聖体礼拝の理由
聖体の礼拝はこれに対して犯される罪の最善の償いである
礼拝 今世界のどこかで必ず行なわれているにちがいない聖体に対する汚聖を、できるかぎり償うために、愛と尊敬と痛悔とをこめて聖体を礼拝しよう。
悲しいことに、地獄の凶悪なのろいが、聖体に対する恐ろしい汚聖となってあらわれない日は一日としてないのである。
昔、イエズスがそうであったように、聖体は今日つまづきのしるしとなっている。一方にこれを愛する人があれば、他方にこれを憎む人がある。これを尊敬する人があれば、これを冒瀆する人がある。これを求める人があれば、これを忌み嫌う人がある。これを拝領することを最大の幸福とする人があれば、決してこれを拝領しない人がある。熱心な信者がふさわしくこれを受けるために、どんな準備も足りないと考えているかと思うと、偽善者は大罪に汚れた霊魂の中に、これを受けるようなことをしている。聖体をめぐって敬虔な祈りがささげられている他方では、聖体を盗み出してこれに種々の無礼を加えるようなことさえある。
このような聖体に対して、絶えず、忘却、けいべつ、不敬、憎悪、冒瀆など無数の罪が犯されているのである。
このような無礼と汚聖との対象となっている聖体に対して、償いの義務のあることを理解しない人があるだろうか。悪人が聖体をあなどるなら、信者たちは聖体に対して尊敬と愛とを尽くさなければならないということをさとるべきである。そしてこのためには、熱心な聖体拝領をもってはじめた一日を、敬虔な聖体礼拝で終わるよりも適当な方法がないのである。
あなたの幸福だけを考えて全く献身的な愛をお示しになった天主に対し、人々の忘却を償うために愛を、人々の不敬を償うために敬虔な礼拝を、人々の冒瀆を償うために主のたえなる完徳に対する賛美を、人々の憎悪を償うために子どものような信頼を、そしてまた人々の無礼を償うため感じやすい主の聖心に同情と涙とをおささげしよう。主がすべてのはずかしめをお忘れになられるよう、主にふさわしいいっさいの賛美をおささげしよう。汚された聖ひつのそばで悲しみ嘆いている天使に、その助けをお求めしよう。御子に加えられたすべてのはずかしめが再び聖体に加えられるのを考えて聖母とともに嘆きまた礼拝しよう。
感謝 よい償いをするためには大きな愛が必要である。ところが、この愛を起こすためには、主が聖体の中で種々の冒瀆をお忍びになる無限の愛を思いめぐらすよりよいものはない。
主が聖体の中においでになるのは、私たちに対するひたすらな愛のみによるのであって、主がそこにとどまっておいでにならなければならない義務はないのである。そのうえ私たちの無関心も憎悪も、また私たちの冒瀆的行為でさえ、主のご勇気をくじく力はない。主はいっさいを顧みないでこの世にとどまり、迫害する者にも御恵みを施しつづけられるのである。
もしお望みになるなら、人々の無礼に対して、すぐに天の万軍を遣わし、一瞬にして冒瀆者をお滅ぼしになることも主には不可能ではない。ところが主はかえって迫害を許し、主の敵をしてその望むままに行なわさせられる。
主は秘跡の中に隠れて、ののしる人のために祈り、あなどる人のために彼らの改心を天父に願ってくださる。主は、冒瀆する者の憎悪に満ちた心を愛の泉に化することをお望みになる。もし彼らが改心するなら、たとえそれが臨終の日であっても、主は喜んでその病床に近づいて、平和のせっぷんを彼らに与えられるのである。
冒瀆されるときの聖体の忍耐、沈黙、慈悲は、主の愛の勝利の偉大なしるしである。このようなすぐれた愛をもって私たちを愛されるのに、このような大きな憎しみをもって傷つけられる主の聖心に対して、どうして深い同情をささげ、真心からの愛をもって祈らない者があるのだろうか。
償い 聖体が何であるかを知ったなら、これに対する冒瀆をどんなに深く恐れないでいられよう。聖体は実に諸天使が礼拝し、天地さえもそのみ前に平伏する天主である。最も清いセラフィンでさえ、聖なるおそれに自らのおも(面)をおおうところの至聖全能にして、みいついとも高い御者である。それは永遠のみ言葉、万事について御父と等しい天主の御ひとり子であって、聖母の汚れない御手だけがこれに触れることのできたいとも清い御肉と御血とである。この聖体を、冒瀆者はあえてけいべつし、汚辱するのである。彼らはユダよりも罪が深く、刑吏よりものろわしい。今日のように聖体の冒瀆が広く行われている以上、世界に平和がなく幸福のないのは、少しも怪しむに足りない。
信心深い信者たちよ、いつも償いをしよう。主は日夜聖体の中で冒瀆されていたもうから、日夜聖体を礼拝する人の数を増加するようにしよう。
祈願 私の救い主であるイエズスよ、私は、主が祭壇上で、信者と自称している人々から、絶えず多くのはずかしめを受けられているのを見て、ふさわしい償いを御身におささげしようと望む。慈悲と愛とに満ちた主よ、御身を聖ひつの中に閉じこめている大いなる愛が、いずこにおいても出あわれる冷淡と無関心とを許したまえ。御身の受けられる無礼とけいべつとを許したまえ。御身の受けられるはずかしめと冒瀆とを許したまえ。
愛すべき救い主よ、私の兄弟と私とを許したまえ。それは私自身たびたび侮辱するからである。私もまた不敬虔に祈り、罪に汚れた心の中に御身をお受けした。慈悲とあわれみとの泉である主よ、さらに再び私を許したまえ。
今ここにささげる償いを受け入れ、私のすべての過去の罪を許したまえ。
いとも尊き大祭司、私のたすかりのいけにえよ、私は、御身に私の心をささげたてまつる。願わくは、これを受けて絶対の君主として統治したまえ。
御身の奥義中のいとも尊き奥義に対する私の信心を日々に増し、御身ととともに生きることを最大の喜びとならせたまえ。
御身を賛美し、御身を愛し、御身に感謝する機会を、ひとつなりとも決して失うことのない決心を、今、諸天使の前にささげたてまつる。願わくはこれを祝福したまえ。
御身の恩恵によって、私を聖体のふさわしい礼拝者として、力のあるかぎり御身のみ栄えを増す幸福をえさせたまえ。アーメン。
実行 祈りと善業とをする際に、聖体に対しての侮辱と冒瀆とを償う心を忘れないようにすること。
聖体の礼拝はこれに対して犯される罪の最善の償いである
礼拝 今世界のどこかで必ず行なわれているにちがいない聖体に対する汚聖を、できるかぎり償うために、愛と尊敬と痛悔とをこめて聖体を礼拝しよう。
悲しいことに、地獄の凶悪なのろいが、聖体に対する恐ろしい汚聖となってあらわれない日は一日としてないのである。
昔、イエズスがそうであったように、聖体は今日つまづきのしるしとなっている。一方にこれを愛する人があれば、他方にこれを憎む人がある。これを尊敬する人があれば、これを冒瀆する人がある。これを求める人があれば、これを忌み嫌う人がある。これを拝領することを最大の幸福とする人があれば、決してこれを拝領しない人がある。熱心な信者がふさわしくこれを受けるために、どんな準備も足りないと考えているかと思うと、偽善者は大罪に汚れた霊魂の中に、これを受けるようなことをしている。聖体をめぐって敬虔な祈りがささげられている他方では、聖体を盗み出してこれに種々の無礼を加えるようなことさえある。
このような聖体に対して、絶えず、忘却、けいべつ、不敬、憎悪、冒瀆など無数の罪が犯されているのである。
このような無礼と汚聖との対象となっている聖体に対して、償いの義務のあることを理解しない人があるだろうか。悪人が聖体をあなどるなら、信者たちは聖体に対して尊敬と愛とを尽くさなければならないということをさとるべきである。そしてこのためには、熱心な聖体拝領をもってはじめた一日を、敬虔な聖体礼拝で終わるよりも適当な方法がないのである。
あなたの幸福だけを考えて全く献身的な愛をお示しになった天主に対し、人々の忘却を償うために愛を、人々の不敬を償うために敬虔な礼拝を、人々の冒瀆を償うために主のたえなる完徳に対する賛美を、人々の憎悪を償うために子どものような信頼を、そしてまた人々の無礼を償うため感じやすい主の聖心に同情と涙とをおささげしよう。主がすべてのはずかしめをお忘れになられるよう、主にふさわしいいっさいの賛美をおささげしよう。汚された聖ひつのそばで悲しみ嘆いている天使に、その助けをお求めしよう。御子に加えられたすべてのはずかしめが再び聖体に加えられるのを考えて聖母とともに嘆きまた礼拝しよう。
感謝 よい償いをするためには大きな愛が必要である。ところが、この愛を起こすためには、主が聖体の中で種々の冒瀆をお忍びになる無限の愛を思いめぐらすよりよいものはない。
主が聖体の中においでになるのは、私たちに対するひたすらな愛のみによるのであって、主がそこにとどまっておいでにならなければならない義務はないのである。そのうえ私たちの無関心も憎悪も、また私たちの冒瀆的行為でさえ、主のご勇気をくじく力はない。主はいっさいを顧みないでこの世にとどまり、迫害する者にも御恵みを施しつづけられるのである。
もしお望みになるなら、人々の無礼に対して、すぐに天の万軍を遣わし、一瞬にして冒瀆者をお滅ぼしになることも主には不可能ではない。ところが主はかえって迫害を許し、主の敵をしてその望むままに行なわさせられる。
主は秘跡の中に隠れて、ののしる人のために祈り、あなどる人のために彼らの改心を天父に願ってくださる。主は、冒瀆する者の憎悪に満ちた心を愛の泉に化することをお望みになる。もし彼らが改心するなら、たとえそれが臨終の日であっても、主は喜んでその病床に近づいて、平和のせっぷんを彼らに与えられるのである。
冒瀆されるときの聖体の忍耐、沈黙、慈悲は、主の愛の勝利の偉大なしるしである。このようなすぐれた愛をもって私たちを愛されるのに、このような大きな憎しみをもって傷つけられる主の聖心に対して、どうして深い同情をささげ、真心からの愛をもって祈らない者があるのだろうか。
償い 聖体が何であるかを知ったなら、これに対する冒瀆をどんなに深く恐れないでいられよう。聖体は実に諸天使が礼拝し、天地さえもそのみ前に平伏する天主である。最も清いセラフィンでさえ、聖なるおそれに自らのおも(面)をおおうところの至聖全能にして、みいついとも高い御者である。それは永遠のみ言葉、万事について御父と等しい天主の御ひとり子であって、聖母の汚れない御手だけがこれに触れることのできたいとも清い御肉と御血とである。この聖体を、冒瀆者はあえてけいべつし、汚辱するのである。彼らはユダよりも罪が深く、刑吏よりものろわしい。今日のように聖体の冒瀆が広く行われている以上、世界に平和がなく幸福のないのは、少しも怪しむに足りない。
信心深い信者たちよ、いつも償いをしよう。主は日夜聖体の中で冒瀆されていたもうから、日夜聖体を礼拝する人の数を増加するようにしよう。
祈願 私の救い主であるイエズスよ、私は、主が祭壇上で、信者と自称している人々から、絶えず多くのはずかしめを受けられているのを見て、ふさわしい償いを御身におささげしようと望む。慈悲と愛とに満ちた主よ、御身を聖ひつの中に閉じこめている大いなる愛が、いずこにおいても出あわれる冷淡と無関心とを許したまえ。御身の受けられる無礼とけいべつとを許したまえ。御身の受けられるはずかしめと冒瀆とを許したまえ。
愛すべき救い主よ、私の兄弟と私とを許したまえ。それは私自身たびたび侮辱するからである。私もまた不敬虔に祈り、罪に汚れた心の中に御身をお受けした。慈悲とあわれみとの泉である主よ、さらに再び私を許したまえ。
今ここにささげる償いを受け入れ、私のすべての過去の罪を許したまえ。
いとも尊き大祭司、私のたすかりのいけにえよ、私は、御身に私の心をささげたてまつる。願わくは、これを受けて絶対の君主として統治したまえ。
御身の奥義中のいとも尊き奥義に対する私の信心を日々に増し、御身ととともに生きることを最大の喜びとならせたまえ。
御身を賛美し、御身を愛し、御身に感謝する機会を、ひとつなりとも決して失うことのない決心を、今、諸天使の前にささげたてまつる。願わくはこれを祝福したまえ。
御身の恩恵によって、私を聖体のふさわしい礼拝者として、力のあるかぎり御身のみ栄えを増す幸福をえさせたまえ。アーメン。
実行 祈りと善業とをする際に、聖体に対しての侮辱と冒瀆とを償う心を忘れないようにすること。