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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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聖体の制定された理由 聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化である。

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聖体の制定された理由

聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化である。

 礼拝 カトリック教会のはじめから世の終わりに至るまで、聖体の中におとどまりになるイエズス・キリストを、カトリック教会のまことの子どもにふさわしい信仰をもって、カトリック教会の名によって礼拝しよう。主はこの秘跡によって、その深く愛しておいでになるカトリック教会に、必要なすべての助けをお与えになるからである。

 まず、カトリック教会の浄配なる主を礼拝しよう。主は愛によって『カトリック教会』を選び、御血をもってこれを洗い清め、全く清く汚れなく、美しく聖なるものとされた。また主は絶えずカトリック教会を支え、慰め、カトリック教会の子なる信者らが『魂の母』に請い求める天来のパンを、いつもカトリック教会のために準備される。

 主がともにおいでになることは、カトリック教会の歓喜であり、生命であり、名誉であり、光栄であって、一方ではカトリック教会の無限に発展し栄える理由である。天地の創造主、全人類の救い主は統治の栄誉を、その妃(元后)であるカトリック教会とともにし、その御国をこれとともにおわかちになる。もし妃(元后)にたとえられるカトリック教会から、聖体を奪い去ってしまうなら、カトリック教会の光栄、豊饒、使徒的使命はどうなってしまうであろうか。

 また、カトリック教会の神秘体のかしらなる主を礼拝しよう。私たちはみな同一の真理を信じ、同一の永生を希望し、同一の生命を分かって、主とともにひとつの神秘体を形づくる。人体の各部分に動脈血がゆきわたって、これに生命を与えるように、七つの秘跡によって全教会に恩恵が分配され、その霊的活動を支えているが、その源は心臓にも比べられる聖体の秘跡である。もし聖体がなくなったなら、カトリック教会の力と熱と生命とはどうなってしまうであろうか。

 最後にカトリック教会の目に見えない主を礼拝しよう。主は、教皇、司教、司祭らの目に見える聖役者を通じ、カトリック教会を教え、治め、清めて、その尊い御務めの一端をお果しなるが、より直接に、また、より完全な方法によって、新約の至聖所である聖体の陰から、自分でその大部分を執り行われる。

 まず第一に司祭職の最も重要な任務は祈りといけにえの奉献とであるが、主は聖体の中においでになって、昼夜をわかたず完全にこれを行なわれる。またそのほか、主はこの無力なホスチアの中にあって、実際にカトリック教会を治め、沈黙のうちにすべてを教え、牧者の口をもって誤ることがないように、信者を牧者の指導にお従わせになるのである。

 ああ、カトリック教会の聖体よ、御身の誉れと栄えとが、御身にあがなわれた人の子らによって認められ、あがめられ、愛されますように。

 感謝 浄配にして、かしらなる大祭司イエズスが常においでになることは、カトリック教会にとってどんなに大きな利益であろうか。

 カトリック教会が行くところにはイエズスもまた必ず来たもう。炎熱を焼く熱帯の砂漠も、氷雪に常に閉ざされる寒帯の僻地も主はおいといにならない。いや、むしろ主がカトリック教会をこれらの地へ導いていってくださるのである。

 主はまたカトリック教会とともに、あらゆる境遇に甘んじられるのである。けいけんな人たちによってカトリック教会があがめられるときには、主もまた光栄を受けられ、これに反してカトリック教会が迫害されるときには、主もまたともに迫害されることになる。かつて三百年間、カトリック教会とともにカタコンベの中に隠れたまうたこともあった。

 このように二千年の昔、尊い御血をもってカトリック教会を贖われて以来、主の忠実な聖心は一日とても、カトリック教会を保護し、これを慰めることを怠りにはならなかった。

 主はまたこの間、言いつくしがたい忍耐をもって、カトリック教会の忘恩の子らの、主に対して絶えず犯される無数の罪過をお忍びになったのである。主は世俗の信者から、はずかしめを受けようと、または司祭らからこれを受けようと、いっさいをすべて許し、忘れたもう。カトリック教会に対するたぐいない愛、主の英雄的忍耐をくつがえす何ものもないのである。

 これらのカトリック教会に対して主の限りない愛のあかしをわきまえ、母なるカトリック教会のよき子どもとして、深く主に感謝しよう。

 償い 主はカトリック教会を愛して、悪魔の手からこれを救い出すためには十字架に上ることを少しもおいといにならず、世の終わりまで常にこれとともにとどまり、また、これを養い、一方では天父の許しを請い受けるために絶えず御身を祭壇の上に供えられる。その愛の深さはとうてい計ることができないのである。

 だから、カトリック教会がかずかずの試練や迫害に悩むとき、主の聖心は堪えがたい苦痛を感じられる。私たちがふさわしい償いをささげ、主をお慰めするためには、主のこれらの御苦しみを知らなければならない。

 カトリック教会がなめた試練の中で、まず最初にあげるべきものは、カトリック教会の権威と教義とにそむいて起こったかずかずの離教と異端とである。これらのものはカトリック教会を滅ぼし、天主の真理を曲げようとする。慈悲の母なるカトリック教会は、離教異端のやからによって、すでにどんなに広大な領地を奪われたことであろうか。

 次には棄教、宗教的無関心、道徳的昏睡がある。神秘体なるカトリック教会の肢が麻痺して、母なるカトリック教会のからだより永遠に離れ去ってしまうことは、いかに主の聖心を傷つけることだろう。『汝らに聞く者はわれに聞き、なんじらを軽んずる者はわれを軽んずるなり』とおおせになった救い主は、これらの著明な棄教やカトリック教会に対する反逆を、いかに苦しく感じられるであろうか。

 最後に、欺瞞されてカトリック教会を迫害する人民や、カトリック教会を圧迫しその活動を妨害する政府がある。主は深くこれを憂い、かつてサウロにおっしゃったように『なんじ、何ゆえにわれを迫害するや』と彼らに向かって叫ばれるのである。実にカトリック教会を迫害する者は、そのかしら、その浄配なるイエズスを迫害していることにほかならない。

 これらいっさいの事がらについて、主の聖心はいかに嘆き悲しまれることであろう。

 祈願 常に主の聖心をお喜ばせし、いかなる場合にも聞き入れられる祈りは、はずかしめられ迫害される母なるカトリック教会のためにささげる私たちの祈りである。この祈りこそ、まっすぐに主の聖心に通うのである。

 カトリック教会は私たちの霊魂の母であるため、私たちのカトリック教会に対する義務は『なんじ、父母を敬うべし』との天主の第四戒に含まれる。だから常にカトリック教会のために祈らない者はこのおきてにそむくものである。

 主は、この点についても私たちに模範を示し、無数の祭壇上で絶えずカトリック教会のために祈り、カトリック教会のために御身をいけにえとして天父にささげられるのである。だから私たちもまたカトリック教会のために熱心に祈ろう。

 教皇のため、司教のため、諸修道会のため、またカトリック教会の平和教勢の拡張のために、目に見えない教会のかしらの大司祭なる主と一緒に祈り、すべての異教異端のやからの改心、罪人の立ち帰りを天主に求めよう。このように人々がみないっしょに聖体の中においでになる慈愛深い救い主を礼拝するように祈願しよう。

 実行 使徒的熱心をもって常にカトリック教会のために祈ること。

『聖体の黙想』テニエール著より

1. 聖体の制定された理由:聖体は天主のご托身の継続である

3. 聖体の制定された理由:聖体は救い主のご受難ご死去の記念である

私たちの先祖のキリシタンが口癖のように言っていた Lovado seia o Santissimo Sacramento! を私たちも口ずさみたいと思います。
 「至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!」

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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