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2018年8月3日(初金) 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ 「聖心の信心の2つの要素」

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2018年8月3日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年8月3日、8月の初金曜日です。イエズス様の聖心の随意ミサをしています。

このミサの後に聖時間があります。イエズス様の御聖体の前で、イエズス様の聖心をお慰めして讃美致しましょう。明日もミサがここで10時30分からあります。

それから8月は特に、特別に11日から山の日から15日まで、続けて10時30分からミサがあって、その後その時に、その間に5日間、イエズス様の聖心の黙想を一緒にする事を提案します。聖ピオ十世会のシンボルである、汚れなき御心とイエズス様の聖心が一致している、という事をますます深める事ができればと思います。ミサの後で午後にこの黙想会を提案します、黙想会と聖時間を提案します。

それから16日には朝、早朝にここでミサをする予定です。そしてデ・ガラレタ司教様が来られて、17日からずっとミサをして下さる予定です。
17・18日と、それから8月22日にも夕方ここでミサをして下さるように計画を立てています。聖母の汚れなき御心聖堂で司教様がして下されば、とても私たちには名誉な事であります。特に18日の土曜日には、堅振の儀式をお願いしております。
今年はあまり堅振の秘跡を受ける方が多くないかもしれませんが、お願いしています。



では、8月の初金曜日で、イエズス様の聖心の信心を行なう事に致しましょう。聖心の信心は2つの要素があります。

1つは、「イエズス様の聖心が私たち人類を、私たち一人ひとりをどれほど深く、永遠の昔から、無限に愛しておられるか」という事をひとつひとつ考察する事です。本当にこのイエズス様の私たちに対する愛は、考えても考えても、黙想しても黙想しても、黙想し尽くす事ができないほどだからです。

そして第2の要素は、「私たちがそのような愛を受けているにもかかわらず、その返礼としてイエズス様にするものは、冷淡と、無関心と、あるいは冒瀆である」と、それを思って、「少なくとも私たちが、イエズス様の聖心をお慰めする、償いをしよう」と決心する事です。

イエズス様からの無限の愛と、そして私たちからの人類の冷たい反応、この2つの要素を見て、私たちが遷善の決心をする。ここにイエズス様の聖心の2つの要素があります。

そこで8月は、イエズス様の私たちに燃えるような愛の1つに、「イエズス様が私たちの為に司祭であろうとした」つまり、「御自分をいけにえとして捧げようとした」というその愛の思いを黙想する事を提案します。


イエズス様は天主の御言葉です。天主聖父は、永遠の昔から御自分の事を完璧に理解して、そして御自分の完璧なその理解を、1つの御言葉に生み出しました。その御言葉はあまりにも美しく、完璧で、望ましいものであって、聖父はその御言葉、自分の生んだ聖子を愛します。

その聖子はまさに愛の御言葉であって、そして聖父をまた愛し返します。天主聖父と聖子のその愛し愛されるものは、愛のため息となって、聖霊となって、それもまた天主の愛です。

「天主は愛である。」永遠の昔から永遠の未来にかけて愛であって、天主の全ての行ないは命は、愛の行ないです。

この愛の行ないによって、愛するが為に、この美しい大自然と、目に見える全宇宙を創造しました。愛の故に全人類を創造されました、無から。そして特別の寛大さと気前の良さとを以て、人間を御自分の似姿に似せて創り、そして御自分の持てる特別の特権と賜物を、人間に気前よく寛大に与え尽くしました。

それに対して人間が罪を以て応えた後に、聖子は愛を以て、更にそれを上回る愛を以て私たちに与えました。それは、「御苦しみによって、私たちが受けるべき全ての罪の償いを果たす」という愛の極みでした。

天主聖子はお生まれになるその最初の瞬間から、マリア様の御胎内に宿るその瞬間から、「聖父よ、私は御身の御旨を果たす為に来ました。御身のいけにえとして来ました」と、やって来ました。御胎内に、マリア様の御胎内におられる時から、そして馬小屋で生まれる時から、生まれたその時も、イエズス様の聖心は、私たち人類の為の罪の償いとして、いけにえとして、自分を屠る、自分を捧げ尽くす、という事のみを考えていました。

聖父への愛に燃えて、その御旨を果たすが為にいけにえとなろうと、自分が大司祭として自分自身を捧げようと思っていました。

それが、その愛熱の思いが公式になされたのが、御割礼の時、イエズス様が本当に御自分の御血を流された時、またマリア様が40日後に、生まれて40日後にイエズス様を神殿に奉献された時でした。それは確かに公式的なものでしたけれども、イエズス様の聖心の燃えるその願いは、私たちの目に、あるいは想像をはるかに超えるものでした。

イエズス様がエジプトへ逃亡された時、ヨゼフ様とマリア様の苦しみと合わせて、御自分をエジプトへいけにえとして捧げられた時、あるいはナザレトでの30年間の労働の生活、隠れた祈りと犠牲と労働の生活の時、そのイエズス様が「自分をいけにえとして捧げよう、人類の為に、罪の償いとして捧げよう」という願いは、ますます燃え立てられるばかりでした。

非常に個人的な話ですけれども、3日間ミュンヘンからアルテッティンという所まで、100キロほど歩く巡礼をしてきました。
100キロ歩くと言っても、しかし担ぐ荷物はそんなに多くありません。自分の1日食べる分の食料とか、あるいは飲む物をちょっと持てば良いのです。なぜかというと、寝袋やあるいはその他の物はトラックで運んでくれるし、あるいは朝になると1日分の食料が準備されて渡して下さるし、特に司祭の場合に。そして道端に何キロか行くと、こうペットボトルを持った人が立っていて水をくれるし、水も喉が乾けば飲む事ができるし、そして必要だと言えばお願いすればいい。あるいは移動式の洗面所があるので用を足そうと思えば足す事ができるし、水道も移動式の水道があって顔ぐらいは洗う事ができるし、あるいはテントもトラックで運んでくれて、移動式でテントを運ぶ必要もないし。

しかしヨゼフ様とマリア様は、道も無いような険しい所をエジプトまで歩いて、どうやって荷物を運んだのだろうか、距離的には10日は歩かなければならないし、準備もなかっただろうし、水はどうやって運んだのだろうか、食べ物はどうしたのだろうか、どこに寝泊まりしたのだろうか、着替えはどうしたのだろうか、どうやって顔を洗ったのだろうか、汗だらけになって、埃だらけになって、本当にもうきっと疲れただろう。どこにテントも、今のような簡単なテントも無かっただろうし、寝袋もなかっただろうし、ペットボトルも無かっただろうし、等と考えながら巡礼しました。

イエズス様がエジプトでの、たとえ幼かったにせよ、おそらくその逃亡の生活は非常に困難で、苦しい事だらけだっただろうと思いました。

イエズス様は司祭として、そしていけにえとして、全てを捧げました。私生活が終わってその直後に、洗者聖ヨハネはイエズス様を見て、「見よ、天主の子羊だ」と宣言しました。

エジプトからモーゼが逃げる時に、過ぎ越しの子羊を捧げました。その過ぎ越しの子羊の血を塗った所では全て助かりましたけれども、そうでなければ男の子が、最初の生まれた男の子が皆、家畜も人間も死にました。イエズス様の御血によって助かるべき、その御血によって助かるべき本当の、新約の過ぎ越しの天主の子羊が、イエズス・キリスト様でした。

イエズス様は祈りを、夜通し祈る事によって、あるいは40日間荒れ野で断食とお祈りをする事によって、司祭でした。あるいは皆に教える事によって、あるいは病の人を慰め、そして彼らに善を施す事によって、司祭でした。

しかしイエズス様は、御自分自身をいけにえとして捧げる事によって、最高に、最高度に司祭でした。永遠の司祭でした。

遂に時が来ます。イエズス様は御自身を、唯一、天主聖父に気に入る、天主の聖父の聖心に適ういけにえとして、御自身を捧げるその時が。イエズス様は燃える愛を以て、天主聖父に対する愛と、私たちに対する愛を以て、御自分をいけにえとして捧げます。

旧約の時代にはその子羊は焼き尽くされましたけれども、そして屠られて食べましたけれども、イエズス様は御自分の愛の火によって燃え尽くされたかのようです。そして私たちによって食されるように、御聖体として与え尽くされました。

イエズス様はいけにえとして、十字架の上に磔にされます。頭の先から足の裏まで傷だらけの御体は、私たちにどれほど、私たちの事を愛しておられるのか、という事を叫んで、それで十分です。たった御傷の1つであったとしても、私たちにとって十分ですが、その全身傷まみれの御体を見れば見るほど、その私たちに対する燃える愛を見る事ができます。

また私の話ですけれども、100キロの間、非常に重い木の十字架を運ばなければなりません。イエズス様は言いました、「もしも私の弟子になりたいのならば、自分の十字架を取って私に従え。」そこで私たちも、そのイエズス様の十字架の後に従って、巡礼を歩くのですけれども、3人が1チームになって、この十字架を担がなければなりません。私もやりました。5分ぐらい歩いて、あとは20分くらい休んで、5分ぐらい担いで、あとは休んで。そして最初はこっちに、次はあっちに、次は真ん中に、交代してやるのですけれども、もう5分も経つと、もう重くて、重くて、痛くて、「早く交代しないかなぁ。」

イエズス様はこれを一人で担がれました。あまりにも重くて、何度も倒られました。傷だらけの体で、頭には茨の冠を被せられて、一人でこの重い木の十字架を担がれました。

3人でほんのちょっとの間でも、「ものすごい」と思っている私たちですけれども、その十字架を担いだそれだけを見ても、このイエズス様の私たちへの愛と、その苦しみの重さが分かります。

それにもかかわらず、イエズス様の私たちへの愛は、全く愛されていません。人類はイエズス様を、あたかも何でもないかのように、冷淡に、あるいは無関心に、あるいは冒瀆を以て、それに応えています。

イエズス様の十字架のしるしを、この世界から取り払おうとさえもしています。ファチマの天使は子供たちに現れて言いました、「恐ろしく冒瀆されているイエズス様の御体と御血を、イエズス様をお慰めする為に拝領し、飲みなさい」と。

この8月のイエズス様の初金において、私たちも遷善の決心を立てる事に致しましょう。この暑さ、あるいはこのイエズス様への愛の為に、この汗を流す事ができますようにと、この日常の祈りと生活を、イエズス様の愛熱の火に合わせて私たちも捧げる事ができますように、イエズス・キリストの聖心のその燃える愛の炎を、私たちが少しでも深く理解する事ができますように、お祈り致しましょう。マリア様にその助けを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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