天主である聖体
聖体は天主である
礼拝 救い主は、かつて使徒らに問われたように、今、祭壇上から、あなたに向かって、『人々はわれをだれなりというか』とお尋ねになる。だからあなたはペトロのように、ここに集まるすべての人々にかわって『御身は生ける天主の御子キリストにまします。われはこれを信じ、これを知る』とすぐに答えなければならない。
たしかに、聖体の中における救い主は天主の御子であり、御父と等しい天主である。だから聖体は天主である。
これを知り、これを宣伝するのはどんなことよりも大切である。なぜなら一方に主に対する私たちの尊敬を信頼、また他方にひそみ隠れておいでになる天主の光栄は、この信仰宣言中にあるからである。イエズスは、天主、まことの天主、神性において御父と等しく、天主よりの天主、光よりの光、まことの天主よりのまことの天主でおいでになるから、もし聖体の中にイエズス・キリストがまことにおいでになるなら、聖体の中には天主が実際においでになるのである。神性は、減少することも分割されることもない。だから、もし主が聖体の秘跡の中においでになるなら、いとも尊き天主は、真実に、すべてに完全に、聖三位一体としてここに実在されているのである。
主の御手に造られたもの、主の御能力を分けられたものは、どれも主の完徳の一部を宿し、主の神性の幾分かを保有している。だから、天主はこの世に存在するすべてのものの生命の中においでになり、また創造主にかたどって造られた人間の霊魂の中にも、主の霊的生命を私たちに伝えるすべての秘跡と恩恵との中にもおいでになるのである。以上の場合でも天主の存在様式は、あるいは自然的であり、あるいは超自然的恩寵としてである。ところが聖体の中では、これとは全く異なった方法で、ペルソナ的に、完全に、また、特別な存在様式をもって存在されている。すなわち天主のみ言葉が肉と合わせられ、イエズス・キリストとして地上に存在されたのと同じ方法で、秘跡的にここにいつづけられているのである。
聖ヨハネは福音書中で『み言葉は天主の御もとにあり、み言葉は天主にてありたり。み言葉は肉となりたまえり』といった。救い主もまたご自分から『われと父とは一なり』とおっしゃった。
空に輝く太陽や、道ばたに咲く草花の中にも、天主はその偏在性をもって存在しておいでになるが、イエズスの中には、それらと全然異なった完全な人性との一致をもって存在されていて、これによってみ言葉が天主にましますように、イエズスは天主でいらっしゃるのである。
イエズスのご霊魂は神殿よりももっと尊い至聖所である。旧約時代には、天主はエルザレムの神殿に住み、人々のすべての祈りをお聞きになったが、しかし天主は今日これをお見捨てになった。聖パウロのいうように、いにしえの至聖所は、ただ象徴にすぎない。主が私たちの祭壇上においでになることの準備でしかなかったのである。すなわち天主は、それまでとは比較にならないほど完全に、ご自身を人類に与えようとお望みになり、第二のペルソナとして、イエズス・キリストの中に、完全にペルソナ的にお住みになり、この際、至聖三位一体は分けることができないから、御子だけでなく御父もまた聖霊もともに来られたのである。
さて聖体は秘跡の陰に御身を閉じこめられたイエズス・キリストである。だから天主は、イエズス・キリストの中においでになるように聖体の中においでになって、イエズスが天主にましますように、聖体もまた天主でいらっしゃるのである。
主の御稜威のみ前で、けんそんにしかも確信をもって、ただ愛によってだけ私たちにこのようにお近づきになる主を礼拝しよう。
感謝 この地上に主がおいでになるということが、いかに私たちの身分を高め、私たちに利益をなるかを考えよう。
聖体は私たちの身分を高めるのである。なぜなら、それによって私たちは天主の友、天主の客となり、そればかりでなく天主の子となるからである。『その天主のかくも近く来たりたまい、かくも特別に恵みたもう民は、他にいずこにありや』としるされたとおりである。
次に、それは私たちの大きな利益である。『天主もしわれらとともにましますならば、なんびとわれらに逆らうをえん。』私たちと一緒におとどまりになる必要な理由は主の方にはなにもない。主はただ愛によってだけ、すなわち私たちの利益のためにだけ来てくださるのである。主は私たちの弱さをあわれんで、ただそのためにだけ聖体の中においでになるのである。
しかしこの存在がどれほど救い主のご光栄を増すことであろうか。聖ひつの中に閉じこめられたパンの卑しい形態の中には、主の完徳のすべてが、減ることも乱れることもなく、完全に含まれている。そしてそのひとつひとつが無限の世界である。天主の御稜威、無限不変の性、万物をお造りになった全能、万物を支配なさる摂理、万民をお裁きになる正義、永遠に義人にお報いになる福楽、これらのすべてが聖体の中においでになるのである。
ああ感ずべき至聖所よ。天主にまします御者は、実際に、卑しいホスチアのかなたにひそんでおられ、このおおいの陰で、今日もそのまま、いともたえなる神秘、最大の行為を行なわれるのである。ああ聖なるホスチアよ、だから御身に近づくことは天主に近づくことであり、御身を受けるのは天主を受けることである。だれが御身にふさわしく感謝し、賛美申しあげることができようか。
償い それでは今は、もはやためらい迷うときではない。聖体を軽蔑する者は天主を軽蔑する者である。
天主は私たちが、聖体を通じて主をあがめ、主に対して最も完全な信心、十分な礼拝をささげることを望んでおられるのである。だから聖体に対する無礼は天主に対する無礼であって、大罪をもちながら聖体を受け、この尊い秘跡を汚し、または聖体に対して無礼を働く者は、天主を足で踏みつけ、カルワリオ山上で天主を殺したユデア人の冒涜を再び繰り返す者である。
日々、聖体に対して放つ汚聖の言葉を聞き、聖体の秘跡を汚す信者の行為をながめ、多くの聖堂が荒廃に帰してしまうありさまを見るなら、この世に対する罰がかくも激しく、主の御怒りのむちがかくもきびしいのをいまさらのように驚く理由はないのである。私たちはもっと注意して敬虔を尽くし、ここにおいでになる天主に対して人々の不敬を償おう。さらにつつしんで主をあがめ主を讃えよう。霊魂を清め徳を積み、聖体に対する冒瀆によって招かれる天主の御怒りを少しでも和らげたてまつろう。
祈願 『ああわが天主よ、われは御身の至聖所にて祈り、聖なる御身の神殿において御身を礼拝したてまつる。』これこそ私たちとともにおいでになる天主に向かって、私たちがささげねばならない祈り、および決心でなければならない。悪人の侮辱をお受けになられたにもかかわらず、私たちと一緒に住もうとお望みになるあわれみ深い主を、聖なる神殿の中で敬いたてまつろう。主のみ前において、そのおもてを翼でおおい隠しひれ伏す天使にならい、常に畏敬とけんそんとをもって聖体を拝もう。最後に、私たちが悩み、疑い、罪に陥ったなら、常に天主が聖堂においでになることを記憶しよう。私たちの天主を聖ひつ以外に求めてはならない。
実行 どんなことがあっても、聖堂内で、話をしたり、わき見をしたりしないように。また、世間的な不謹慎な服装をして聖堂にはいってはいけない。
『聖体の黙想』テニエール著より
1. 聖体の制定された理由:聖体は天主のご托身の継続である
3. 聖体の制定された理由:聖体は救い主のご受難ご死去の記念である
7. 聖体の制定された理由 聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化である
私たちの先祖のキリシタンが口癖のように言っていた Lovado seia o Santissimo Sacramento! を私たちも口ずさみたいと思います。
「至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!」
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖体は天主である
礼拝 救い主は、かつて使徒らに問われたように、今、祭壇上から、あなたに向かって、『人々はわれをだれなりというか』とお尋ねになる。だからあなたはペトロのように、ここに集まるすべての人々にかわって『御身は生ける天主の御子キリストにまします。われはこれを信じ、これを知る』とすぐに答えなければならない。
たしかに、聖体の中における救い主は天主の御子であり、御父と等しい天主である。だから聖体は天主である。
これを知り、これを宣伝するのはどんなことよりも大切である。なぜなら一方に主に対する私たちの尊敬を信頼、また他方にひそみ隠れておいでになる天主の光栄は、この信仰宣言中にあるからである。イエズスは、天主、まことの天主、神性において御父と等しく、天主よりの天主、光よりの光、まことの天主よりのまことの天主でおいでになるから、もし聖体の中にイエズス・キリストがまことにおいでになるなら、聖体の中には天主が実際においでになるのである。神性は、減少することも分割されることもない。だから、もし主が聖体の秘跡の中においでになるなら、いとも尊き天主は、真実に、すべてに完全に、聖三位一体としてここに実在されているのである。
主の御手に造られたもの、主の御能力を分けられたものは、どれも主の完徳の一部を宿し、主の神性の幾分かを保有している。だから、天主はこの世に存在するすべてのものの生命の中においでになり、また創造主にかたどって造られた人間の霊魂の中にも、主の霊的生命を私たちに伝えるすべての秘跡と恩恵との中にもおいでになるのである。以上の場合でも天主の存在様式は、あるいは自然的であり、あるいは超自然的恩寵としてである。ところが聖体の中では、これとは全く異なった方法で、ペルソナ的に、完全に、また、特別な存在様式をもって存在されている。すなわち天主のみ言葉が肉と合わせられ、イエズス・キリストとして地上に存在されたのと同じ方法で、秘跡的にここにいつづけられているのである。
聖ヨハネは福音書中で『み言葉は天主の御もとにあり、み言葉は天主にてありたり。み言葉は肉となりたまえり』といった。救い主もまたご自分から『われと父とは一なり』とおっしゃった。
空に輝く太陽や、道ばたに咲く草花の中にも、天主はその偏在性をもって存在しておいでになるが、イエズスの中には、それらと全然異なった完全な人性との一致をもって存在されていて、これによってみ言葉が天主にましますように、イエズスは天主でいらっしゃるのである。
イエズスのご霊魂は神殿よりももっと尊い至聖所である。旧約時代には、天主はエルザレムの神殿に住み、人々のすべての祈りをお聞きになったが、しかし天主は今日これをお見捨てになった。聖パウロのいうように、いにしえの至聖所は、ただ象徴にすぎない。主が私たちの祭壇上においでになることの準備でしかなかったのである。すなわち天主は、それまでとは比較にならないほど完全に、ご自身を人類に与えようとお望みになり、第二のペルソナとして、イエズス・キリストの中に、完全にペルソナ的にお住みになり、この際、至聖三位一体は分けることができないから、御子だけでなく御父もまた聖霊もともに来られたのである。
さて聖体は秘跡の陰に御身を閉じこめられたイエズス・キリストである。だから天主は、イエズス・キリストの中においでになるように聖体の中においでになって、イエズスが天主にましますように、聖体もまた天主でいらっしゃるのである。
主の御稜威のみ前で、けんそんにしかも確信をもって、ただ愛によってだけ私たちにこのようにお近づきになる主を礼拝しよう。
感謝 この地上に主がおいでになるということが、いかに私たちの身分を高め、私たちに利益をなるかを考えよう。
聖体は私たちの身分を高めるのである。なぜなら、それによって私たちは天主の友、天主の客となり、そればかりでなく天主の子となるからである。『その天主のかくも近く来たりたまい、かくも特別に恵みたもう民は、他にいずこにありや』としるされたとおりである。
次に、それは私たちの大きな利益である。『天主もしわれらとともにましますならば、なんびとわれらに逆らうをえん。』私たちと一緒におとどまりになる必要な理由は主の方にはなにもない。主はただ愛によってだけ、すなわち私たちの利益のためにだけ来てくださるのである。主は私たちの弱さをあわれんで、ただそのためにだけ聖体の中においでになるのである。
しかしこの存在がどれほど救い主のご光栄を増すことであろうか。聖ひつの中に閉じこめられたパンの卑しい形態の中には、主の完徳のすべてが、減ることも乱れることもなく、完全に含まれている。そしてそのひとつひとつが無限の世界である。天主の御稜威、無限不変の性、万物をお造りになった全能、万物を支配なさる摂理、万民をお裁きになる正義、永遠に義人にお報いになる福楽、これらのすべてが聖体の中においでになるのである。
ああ感ずべき至聖所よ。天主にまします御者は、実際に、卑しいホスチアのかなたにひそんでおられ、このおおいの陰で、今日もそのまま、いともたえなる神秘、最大の行為を行なわれるのである。ああ聖なるホスチアよ、だから御身に近づくことは天主に近づくことであり、御身を受けるのは天主を受けることである。だれが御身にふさわしく感謝し、賛美申しあげることができようか。
償い それでは今は、もはやためらい迷うときではない。聖体を軽蔑する者は天主を軽蔑する者である。
天主は私たちが、聖体を通じて主をあがめ、主に対して最も完全な信心、十分な礼拝をささげることを望んでおられるのである。だから聖体に対する無礼は天主に対する無礼であって、大罪をもちながら聖体を受け、この尊い秘跡を汚し、または聖体に対して無礼を働く者は、天主を足で踏みつけ、カルワリオ山上で天主を殺したユデア人の冒涜を再び繰り返す者である。
日々、聖体に対して放つ汚聖の言葉を聞き、聖体の秘跡を汚す信者の行為をながめ、多くの聖堂が荒廃に帰してしまうありさまを見るなら、この世に対する罰がかくも激しく、主の御怒りのむちがかくもきびしいのをいまさらのように驚く理由はないのである。私たちはもっと注意して敬虔を尽くし、ここにおいでになる天主に対して人々の不敬を償おう。さらにつつしんで主をあがめ主を讃えよう。霊魂を清め徳を積み、聖体に対する冒瀆によって招かれる天主の御怒りを少しでも和らげたてまつろう。
祈願 『ああわが天主よ、われは御身の至聖所にて祈り、聖なる御身の神殿において御身を礼拝したてまつる。』これこそ私たちとともにおいでになる天主に向かって、私たちがささげねばならない祈り、および決心でなければならない。悪人の侮辱をお受けになられたにもかかわらず、私たちと一緒に住もうとお望みになるあわれみ深い主を、聖なる神殿の中で敬いたてまつろう。主のみ前において、そのおもてを翼でおおい隠しひれ伏す天使にならい、常に畏敬とけんそんとをもって聖体を拝もう。最後に、私たちが悩み、疑い、罪に陥ったなら、常に天主が聖堂においでになることを記憶しよう。私たちの天主を聖ひつ以外に求めてはならない。
実行 どんなことがあっても、聖堂内で、話をしたり、わき見をしたりしないように。また、世間的な不謹慎な服装をして聖堂にはいってはいけない。
『聖体の黙想』テニエール著より
1. 聖体の制定された理由:聖体は天主のご托身の継続である
3. 聖体の制定された理由:聖体は救い主のご受難ご死去の記念である
7. 聖体の制定された理由 聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化である
私たちの先祖のキリシタンが口癖のように言っていた Lovado seia o Santissimo Sacramento! を私たちも口ずさみたいと思います。
「至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!」
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)