘い寄せる」と言うのです。
「1つは、この世の地上での欲。この地上の物事を、財産をむやみに欲しがらせる。」
「第2は、この地上での虚しい名誉を、人気を望ませる。」
「そして第3には、自分でどうしようもないほどの、膨れ上がってしまった傲慢を植え付ける。」
「これがルチフェルの下僕たちに渡す指令であって、メッセージである。」
ルチフェルは傲慢によって罪を犯しました。そして人々を天主と並ぶものとさせようと、傲慢に落とさせようとするのです。
イエズス会の創立者は、さらに第2の場面を見せて、それによると、エルサレムの小高い所で、そこは天気が良くて、空気が澄み渡っていて、はっきりしています。何もかも明白です。そこにイエズス様が立って、御謙遜に立っておられます、王の王であるイエズス様が立っておられます。そして仰る事は、「私はこの全世界を、私の国の支配下に置きたい。その為に自分の国の拡張の為に、人々を送る、弟子たちを送る、兵士たちを送る。」
そしてその兵士たちに言う事は、「私は、お前たちと同じものを食べ、お前たちと同じ服を着て、お前たちと同じ苦しみを受けて、一緒に戦おう。そしてその最後には、勝った暁には、お前たちと同じものを分かち合おう。私の持っている富を、お前たちに分かち合おう。」
そしてそのこの優しい王は、この弟子たちに、兵士たちに、
「この世の財産への軽蔑」と、
「第2に、十字架とその苦しみを愛する事を教えて、」
「最後には、謙遜を教える」とあります。
「そしてこの十字架の苦しみへの愛と、謙遜の実りは、永遠の命である。」
ところで、イエズス様の為に送られる。この兵士たちというのは一体誰でしょうか?赤子ではありません、兵士です。つまりこれは、洗礼を受けて天主の子供となっただけではなくて、堅振を受けてキリストの兵士となった、私たちの事です。
⑶ 最後の点は、アレルヤ誦で、「子供たちよ、いらっしゃい。私はお前たちに、主への畏れを教えよう」とあります。この「主への畏れ」という言葉を聞いて、もちろん皆さんはピンと来たと思いますが、これは聖霊の七つの賜物の内の、第一です。
聖霊の七つの賜物は、「敬畏」、それから「孝愛」。敬畏というのは、主の畏れ“timor Domini”、そして孝愛というのは、天主を父として、孝行をする愛の事です、“pietas”
次に「剛毅」、それから「知識」。剛毅は“fortitudo”、知識は“scientia”
それから「賢慮」、賢慮というのは、「聖霊からの特別のアドバイス」という意味で、“consilium”
そして第六は「聡明」“intelligentia”これは「天主の神秘を深く知る事ができる」という特別の御恵みです。
そして最後にあるのは「知恵」“ sapientia”、「上智」と専門用語で公教要理ではなっています。
この七つの賜物の最初が出て来ています。主への畏れがなければ、上智までは辿り着けません。聖霊の七つの賜物を全て受けようと思うならば、主への畏れがなければなりません。
「主への畏れ」というのは一体何でしょうか? 「謙遜」の事なのです。なぜかというと、聖トマス・アクィナスによれば、「畏れには2つあって、奴隷の怖れと、あるいは子供の怖れ。」
「奴隷の怖れというのは、私たちが受ける罰を怖れる。」
「しかし子供の怖れというのは、悪を成した事によって、愛すべき方を悲しませてしまうような事を怖れる。」
つまり、私たちが罪を怖れるという事を、罪を犯してしまうという事を怖れる、主を悲しませてしまうという事を怖れる、これが謙遜であるからです。
では、今日聖霊降臨後第7の主日を深く黙想しつつ、堅振の準備を、堅振を受けた御恵みをもう一度確認する事に致しましょう。私たちも実をもたらす事ができますように。
今日、私たちの元にイエズス様と聖父は入って来ます。教会という畑に植えられた木を、一つひとつ、イエズス様と聖父は見ます。イエズス様はその管理人であって、聖父はその畑のオーナーです。そして聖霊は太陽のように御恵みを燦々と降らせて、私たちに「実を成るように」としています。
今日イエズス様と聖父は、一緒にこの木を一つひとつ見ていて、「あれ?この木はあんまり、葉っぱは付いているけれども、実は成っていないなぁ」という木の前に止まるかもしれません。実はこの木は私です。「この木が植わっていると邪魔だから、切ってしまった方がいいんじゃないか?」するとイエズス様は、「待って下さい。今日、この十字架の御血からの水で、肥やしで、豊かになるはずです。御聖体によって養われるはずです。豊かな実りをもたらすはずです。どうぞお待ち下さい。まだこの木は堅振の秘跡を受けていないのですけれども、もうすぐ受けるはずです。お待ち下さい。今度いらっしゃる時には、豊かな実を結んでいる事でしょう。」イエズス様は私たちの為に執り成して下さっています。
マリア様にもお祈りしましょう。マリア様は豊かな実を実らせた方でした。私たちもマリア様に倣って、豊かな実を結ぶ事ができますように。
「しかし、罪から解放された今、天主の奴隷となって聖徳の実を結んだ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。