2018年7月14日(土)教会博士証聖者司教 聖ボナヴェントゥーラのミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年7月14日、聖ボナヴェントゥーラの祝日です。
このミサが終わりましたら、聖体降福式をする事を提案します。特に、今行なわれている聖ピオ十世会の総会が成功の内に終わりますように。
新しく選ばれた総長様と2人の補佐の為にお祈り致しましょう。今度スイスからの管区長様からの連絡によると、今度いらっしゃる、8月の終わりにいらっしゃるデ・ガラレタ司教様は、第一補佐に選ばれて非常に御忙しいのですけれども、「日本には必ず来る」と仰っていて、ですからその時に霊的花束をお渡ししたいと思っています。皆様の寛大なお祈りをどうぞ期待しております。
デ・ガラレタ司教様はアジアを色々回る予定だったのです。けれども「フィリピンとか他の所やシンガポールはキャンセルするけれども、日本と韓国には行く」と言いましたので、歓迎して、司教様のこれからの活躍をお祈りしたいと思っています。
明日は夕方の18時から、また月曜日の海(産み)の日には午前8時からミサがあります。いらして下さい。
「聖ボナヴェントゥーラ、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、そして小さなお友達の皆さん、今日は聖ボナヴェントゥーラという大聖人の祝日です。聖ボナヴェントゥーラは証聖者、そして司教様、教会博士という、教会で非常に重要な聖人なのです。
⑴ それで、この聖ボナヴェントゥーラという人が、どういう時代にどこで生活していたのか?という事を一緒に黙想しましょう。
⑵ それから、では聖ボナヴェントゥーラは私たちに、現代21世紀の私たちに何を教えているのか?という事を黙想して、
⑶ 良い遷善の決心を立てる事にしましょう。
⑴ 聖ボナヴェントゥーラは、イタリアのバニョレージオという所に生まれました。これは聖ピオ十世が今アルバノという所に、ローマのアルバノという所に修道院があるのですけれども、それのすぐ近くの所で生まれました。1217年でした。
聖ボナヴェントゥーラは13世紀という、ヨーロッパで一番カトリックの信仰が生活の隅々にまで行き渡っていて、そして文化でも、あるいは芸術においても、音楽においても、あるいは政治においても、色々な所でカトリックの信仰が支配していた、というような時代に生まれたのですけれども、それでもその信仰と文化、あるいは信心とあるいは活動行動というものが、非常に調和した形で生きた、偉大な聖人でした。
では聖ボナヴェントゥーラは一体、どんな困難があって、どんな解決をしたのでしょうか?それは私たちの時代でどうやって適応できるのでしょうか?
どうやって生まれたかというと、聖ボナヴェントゥーラの俗名は生まれた時は、ヨハネという名前でした。苗字はデ・フィダンツァと言って、そしてお父さんはお医者さんでした。ですからボナヴェントゥーラも非常に頭の良い子として生まれました。
ところがまだ子供の時に重大な病気になって、病で苦しんでいました。もう死ぬ瀕死の重病を負いました。お父さんは有能なお医者さんでしたけれども、そのお父さんでもこの息子を助ける事はできませんでした。お母さんはこの息子ヨハネが病気で苦しんでいるのを見て、一生懸命お祈りをしました。つい最近列聖されたばかりのアシジの聖フランシスコに御取次ぎをお願いしました、「アシジの聖フランシスコ、私の息子のヨハネの病気を、もしも御旨でしたら治して下さい。」するとヨハネは治りました。
この時から、聖ヨハネとアシジの聖フランシスコとの出会いが始まりました。でも子供の頃でしたから、ボナヴェントゥーラ自身については、もしかしたらあまり記憶になかったのかもしれませんが、しかしお母さんからその事をよく聞いていました、「あなたはこうやって聖フランシスコによって助けられたのよ。」
その後に、若いヨハネは聖ボナヴェントゥーラはパリに行きます。お父さんはお医者さんですからとても頭の良い子でした、そしてパリで勉強します。日本で言えば、トップの高校をトップで卒業した、という最も優れた学校で卒業をしました。でも高校を卒業した若いボナヴェントゥーラは、「自分はこの将来、どうやって人生を、どうやって過ごしたら良いのだろうか?自分は一体何をすれば良いのだろうか?この人生は一体何の為にあるのだろうか?自分は何の為に生まれてきたのか?」という事をお祈りしました。そして悩みました。
それでちょうどその時に、ボナヴェントゥーラが来る前に、パリで修道生活を始めていたフランシスコ会、アシジの聖フランシスコが創立した修道会の門を叩きました。もちろんその他にも、ドミニコ会とか色々な修道院がありましたけれども、聖ボナヴェントゥーラは特にフランシスコ会に行って、修道生活をする事を試してみる事をお願いしました。
なぜかというと、後に手紙に書いています。聖ボナヴェントゥーラによると、「フランシスコ会が、ちょうどその始まりも、そしてその発展の具合も、カトリック教会の始まりと発展と非常にそっくりだったから、イエズス様のキリストの働きがここにある、という事を見出した」と言っています。教会はちょうど、最初は漁夫から始まって、最後には偉大な教会博士たちや立派な人たちを生み出すようになりました。「それと同じように、フランシスコ会も、最初は単純な人たちが集まっていたけれども、今ではパリでこうやって勉強するような立派な学者たちを生み出しているからだ。これこそ教会がますます豊かになっている、その象りだ、という事を見出したからだ」と言っています。
こうやって1243年に、フランシスコ会の会員として着衣式を受けました。その時は「ボナヴェントゥーラ」という修道名を取りました。
聖ボナヴェントゥーラはパリでフランシスコ会として勉強を続けました。頭が良かった彼は、パリの最高の先生たちに付いて、ヨーロッパに名前を響かせていたような教授たちの教えを受けて、ますます勉強を深めていきました。聖書の事や、あるいは神学について、黙想や、祈りや、勉強を深めて後には、遂には学位を取ります、「世界中どこでも、カトリックの学者として教える事ができる」という最高の学位を取ります。
そしてその最後の博士論文で書いた、その論文のタイトルは、「イエズス・キリストの知識についての研究」でした。そしてイエズス様のこの知識という事について、生涯深い関心を持って、黙想と祈りと研究を続けます。
当時フランシスコ会とドミニコ会というのは、新しく出来た修道院でした。そこでその為に、その生活の仕方、あるいは修道生活のあり方、理想について、人々にとっては理解できないものや、誤解がたくさんありました。その為に、「この修道院は合法的ではない」とか、あるいは「無効だ」とか、「禁止されている」等と言う讒言や反対をたくさん受けました。そこで中には、フランシスコ会とドミニコ会の間でも、その修道生活の違いについて論争等もありました。
そこで聖ボナヴェントゥーラは、深い学識を使って1つの論文を書きます。そしてそれが、「福音的完徳について」でした。それは、「イエズス様の福音の勧告に従って、清貧・貞潔・従順というものがどれほどイエズス様の御旨に適うのか、このキリストの教えであるか」という事をうまく説明したものでした。そしてその美しい論文によって、今までの論争が解決を見たかのようでした。
ついに修道生活をしてから10年後、カトリックの学問の世界で一番の最高峰と言われる名誉を受けます。それは、パリの大学での博士として、あるいは師として、教師としての特別の最高の名誉を受けました。この「これに勝る最高の地位はない」と言われるほどの、日本で言えば例えば、どこか一番有名な大学の総長であって、そのトップに立ったと言えます。
ところがそれと同時に、フランシスコ会では総長の選挙があって、同じ年にこの聖ボナヴェントゥーラは、フランシスコ会の総長として選ばれたので、この大学での名誉ある地位を捨てて、総長としての務めを果たす事になりました。
17年間、総長としてフランシスコ会を指導していきます。これが聖ボナヴェントゥーラにとって第2の大きな転換期でした。実はフランシスコ会はその時に大きな危機があったのです。危機というとどういう事かというと、実はフランシスコ会は当時あまりにも急激に成長して、誕生以後多くの人々が「フランシスコ会に入りたい」「会員になりたい」と言って「修道生活を送りたい」と言って、ヨーロッパ中で3万名の会員を持っていました。
聖ピオ十世会は例えば、1970年に創立されてもうすぐ50年ですけれども、司祭の会員は650名、ブラザーは150名、オブレートシスターは150名くらいで、1000人になるかならないかです。
ところが聖フランシスコ会は、創立の直後ほぼ50年経つか経たないかの内に、3万名になっていました。それでヨーロッパ中に広まっていて、インターネットもFAXも電話もない時代でした。ヨーロッパ中のみならず、北アフリカにもありました。北アフリカではイスラム教によって殉教者も出ていました。あるいは中東にも行っていました。イスラム教のいた所で、聖フランシスコも行っています、アシジの聖フランシスコも行って、イスラム教のスルタンと言うトップは、聖フランシスコを見て、「もう少しでカトリックになるところだった」と言っています。また実は聖フランシスコ会は北京にも、中国の北京にも修道院を持っていました。
そのように爆発的に広がるフランシスコ会をどうやったら1つにまとめる事ができるか、どうやったらフランシスコ会としてアイデンティティを保つ事ができるのか、もしかしたらあまりにも広がっているので、人々の考えが統一せずに分裂してしまうのではないか、という危険がありました。
そこで聖ボナヴェントゥーラは、自分の持っていた学識と敬虔な祈りを以て、1260年の総会の時に、1つの提案をします。そしてその総会は、その聖ボナヴェントゥーラの準備した文章を承認して、「まさにこれこそ、フランシスコ会の行くべき道だ」と、これを受け入れます。
それは何かというと、「フランシスコ会が持つべき理想、持つべき動機付け、持つべき願いというのは、その創立者聖フランシスコにある、アシジの聖フランシスコにある。そして聖フランシスコは何かというと、第2のキリストだった。その生涯、その教えというのは、イエズス・キリストを真似ようと、イエズス・キリストの聖徳をそのまま自分の聖徳にしようとしている事だった。だからフランシスコ会会員は全て、この師に倣ってアシジの聖フランシスコに倣って、私たちもキリストに倣うように、キリストの聖徳を身に付けるように、第2のキリストになるようにしなければならない。これこそが昨日も今日も、また未来のキリスト者の理想であって、フランシスコ会の会員の理想である。アシジの聖フランシスコに倣うように、キリストに倣え」という文章でした。
第3の転機は、その13年後、その総会の13年後、聖ボナヴェントゥーラは教皇様によって司教となる事を命じられました。そして今までフランシスコ会を1つにまとめたその手柄と、その功績を非常に高く評価されて、その学識の深さを評価されて、聖徳を評価されて、是非、当時の課題であった、「ラテン教会とギリシャ教会の統一の為の、リヨンの公会議を準備するように」との特別の任務を任されました。
そこで聖ボナヴェントゥーラはその教皇様の命に従って、司教としてリヨンの公会議を準備しつつ、そしてその開催中に、1274年に亡くなりました。
その聖徳と、祈りと、学識は、今でも教会に影響を与えています。
⑵ 聖ボナヴェントゥーラは私たちに、一体どんな事を教えているでしょうか?
聖ボナヴェントゥーラの生涯を考えながら、聖フランシスコ会と聖ピオ十世会の姿が少し二重に重なりました。なぜかというと、つい最近総長選挙があり、そして今聖ピオ十世会の総会が行なわれているからです。きっと私の信じるところには、この新しい総長も、また今行なわれている総会も、聖ボナヴェントゥーラと同じ事を言うだろうと思っています。
つまり、聖ピオ十世会が全世界に広がっていて、たとえ会員の数は3万人には足りないとしても、司祭や修道者の数を数えると約1000人ぐらいのものですけれども、しかし全世界に渡っているので、「色んな国や、色んな言葉や、色んな習慣や考え方があるけれども、しかしその私たちのアイデンティティは、私たちの理想は1つである。イエズス・キリスト、司祭である、最高司祭であるイエズス・キリスト、この司祭の聖徳を求める事にある。」
新しく選ばれた総長様は、「共贖者である聖母の神学校」の校長を長年勤めた方でした。「聖ピオ十世会の目的は、聖なる司祭を養成する事にあるので、聖ピオ十世会の最も高い理想は、『司祭の聖徳』にあって、司祭が聖であればあるほど、学識も、また聖徳も高ければ高いほど、それだけ多く、多くの信徒の方も聖徳へと導く事ができる。」
ですから、聖ピオ十世会をもしも1つにまとめる事ができるとしたら、「高い司祭の聖徳の追求をする」という、「私たちもますます聖ピオ十世会の会憲に従って、追求する事である」と言うに違いないと思いました。そのような発表が数日後にされると思います。
この聖ボナヴェントゥーラの今日祝日は私たちに、カトリックの信仰のこの最も核心である、「イエズス・キリストに倣う、第2のキリストとなる」という事を私たちに提示していると言えます。
⑶ 今日の最後の、私たちの黙想の最後の遷善の決心として、聖ボナヴェントゥーラに倣って、私たちもイエズス様の聖徳に倣う、という決心を立てる事に致しましょう。またイエズス様の聖徳に最も倣った者は、確かにアシジの聖フランシスコであって、聖パウロでありますけれども、しかし更にそれを完成されたのが、マリア様です。
マリア様こそ、イエズス様の全くその聖徳の完璧な鋳型となる方でした。ですからますます、マリア様への信心を続けていきたいと思います。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年7月14日、聖ボナヴェントゥーラの祝日です。
このミサが終わりましたら、聖体降福式をする事を提案します。特に、今行なわれている聖ピオ十世会の総会が成功の内に終わりますように。
新しく選ばれた総長様と2人の補佐の為にお祈り致しましょう。今度スイスからの管区長様からの連絡によると、今度いらっしゃる、8月の終わりにいらっしゃるデ・ガラレタ司教様は、第一補佐に選ばれて非常に御忙しいのですけれども、「日本には必ず来る」と仰っていて、ですからその時に霊的花束をお渡ししたいと思っています。皆様の寛大なお祈りをどうぞ期待しております。
デ・ガラレタ司教様はアジアを色々回る予定だったのです。けれども「フィリピンとか他の所やシンガポールはキャンセルするけれども、日本と韓国には行く」と言いましたので、歓迎して、司教様のこれからの活躍をお祈りしたいと思っています。
明日は夕方の18時から、また月曜日の海(産み)の日には午前8時からミサがあります。いらして下さい。
「聖ボナヴェントゥーラ、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、そして小さなお友達の皆さん、今日は聖ボナヴェントゥーラという大聖人の祝日です。聖ボナヴェントゥーラは証聖者、そして司教様、教会博士という、教会で非常に重要な聖人なのです。
⑴ それで、この聖ボナヴェントゥーラという人が、どういう時代にどこで生活していたのか?という事を一緒に黙想しましょう。
⑵ それから、では聖ボナヴェントゥーラは私たちに、現代21世紀の私たちに何を教えているのか?という事を黙想して、
⑶ 良い遷善の決心を立てる事にしましょう。
⑴ 聖ボナヴェントゥーラは、イタリアのバニョレージオという所に生まれました。これは聖ピオ十世が今アルバノという所に、ローマのアルバノという所に修道院があるのですけれども、それのすぐ近くの所で生まれました。1217年でした。
聖ボナヴェントゥーラは13世紀という、ヨーロッパで一番カトリックの信仰が生活の隅々にまで行き渡っていて、そして文化でも、あるいは芸術においても、音楽においても、あるいは政治においても、色々な所でカトリックの信仰が支配していた、というような時代に生まれたのですけれども、それでもその信仰と文化、あるいは信心とあるいは活動行動というものが、非常に調和した形で生きた、偉大な聖人でした。
では聖ボナヴェントゥーラは一体、どんな困難があって、どんな解決をしたのでしょうか?それは私たちの時代でどうやって適応できるのでしょうか?
どうやって生まれたかというと、聖ボナヴェントゥーラの俗名は生まれた時は、ヨハネという名前でした。苗字はデ・フィダンツァと言って、そしてお父さんはお医者さんでした。ですからボナヴェントゥーラも非常に頭の良い子として生まれました。
ところがまだ子供の時に重大な病気になって、病で苦しんでいました。もう死ぬ瀕死の重病を負いました。お父さんは有能なお医者さんでしたけれども、そのお父さんでもこの息子を助ける事はできませんでした。お母さんはこの息子ヨハネが病気で苦しんでいるのを見て、一生懸命お祈りをしました。つい最近列聖されたばかりのアシジの聖フランシスコに御取次ぎをお願いしました、「アシジの聖フランシスコ、私の息子のヨハネの病気を、もしも御旨でしたら治して下さい。」するとヨハネは治りました。
この時から、聖ヨハネとアシジの聖フランシスコとの出会いが始まりました。でも子供の頃でしたから、ボナヴェントゥーラ自身については、もしかしたらあまり記憶になかったのかもしれませんが、しかしお母さんからその事をよく聞いていました、「あなたはこうやって聖フランシスコによって助けられたのよ。」
その後に、若いヨハネは聖ボナヴェントゥーラはパリに行きます。お父さんはお医者さんですからとても頭の良い子でした、そしてパリで勉強します。日本で言えば、トップの高校をトップで卒業した、という最も優れた学校で卒業をしました。でも高校を卒業した若いボナヴェントゥーラは、「自分はこの将来、どうやって人生を、どうやって過ごしたら良いのだろうか?自分は一体何をすれば良いのだろうか?この人生は一体何の為にあるのだろうか?自分は何の為に生まれてきたのか?」という事をお祈りしました。そして悩みました。
それでちょうどその時に、ボナヴェントゥーラが来る前に、パリで修道生活を始めていたフランシスコ会、アシジの聖フランシスコが創立した修道会の門を叩きました。もちろんその他にも、ドミニコ会とか色々な修道院がありましたけれども、聖ボナヴェントゥーラは特にフランシスコ会に行って、修道生活をする事を試してみる事をお願いしました。
なぜかというと、後に手紙に書いています。聖ボナヴェントゥーラによると、「フランシスコ会が、ちょうどその始まりも、そしてその発展の具合も、カトリック教会の始まりと発展と非常にそっくりだったから、イエズス様のキリストの働きがここにある、という事を見出した」と言っています。教会はちょうど、最初は漁夫から始まって、最後には偉大な教会博士たちや立派な人たちを生み出すようになりました。「それと同じように、フランシスコ会も、最初は単純な人たちが集まっていたけれども、今ではパリでこうやって勉強するような立派な学者たちを生み出しているからだ。これこそ教会がますます豊かになっている、その象りだ、という事を見出したからだ」と言っています。
こうやって1243年に、フランシスコ会の会員として着衣式を受けました。その時は「ボナヴェントゥーラ」という修道名を取りました。
聖ボナヴェントゥーラはパリでフランシスコ会として勉強を続けました。頭が良かった彼は、パリの最高の先生たちに付いて、ヨーロッパに名前を響かせていたような教授たちの教えを受けて、ますます勉強を深めていきました。聖書の事や、あるいは神学について、黙想や、祈りや、勉強を深めて後には、遂には学位を取ります、「世界中どこでも、カトリックの学者として教える事ができる」という最高の学位を取ります。
そしてその最後の博士論文で書いた、その論文のタイトルは、「イエズス・キリストの知識についての研究」でした。そしてイエズス様のこの知識という事について、生涯深い関心を持って、黙想と祈りと研究を続けます。
当時フランシスコ会とドミニコ会というのは、新しく出来た修道院でした。そこでその為に、その生活の仕方、あるいは修道生活のあり方、理想について、人々にとっては理解できないものや、誤解がたくさんありました。その為に、「この修道院は合法的ではない」とか、あるいは「無効だ」とか、「禁止されている」等と言う讒言や反対をたくさん受けました。そこで中には、フランシスコ会とドミニコ会の間でも、その修道生活の違いについて論争等もありました。
そこで聖ボナヴェントゥーラは、深い学識を使って1つの論文を書きます。そしてそれが、「福音的完徳について」でした。それは、「イエズス様の福音の勧告に従って、清貧・貞潔・従順というものがどれほどイエズス様の御旨に適うのか、このキリストの教えであるか」という事をうまく説明したものでした。そしてその美しい論文によって、今までの論争が解決を見たかのようでした。
ついに修道生活をしてから10年後、カトリックの学問の世界で一番の最高峰と言われる名誉を受けます。それは、パリの大学での博士として、あるいは師として、教師としての特別の最高の名誉を受けました。この「これに勝る最高の地位はない」と言われるほどの、日本で言えば例えば、どこか一番有名な大学の総長であって、そのトップに立ったと言えます。
ところがそれと同時に、フランシスコ会では総長の選挙があって、同じ年にこの聖ボナヴェントゥーラは、フランシスコ会の総長として選ばれたので、この大学での名誉ある地位を捨てて、総長としての務めを果たす事になりました。
17年間、総長としてフランシスコ会を指導していきます。これが聖ボナヴェントゥーラにとって第2の大きな転換期でした。実はフランシスコ会はその時に大きな危機があったのです。危機というとどういう事かというと、実はフランシスコ会は当時あまりにも急激に成長して、誕生以後多くの人々が「フランシスコ会に入りたい」「会員になりたい」と言って「修道生活を送りたい」と言って、ヨーロッパ中で3万名の会員を持っていました。
聖ピオ十世会は例えば、1970年に創立されてもうすぐ50年ですけれども、司祭の会員は650名、ブラザーは150名、オブレートシスターは150名くらいで、1000人になるかならないかです。
ところが聖フランシスコ会は、創立の直後ほぼ50年経つか経たないかの内に、3万名になっていました。それでヨーロッパ中に広まっていて、インターネットもFAXも電話もない時代でした。ヨーロッパ中のみならず、北アフリカにもありました。北アフリカではイスラム教によって殉教者も出ていました。あるいは中東にも行っていました。イスラム教のいた所で、聖フランシスコも行っています、アシジの聖フランシスコも行って、イスラム教のスルタンと言うトップは、聖フランシスコを見て、「もう少しでカトリックになるところだった」と言っています。また実は聖フランシスコ会は北京にも、中国の北京にも修道院を持っていました。
そのように爆発的に広がるフランシスコ会をどうやったら1つにまとめる事ができるか、どうやったらフランシスコ会としてアイデンティティを保つ事ができるのか、もしかしたらあまりにも広がっているので、人々の考えが統一せずに分裂してしまうのではないか、という危険がありました。
そこで聖ボナヴェントゥーラは、自分の持っていた学識と敬虔な祈りを以て、1260年の総会の時に、1つの提案をします。そしてその総会は、その聖ボナヴェントゥーラの準備した文章を承認して、「まさにこれこそ、フランシスコ会の行くべき道だ」と、これを受け入れます。
それは何かというと、「フランシスコ会が持つべき理想、持つべき動機付け、持つべき願いというのは、その創立者聖フランシスコにある、アシジの聖フランシスコにある。そして聖フランシスコは何かというと、第2のキリストだった。その生涯、その教えというのは、イエズス・キリストを真似ようと、イエズス・キリストの聖徳をそのまま自分の聖徳にしようとしている事だった。だからフランシスコ会会員は全て、この師に倣ってアシジの聖フランシスコに倣って、私たちもキリストに倣うように、キリストの聖徳を身に付けるように、第2のキリストになるようにしなければならない。これこそが昨日も今日も、また未来のキリスト者の理想であって、フランシスコ会の会員の理想である。アシジの聖フランシスコに倣うように、キリストに倣え」という文章でした。
第3の転機は、その13年後、その総会の13年後、聖ボナヴェントゥーラは教皇様によって司教となる事を命じられました。そして今までフランシスコ会を1つにまとめたその手柄と、その功績を非常に高く評価されて、その学識の深さを評価されて、聖徳を評価されて、是非、当時の課題であった、「ラテン教会とギリシャ教会の統一の為の、リヨンの公会議を準備するように」との特別の任務を任されました。
そこで聖ボナヴェントゥーラはその教皇様の命に従って、司教としてリヨンの公会議を準備しつつ、そしてその開催中に、1274年に亡くなりました。
その聖徳と、祈りと、学識は、今でも教会に影響を与えています。
⑵ 聖ボナヴェントゥーラは私たちに、一体どんな事を教えているでしょうか?
聖ボナヴェントゥーラの生涯を考えながら、聖フランシスコ会と聖ピオ十世会の姿が少し二重に重なりました。なぜかというと、つい最近総長選挙があり、そして今聖ピオ十世会の総会が行なわれているからです。きっと私の信じるところには、この新しい総長も、また今行なわれている総会も、聖ボナヴェントゥーラと同じ事を言うだろうと思っています。
つまり、聖ピオ十世会が全世界に広がっていて、たとえ会員の数は3万人には足りないとしても、司祭や修道者の数を数えると約1000人ぐらいのものですけれども、しかし全世界に渡っているので、「色んな国や、色んな言葉や、色んな習慣や考え方があるけれども、しかしその私たちのアイデンティティは、私たちの理想は1つである。イエズス・キリスト、司祭である、最高司祭であるイエズス・キリスト、この司祭の聖徳を求める事にある。」
新しく選ばれた総長様は、「共贖者である聖母の神学校」の校長を長年勤めた方でした。「聖ピオ十世会の目的は、聖なる司祭を養成する事にあるので、聖ピオ十世会の最も高い理想は、『司祭の聖徳』にあって、司祭が聖であればあるほど、学識も、また聖徳も高ければ高いほど、それだけ多く、多くの信徒の方も聖徳へと導く事ができる。」
ですから、聖ピオ十世会をもしも1つにまとめる事ができるとしたら、「高い司祭の聖徳の追求をする」という、「私たちもますます聖ピオ十世会の会憲に従って、追求する事である」と言うに違いないと思いました。そのような発表が数日後にされると思います。
この聖ボナヴェントゥーラの今日祝日は私たちに、カトリックの信仰のこの最も核心である、「イエズス・キリストに倣う、第2のキリストとなる」という事を私たちに提示していると言えます。
⑶ 今日の最後の、私たちの黙想の最後の遷善の決心として、聖ボナヴェントゥーラに倣って、私たちもイエズス様の聖徳に倣う、という決心を立てる事に致しましょう。またイエズス様の聖徳に最も倣った者は、確かにアシジの聖フランシスコであって、聖パウロでありますけれども、しかし更にそれを完成されたのが、マリア様です。
マリア様こそ、イエズス様の全くその聖徳の完璧な鋳型となる方でした。ですからますます、マリア様への信心を続けていきたいと思います。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。