Quantcast
Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

聖体の制定された理由:聖体は救い主のご受難ご死去の記念である

$
0
0
聖体の制定された理由
『聖体の黙想』テニエール(Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))著より

聖体は救い主のご受難ご死去の記念である

 礼拝 私たちの主イエズス・キリストが、私たちを愛し、私たちの救霊のために甘んじて十字架にのぼり、一方では、そのご受難ご死去を記念するために聖体の秘跡をお定めになったということは、公教会の最も貴重な教義のひとつである。救い主は御身を虚無のように、また死者のようになして、パンとぶどう酒との外観のもとに隠れ『わが記念としてこれを行なえ』とおっしゃった。だからパウロも主のご啓示を受けて『なんじらこのパンを食し、また杯を飲むごとに主の死を示すなり』といった。

 私たちの救霊は一に主のご受難、ご死去のたまものであるから、絶えずこれを思い起こすことは、私たちにとって最もたいせつなことでなければならない。主は、愛する者のために生命を捨てることが愛の最も確実な証拠であること、私たちのかたくなな心を動かすには、これがぜひとも必要なことを知っておられた。だから主は、聖体をもって、ご受難とご死去との記念を私たちの目前に絶えず示すことを望んでおられるのである。

 なるほど聖体は、イエズスが私たちのために苦しみを受け、十字架上におなくなりになったことを、世々にわたってすべての人々に示すところのものである。ミサ聖祭の間に、司祭が聖別の言葉をもって栄光のうちに統治されるイエズスを天国から祭壇上に呼びくだし、動くことも、話すこともできず、生命さえもないようなホスチアの中にお閉じ込めするのは、主のご死去の繰り返しでなくてなんであろう。

 主は神性と人性とを完全に保ちながら、今もこの聖体のおおいの下にひそんでおられる。復活されたキリストは不死の栄えをもっておられるにもかかわらず、ここでは外面にあらわれるなんらかの行為さえもなすことができず、またその他、私たちに対して、生きておいでになるなんらかの感覚的な証拠さえ与えることがおできにならないのである。この聖体の状態は、死も同然であって、御血を流しつくした御なきがらも同様であるといえるであろう。

 聖体の中においでになる救い主は、欲するままに望んでおいでになる場所に移ることも、敵の手からのがれることも、ぼうとくに際して助けを呼ぶことも、人としての御姿をあらわしになることもおできにならない。主はご受難の日と等しく、鉄鎖につながれ、十字架につけられ、人々に見捨てられ、主の友までが予言者とともに『われ聖別せられしパンを見たれども、聖別せられたるものとの間に、なんらの差異をも認むるをえざりき』というのである。ああ、このような死の状態によらずとも、主はカルワリオ山でのご受難、ご死去を記念することがおできにならなかったのであろうか。

 だから礼拝しよう、秘跡の中にまします天主のこの忍耐深い御いけにえを。柔和にして十字架に釘づけられた主ご自身を。聖体を礼拝するたびごとに、いばらの冠をかむせられ、十字架上で私たちの愛のために息絶えられた救い主を絶えず心の中におしのびしよう。

 
 感謝 聖体に対して救い主のご受難を思うとき、私たちはそれに引きつづいて、甘んじてこのような多くの苦しみをおしのぎになった主の無限の愛と忍耐、並びにこのご受難によってすべての罪人にわかち与えられた罪の許しの御恵みを、深い感謝をもって思い起こさなければならない。

 御父の正義を満たすためには、他に多くの方法があったにもかかわらず、恥ずべき十字架の死をお選びになった大いなる愛と同一の愛が、今ここに聖体の中に存在している。主は聖体を制定されるなんの義務もなかった。ところが、主は私たちのために、なんの条件もつけず、ご自分からすすんで完全に、またいつまでも御身をお与えになったのである。これを黙想し、あなたたちは雲を通して輝く太陽の光のように、あたたかく、やさしい主のみ心の愛を感じないのか。


 主はあなたたちの冷淡ななまぬるい心、現世の財宝と愛情とに奪われがちな心を、ためなおそうとしておいでになるのである。かつてのゲッセマニのユダ、法廷でのペトロ、カルワリオでの死刑執行人をお許しになったように、今もなお主は聖体の中で、主を売る人、迫害する人、ぼうとくする人のために『父よ彼らはそのなすところを知らざるによりて彼らを許したまえ』と祈ってくださるのである。柔和であってけんそんな聖体の沈黙は世々につづけられる主の御祈りにほかならない。

 あなたはご受難におけるイエズスの愛をさとり、これに感激するとともに、聖体への深い感謝をささげなければならない。


償い 聖体が救い主のご受難ご死去の継続であることを理解するために、イエズスがその中で昔と同一の不信、屈辱、暴虐を受けながらおいでになることに注意しよう。

 もし大罪に汚れた霊魂が聖体を受けるなら、それはユダが主をユデア人に裏切ったと同一の背信の行ないである。もし他人のあざけりを恐れて聖体拝領を怠る人があれば、それはペトロと同様に主を否むことである。

 聖ひつがかすめられ、聖体が土足でふみにじられるような恐ろしい汚聖行為も世に行なわれている。ああ、ご受難の時においてさえ、イエズスはもっと多くの忍耐が必要だったであろうか。

 懐疑者の冷笑、不信者のぼうとく、多くの信者の無知と忘恩、主の友である人の恥ずべき堕落、知りながら犯す怠慢、習慣的な不敬、侮辱に近い不注意と無礼、これらがみなイエズスの今日お受けになる御苦しみでなくてなんであろう。

 では人々よ、秘跡の中にあって今もやはり堪え忍んでいらっしゃるイエズスのために、いにしえのけいけんなエルザレムの婦人のようにお嘆きしよう。主のおもてをぬぐい、主の御恥辱をお慰めしたヴェロニカはいないのか。十字架をになうシモン、十字架の下にたたずむヨハネはいないのか。救い主の御苦しみをわかつ悲しみの聖母にならう人はいないのか。ああ聖体の中で、主が同一のご受難をおつづけになるなら、同じお慰めとご同情とが必要なはずではないだろうか。

 祈願 救い主のご受難、ご死去の記念は聖であり、力であり、慰めであり、救いでなければならない。しかし、そのためには、この記念が心に深くしみ込み、私たちの心の目の前に絶えず存在し、私たちがこれによってすべての罪を忌み嫌い、あらゆる罪の機会を避けなければならない。

 主は救世のみわざをおろそかにしないために、今もやはり愛にかられて聖体の中におとどまりになる。だから、聖体によって救霊の効果があなたの心に結ばれるよう願い、特にミサ聖祭、聖体拝領、聖体礼拝の間に、たびたびこの御恵みを祈り求めよう。

 実行 日常の黙想に際して、より大きな効果を得るために、救い主の秘跡的ご受難の事実を忘れないようにしよう。

『聖体の黙想』テニエール著より

聖体の制定された理由:聖体は天主のご托身の継続である


Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

Trending Articles