教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ
ルフェーブル大司教の公開書簡 その13
第13章 信教の自由、団体主義の平等、エキュメニズムの博愛
地獄の門が、現代これ程大騒ぎしているのはどこから来るのでしょうか? 教会の歴史は、つねに迫害や異端、世俗の権力との衝突や或る時代の一部の聖職者の、数名の教皇たちの不品行によりかき乱されてきました。しかし今回、危機は、信仰それ自体に関わっているのでより深刻なっているように思われます。私たちが直面している近代主義は、他とは異なる類の異端なのです。それはありとあらゆる異端の肥溜めです。いくつもの迫害が、今日では教会の外部からだけでなく、至聖所の内部からやってきます。聖職者が司祭職を放棄し或いは還俗するスキャンダルは、制度化されつつあるかのようです。羊を狼に投げ出す雇われた牧者が、励まされ名誉を持って讃えられています。
時々私は、この状況をあまりにもあしざまに言いすぎる、またはそれをひどく非難して眺めている、そして完全に論理的かつ必要な諸々の進化に関して不満でいることを楽しんでいるなどと非難されます。しかし第二バチカン公会議の中心であり霊魂であった教皇様自身が、私が悲しくも話している崩壊についてたびたび言及しています。
1969年12月7日、教皇パウロ六世は言われました。「教会は、不安と自己批判、そしてさらには自己破壊ともいえる時にいます。まるで教会内部の深刻で複雑な動乱のようです。あたかも教会は自分を鞭打っているかのようです。」
翌年に、彼は「公会議は、多くの領域にわたって今まで私たちに静けさを与えてくれませんでした。いえ、どちらかと言えば公会議は、様々な騒動と問題を引き起こし、それらは教会と霊魂たちにおいて、天主の王国を強化するためには役立たない問題でした。」と告白しています。それから1972年6月29日 (聖ペトロとパウロの祝日) には、「サタンの煙がいくつものひび割れをとおして天主の神殿のなかに侵入してしまいました。つまり、疑い、不確かさ、様々な問題、不安、不満、そして対決などが表面化しました・・・。疑いは私たちの良心にまで入り込んだのです。」という警報の叫びまで続きました。
このひび割れはどこにあるのでしょうか? それが生じたその瞬間を、私たちは正確に、時代の中に指摘することが出来ます。それは、1789年でした。そしてその名は、革命です。
フランス革命のフリーメーソン的そして反カトリック的原理は、二〇〇年をかけて聖職者たちの頭や、ミトラ(司教冠)をかぶった頭のなかに入り込みました。今日、これは完遂された事、現実となったことです。不安を抱いているカトリック信者の読者の皆さん、これがあなた方がどう考えてよいか分からなくなってしまった原因です。
これらの現実を私たちが信じるためには、事実を私たちがこの目でしかと見る必要がありました。なぜなら私たちは、先験的に、このようなことは不可能であり、天主なる聖霊によって導かれている教会の本性そのものとは両立しえないとので、まさか起こりうるはずがないと考えていたからです。
1877年に書かれた有名な著作の一頁の中で、ゴーム司教は革命を革命自らによって定義させています。
「私は、あなたが考えているものではない。私について多くの人は話すが、私を知っているものはほとんどいない。私はカルボナリ主義(イタリアの秘密結社)ではなく、暴動でもない。私は、君主制から共和制への変化でもなく、一つの王朝からもう一つの王朝への移行でもなく、社会秩序に対する一時の混乱でもない。私はジャコバン派(急進左派)の叫びでもなく、山岳派(急進最左派)の怒りの雄叫びでもなく、バリケードでの戦闘でも、略奪でも、放火でも、農地改革法でも、ギロチンでも、溺死でもない。私はマラーでもロベスピエールでもなく、バブーフでもマッツィーニでもコスートでもない。彼らはわが子であるが、私ではない。これらは、私の業ではあるが、私ではない。これらの人々や事柄は一時的なことであるが、私は恒久な状態である。・・・私は憎しみである。私は、人間によって制定されることのないあらゆる秩序への憎悪、人間自身がそこにおいて王でもなく神でもないあらゆる秩序への憎悪である。」
教会にいて「変革」をおこそうという意志の鍵はここにあります。つまり、人間の手によって作られた制度で、天主による制度を置き換える、ということです。そして人間が天主の上に立つのです。人間は全てを侵略します。全ては人間で始まりと人間で終わるのです。この人間の前にひれ伏しているのです。
パウロ六世は、公会議閉会の講話で次のようにこの転変を定義しました。
「世俗の天主なき人間中心主義がついに恐るべき巨大さをもって現れ、言わば公会議に挑戦して来たのであります。人となった天主を礼拝する宗教は、自らを天主となす人間の宗教(なぜならそれも一つの宗教ですから)とが出会ったのです。」
パウロ六世は、すぐに言葉を続けて、この恐るべき挑戦にもかかわらず、衝突も排斥もなかった、といっています。何と言うことでしょうか! 「人間にたいする限りのない好意」を見せながら、第二バチカン公会議は二つの態度の間で妥協がありえないことを鮮明に堅固に指摘する義務を怠ったのです。しかもその同じ閉会演説は、私たちが現代、毎日のように実践しているのを見ている事に、拍車をかけているように思われます。
「皆さん、少なくとも公会議のこの努力を認めてください。天上のことの超越性を放棄している現代の人間中心主義である皆さん、私たちの新しい人間中心主義を認めることができるようになってください。私たちも、私たちもだれにもまして人間を礼讚するものなのです。」
その後、このテーマを展開させた声明が、同じパウロ六世の唇から出るのを私たちは聞きました。「人間は、元来良いものであり、理性、秩序、そして共通善へ向かっています。」(平和の日のためのメッセージ、1970年11月14日)。「キリスト教と民主主義とには、共通の根本的原理があります。それは尊厳と人格の価値を尊重すること・・・人間の完璧な促進です。」(マニラ、1970年11月20日)。
民主主義とは特別に宗教を無視するシステムですが、その民主主義は人間において、人間に尊厳を与える唯一の特性、つまり天主の贖われた子供という性格を無視しているのに、いったいどうして私たちはこの比較によって狼狽させられないでいることが出来るでしょうか?人間の促進とは、キリスト信者が理解するのと、無信仰者が理解するのとでは、確かに意味が違います。
教皇メッセージは、度あるごとにその世俗性(=非宗教性)を増していきます。1970年12月3日、シドニーにおいて、これを聞いて私たちは驚きました。
「孤立はもはや許されません。人類の大連帯、世界的結束した兄弟的共同体創立の時は来ました。」
全ての人間の間の平和は確かに大切です。しかしカトリック信者はキリストの次のみことばを認識しなくなってしまっています。「私はあなたたちに私の平和を与える。私があなたたちに与える平和は、この世が与えるような平和ではない。」
地と天とを結びつけていた絆は、破られたように思えます。
「ああそうです。私たちは民主主義の中に生きています! それは、人民が指揮をとることを意味し、権能は多数から、つまりあるがままの民から生まれるのです」(パウロ六世、1970年1月1日)。
イエズスはピラトに言われました。「もし上から与えられなかったら、あなたには私に対する、いかなる権能もなかっただろう」。
権力は多数からではなく、天主から来るのです。例え指導者の選出が、選挙による方法で行われていたとしてもそうです。ピラトは異教の国の代表者でしたが、依然として天の御父の許しがなくては、何もすることが出来ませんでした。
そして今、教会内に民主主義が侵入しています。新教会法は、権力が“天主の民”に属すると教えています。「基礎」と呼ばれるものに権力の行使を参与させる傾向は、現代機能している諸構造のいたるところにあります。つまり、シノドゥスも、司教評議会、司祭評議会、司牧会議、ローマ委員会、全国委員会などです。修道会においても同様に諸委員会があります。
これは教導職の民主化であり、彼らのために医師も助けに来てくれず途方に暮れている毒を盛られた数百万の霊魂たちとって、死の危険を意味します。何故なら、以前は教皇や司教たちの個人的教導職によっていたがために存在していた効率性が民主化により崩壊してしまったからです。信仰や道徳に関する問題が生じた場合、今では様々な神学委員会の元に付され、それらの委員会は何らの回答も与えずに終わってしまうようになってしまいました。何故なら神学委員会の委員たちはその意見と手法においてお互いに分裂しているためです。あらゆる水準に存在するこれらの委員会や団体の議事録や報告を読むだけで、私たちは教導職の団体主義は教導職の麻痺に等しいということを知るのに充分です。
私たちの主がご自分の羊の群れを世話することを、集団ではなく個人に頼みました。使徒たちは、私たちの主の命令に従い、20世紀に至るまでそうでした。継続的団体主義の教会、永続的会議の事態にある教会についての話を聞くようになるには、現代にまで待たなければなりませんでした。その結果は待つまでもありません。すべてが逆さまになり、信者たちはどの道に向き直せば良いのかわかりません。
教導職の民主化には、統治の民主化が続きました。これは共産主義のマスメディアや、プロテスタントそして進歩的報道機関により広く拡げられた、「団体主義(合議制)」という有名なスローガンの勢いの元に実現されました。
教皇の統治を司教らと共にさせて団体化し、司教たちの統治を、司祭団を持ち出すによって団体化し、そして小教区の主任司祭の教会運営を、信者評議会をもって団体化しました。つまり無数の委員会と評議会、会合などによって全ては細かく区切られるようになりました。新しい教会法典は、この概念で完全に浸透されています。新しい教会法典によれば、教皇は、何よりもまず、司教団の頭として定義されています。ここには、教皇と共にある司教団が、教皇のように教会において最高の権力を享受し、しかもこれは継続的であり常在するとされ、既に公会議文書『教会憲章』において暗示された教えを私たちは見出します。
これは改良ではありません。二重の最高の権力があるという教えは、教会の教えと教導職の実践に矛盾しているのです。それは、第一バチカン公会議の定義と対立し、教皇レオ十三世の回勅『サティス・コニトゥム(Satis Cognitum)』に反しています。最高の主権は教皇だけが持ち、教皇はそれが良いと判断する時に且つ例外的状況にある時にのみ、これを伝達するのです。教皇だけが、唯一、全世界の上に裁治権を持っているのです。
従って現代、最高司教である教皇の自由に対する制限を、私たちは目撃しているところなのです! そうです。これはまさに革命です! 事実は、実際の結果を伴わない変更ではないということを証明しています。ヨハネ・パウロ二世がこの刷新によって、実際に影響を受けた最初の教皇様です。司教評議会からの圧力のもとで、ある決定を承認してしまったという、幾つかの正確な実例を、私たちは引き合いに出すことが出来ます。オランダ公教要理は、枢機卿委員会によって要求された修正をすることなく、ミラノ大司教より印刷許可 (imprimatur) が与えられています。それは、カナダ公教要理についても同じでした。これについて、あるローマの聖省長官がこう言ったのを私は聞きました。「司教評議会を前にして、わたしたちに何ができましょう?」
これらの評議会が握る独立は、フランスにおいても公教要理に関して例示されていました。これらの新しい手引き書は、使徒的勧告『カテケジ・トラデンデ (Catechesi Tradendae)』の殆ど全ての点で矛盾していました。イル・ド・フランス(パリ)の司教たちによる1982年になされたアド・リミナのローマ訪問は、教皇が明らかに認めたくない公教要理を批准するよう、教皇を説得することにその目的はあったのです。この訪問の終わりに、ヨハネ・パウロ二世によってなされた短い講話は、妥協のもつ全ての性格をはらんでいました。その妥協のおかげで、司教たちは、母国に凱旋帰国し、自分たちの悪しき業をそのまま続けることが出来たのです。パリとリオンでなされたラッツンガ―枢機卿の講話は、新しい教義と新しい教育方針を据え付けようとフランスの司教たちがローマに提示した理由を、ローマが賛成しなかったこと示唆しています。しかし聖座は、事態を正しい軌道に置くために必要とされた数々の指令を出し、そして信仰の遺産の保管者として教皇たちが従来つねに行っていたように、軌道修正がなされない場合には排斥する代わりに、提案と助言など、この種の圧力をかけるだけに還元されてしまったことをも示唆しています。
司教について言えば、団体主義によって裁治権が増したようにも見えますが、司教自身も、自分の司教区の運営を麻痺させる団体主義の犠牲者となっています。この問題について司教たち自身が非常に多くの反省をしていますが、それらなんと教訓的なものでしょうか! 理論上では、司教は多くの場合、司教団の希望に反して行動することが出来ます。 時には、投票が認可を求めて聖座に提出されていなかったならば、大多数の司教たちに反してさえそう出来るのです。しかし、実際上は、これは不可能であることが立証されています。司教会議の直後に、その諸決定は事務局によって発表されます。このようしてこの決定内容は、司祭たちと信者たち全てに知られるのです。つまり、メディアはその主な内容を伝えます。司教評議会との不一致を皆に示すことなく、それから即座に評議会に自分を告訴するであろう何名かの革命的司教らと対決することなく、事実上、これらの諸決定に対し、どのような司教が反対することが出来るでしょうか?
司教は団体主義の囚人となってしまいました。司教評議会は、決定する組織となるべきではなく、皆で相談する組織として限定されるべきでした。最も単純な事柄のためであっても、司教はもはや、自分の家の主人ではなくなってしまいました。公会議後まもなく、私が私たちの共同体の訪問(=聖霊修道会の修道院を総長として訪問したこと)をしていた間、ブラジルのある司教区の司教が、私を迎えるために非常に親切に、駅へやってきました。
この司教様は言いました。
「私は司教館にあなたを泊まらせることが出来ません。しかし、小神学校にあなたのために準備しておいた部屋があります。」
彼は私を自らそこへ連れて行きました。小神学校は騒々しいところで、青少年と少女が、廊下や階段のいたるところにいたのです。
「この青年達、彼らは神学生ですか?」と私は尋ねました。
「違います。悲しいかな、私はこれら若者たちが、自分の神学校にいるのに全く賛成などしてないのです。信じて下さい。しかし司教会議は、今後、私たちの施設においてカトリック・アクションの会議を開催しなければならないと決定してしまいました。あなたの見ている若者たちは一週間ここにいます。私に何が出来ますか? 周りと同じようにすることだけです。」
教皇であれ又は司教たちであれ、天主の権によって人に個人的に授けられた権能は、没収されてしまったのです。それは、その支配権が大きくなり続けるだけのある存在の利益の為です。
人は私にこう言うかもしれません。司教評議会は最近のものではない、ピオ十世は今世紀初頭、既に、司教会議に認可を与えている、と。これは正しい事ですが、この聖なる教皇は司教会議にたいし、それを正当化する定義を与えたのです。
「これら司教の集会は、あらゆる地方と州において、天主の御国の維持と発展のために、最も大きな重要性を有している。いつ何時であれ、聖なる事柄の保管者たる司教たちは、そうすることによって彼らの光を共に合わせる。それにより、彼らの民の必要をより敏感に気づき、最もふさわしい薬を選ぶのみならず、さらに司教たちはまた自分たちを一致させる絆を固くする結果をもたらす。」
従って、聖ピオ十世のいう司教評議会とは、そのメンバーが義務的に遂行しなければならないことを団体として決議する国家管理的な性格を帯びる制度ではないということです。それは、科学者会議が、実験はあの又はこの実験室で実行しなければならないという実験方法の議決などしませんが、このような科学者会議以上のものではない、と言うことです。
しかしながら、司教評議会は現在、議会のように機能しています。フランス司教団の通常理事会が、行政組織となっています。司教は、司教区を統治するため教皇から任命された使徒たちの後継者と言うよりは、時流に合う表現を借りれば、フランス共和国の県知事、政府の役人のようです。
司教評議会では、司教は投票を行います。投票総数が余りにも大きいために、ルルドにおいては、電子投票システムを設置しなければなりませんでした。それから必然的に党派や派閥の形成になります。投票と党派とは一つがなければ他方も成り立ちません。党派や派閥とは分裂を意味しています。通常の政府が、通常の執行において、評議の投票に従属させられるとすると、統治は効率の悪いものになります。結果的に全団体が苦しむのです。
団体主義の導入により、無視することの出来ない効率の低下を導きました。 一人の個人によるよりも団体のもとで、聖霊はより容易く妨げられ、悲しませられるのです。個々の人に責任があるとき、例え沈黙する者がいるとしても、個々人は行動し、彼らは発言します。会議において、決定するのは数です。
しかし、数は、真理を作りません。
団体主義は効率的でもありません。団体主義によって過ごした20年の後に私たちが認識するように、また私たちが実験することなしに仮想することさえできたように、効果がありませんでした。寓話作家は、もうずっと以前に「何の役にも立たないのにそのままずっと保存されてきた莫大な書類」について語っていました。ある国には主権を有する元首らがもういないので、投票によって諸決定を正当化するという、政治的な制度を真似ることは必要だったのでしょうか? 教会は、天主の御国を拡張する為、自らしなければならない事を熟知しているという、莫大な利点を所有しています。その指導者たちは任命されるのです。共通の宣言を一生懸命に作ろうとしているが、万人の見解を考慮に入れなければならないゆえに、決して満足のいくものにはならず、余りにも多くの時間が無駄になっています。
様々な委員会と小委員会、また特別委員会と会議の準備に参加するために、何と多くの絶え間ない旅行をするのでしょうか! エッチェガレ司教は、ルルドでの1978年度の司教評議会の終わりに言いました。「私たちは、もはや何から始めて良いのか分かりません」
その結果は、共産主義、異端、不道徳などに反対する教会の抵抗力が、極めて弱められてしまったということです。これこそが、教会の敵対者たちが希望していたことであり、それが理由で、彼らは教会を民主主義の道に駆り立てるために、公会議中あるいは公会議後に、このような努力を払ったのです。
もし私たちが注意深く調べるなら、革命のスローガンのと共に、革命が天主の教会に浸透してしまいました。「自由」、これは上述のように、信教の自由のことで、これは誤謬に権利を授与するものです。「平等」、それは団体主義 (合議制) であり、個人の権威、つまり天主の権威、また教皇の権威、司教の権威の破壊を伴う、いわゆる多数の法則なのです。最後に「博愛」はエキュメ二ズム (宗教統一運動) によって説明されます。
この3つの言葉により、1789年の革命的イデオロギーは、律法と預言者になってしまいました。近代主義者たちは、自ら望んだことに到達したのです。
ルフェーブル大司教の公開書簡 その13
第13章 信教の自由、団体主義の平等、エキュメニズムの博愛
地獄の門が、現代これ程大騒ぎしているのはどこから来るのでしょうか? 教会の歴史は、つねに迫害や異端、世俗の権力との衝突や或る時代の一部の聖職者の、数名の教皇たちの不品行によりかき乱されてきました。しかし今回、危機は、信仰それ自体に関わっているのでより深刻なっているように思われます。私たちが直面している近代主義は、他とは異なる類の異端なのです。それはありとあらゆる異端の肥溜めです。いくつもの迫害が、今日では教会の外部からだけでなく、至聖所の内部からやってきます。聖職者が司祭職を放棄し或いは還俗するスキャンダルは、制度化されつつあるかのようです。羊を狼に投げ出す雇われた牧者が、励まされ名誉を持って讃えられています。
時々私は、この状況をあまりにもあしざまに言いすぎる、またはそれをひどく非難して眺めている、そして完全に論理的かつ必要な諸々の進化に関して不満でいることを楽しんでいるなどと非難されます。しかし第二バチカン公会議の中心であり霊魂であった教皇様自身が、私が悲しくも話している崩壊についてたびたび言及しています。
1969年12月7日、教皇パウロ六世は言われました。「教会は、不安と自己批判、そしてさらには自己破壊ともいえる時にいます。まるで教会内部の深刻で複雑な動乱のようです。あたかも教会は自分を鞭打っているかのようです。」
翌年に、彼は「公会議は、多くの領域にわたって今まで私たちに静けさを与えてくれませんでした。いえ、どちらかと言えば公会議は、様々な騒動と問題を引き起こし、それらは教会と霊魂たちにおいて、天主の王国を強化するためには役立たない問題でした。」と告白しています。それから1972年6月29日 (聖ペトロとパウロの祝日) には、「サタンの煙がいくつものひび割れをとおして天主の神殿のなかに侵入してしまいました。つまり、疑い、不確かさ、様々な問題、不安、不満、そして対決などが表面化しました・・・。疑いは私たちの良心にまで入り込んだのです。」という警報の叫びまで続きました。
このひび割れはどこにあるのでしょうか? それが生じたその瞬間を、私たちは正確に、時代の中に指摘することが出来ます。それは、1789年でした。そしてその名は、革命です。
フランス革命のフリーメーソン的そして反カトリック的原理は、二〇〇年をかけて聖職者たちの頭や、ミトラ(司教冠)をかぶった頭のなかに入り込みました。今日、これは完遂された事、現実となったことです。不安を抱いているカトリック信者の読者の皆さん、これがあなた方がどう考えてよいか分からなくなってしまった原因です。
これらの現実を私たちが信じるためには、事実を私たちがこの目でしかと見る必要がありました。なぜなら私たちは、先験的に、このようなことは不可能であり、天主なる聖霊によって導かれている教会の本性そのものとは両立しえないとので、まさか起こりうるはずがないと考えていたからです。
1877年に書かれた有名な著作の一頁の中で、ゴーム司教は革命を革命自らによって定義させています。
「私は、あなたが考えているものではない。私について多くの人は話すが、私を知っているものはほとんどいない。私はカルボナリ主義(イタリアの秘密結社)ではなく、暴動でもない。私は、君主制から共和制への変化でもなく、一つの王朝からもう一つの王朝への移行でもなく、社会秩序に対する一時の混乱でもない。私はジャコバン派(急進左派)の叫びでもなく、山岳派(急進最左派)の怒りの雄叫びでもなく、バリケードでの戦闘でも、略奪でも、放火でも、農地改革法でも、ギロチンでも、溺死でもない。私はマラーでもロベスピエールでもなく、バブーフでもマッツィーニでもコスートでもない。彼らはわが子であるが、私ではない。これらは、私の業ではあるが、私ではない。これらの人々や事柄は一時的なことであるが、私は恒久な状態である。・・・私は憎しみである。私は、人間によって制定されることのないあらゆる秩序への憎悪、人間自身がそこにおいて王でもなく神でもないあらゆる秩序への憎悪である。」
教会にいて「変革」をおこそうという意志の鍵はここにあります。つまり、人間の手によって作られた制度で、天主による制度を置き換える、ということです。そして人間が天主の上に立つのです。人間は全てを侵略します。全ては人間で始まりと人間で終わるのです。この人間の前にひれ伏しているのです。
パウロ六世は、公会議閉会の講話で次のようにこの転変を定義しました。
「世俗の天主なき人間中心主義がついに恐るべき巨大さをもって現れ、言わば公会議に挑戦して来たのであります。人となった天主を礼拝する宗教は、自らを天主となす人間の宗教(なぜならそれも一つの宗教ですから)とが出会ったのです。」
パウロ六世は、すぐに言葉を続けて、この恐るべき挑戦にもかかわらず、衝突も排斥もなかった、といっています。何と言うことでしょうか! 「人間にたいする限りのない好意」を見せながら、第二バチカン公会議は二つの態度の間で妥協がありえないことを鮮明に堅固に指摘する義務を怠ったのです。しかもその同じ閉会演説は、私たちが現代、毎日のように実践しているのを見ている事に、拍車をかけているように思われます。
「皆さん、少なくとも公会議のこの努力を認めてください。天上のことの超越性を放棄している現代の人間中心主義である皆さん、私たちの新しい人間中心主義を認めることができるようになってください。私たちも、私たちもだれにもまして人間を礼讚するものなのです。」
その後、このテーマを展開させた声明が、同じパウロ六世の唇から出るのを私たちは聞きました。「人間は、元来良いものであり、理性、秩序、そして共通善へ向かっています。」(平和の日のためのメッセージ、1970年11月14日)。「キリスト教と民主主義とには、共通の根本的原理があります。それは尊厳と人格の価値を尊重すること・・・人間の完璧な促進です。」(マニラ、1970年11月20日)。
民主主義とは特別に宗教を無視するシステムですが、その民主主義は人間において、人間に尊厳を与える唯一の特性、つまり天主の贖われた子供という性格を無視しているのに、いったいどうして私たちはこの比較によって狼狽させられないでいることが出来るでしょうか?人間の促進とは、キリスト信者が理解するのと、無信仰者が理解するのとでは、確かに意味が違います。
教皇メッセージは、度あるごとにその世俗性(=非宗教性)を増していきます。1970年12月3日、シドニーにおいて、これを聞いて私たちは驚きました。
「孤立はもはや許されません。人類の大連帯、世界的結束した兄弟的共同体創立の時は来ました。」
全ての人間の間の平和は確かに大切です。しかしカトリック信者はキリストの次のみことばを認識しなくなってしまっています。「私はあなたたちに私の平和を与える。私があなたたちに与える平和は、この世が与えるような平和ではない。」
地と天とを結びつけていた絆は、破られたように思えます。
「ああそうです。私たちは民主主義の中に生きています! それは、人民が指揮をとることを意味し、権能は多数から、つまりあるがままの民から生まれるのです」(パウロ六世、1970年1月1日)。
イエズスはピラトに言われました。「もし上から与えられなかったら、あなたには私に対する、いかなる権能もなかっただろう」。
権力は多数からではなく、天主から来るのです。例え指導者の選出が、選挙による方法で行われていたとしてもそうです。ピラトは異教の国の代表者でしたが、依然として天の御父の許しがなくては、何もすることが出来ませんでした。
そして今、教会内に民主主義が侵入しています。新教会法は、権力が“天主の民”に属すると教えています。「基礎」と呼ばれるものに権力の行使を参与させる傾向は、現代機能している諸構造のいたるところにあります。つまり、シノドゥスも、司教評議会、司祭評議会、司牧会議、ローマ委員会、全国委員会などです。修道会においても同様に諸委員会があります。
これは教導職の民主化であり、彼らのために医師も助けに来てくれず途方に暮れている毒を盛られた数百万の霊魂たちとって、死の危険を意味します。何故なら、以前は教皇や司教たちの個人的教導職によっていたがために存在していた効率性が民主化により崩壊してしまったからです。信仰や道徳に関する問題が生じた場合、今では様々な神学委員会の元に付され、それらの委員会は何らの回答も与えずに終わってしまうようになってしまいました。何故なら神学委員会の委員たちはその意見と手法においてお互いに分裂しているためです。あらゆる水準に存在するこれらの委員会や団体の議事録や報告を読むだけで、私たちは教導職の団体主義は教導職の麻痺に等しいということを知るのに充分です。
私たちの主がご自分の羊の群れを世話することを、集団ではなく個人に頼みました。使徒たちは、私たちの主の命令に従い、20世紀に至るまでそうでした。継続的団体主義の教会、永続的会議の事態にある教会についての話を聞くようになるには、現代にまで待たなければなりませんでした。その結果は待つまでもありません。すべてが逆さまになり、信者たちはどの道に向き直せば良いのかわかりません。
教導職の民主化には、統治の民主化が続きました。これは共産主義のマスメディアや、プロテスタントそして進歩的報道機関により広く拡げられた、「団体主義(合議制)」という有名なスローガンの勢いの元に実現されました。
教皇の統治を司教らと共にさせて団体化し、司教たちの統治を、司祭団を持ち出すによって団体化し、そして小教区の主任司祭の教会運営を、信者評議会をもって団体化しました。つまり無数の委員会と評議会、会合などによって全ては細かく区切られるようになりました。新しい教会法典は、この概念で完全に浸透されています。新しい教会法典によれば、教皇は、何よりもまず、司教団の頭として定義されています。ここには、教皇と共にある司教団が、教皇のように教会において最高の権力を享受し、しかもこれは継続的であり常在するとされ、既に公会議文書『教会憲章』において暗示された教えを私たちは見出します。
これは改良ではありません。二重の最高の権力があるという教えは、教会の教えと教導職の実践に矛盾しているのです。それは、第一バチカン公会議の定義と対立し、教皇レオ十三世の回勅『サティス・コニトゥム(Satis Cognitum)』に反しています。最高の主権は教皇だけが持ち、教皇はそれが良いと判断する時に且つ例外的状況にある時にのみ、これを伝達するのです。教皇だけが、唯一、全世界の上に裁治権を持っているのです。
従って現代、最高司教である教皇の自由に対する制限を、私たちは目撃しているところなのです! そうです。これはまさに革命です! 事実は、実際の結果を伴わない変更ではないということを証明しています。ヨハネ・パウロ二世がこの刷新によって、実際に影響を受けた最初の教皇様です。司教評議会からの圧力のもとで、ある決定を承認してしまったという、幾つかの正確な実例を、私たちは引き合いに出すことが出来ます。オランダ公教要理は、枢機卿委員会によって要求された修正をすることなく、ミラノ大司教より印刷許可 (imprimatur) が与えられています。それは、カナダ公教要理についても同じでした。これについて、あるローマの聖省長官がこう言ったのを私は聞きました。「司教評議会を前にして、わたしたちに何ができましょう?」
これらの評議会が握る独立は、フランスにおいても公教要理に関して例示されていました。これらの新しい手引き書は、使徒的勧告『カテケジ・トラデンデ (Catechesi Tradendae)』の殆ど全ての点で矛盾していました。イル・ド・フランス(パリ)の司教たちによる1982年になされたアド・リミナのローマ訪問は、教皇が明らかに認めたくない公教要理を批准するよう、教皇を説得することにその目的はあったのです。この訪問の終わりに、ヨハネ・パウロ二世によってなされた短い講話は、妥協のもつ全ての性格をはらんでいました。その妥協のおかげで、司教たちは、母国に凱旋帰国し、自分たちの悪しき業をそのまま続けることが出来たのです。パリとリオンでなされたラッツンガ―枢機卿の講話は、新しい教義と新しい教育方針を据え付けようとフランスの司教たちがローマに提示した理由を、ローマが賛成しなかったこと示唆しています。しかし聖座は、事態を正しい軌道に置くために必要とされた数々の指令を出し、そして信仰の遺産の保管者として教皇たちが従来つねに行っていたように、軌道修正がなされない場合には排斥する代わりに、提案と助言など、この種の圧力をかけるだけに還元されてしまったことをも示唆しています。
司教について言えば、団体主義によって裁治権が増したようにも見えますが、司教自身も、自分の司教区の運営を麻痺させる団体主義の犠牲者となっています。この問題について司教たち自身が非常に多くの反省をしていますが、それらなんと教訓的なものでしょうか! 理論上では、司教は多くの場合、司教団の希望に反して行動することが出来ます。 時には、投票が認可を求めて聖座に提出されていなかったならば、大多数の司教たちに反してさえそう出来るのです。しかし、実際上は、これは不可能であることが立証されています。司教会議の直後に、その諸決定は事務局によって発表されます。このようしてこの決定内容は、司祭たちと信者たち全てに知られるのです。つまり、メディアはその主な内容を伝えます。司教評議会との不一致を皆に示すことなく、それから即座に評議会に自分を告訴するであろう何名かの革命的司教らと対決することなく、事実上、これらの諸決定に対し、どのような司教が反対することが出来るでしょうか?
司教は団体主義の囚人となってしまいました。司教評議会は、決定する組織となるべきではなく、皆で相談する組織として限定されるべきでした。最も単純な事柄のためであっても、司教はもはや、自分の家の主人ではなくなってしまいました。公会議後まもなく、私が私たちの共同体の訪問(=聖霊修道会の修道院を総長として訪問したこと)をしていた間、ブラジルのある司教区の司教が、私を迎えるために非常に親切に、駅へやってきました。
この司教様は言いました。
「私は司教館にあなたを泊まらせることが出来ません。しかし、小神学校にあなたのために準備しておいた部屋があります。」
彼は私を自らそこへ連れて行きました。小神学校は騒々しいところで、青少年と少女が、廊下や階段のいたるところにいたのです。
「この青年達、彼らは神学生ですか?」と私は尋ねました。
「違います。悲しいかな、私はこれら若者たちが、自分の神学校にいるのに全く賛成などしてないのです。信じて下さい。しかし司教会議は、今後、私たちの施設においてカトリック・アクションの会議を開催しなければならないと決定してしまいました。あなたの見ている若者たちは一週間ここにいます。私に何が出来ますか? 周りと同じようにすることだけです。」
教皇であれ又は司教たちであれ、天主の権によって人に個人的に授けられた権能は、没収されてしまったのです。それは、その支配権が大きくなり続けるだけのある存在の利益の為です。
人は私にこう言うかもしれません。司教評議会は最近のものではない、ピオ十世は今世紀初頭、既に、司教会議に認可を与えている、と。これは正しい事ですが、この聖なる教皇は司教会議にたいし、それを正当化する定義を与えたのです。
「これら司教の集会は、あらゆる地方と州において、天主の御国の維持と発展のために、最も大きな重要性を有している。いつ何時であれ、聖なる事柄の保管者たる司教たちは、そうすることによって彼らの光を共に合わせる。それにより、彼らの民の必要をより敏感に気づき、最もふさわしい薬を選ぶのみならず、さらに司教たちはまた自分たちを一致させる絆を固くする結果をもたらす。」
従って、聖ピオ十世のいう司教評議会とは、そのメンバーが義務的に遂行しなければならないことを団体として決議する国家管理的な性格を帯びる制度ではないということです。それは、科学者会議が、実験はあの又はこの実験室で実行しなければならないという実験方法の議決などしませんが、このような科学者会議以上のものではない、と言うことです。
しかしながら、司教評議会は現在、議会のように機能しています。フランス司教団の通常理事会が、行政組織となっています。司教は、司教区を統治するため教皇から任命された使徒たちの後継者と言うよりは、時流に合う表現を借りれば、フランス共和国の県知事、政府の役人のようです。
司教評議会では、司教は投票を行います。投票総数が余りにも大きいために、ルルドにおいては、電子投票システムを設置しなければなりませんでした。それから必然的に党派や派閥の形成になります。投票と党派とは一つがなければ他方も成り立ちません。党派や派閥とは分裂を意味しています。通常の政府が、通常の執行において、評議の投票に従属させられるとすると、統治は効率の悪いものになります。結果的に全団体が苦しむのです。
団体主義の導入により、無視することの出来ない効率の低下を導きました。 一人の個人によるよりも団体のもとで、聖霊はより容易く妨げられ、悲しませられるのです。個々の人に責任があるとき、例え沈黙する者がいるとしても、個々人は行動し、彼らは発言します。会議において、決定するのは数です。
しかし、数は、真理を作りません。
団体主義は効率的でもありません。団体主義によって過ごした20年の後に私たちが認識するように、また私たちが実験することなしに仮想することさえできたように、効果がありませんでした。寓話作家は、もうずっと以前に「何の役にも立たないのにそのままずっと保存されてきた莫大な書類」について語っていました。ある国には主権を有する元首らがもういないので、投票によって諸決定を正当化するという、政治的な制度を真似ることは必要だったのでしょうか? 教会は、天主の御国を拡張する為、自らしなければならない事を熟知しているという、莫大な利点を所有しています。その指導者たちは任命されるのです。共通の宣言を一生懸命に作ろうとしているが、万人の見解を考慮に入れなければならないゆえに、決して満足のいくものにはならず、余りにも多くの時間が無駄になっています。
様々な委員会と小委員会、また特別委員会と会議の準備に参加するために、何と多くの絶え間ない旅行をするのでしょうか! エッチェガレ司教は、ルルドでの1978年度の司教評議会の終わりに言いました。「私たちは、もはや何から始めて良いのか分かりません」
その結果は、共産主義、異端、不道徳などに反対する教会の抵抗力が、極めて弱められてしまったということです。これこそが、教会の敵対者たちが希望していたことであり、それが理由で、彼らは教会を民主主義の道に駆り立てるために、公会議中あるいは公会議後に、このような努力を払ったのです。
もし私たちが注意深く調べるなら、革命のスローガンのと共に、革命が天主の教会に浸透してしまいました。「自由」、これは上述のように、信教の自由のことで、これは誤謬に権利を授与するものです。「平等」、それは団体主義 (合議制) であり、個人の権威、つまり天主の権威、また教皇の権威、司教の権威の破壊を伴う、いわゆる多数の法則なのです。最後に「博愛」はエキュメ二ズム (宗教統一運動) によって説明されます。
この3つの言葉により、1789年の革命的イデオロギーは、律法と預言者になってしまいました。近代主義者たちは、自ら望んだことに到達したのです。