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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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聖体礼拝の理由 聖体は救い主のご受難の生ける記念である

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聖体礼拝の理由

聖体は救い主のご受難の生ける記念である

 礼拝 聖体はイエズス・キリストのご受難の記念を地上に永続させ、その結果を私たちに分け与えるために制定された秘蹟である。


だから、私たちは主がご受難に際しておしのぎになったすべての苦痛と、すべての屈辱との償いとして、賛美と愛とを聖体にささげなければならない。

 主はこの秘蹟を制定なさるにあたって、『なんじら、罪の赦しのためにわたさるるわが記念としてこれを行え』とおっしゃった。聖パウロも『なんじらが聖体をささぐるごとに、救い主の死を示すなり』といった。また、カトリック教会は、ミサ聖祭は十字架上の祭りと同じく、まことの犠牲祭であって、天主に同一の犠牲を捧げるものであると教えている

 救い主は何のために、このようにご受難の記念を続けられるのであろうか。それはいうまでもない。私たちの救霊のために、十字架上の死さえ甘んじて受けられたほどの大きな愛を、私たちがいつまでも忘れないようにお望みになったからである。

 また主が、かつて侮辱され暴行を受けられたのに比例して、私たちが主を尊敬し、主をお愛しすることをお望みになったからである。最後に、主がお苦しみなったこの地上において、天国で現に受けていられると同様の名誉と愛と礼拝とを、当然の権利として受けようとお考えになったからである。

 聖体の尊敬は私たちにとって厳密な義務である。たしかに賛美が冒瀆と侮辱とを、『ホザンナ』の叫びが『十字架につけよ』との怒声を、礼拝が軽蔑を償って主にささげられることは当然ではあるまいか。

 むちによって打ち破られ、いばらによって引き裂かれ、苦痛によってさいなまれた御からだが、人々の熱心なやさしい看護を受けられるのは当然ではないだろうか。裏切られ、見捨てられ、孤独のさびしさをお味わいに聖心が、そのかわりに私たちの愛と忠実とによっておいたわられになるのは当然ではないだろうか。世界の救霊のためにすべての苦難をお忍びになったまことの天主、まことの人でおいでになる御者が、全世界の人々から、いくらかの報いを受けようと望まれることは当然ではないだろうか。

 実にすべてこれらは救い主の正当なご権利である。それなら、今日地上で主を発見できるのは、ただ聖体の秘蹟の中においてだけであるから、私たちはみな聖体の周囲に集まり、秘蹟の陰に隠れていらっしゃる主に対して、主の負ってくださるいっさいをお返ししよう。

 感謝 いとも尊い救い主が、ご受難によって生じた以上の負債の返却を、聖体を通じて受け入れてくださることを、主に深く感謝しなければならない。

 恩人に負債を返すことができるのは大きな喜びである。恩恵は心の重荷であって、それを返してしまうまで、私たちは安心することができない。純粋の愛から、すなわち私たちがこれを受けるなんの権利もないときに、私たちを死から救って、生命、ことに永遠の生命を私たちに与えてくださるためにだけ、このような苦しみをしのいでくださったこの大恩人に、私たちはどれほど負うところが多いことであろう。

 それでは聖体の御もとに行って、これに愛と賛美とをおささげし負債を支払おう。主が求めておいでになるのは、ただ感謝だけである。

 しかしそれと同時に、ヴェロニカとともに主の御顔をぬぐい、シモンとともにあまりにも重い主の十字架を助けにない、聖婦人らとともに主の御苦痛を泣き、悲しみの御母マリアとともに片時も主のおそばを離れないで、私たちの苦しみを主の御苦しみに合わせて、できるかぎりの償いをすることは、私たちの大きな慰安となり、同時にすぐれた栄誉となる。

 この慰安をもち、この栄誉を受け、主のご受難と愛の秘蹟に感謝に満ちた愛をささげ、心の満足をおぼえよう。

 償い 人々が主のご受難を尊敬し、これを愛するよう制定された聖体の秘蹟に対して、実際は、どんな態度がとられているだろうか。

 残念ながら聖体に対しては、あらゆる方面から侮辱と軽蔑とが重ねられている。ユダが主をユデア人の手にわたしたように、冒涜的聖体拝領によって、今日でも主は悪魔に売り渡されるのである。使徒たちが恐怖のために主を否んだように、人前を恐れる信者によって、今日でも主は見捨てられている。不信の人々は主の実在の奥義をあざけって、これを一場の子どもだましの物語とし、主の御言葉の真実性を認めない。なかには聖体を盗み出して、わざわざ種々の不敬を加える者さえある。

 このように人々の憎悪によって、主のご受難は今日も絶えず繰り返されるのである。主は無限の愛のしるし、人々の救霊の尊い記念として、この秘蹟を制定なさったにもかかわらず、悪人どもはこれを利用し、主を再び十字架にかけるのである。

 ああ、いかにも気の毒なかぎりではないか。かくも非道な取り扱いを受けられるイエズスに同情しよう。愛のカルワリオを苦痛のカルワリオと化す、心ない人々のために償いをしよう。

 祈願 聖体が、まことの天主であり、まことの人であるイエズスご自身でいらっしゃること、私たちのために苦しみを受け、また、死なれたイエズスご自身でおいでになることを確信する恵みをお願いしよう。また主の愛に感激し、主の御苦しみをわかち、聖体の礼拝と拝領と、さらに主の御おきての尊重とによって、主に負わされた義務のいくぶんでもお返しするよう努めよう。

 悲しみの聖母に祈り、聖母の御取り次ぎによって以上の恵みを願い求めよう。『いつくしみの泉なる聖母よ、われをして御悲しみのほどを感ぜしめ、ともに涙を流さしめたまえ。わが心をして天主なる主キリストを愛する火に燃えしめ、いつにそのみ旨に適わしめたまえ。童貞のうちにていともすぐれたる童貞、願わくはわれを退けたまわずして、ともに嘆くを得しめたまえ。われにキリストの死を負わせ、その苦痛をともにせしめ、その傷を思いめぐらさせたまえ。御子の傷をもってわれを貫き、その十字架と血とをもってわれを酔わしめたまえ。』

 実行 聖体の前を通るたびごとに、正しく地にひざまずいて、主がご受難に際して受けられた種々の侮辱の償いをしよう。


『聖体の黙想』テニエール著より

1. 聖体の制定された理由:聖体は天主のご托身の継続である

3. 聖体の制定された理由:聖体は救い主のご受難ご死去の記念である

7. 聖体の制定された理由 聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化である

14. 天主である聖体 聖体は天主である

私たちの先祖のキリシタンが口癖のように言っていた Lovado seia o Santissimo Sacramento! を私たちも口ずさみたいと思います。
「至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!」

秘跡の中にあって今もやはり堪え忍んでいらっしゃるイエズスのために、いにしえのけいけんなエルザレムの婦人のようにお嘆きしよう。

主のおもてをぬぐい、主の御恥辱をお慰めしたヴェロニカはいないのか。

十字架をになうシモン、十字架の下にたたずむヨハネはいないのか。

救い主の御苦しみをわかつ悲しみの聖母にならう人はいないのか。

ああ聖体の中で、主が同一のご受難をおつづけになるなら、同じお慰めとご同情とが必要なはずではないだろうか。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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