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2018年8月5日 聖霊降臨後第11主日 「洗礼の御恵みが堅振によってどう完成させられるかを黙想する」

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2018年8月5日(主日)聖霊降臨後第11主日のミサ
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2018年8月5日、聖霊降臨後第11主日です。

今日のこのミサの後に、14時頃から公教要理があります。その公教要理では、今度、来たる8月19日に堅振を受けようとする方々の為の準備をします。

けれども、堅振をすでに受けた方でも、また堅振の秘跡を受けるまでには時間がある、という方も、ぜひ参加して下さい。
16時からは主日の第2晩課がグレゴリオ聖歌であります。明日も朝7時からミサがあります。

次のミサは8月19日の主日にここであります。
司教様の堅振の秘跡とミサが10時30分から、8月19日の10時30分からありますが、その前に私のミサも午前中の8時頃からする事を予定しております。

東京では次は19日ですけれども、大阪では8月11日から15日まで、毎日10時30分から主日も含めてミサがあります。その後小黙想会を、自宅から通う黙想会を開く予定です。イエズス様の聖心について一緒に黙想する事を提案しています。
もしもお盆休みの時に大阪の方に帰省される方、あるいはをご旅行される方、あるいは黙想会に参加してみたい、という方は是非いらして下さい。

また皆さんも既にご存知かもしれませんけれども、総会の間の決定によって総長様の決定によって、4年間働いて下さっておられた私たちの管区長であるシュテーリン神父様が、10月15日付けでポーランドのまた長上として、ポーランドに戻られる事になりました。
コルベ神父様は6年いて下さったのですけれども、シュテーリン神父様はまだ4年しかいなくてポーランドに帰る事になりました。マリア様がちょっと早めにお望みだったようです。しかし神父様の言うには、「ほうきが変わっただけで、ほうきを掃く人は同じだから」と仰っていました。新しいほうきとなる人は、アメリカ人のパトリック・サマーズ神父様と言います。シュテーリン神父様と新しい管区長様の為にも、霊的花束をお願いしたいと思っています。



“エフェタ”
「開けよ」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、典礼学者によると、「主日というのは、私たちにとって小さな復活祭だ」と、「復活祭の記念だ。霊的な復活の、洗礼の記念の日だ」と言います。

また「聖霊降臨後の主日のテーマは、2つに分類できる」と言います。よくあるパターンが、良い信者と悪い信者、良い木と悪い木、あるいは良い謙遜な税吏とあるいは傲慢なファリサイ人、等というこの2つの対比を通して、私たちがどうやって信仰生活を送るべきか、戦わなければならないか、善を追求しなければならないか、という事をイメージで教える、というパターンが多くあります。

が、時々、洗礼を受けた御恵みを味わう為に、病の人が癒されるという奇跡の話が載ります。今日はその奇跡の話です。

そこで今日テーマとして、黙想のテーマとして、私たちの洗礼の御恵みをよりよく感謝する事ができる為に、これを効果的に得る為に、

⑴ では、私たちは洗礼の時にどんなものを受けたのだろうか?という事を聖パウロの書簡と、もう1つ、イエズス様がなさって下さった奇跡、2つの話を通して黙想する事に致しましょう。

⑵ 洗礼を受けるとどのようになるのでしょうか?

⑶ 更に今度は堅振を受ける方もいらっしゃるので、その受けた御恵みが堅振によって、堅振の秘跡によってどう完成させられたのか?という事も、少し垣間見る事にします。

でもこの第3の点の続きは、午後の部に取っておきます。

⑴ では洗礼を受けるという事は、どういう事だったのでしょうか?

まず聖パウロは今日その事を書簡で説明しています、まずイエズス・キリストの話をします、「イエズス様は私たちの罪の為に亡くなられた、十字架の上で死なれた、死去された。しかし葬られたけれども、3日目によみがえられた。そしてそのよみがえられた事を多くの弟子たちに表された。洗礼の恵みも同じである。そしてその洗礼の恵みの最後に、私のような大悪人も、イエズス・キリストの教会を迫害して、多くの人を投獄させ死に至らしめたこのような生まれ損ないの私でさえも、特別の御恵みでイエズス様が現れて、私をも回心させて下さった。もう使徒と呼ばれる値打ちもない一番下っ端だけれども、席を汚しているだけだけれども、しかし天主様の御恵みによって今の私がある。その天主の恵みによって、選ばれて回心をする事ができた。」

まさにこれは聖パウロの話は、私たちの一人ひとりの話であるかのようです。私たちが一体、天主の子供となる為に、あるいは天の無限の幸せと遺産を相続する為に、イエズス・キリストと共同の世継ぎとなる為に、どのような功徳が価値があったというのでしょうか?
天皇陛下がいきなり私の前にやって来て、「さぁ皇室に入って下さい」と言ったとしても、私たちが天主の子供となるという事は、その皇室の一員となるという事に比べれば、もっと重大な、比べる事ができないものです。
天主の創造の御業、大自然、全宇宙はとても美しいものです。しかし、私たちが天主の子供となるということと比べれば、何でもありません。なぜなら天主の聖寵の命という全宇宙を遙かに超越するものを私たちが受けるからです。


⑵ 第2の点は、イエズス様はその事を福音でも話します。

イエズス様の前に、耳の聞こえない、話す事もできない、昔の言葉で言うと啞とつんぼの人を連れて来ます。するとイエズス様はこの彼に、自分の唾を耳につけて、“エフェタ”「開け」と言います。するとたちまちその人は耳が聞こえるようになって、話をする事ができるようになりました。

教父たちは、「これこそ私たちの姿だ」と言います。なぜかというと、私たちは今まで天主の掟、天主の玄義、神秘、イエズス・キリストの教えについて、何も聞こえてないかのようでした。関心もなかったし、あるいは興味もなかったし、それに対して聞こうという耳も持たなかったし、「一体何でそんな事が大切なのか。それが本当なのか。馬鹿馬鹿しい」等と思っていたかもしれません。

ところが私たちは特別の御恵みによって、「そうではない」という事に気が付いて、「実は天主の掟こそ、本当に私たちを生かすものだ。イエズス・キリストの教えこそ、私たちを本当の意味で幸せにする事だ。本当の意味で私たちを喜ばせるものだ。実はイエズス・キリストの教えこそ、全てを光輝かせるものだ。その神秘の深さがよく分かる、これが分かると全てが良く分かる」という風に変わりました。

昔は私たちの話す言葉といえば、この今日出てきた人のように、食べる話とか、あるいは汚い話とか、あるいは侮辱の話とか、悪い言葉とか汚らしい言葉だけでいっぱいでした。あたかもそれが面白いかのように、あたかもそれが何か重要であるかのように話していましたけれども、実はこれは人間の言葉というよりは、動物の鳴き声であるかのように聞こえていたかもしれません。しかしそのうめき声のような何か低俗な音が、イエズス様の特別の御恵みによって、今度ははっきりとして、人間らしい言葉を話すようになったのです。

なぜ人間らしいかというと、霊魂と、知性と、愛と、希望の言葉を語り始めたからです。人間だけがする事ができる、「祈り」を始める事ができるようになったからです。天主聖父の栄光を求めて、天主を「聖父よ」と呼ぶようになったからです。これは大きな変化です。

実は聖伝の洗礼式によると、子供にも大人にも、イエズス様がなさったのと同じような仕草を司祭がします。司祭はちょっとだけ手を舌で湿して、まず右耳に、次に左耳に“エフェタ”と言います。その次に、今度は鼻にも十字架のしるしをして、“in odorem suavitatis”「甘美な香りの為に」と言います。「これからはイエズス・キリストの良い香りを嗅ぐことができるように」というものなのです。もちろんこの耳に“エフェタ”と耳にしるしを付けた時には、すでに耳も口も開かれたという事ですから、洗礼式では鼻にもしるしをします。

⑶ 第3の点は、何で鼻に付けるのか?

なぜかというと、これは聖パウロは、「私たちがキリストの良い香りを出す事ができるように」と言っているからです。洗礼を受けたばかりの時には、まだキリストの匂いを嗅ぐだけでした。天主の香ばしい香りを感じるだけでした。しかし洗礼には続きがあります。堅振の秘跡です。

洗礼の時には、ただ水で洗礼は授けます。単純な自然の水で大丈夫です。なぜかというと、洗礼を受けるというのは、私たちが天主の子供となって、天の遺産の相続人となるその権利を得る事だからです。天主を「聖父」と呼び始める事だからです。天主の掟が何であるかを聞き始める事だからです。しかしだからといって、天主の話を他の人に伝えるというところまで到達しないかもしれません、まだ。

ところが堅振を受けると、単なる水ではなくて聖香油で、バルサムを入れたオリーブの油で、そして司教様が特別に祝別したその油で、私たちは堅振を受けます。オリーブ油でなければなりません。バルサムが入ってなければなりません。なぜかというと、この「私たちがこれからは、このバルサムの匂いが他の人たちに伝わるように。もしもそのような聖香油が私たちに一粒でもあったら、部屋全体にこの香りがするように、私たちもこれからは匂いを嗅ぐだけではなく、匂いを漂わせなければならない。キリストの話をしっかりと語り始めなければならない。イエズス様の愛について、イエズス様の教えについて天主について、私たちははっきりと伝えなければならない」と教えているからです。

堅振の時に私たちは七つの賜物を受けますが、その七つの賜物の最後は、「知恵」の「上智」の賜物です。「上智」というのは何かというと、「深い原因からものを見る」という事です。

例えば誰かが、「あぁ神父様、こんな問題があるけれどもどうしたら良いのでしょうか?」「あぁ、じゃあその問題があるなら、その問題を見ないように、ちょっと顔をこう隠したら良いんじゃないか。ダチョウが砂の中にこう入るように、隠したら問題は見えなくなる。」

これは問題の解決ではありません、表面的な解決にしか過ぎません。知恵のある人は、なぜその問題があるのかを見て、その問題の原因は何かを見ます。
「最も深い原因はここだ。だからこの原因の根を取ってしまえば、これが問題が無くなる」と解決します。
「あぁ、なるほど!頭が良いな。知恵がある!鋭い!」
アリストテレスによると、「知恵というのは、最も深い原因(altissima causa)まで行って考えるところにある」と言っています。

ですから聖霊の賜物の上智は私たちに、本当の知恵を与えます。最も深い原因まで私たちを辿らせます。最も深い原因とは何かというと、天主です。この世の救い主です。イエズス・キリストです。このイエズス・キリストについて語る事です。ですからこのような人こそ初めて、本当の知恵のある人が初めて、全てのものを本当の意味で秩序立てる事ができます。本当の意味の秩序があるところに私たちには平和があります。そして私たちは本当の意味で平和を作り出す者となる事ができます。

至福八端の中にはこういう言葉があります、「平和を作り出す者は幸い。なぜなら彼らは天主の子と呼ばれるだろう」と。上智の賜物を得る者は、本当に天主の子供となる事ができます。これによって洗礼の御恵みが完成されます。

では今日は、聖パウロの回心とイエズス様のなさった奇跡を通して、実はそれと同じものを私たちは頂いた、という事を黙想しつつ、この洗礼の御恵みを感謝致しましょう。この御恵みをますます味わう事ができますように、マリア様にお祈り致しましょう。


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