聖体の顕示に関する黙想
聖体降福式は盛大な感謝の儀式である
礼拝 今ここに、信者たちの真心と感謝とによってつくられた玉座の上においでになる方はイエズス・キリストご自身であることを信じ、喜びにあふれて救い主を礼拝しよう。いとも愛すべき聖体の秘跡は主の慈愛のあらわれであって、主の愛の最上の証拠であり、カトリック教会の光栄であり、人類の宝、私たちのささえ、希望、幸福である。
聖体の公の顕示式にあずかり、その意味を理解するために、トリエント公会議の次の言葉を聞こう。『しばしば一定の日を期してカトリック信者が、これをいとも聖なる日となし、特に盛大な祭式を行ない、彼ら一同の主にして救い主なるキリストを拝し、かくのごとき貴重なる恩恵、かくのごとき神聖なるたまものに対して抱く報恩感謝の念をあらわすことは、まことに適当だといわねばならぬ』と。聖体に対する特別な公の礼拝は、聖体に向かってする報恩感謝の行事である。
私たちの感謝は、授けられたたまものの尊さに比例しなければならない。だから救い主の愛の最後のご努力にほかならないこのたまものを賛美するために、カトリック教会が典礼の粹を尽くして御聖体降福式を執行するのは、理の当然ではなかろうか。
聖トマは叫んだ。『なんじのなしうるかぎり、すべてのものを聖体にささげよ。なぜなら、主はあらゆる賛美にこえ、どんなにしても主をふさわしくたたえたてまつることはできないからである』と。だからカトリック教会は、御聖体降福式がどこにおいても特に盛大に行われることを希望している。御聖体降福式は感謝の祭式であるから、喜びと幸福とが全体を通した特色でなければならない。あなたの心も魂も、主の愛の傑作、主の慈愛の勝利である聖体を祝いたたえなければならない。
感謝 聖体の中においでになる大恩人が、愛の玉座の上から期待される感謝に満たされるために、そのみ前にあって、聖体からお受けしたかずかずのご恩、聖体に負うところのすべての恵みを思い起こそう。かりにたった一度だけ、初聖体の日に聖体を受けただけであっても、あなたは永遠に主に感謝しなければならないのである。なぜなら、聖体は主の祈りと英雄的聖徳のご生涯の価であって、またあなたを愛するためにお忍びになった前代未聞の大苦痛、死の中でも最も残酷な死の価であるからである。
そればかりでなく、聖体は天と地との間のありとあらゆるものの中で最も貴重なもの、イエズス・キリストの御血肉、ご霊魂と御神性であるからである。徳もなく、いさおしもない幼な子であるあなたに与えられたものは、実に天主ご自身であったのである。
しかし、あなたが聖体を拝領したのは、たった一度にとどまらない。初聖体に引きつづいて、幾度、主はあなたにこの貴重なたまものをお与えになったことだろう。毎月、毎週、おそらく毎日。あなたはこのたまものと、主の慈愛になれてしまったのである。ああ、カトリック信者よ、天主があなたをもてなしてくださることがいかに厚いかを思おう。
そのほかにも、聖体から流れ出る超自然の御恵みは、いかに多いことであろう。あなたの信仰が芽ばえて成長したのも、またあなたが種々の困難にもかかわらずさらに深く天主に信頼するのも、他のすべての愛にまさった無上の愛をもって天主をお愛しするのも、みな天主のたまものである。天主はあなたが聖体に近づき、また拝領した聖体から御恵みを受けることができるように、これらをあなたに与えられたのである。
あなたが信心厚く犠牲心をもち、けんそんで忍耐深いのも、またあなたが純潔を保ち、罪の危険よりのがれえたのも、すべてが聖体拝領のおかげではなかろうか。また、試練に堪える力が与えられ、苦しみと悲しみとのうちにあって心の中にひそかな慰めと喜びとを感じるようになったのも、聖体の御恵みではないだろうか。最後に、この世の生涯の終わりに必ず天国の報いのあることを確信できるのも、やはり聖体の御恵みではないだろうか。
これらのことを思いめぐらすとき、あなたの霊魂は歓喜にふるえるにちがいない。この喜びは、『すべての宝の源』である聖体の思い出として天国において永遠につづくのである。
償い 聖体に対して尽くさねばならない感謝の義務を理解すれば、それだけ人々の怠慢の罪の重さを知ることになる。だから、あなたは、これからさらにいっそう大いなる信心をもって、御聖体降福式にあずかる決心をしなければならない。
社会もまた天主である聖体によってあがなわれた。そして各都市には、天主なる聖体が毎日その上でささげられる祭壇と、天主なる聖体が保護者としてお住まいになる聖ひつとがある。ところが社会も都市も、しだいに聖体に対しての公の感謝の義務を忘れてきているようである。これはなんと悲しいことであろうか。
もちろん、社会も天主に対して公の感謝の義務をもっている。聖体が与えられたのは、単に個人のためだけではない。だから、社会の名によって聖体に盛大な公の感謝をささげるのは、社会代表者の義務である。彼らはまた、聖堂と祭壇、これに仕える司祭、その他の聖職者を、ふさわしく待遇しなければならない。また、一般信者のために信仰の務めを守りやすくし、聖体に対しての信心を奨励するほか、社会としてミサ聖祭と聖体行列とに公に参加することも、その当然の義務である。
ところが実際を見ると、現代的社会と天主なる聖体との間には、どこでも分離がある。前者が、聖体に対して無関心で、棄教の態度をとっていることもまれではない。あなたたちはそのために償いをしなければならない。忘恩が社会の権威者たちによって始められ、このように広く一般化しただけ、それだけ償いが必要である。
さらにまた聖体の御恵みを忘れ、それらのものが、もう存在しなくなったかのように考えている人々のためにも、祈りと償いとをささげなければならない。天主は執ようとみえるほどに私たちを深く愛してくださる。それにもかかわらず私たちがいつまでも主の愛を拒みつづけるなら、それは一日、御怒りに変わるだろうからである。
祈願 恩を知る恵みを天主に願おう。主の御慈悲に感じて、主に忠実であり、主のたまものを心に深く銘記することができるよう主に願い求めよう。聖パウロは、ある人々の『愛情なく、心冷たきこと』を、彼の最も大きな苦痛のひとつに数えた。主のいとも甘美な聖心にこの苦痛をお与えしないようにしよう。聖体の黙想と聖体拝領とを怠らないで、また、御聖体降福式をいっそう盛大にするよう教会と協力しよう。こうしてあなたは『われは、わが愛の秘跡のなかにおいて、人々より愛されんことを望む』との主のご熱望に応えることができるようになるのである。
実行 聖体のたまものに対する感謝報恩のために、たびたび(できるなら一時間ごとにでも)次の射禱を唱えることを練習しよう。『至聖なる聖体の秘跡は、世々に祝せられ、賛えられたまえ』
『聖体の黙想』テニエール著より
1. 聖体の制定された理由:聖体は天主のご托身の継続である
3. 聖体の制定された理由:聖体は救い主のご受難ご死去の記念である
7. 聖体の制定された理由 聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化である
14. 天主である聖体 聖体は天主である
38. 聖体礼拝の理由 聖体は秘跡のもとに隠れたもう天主である
43. 聖体礼拝の理由 聖体は救い主のご受難の生ける記念である
私たちの先祖のキリシタンが口癖のように言っていた Lovado seia o Santissimo Sacramento! を私たちも口ずさみたいと思います。
「至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!」
秘跡の中にあって今もやはり堪え忍んでいらっしゃるイエズスのために、いにしえのけいけんなエルザレムの婦人のようにお嘆きしよう。
主のおもてをぬぐい、主の御恥辱をお慰めしたヴェロニカはいないのか。
十字架をになうシモン、十字架の下にたたずむヨハネはいないのか。
救い主の御苦しみをわかつ悲しみの聖母にならう人はいないのか。
ああ聖体の中で、主が同一のご受難をおつづけになるなら、同じお慰めとご同情とが必要なはずではないだろうか。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖体降福式は盛大な感謝の儀式である
礼拝 今ここに、信者たちの真心と感謝とによってつくられた玉座の上においでになる方はイエズス・キリストご自身であることを信じ、喜びにあふれて救い主を礼拝しよう。いとも愛すべき聖体の秘跡は主の慈愛のあらわれであって、主の愛の最上の証拠であり、カトリック教会の光栄であり、人類の宝、私たちのささえ、希望、幸福である。
聖体の公の顕示式にあずかり、その意味を理解するために、トリエント公会議の次の言葉を聞こう。『しばしば一定の日を期してカトリック信者が、これをいとも聖なる日となし、特に盛大な祭式を行ない、彼ら一同の主にして救い主なるキリストを拝し、かくのごとき貴重なる恩恵、かくのごとき神聖なるたまものに対して抱く報恩感謝の念をあらわすことは、まことに適当だといわねばならぬ』と。聖体に対する特別な公の礼拝は、聖体に向かってする報恩感謝の行事である。
私たちの感謝は、授けられたたまものの尊さに比例しなければならない。だから救い主の愛の最後のご努力にほかならないこのたまものを賛美するために、カトリック教会が典礼の粹を尽くして御聖体降福式を執行するのは、理の当然ではなかろうか。
聖トマは叫んだ。『なんじのなしうるかぎり、すべてのものを聖体にささげよ。なぜなら、主はあらゆる賛美にこえ、どんなにしても主をふさわしくたたえたてまつることはできないからである』と。だからカトリック教会は、御聖体降福式がどこにおいても特に盛大に行われることを希望している。御聖体降福式は感謝の祭式であるから、喜びと幸福とが全体を通した特色でなければならない。あなたの心も魂も、主の愛の傑作、主の慈愛の勝利である聖体を祝いたたえなければならない。
感謝 聖体の中においでになる大恩人が、愛の玉座の上から期待される感謝に満たされるために、そのみ前にあって、聖体からお受けしたかずかずのご恩、聖体に負うところのすべての恵みを思い起こそう。かりにたった一度だけ、初聖体の日に聖体を受けただけであっても、あなたは永遠に主に感謝しなければならないのである。なぜなら、聖体は主の祈りと英雄的聖徳のご生涯の価であって、またあなたを愛するためにお忍びになった前代未聞の大苦痛、死の中でも最も残酷な死の価であるからである。
そればかりでなく、聖体は天と地との間のありとあらゆるものの中で最も貴重なもの、イエズス・キリストの御血肉、ご霊魂と御神性であるからである。徳もなく、いさおしもない幼な子であるあなたに与えられたものは、実に天主ご自身であったのである。
しかし、あなたが聖体を拝領したのは、たった一度にとどまらない。初聖体に引きつづいて、幾度、主はあなたにこの貴重なたまものをお与えになったことだろう。毎月、毎週、おそらく毎日。あなたはこのたまものと、主の慈愛になれてしまったのである。ああ、カトリック信者よ、天主があなたをもてなしてくださることがいかに厚いかを思おう。
そのほかにも、聖体から流れ出る超自然の御恵みは、いかに多いことであろう。あなたの信仰が芽ばえて成長したのも、またあなたが種々の困難にもかかわらずさらに深く天主に信頼するのも、他のすべての愛にまさった無上の愛をもって天主をお愛しするのも、みな天主のたまものである。天主はあなたが聖体に近づき、また拝領した聖体から御恵みを受けることができるように、これらをあなたに与えられたのである。
あなたが信心厚く犠牲心をもち、けんそんで忍耐深いのも、またあなたが純潔を保ち、罪の危険よりのがれえたのも、すべてが聖体拝領のおかげではなかろうか。また、試練に堪える力が与えられ、苦しみと悲しみとのうちにあって心の中にひそかな慰めと喜びとを感じるようになったのも、聖体の御恵みではないだろうか。最後に、この世の生涯の終わりに必ず天国の報いのあることを確信できるのも、やはり聖体の御恵みではないだろうか。
これらのことを思いめぐらすとき、あなたの霊魂は歓喜にふるえるにちがいない。この喜びは、『すべての宝の源』である聖体の思い出として天国において永遠につづくのである。
償い 聖体に対して尽くさねばならない感謝の義務を理解すれば、それだけ人々の怠慢の罪の重さを知ることになる。だから、あなたは、これからさらにいっそう大いなる信心をもって、御聖体降福式にあずかる決心をしなければならない。
社会もまた天主である聖体によってあがなわれた。そして各都市には、天主なる聖体が毎日その上でささげられる祭壇と、天主なる聖体が保護者としてお住まいになる聖ひつとがある。ところが社会も都市も、しだいに聖体に対しての公の感謝の義務を忘れてきているようである。これはなんと悲しいことであろうか。
もちろん、社会も天主に対して公の感謝の義務をもっている。聖体が与えられたのは、単に個人のためだけではない。だから、社会の名によって聖体に盛大な公の感謝をささげるのは、社会代表者の義務である。彼らはまた、聖堂と祭壇、これに仕える司祭、その他の聖職者を、ふさわしく待遇しなければならない。また、一般信者のために信仰の務めを守りやすくし、聖体に対しての信心を奨励するほか、社会としてミサ聖祭と聖体行列とに公に参加することも、その当然の義務である。
ところが実際を見ると、現代的社会と天主なる聖体との間には、どこでも分離がある。前者が、聖体に対して無関心で、棄教の態度をとっていることもまれではない。あなたたちはそのために償いをしなければならない。忘恩が社会の権威者たちによって始められ、このように広く一般化しただけ、それだけ償いが必要である。
さらにまた聖体の御恵みを忘れ、それらのものが、もう存在しなくなったかのように考えている人々のためにも、祈りと償いとをささげなければならない。天主は執ようとみえるほどに私たちを深く愛してくださる。それにもかかわらず私たちがいつまでも主の愛を拒みつづけるなら、それは一日、御怒りに変わるだろうからである。
祈願 恩を知る恵みを天主に願おう。主の御慈悲に感じて、主に忠実であり、主のたまものを心に深く銘記することができるよう主に願い求めよう。聖パウロは、ある人々の『愛情なく、心冷たきこと』を、彼の最も大きな苦痛のひとつに数えた。主のいとも甘美な聖心にこの苦痛をお与えしないようにしよう。聖体の黙想と聖体拝領とを怠らないで、また、御聖体降福式をいっそう盛大にするよう教会と協力しよう。こうしてあなたは『われは、わが愛の秘跡のなかにおいて、人々より愛されんことを望む』との主のご熱望に応えることができるようになるのである。
実行 聖体のたまものに対する感謝報恩のために、たびたび(できるなら一時間ごとにでも)次の射禱を唱えることを練習しよう。『至聖なる聖体の秘跡は、世々に祝せられ、賛えられたまえ』
『聖体の黙想』テニエール著より
1. 聖体の制定された理由:聖体は天主のご托身の継続である
3. 聖体の制定された理由:聖体は救い主のご受難ご死去の記念である
7. 聖体の制定された理由 聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化である
14. 天主である聖体 聖体は天主である
38. 聖体礼拝の理由 聖体は秘跡のもとに隠れたもう天主である
43. 聖体礼拝の理由 聖体は救い主のご受難の生ける記念である
私たちの先祖のキリシタンが口癖のように言っていた Lovado seia o Santissimo Sacramento! を私たちも口ずさみたいと思います。
「至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!」
秘跡の中にあって今もやはり堪え忍んでいらっしゃるイエズスのために、いにしえのけいけんなエルザレムの婦人のようにお嘆きしよう。
主のおもてをぬぐい、主の御恥辱をお慰めしたヴェロニカはいないのか。
十字架をになうシモン、十字架の下にたたずむヨハネはいないのか。
救い主の御苦しみをわかつ悲しみの聖母にならう人はいないのか。
ああ聖体の中で、主が同一のご受難をおつづけになるなら、同じお慰めとご同情とが必要なはずではないだろうか。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)