聖体礼拝の理由
聖体は秘跡のもとに隠れたもう天主である
礼拝 聖体は実際にパンの外観のもとに隠れておいでになるまことの天主である。
天主は偏在の御徳によって、すべてのところに、またすべてのものの中に存在しておいでになるが、それは私たちの目に見えず、また私たちの手で触れることのできない存在である。
しかし、イエズスにあってはそうではない。み言葉がイエズスの人性を結合されてからは永遠にこの結合が失われず、目に見えぬ天主はイエズスの人性によって目に見えるものとなり、手に触れえぬものはイエズスの御肉によって手に触れうるものとなり、永遠無辺のものはイエズスによって時間と場所との中に存在するものとなられた。そのイエズスが、今、私たちの仰ぎ見る聖体である。
イエズスの全部が、まことにこのパンの外観のもとに存在なさることは、カトリック教会の最もたいせつな信仰である。すなわち、天主ご自身が目に見えてここに存在されるのである。
なるほど、ここではイエズスの人間としての御からだは見えない。しかし主をおおっているおおいに主の実在を示す姿は見えるのである。イエズスが地上におられたときにも、主の神性は人の目に見えなかった。しかし人々は、天主がペルソナ的にその中に存在したもう主のご肉体を見て、これを礼拝したのである。
今日、私たちはその人性を見ることができない。しかしカトリック教会は、この人性が神性とともに秘跡のしるし、ホスチアの姿の中に実在されることを教える。私たちはホスチアを見るたびに、これを礼拝する。なぜなら、私たちはイエズスが、たしかにここにおいでになることを信じるからである。ホスチアは主である。ホスチアは私たちの目に見える天主でいらっしゃるのである。
だから、ここでの天主の実在を信じて、理性をもって彼を礼拝しよう。地上に存在を続けられるために、この不思議な方法を発見された主の大きな愛を思い、心をもって彼を礼拝しよう。あなたが主の被造物で主のしもべであることを思い、あなた自身をすべてこの秘跡のうちにおいでになる天主にささげ、意志をもって彼を礼拝しよう。
感謝 目に見えるお姿をもって、天主がここに実在されていることは、私たちにとってどれほど大きな幸福であり、どれほど大きな祝福であろうか。だからこそ私たちには深い感謝を主にささげなければならないのである。
私たちは、五感に感じるしるしによらなければ、霊的な事がらをさとることができない。これが人間の天性である。
もし天主が秘跡の外観のもとに有形的に存在されなかったら、私たちは天主を求めても、たぶんこれを発見することができなかったであろう。あるいは、たとえ理性によって、主が、どこにも霊的に存在されることを知ったとしても、私たちの心は目をもってとらえることのできない存在に満足しなかったに相違ない。そしておそらく多くの偶像教徒のように、被造物とか自然とか、または、私たち自身の情欲をさえ礼拝したかもしれない。すなわち創造主ご自身を礼拝するかわりに、主のみ姿の反映にすぎない主のみ手のわざを礼拝したかもしれない。
もしそうならば私たちは、はたして私たちの心の慰め、私たちを導く光、私たちをささえる力を持つことができたであろうか。
いや、私たちの天主はここにおいでになる。目をあげて尊いホスチアを見よう。まちがえる気づかいはない。ホスチアにより頼んで、ホスチアに祈ろう。これこそあなたのまことの天主である。
必要に際して、長くたずね求めることはない。悲しみにあたって、むだに呼び捜すことはない。主はあなたにおおせられる。『われここにあり、われなんじを慰めん。汝われに語れ、われなんじの言葉を聞かん。イスラエルよ、なんじは天主を有せざる民にあらず』と。
感謝しよう。天主の実在がどんなにありがたいかを考えて、理性をもって感謝しよう。絶え間ないこの実在に感動して、心情をもって主に感謝しよう。ただ愛のためにのみここにまします天主なるホスチアを愛しかえし、意志をもって主に感謝しよう。
償い 天主がわざわざ私たちのために、目に見えるありさまで聖体の中におとどまりになることは、私たちを感激させずにはおかないはずである。聖体中での天主の実在は、私たちが天主を忘れたり天主にそむいたりすることがないようにしてくれる。それゆえ私たちは、ただひと目ホスチアを見るだけで、最上の尊敬をこれにささげなければならないのである。
ところが不幸にして実際はそうではない。天主は私たちがどこにあっても、み前をのがれることのできない偏在の御徳によって、私たちを強制されるにもかかわらず、人間は天主を忘れ、天主を離れて生活し、あたかも天主がないかのように、祈らず、求めず、天主に従わず、天主を尊敬することなく生活している。
それどころではない。このように尊く、このように神聖な聖体さえ、人間に忘れられ、けいべつされている。そしてたびたび、聖堂の中のホスチアの前においてでさえ、ちょうど天主がそこにおいでにならず、ホスチアが天主でないようにふるまう人がいるのである。
トリエント公会議は、実にこのできごとを予想していた。だから、聖体がまことの天主でいらっしゃることを教えた後、次のように戒めている。『天主はわれらの食物となるためにパンの外観のもとに隠れたもうたが、しかし、そのために主に対する礼拝が決してなおざりにされてはならない。なぜなら、主はそのご誕生にあたって天軍の賛美を受け、また馬ぶねの中において博士らの礼拝をお受けになった方と、全く同一の御方であるからである』と。
"Neque enim ideo minus est adorandum, quod fuerit a Christo Domino, ut sumatur (cf Mt 26.26ss), institutum. Nam illum eundem Deum praesentem in eo adesse credimus, quem Pater aeternus introducens in orbem terrarum dicit: "Et adorent eum omnes Angeli Dei" (Heb 1.6; ex Ps 96.7), quem Magi procidentes adoraverunt (cf Mt 2.11), quem denique in Galilea ab Apostolis adoratum fuisse Scriptura testatur (cf Mt 28.17)."
聖体の奥義を信じながら、しかも聖体に対する自分の態度を反省したうえで『げに天主はまことにここにましませり、しかるにわれこれを知らざりき』といわない者があるだろうか。だから私たちはこのようなふるまいが、どんなに天主に対するはなはだしい無礼であるかを考え、理性をもってこれを償おう。聖体の中で否まれたもう天主に対して愛と悲しみとに満ちた痛悔の念を起こし、心をもってこれを償おう。またこの点に関する自分の態度を糾明し、これを改める決心をたて、意志をもって、これを償おう。
祈願 これからは、主がどこにおいでになるかということを忘れず、すべての必要に際して、大いなる信頼をもって祈ろう。なぜなら主は私たちのために祈りをたやすくし、また、大いなる信頼を起こして自然に祈りの義務が果たせるよう聖体をもって私たちのそばにとどまられたからである。
私たちはもはや、ここかしこと疑い迷う必要はない。まっすぐに聖ひつのもとに行って、すべてのたまものの源である主に、直接にお願いすればよい。主がこのように私たちに近づいて、主の方より手をさし伸ばされるのは、私たちの祈りをもっとよく聞き、私たちの願いにもっと早く、また豊かにこたえられるためである。だからどんな場合にも、必ず主の御もとに走り寄ろう。聖母をはじめ、諸聖人の御取り次ぎをお願いしよう。私たちの祈りが常に主の祭壇の前で、また御目のもとで終わるよう努めよう。
天主がここにおいでになり、私たちの願いを聞いてくださるという真理を確信し、理性をもって祈ろう。主を祭壇の上に引きとめている不思議な愛に対し信頼の心を深め、心をもって祈ろう。これからは、いつも聖ひつの前で祈り、必ず聖体に対しての尊敬をあらわそうという決心をつくり、意志をもって祈ろう。
実行 私たちはたびたび至聖なる聖体の前で祈り、聖堂の中では常にふさわしい尊敬を失わないで、これによって主の実在に関した信仰を他人にもあらわすように努めよう。
『聖体の黙想』テニエール著より
1. 聖体の制定された理由:聖体は天主のご托身の継続である
3. 聖体の制定された理由:聖体は救い主のご受難ご死去の記念である
7. 聖体の制定された理由 聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化である
14. 天主である聖体 聖体は天主である
43. 聖体礼拝の理由 聖体は救い主のご受難の生ける記念である
聖体は秘跡のもとに隠れたもう天主である
礼拝 聖体は実際にパンの外観のもとに隠れておいでになるまことの天主である。
天主は偏在の御徳によって、すべてのところに、またすべてのものの中に存在しておいでになるが、それは私たちの目に見えず、また私たちの手で触れることのできない存在である。
しかし、イエズスにあってはそうではない。み言葉がイエズスの人性を結合されてからは永遠にこの結合が失われず、目に見えぬ天主はイエズスの人性によって目に見えるものとなり、手に触れえぬものはイエズスの御肉によって手に触れうるものとなり、永遠無辺のものはイエズスによって時間と場所との中に存在するものとなられた。そのイエズスが、今、私たちの仰ぎ見る聖体である。
イエズスの全部が、まことにこのパンの外観のもとに存在なさることは、カトリック教会の最もたいせつな信仰である。すなわち、天主ご自身が目に見えてここに存在されるのである。
なるほど、ここではイエズスの人間としての御からだは見えない。しかし主をおおっているおおいに主の実在を示す姿は見えるのである。イエズスが地上におられたときにも、主の神性は人の目に見えなかった。しかし人々は、天主がペルソナ的にその中に存在したもう主のご肉体を見て、これを礼拝したのである。
今日、私たちはその人性を見ることができない。しかしカトリック教会は、この人性が神性とともに秘跡のしるし、ホスチアの姿の中に実在されることを教える。私たちはホスチアを見るたびに、これを礼拝する。なぜなら、私たちはイエズスが、たしかにここにおいでになることを信じるからである。ホスチアは主である。ホスチアは私たちの目に見える天主でいらっしゃるのである。
だから、ここでの天主の実在を信じて、理性をもって彼を礼拝しよう。地上に存在を続けられるために、この不思議な方法を発見された主の大きな愛を思い、心をもって彼を礼拝しよう。あなたが主の被造物で主のしもべであることを思い、あなた自身をすべてこの秘跡のうちにおいでになる天主にささげ、意志をもって彼を礼拝しよう。
感謝 目に見えるお姿をもって、天主がここに実在されていることは、私たちにとってどれほど大きな幸福であり、どれほど大きな祝福であろうか。だからこそ私たちには深い感謝を主にささげなければならないのである。
私たちは、五感に感じるしるしによらなければ、霊的な事がらをさとることができない。これが人間の天性である。
もし天主が秘跡の外観のもとに有形的に存在されなかったら、私たちは天主を求めても、たぶんこれを発見することができなかったであろう。あるいは、たとえ理性によって、主が、どこにも霊的に存在されることを知ったとしても、私たちの心は目をもってとらえることのできない存在に満足しなかったに相違ない。そしておそらく多くの偶像教徒のように、被造物とか自然とか、または、私たち自身の情欲をさえ礼拝したかもしれない。すなわち創造主ご自身を礼拝するかわりに、主のみ姿の反映にすぎない主のみ手のわざを礼拝したかもしれない。
もしそうならば私たちは、はたして私たちの心の慰め、私たちを導く光、私たちをささえる力を持つことができたであろうか。
いや、私たちの天主はここにおいでになる。目をあげて尊いホスチアを見よう。まちがえる気づかいはない。ホスチアにより頼んで、ホスチアに祈ろう。これこそあなたのまことの天主である。
必要に際して、長くたずね求めることはない。悲しみにあたって、むだに呼び捜すことはない。主はあなたにおおせられる。『われここにあり、われなんじを慰めん。汝われに語れ、われなんじの言葉を聞かん。イスラエルよ、なんじは天主を有せざる民にあらず』と。
感謝しよう。天主の実在がどんなにありがたいかを考えて、理性をもって感謝しよう。絶え間ないこの実在に感動して、心情をもって主に感謝しよう。ただ愛のためにのみここにまします天主なるホスチアを愛しかえし、意志をもって主に感謝しよう。
償い 天主がわざわざ私たちのために、目に見えるありさまで聖体の中におとどまりになることは、私たちを感激させずにはおかないはずである。聖体中での天主の実在は、私たちが天主を忘れたり天主にそむいたりすることがないようにしてくれる。それゆえ私たちは、ただひと目ホスチアを見るだけで、最上の尊敬をこれにささげなければならないのである。
ところが不幸にして実際はそうではない。天主は私たちがどこにあっても、み前をのがれることのできない偏在の御徳によって、私たちを強制されるにもかかわらず、人間は天主を忘れ、天主を離れて生活し、あたかも天主がないかのように、祈らず、求めず、天主に従わず、天主を尊敬することなく生活している。
それどころではない。このように尊く、このように神聖な聖体さえ、人間に忘れられ、けいべつされている。そしてたびたび、聖堂の中のホスチアの前においてでさえ、ちょうど天主がそこにおいでにならず、ホスチアが天主でないようにふるまう人がいるのである。
トリエント公会議は、実にこのできごとを予想していた。だから、聖体がまことの天主でいらっしゃることを教えた後、次のように戒めている。『天主はわれらの食物となるためにパンの外観のもとに隠れたもうたが、しかし、そのために主に対する礼拝が決してなおざりにされてはならない。なぜなら、主はそのご誕生にあたって天軍の賛美を受け、また馬ぶねの中において博士らの礼拝をお受けになった方と、全く同一の御方であるからである』と。
"Neque enim ideo minus est adorandum, quod fuerit a Christo Domino, ut sumatur (cf Mt 26.26ss), institutum. Nam illum eundem Deum praesentem in eo adesse credimus, quem Pater aeternus introducens in orbem terrarum dicit: "Et adorent eum omnes Angeli Dei" (Heb 1.6; ex Ps 96.7), quem Magi procidentes adoraverunt (cf Mt 2.11), quem denique in Galilea ab Apostolis adoratum fuisse Scriptura testatur (cf Mt 28.17)."
聖体の奥義を信じながら、しかも聖体に対する自分の態度を反省したうえで『げに天主はまことにここにましませり、しかるにわれこれを知らざりき』といわない者があるだろうか。だから私たちはこのようなふるまいが、どんなに天主に対するはなはだしい無礼であるかを考え、理性をもってこれを償おう。聖体の中で否まれたもう天主に対して愛と悲しみとに満ちた痛悔の念を起こし、心をもってこれを償おう。またこの点に関する自分の態度を糾明し、これを改める決心をたて、意志をもって、これを償おう。
祈願 これからは、主がどこにおいでになるかということを忘れず、すべての必要に際して、大いなる信頼をもって祈ろう。なぜなら主は私たちのために祈りをたやすくし、また、大いなる信頼を起こして自然に祈りの義務が果たせるよう聖体をもって私たちのそばにとどまられたからである。
私たちはもはや、ここかしこと疑い迷う必要はない。まっすぐに聖ひつのもとに行って、すべてのたまものの源である主に、直接にお願いすればよい。主がこのように私たちに近づいて、主の方より手をさし伸ばされるのは、私たちの祈りをもっとよく聞き、私たちの願いにもっと早く、また豊かにこたえられるためである。だからどんな場合にも、必ず主の御もとに走り寄ろう。聖母をはじめ、諸聖人の御取り次ぎをお願いしよう。私たちの祈りが常に主の祭壇の前で、また御目のもとで終わるよう努めよう。
天主がここにおいでになり、私たちの願いを聞いてくださるという真理を確信し、理性をもって祈ろう。主を祭壇の上に引きとめている不思議な愛に対し信頼の心を深め、心をもって祈ろう。これからは、いつも聖ひつの前で祈り、必ず聖体に対しての尊敬をあらわそうという決心をつくり、意志をもって祈ろう。
実行 私たちはたびたび至聖なる聖体の前で祈り、聖堂の中では常にふさわしい尊敬を失わないで、これによって主の実在に関した信仰を他人にもあらわすように努めよう。
『聖体の黙想』テニエール著より
1. 聖体の制定された理由:聖体は天主のご托身の継続である
3. 聖体の制定された理由:聖体は救い主のご受難ご死去の記念である
7. 聖体の制定された理由 聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化である
14. 天主である聖体 聖体は天主である
43. 聖体礼拝の理由 聖体は救い主のご受難の生ける記念である