教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ
ルフェーブル大司教の公開書簡 その14
第14章「第2バチカン公会議は教会内部のフランス革命だ」
教会の危機とフランス革命との間に私が浮き彫りにした類似点は、単なる比喩的なものではありません。18世紀の哲学者たちと、彼らの誤りが世に引き起こした動乱による影響は、現代に至るまで続ており、私たちはそのまっただ中にいるのです。教会内にこの毒を注入した者たち自身が、まさにそう告白しています。「第2バチカン公会議は、教会におけるフランス革命である」と豪語したのは、スーネンス枢機卿でした。さらに他のいろいろな宣言で不注意にも技巧を凝らさずに言った発言の中で特に、彼はこうも付け加えています。「もし人は、革命が終わりに至らせた旧体制の何たるかを知らなければ、フランス革命あるいはロシアで起きた革命を何も理解することは出来ない。教会についても同様だ。つまり、反動というものは、ただそれに先立つ事の状況との関係においてのみ判断されうる。」それに先立つ事、つまり彼が廃止されなければならないと考えたものとは、地上におけるキリストの代理者である教皇を頂点とする、素晴らしい位階的建築でした。スーネンス枢機卿は言葉を続けます。「第2バチカン公会議は、一時期の終わりを印した。もしももう少し後ろに下がってみてみるなら、一連の時期の終わり、一時代の終わりを印した。」
同様に、教会改革の張本人の一人である、コンガール神父 (Père Congar) も同じことを言っています。「教会は、平和のうちに、その10月革命をはたした。」 自分が何を言っているのかを十分自覚して、「信教の自由に関する宣言は、シラブス (1864年のピオ9世、1907年の聖ピオ10世により発令された謬説表) と内容上、正反対を述べている」と認めています。やろうと思えば、この類の自白を私は数多く持ち出すことが出来ます。
新しいミサにおいては、これまで全世界で執行されてきた典礼様式とほんの少しの違いがあるけれども、しかし根本的に驚異的な違いというものは全くない、と思いたいと考えている人々がいますが、1976年、典礼司牧全国センターの指導者の一人、ジェリノー (Gélineau) 神父は、そう思う人たちのあらゆる幻想を一掃しています。
「第2バチカン公会議で決定された教会改革は、雪解けの合図を与えた・・・。全体構造は崩れ落ちた・・・。それに関して間違ってはならない。翻訳するということは、別の言葉で同じ事柄を述べることではない。それは形を変えることだ。形が変われば、典礼様式も変わる。一つの要素が変化したら、全体も変わる・・・。はっきりと言わなければならないのは、私たちが知っていたローマ典礼は、もう存在していないということだ。それは破壊されてしまった。」(Demain la liturgie, Ed. Du Cerf)
カトリック自由主義者たちは、疑う余地もなく革命的環境を確立しました。彼らの内の一人、フランスのドゥー県の上院議員である、プルロ (Prelot) によって書かれた本の中には、こう書かれています。
「我々は、一世紀半の間、教会の内部で私たちの思想が支配するように闘ってきたが、成功を見なかった。最後に、第2バチカン公会議が来て、我々は勝利した。今後は、リベラルなカトリック主義の命題と原則は、決定的かつ公式に聖なる教会によって受け入れられた。」
革命が教会内に、平和主義と普遍的兄弟愛を装って持ち込まれたのは、このリベラルなカトリック主義の影響を通してでした。現代人の誤謬と誤った原理は、リベラルな教皇自身らのおかげで、また、第二バチカン公会議のために、教会に染み込み、聖職者達を汚染してしましました。
事実を正確に知らなければならないので、私はこう言いたいと思います。先ず、1962年に、私は公会議の開催に反対していませんでした。むしろ私は、それを大きな希望を抱いて迎えました。手短な証拠として、1963年に私が聖霊修道会の司祭たちに書き送り、私の前著の中の一つで公表された、手紙があります。私はその手紙の中で「いくつかの典礼的な刷新は必要であったと、私たちは躊躇なく言えるでしょう。そして公会議がこの方針で継続することが期待されます」と私は書いています。刷新は、礼拝の場所の中だけに制限される祈りと、行動、学校、職場、市民生活との間で掘られた溝から来る、硬化症に終止符を打つためには必要不可欠でした。
教皇によって私は第二バチカン公会議の中央準備委員会のメンバーの一人に指名され、2年の間その仕事に熱烈かつ根気強く貢献しました。この中央委員会は、専門委員会から出される予備概要の草案に目を通し、審査する責務を担っていました。そのため、何がそこで行われ、審査されるべき内容と、第二バチカン公会議に提案されるべき事柄とを知るためには、私は最適な位置にいました。
この仕事は、非常に入念に、かつ細心の注意をはらって完全に実行されたのです。今でも72の予備概要の草案を私は持っています。その中で、教会の教義は完全に正統であり、これら予備草案は何らかのやり方で、現代に合うように適応されていますが、そこには大きな節度と智恵がありました。
すべては、予告されたその日の為に準備万端でした。1962年10月11日、第二バチカン公会議の教父たち(=公会議に参加した司教らのこと)は、ローマの聖ペトロ大聖堂内の中央部にある議場に着席しました。しかしその時、聖座によって予期されていなかったある出来事が起きたのです。公会議は、その初日から急進派の勢力によって包囲されたのです。私たちはそれを経験し、感じたのです。ここで「私たち」と言う時、それはこの時の公会議教父たちの大部分を指します。
私たちは何か異常なことが起きていると感じました。これはまもなく確証されたのです。公会議開会の15日後、あの72ある予備概要の草案は何も残っていませんでした。草案のすべてが返送され、否決されて、くずかごに捨て去られたのです。
この出来事はこのように起こりました。公会議規定によれば、予備概要草案の否決には、3分の2 (67%) にあたる票が必要とされていました。ところが、実際に投票してみると、予備草案反対が60% (5分の3)、賛成が40% (5分の2) でした。従って、反対票は3分の2を獲得していないことになり、本来なら公会議は準備されていた予備草案を基礎にして続行されるべきでした。
強力な、いや非常に強力な組織が姿を見せたのはこの時でした。この組織は、ライン河沿岸諸国の枢機卿たちによって作られ、完璧に組織された秘書部と共にすべて整えられていました。彼らは教皇ヨハネ23世に謁見し、言いました。
「教皇様、これには承認できません。彼らは多数票を得ない草案の検討をすることを望んでいるのです。」
とうとう彼らの嘆願は受諾され、達成された彪大な仕事は忘れ去られてしまいました。こうして第二バチカン公会議は、空手で何の準備もなくなっていました。例え会社は小さくとも、重役会議の議長の誰が、協議事項や書類の準備もせずに会議を進行するでしょうか? ところが公会議はこのように始まったのです。
それから、公会議の委員達を指名する仕事がありました。これが難しい問題だったのです。何故なら世界中至る所からやって来て、聖ペトロ大聖堂内で突然顔を合わせる司教たちのことを想像してみて下さい。大半の司教たちはお互いを知らず、知っていても3人か4人であり、その他そこに参列する司教2400人中の僅か数人を、その名声によって知っていたくらいです。このような状況で、司祭に関する、又は典礼に関する、あるいは教会法に関する等々の特別専門委員会のメンバーに誰が最も適任なのかを、彼らはどうやって知りえたでしょうか?
全く合法的に、オッタビアーニ枢機卿は参列している各司教たちに対し、第二バチカン公会議準備委員会のメンバーリストを配布しました。従って、このメンバーたちは聖座によって選抜され、討論される題目に、既に携わっていた方々でした。このやり方は参列司教たちにとって、いかなる強制もなく、自由に適任者を選ぶ助けになりえたのです。そしてこれら経験を積んだ方の委員会への任命されることは確かに望ましいことでした。
しかしその時、ある抗議の声が起きたのです。その時立ち上がりこのような演説をした枢機卿の名前を挙げる必要はありません。「適任者名を提示することで、公会議のうえに黙認することのできない圧迫がかかっている。公会議教父 (司教) たちには自由が与えられるべきだ。またもや、教皇庁は、自分のメンバーを置こうとしている。」
この野蛮な介入を前に衝撃を受け、第二バチカン公会議の議事を終了しました。その日の午後、事務長であるフェリチ枢機卿はこう発表しました。「教皇様は、司教評議会を開いてそこでリストを作成するほうが良いかもしれないと認めておられます。」
当時の司教評議会は依然として未熟なものでした。たった24時間という時間しか与えられなかったので、然るべきやり方で彼らが集まることも出来ず、とにかく要求されていたメンバーリストを、司教評議会はやっとのことで準備したのです。
しかしこの小さなクーデターの計画を練った者たちは、様々な国々から特別に選ばれた人たちを準備していました。彼らは司教評議会に先んじることが出来、事実上過半数を得ることが出来ました。その結果、委員会は、3分の2が進歩派に属し、3分の1が教皇によって指名されて構成される結果になりました。
新しい草案は、初期のものとは全く違う方針のもので、すばやく出されました。いつの日か、公会議の直前には教会の教義がいかなるものであったかの比較が出来るように、捨てられた草案と新しい草案を出版してみたいと思っています。
政治的な議事や教会の議事に少しでも出席経験がある方なら、教父達(=公会議参列司教たち)の置かれた状況が理解できると思います。これら新しい草案の中で、僅かに節あるいは命題を修正案によって修正し得たのですが、草案の本質的要素は変えることが出来ませんでした。その結果は深刻なものだったのです。元々から歪んでいる原文は決して完全なものへと修正されません。原文にはそれを起草した人の跡とそれの考えを息吹いた人の思想が残るからです。その時以来、公会議は (進歩主義に) 傾斜してしまったのです。
第三の要素が第二バチカン公会議をリベラルな方に導くことに寄与しました。ヨハネ23世によって任命された十名の公会議の議長の代わりに、パウロ6世は、終わり2つの総会のため4人の議長を任名しました。この任命された4人について少なくとも言えることは、彼らは最も穏健でバランスの取れた枢機卿たちから選ばれたのではなかった、ということです。彼らの影響は、公会議の教父たちにとっては決定的なものでした。
リベラル派は少数でしたが、しかしアジテートし、組織化され、近代主義神学者の大群に助けられた少数派でした。そこには、公会議を我が物顔で振る舞い続けた人々の名前がみなそろっていました。ルクレルク (Leclerc)、マーフィ (Murphy)、コンガール (Congar)、ラーナー (Rahner)、キュンク (Küng)、スキレベークス (Schilebeeckx)、ベスレー (Besret)、カルドネル (Cardonnel)、シュニュ (Chenu) などでした。
そして思い起こさなければならないのは、ドイツ・オランダ司教評議会から助成金を支給された、IDOC (オランダ・インフォメーション・センター) による莫大な出版物の量です。ドイツ・オランダ司教会議は何時如何なる時も、司教たちが国際的な世論から期待されるやり方で行動するように促していました。このような状況は、教会がこの世の考え方と合作するのを見たいと望んでいるこの世の期待を裏切ってはならないのだというほうへと一種の強迫観念を創りだすことでなされました。
この運動の扇動者は、教会を現代人に適応させること、つまり、教会をあらゆる束縛から自分を解放したいと望む人間に適応させることをひっきりなしに求める有利な立場にいました。
彼らは硬直化した、適応できない、無力な教会というものを見せつけました。彼らは自分の前任者たちの胸を打たせて彼らに罪を着せました。彼らはカトリック信者を昔の分裂についてプロテスタントや正教徒と同様に罪があると提示しました。彼らは第二バチカン公会議に参加するように招かれた多数の「別れた兄弟たち」がローマいたので、謝罪するように求めました。
聖伝の教会は、その富と凱旋主義において咎めるべきであり、公会議の教父たちはこの世の外にいること、この世のものではないことを罪深いことだと感じ始めていました。彼らは自分の身につけていた司教の印を恥じていました。もうすぐ彼らはスータンを着るのさえ恥じるようになるのです。
この解放の雰囲気はすぐに全ての領域に広がることになります。司教団体主義の精神は、二十世紀の人間、いえ正確にはリベラルな人間のメンタリティーにかくも反対する個人的な権威の行使を恥じ、その恥を隠すために人が投げてくれるノアのマントとなることでしょう。【大洪水の後、ブドウ酒を飲んで酔い服が乱れたノアに、子供のセムとヤフェトはマントを父ノアの裸にかけた。創世の書九章より】
信教の自由、エキュメニズム、神学の探求、カトリック教会法典の改訂は、救いの唯一の方舟であると宣言していた教会の凱旋主義を軽減するだろうと考えられました。「乞食を恥じる人」がいるという言い方があるように、「司教であることを恥じる人々」がいました。司教たちに後ろめたい思いをさせることによって彼らに影響力をふるっていたのです。まさにこれこそ全ての革命で使われてきたやり方なのです。
この効果は、公会議の議事録の多くに記録されています。このことに関して『現代世界憲章』の最初のところ、現代世界の変化、歴史の加速化した動き、宗教生活に影響を与える新しい条件、科学と技術の優位性などに関することをもう一度読んでみるべきです。これらの文章においてリベラリズムのもっとも純粋な表現を誰が見ないでいられるでしょうか?
私たちは、公会議について教皇ピオ12世をその師と仰ぐことによって、素晴らしい公会議にすることができました。私は、ピオ12世がその全ての知識と全ての神学と全ての聖性をもって解決をしなかったような現代世界の問題があるとは思い当たりません。ピオ12世は、信仰の角度から物事を真に見ることによって、ほとんど決定的な解決策を与えました。
しかし教義決定の公会議をすることを拒否したその瞬間、物事をそのように見ることはできなくなりました。第二バチカン公会議は司牧会議でした。ヨハネ23世はそういいましたし、パウロ6世はそう繰り返して言いました。様々な総会の最中に、私たちは何度もいろいろな言葉の概念を定義させようと望みました。しかしこう言う答えが返ってくるだけでした。「いや、私たちはここで教義決定の公会議をしているのではないのだ。私たちは哲学をしているのでもない。私たちは司牧をしているのだ。」
自由とは何でしょうか? 人間の尊厳とは何でしょうか? 司教団とは何でしょうか? これらの用語によって何を理解すべきかを知るために公会議の文書を決定的に分析することができなくなってしまっています。従って、用語が曖昧なので、だいたいのことしか分からないのです。しかもこれは怠けていたのでも偶然そうなったのでもありません。教父であるスキレベークスはこう告白しました。「私たちは公会議で曖昧な用語を使ったが、私たちはそこから後でどの意味で取り出せばよいか知っている。」これらの人々は自分たちが何をしているかをよく知っていたのです。
長い歴史の中で、第二バチカン公会議以外の他の全ての公会議は、教義決定のための公会議でした。すべての公会議は誤謬と闘いました。ところで現代において闘わなければならない誤謬があったかについては天主がご存じです。教義決定の公会議はもっともの必要なものだったでしょう。私はウィンスジンスキー枢機卿が私たちにこう言っていたのを思い出します。「どうか、共産主義に関する文章を起草して下さい。今日、世界を脅かす重大な誤謬があるとすれば、共産主義こそがそれです。もしもピオ11世教皇が共産主義に関する回勅を書かなければならないと思ったのなら、同じように私たち、ここに公会議の総会に集う私たちにとってもこの問題に関して専門の文書を作るのはたいへん有益でしょう。」
共産主義はサタンの霊から出たものの中でもっとも恐ろしい誤謬です。共産主義は公式にバチカンに入りました。共産主義革命は東欧諸国の牢獄を経験した枢機卿たちの絶望的な警告にもかかわらず、特に教会の公式の無抵抗によって、しかも、教会にある頻繁な支持によって賞賛されることになりました。
何千万の殉教者たちや、精神病院において科学的に非人格化され人間の実験材料とされたキリスト者や反体制の人々を思いやる時、この司牧公会議が荘厳に共産主義を排斥することを拒否したことは、それだけで、全歴史を前にして恥となる行為でした。それにもかかわらず司牧公会議は沈黙していました。私たちは共産主義に反対する宣言をするように要請する四百五十の名の司教たちの署名を得ました。しかしこれらの署名を持つ請願書は引き出しの中に忘れ去られました。『現代世界憲章』の起草代表者は私たちに質問にこう答えました。
「共産主義を排斥することを求める請願は二つありました。」
私たちは叫んで聞きました。「たった二つだけですか?四百以上ありました。」
「あれ? そうですか? 知りませんでした。」
その後で請願書を探し、それを確かに見つけましたが、全ては後の祭りでした。
これらの事実を私はじかに体験して来ました。公会議事務総長のフェリチ大司教にディアマンティナ大司教区のデ・プロエンサ・シガウド大司教この署名を持っていたのは私でした。
従って、私は実際に起こったことは本当の意味で容認することができないことだったと言わなければなりません。私は公会議を排斥するためにこう言うのではありません。そして私はこれが多くの場合、数多いカトリック信者の困惑の原因となっていると言うことも知っています。何故なら、彼らは公会議がそれでも聖霊によって息吹かれていると考えていますから。
公会議が聖霊によって息吹かれている、とは必ずしも言えるわけではありません。何故なら、第二バチカン公会議は司牧公会議であり、教義決定の公会議ではないからです。何故なら、第二バチカン公会議は説教であって、それ自体で不可謬性を行使した公会議ではないからです。総会の終わりに私たちはフェリチ大司教にこう質問しました。
「神学者たちが公会議の性格と呼んでいるものを私たちに与えてくれることができないでしょうか?」
フェリチ大司教はこう答えました。
「草案、章、過去において既に教義決定の対象になったものに従って区別しなければなりません。新しい性格を持った宣言については、留保しなければなりません。」
従って、第二バチカン公会議はその他の公会議のような公会議ではないのです。ですから私たちには第二バチカン公会議を、賢明に慎重に判断することができるのです。私はこの公会議と改革の中で、聖伝と完全に調和するものを全て受け入れています。私が創立した事業がそのことを十全に証明しています。私たちの神学校はとりわけ公会議によって表明された望みとカトリック教育聖省の「基本理念 Ratio fundamentalis」に完全にかなっています。
しかし、公会議そのものではなく公会議後の適応だけが間違っていたと言い張るのは不可能なことです。聖職者の反乱、教皇の権威に対する抗議、典礼と新しい神学の無茶苦茶、教会の荒廃などは、つい最近ある人が主張したように第二バチカン公会議とは何の関係もないのでしょうか? まさか! 正直になりましょう。それらは公会議の実りなのです!
こんなことを言うと、不安に思う読者の当惑を増してしまうだけだと言うことは分かっています。しかしこの騒動において、キリストの教会を終わらせようとするこの世の努力を無に帰すことのできる一条の光が輝きました。教皇様は1968年6月30日その信仰宣言をなさったからです。これは、教義上の観点から見ると、全第二バチカン公会議よりも重要な行為です。
この信仰宣言は、ペトロの信仰を断言するためにペトロの後継者によって書かれ、絶対的に特別な荘厳さを帯びています。教皇様がこの信仰宣言を読むために立ち上がると、枢機卿たちも起立し、群衆もそれをまねして立ち上がりました。しかし教皇様は皆を座らせました。教皇様はキリストの代理者として一人でこの信仰を宣言したかったのです。そして教皇様はもっとも荘厳な言葉をもって、聖三位一体の名において、聖なる天使達と全教会の前においてそうしたのです。従って、教皇様は教会の信仰に関わる行為をなしたのです。
私たちはこうして、聖霊は私たちをうち捨ててはおかれなかったことを感じる慰めと信頼を得たのでした。信仰のアーチは、第一バチカン公会議にその一つの土台を持ち、またパウロ6世の信仰宣言に新しい土台を見つけたと言うことができると思います。
ルフェーブル大司教の公開書簡 その14
第14章「第2バチカン公会議は教会内部のフランス革命だ」
教会の危機とフランス革命との間に私が浮き彫りにした類似点は、単なる比喩的なものではありません。18世紀の哲学者たちと、彼らの誤りが世に引き起こした動乱による影響は、現代に至るまで続ており、私たちはそのまっただ中にいるのです。教会内にこの毒を注入した者たち自身が、まさにそう告白しています。「第2バチカン公会議は、教会におけるフランス革命である」と豪語したのは、スーネンス枢機卿でした。さらに他のいろいろな宣言で不注意にも技巧を凝らさずに言った発言の中で特に、彼はこうも付け加えています。「もし人は、革命が終わりに至らせた旧体制の何たるかを知らなければ、フランス革命あるいはロシアで起きた革命を何も理解することは出来ない。教会についても同様だ。つまり、反動というものは、ただそれに先立つ事の状況との関係においてのみ判断されうる。」それに先立つ事、つまり彼が廃止されなければならないと考えたものとは、地上におけるキリストの代理者である教皇を頂点とする、素晴らしい位階的建築でした。スーネンス枢機卿は言葉を続けます。「第2バチカン公会議は、一時期の終わりを印した。もしももう少し後ろに下がってみてみるなら、一連の時期の終わり、一時代の終わりを印した。」
同様に、教会改革の張本人の一人である、コンガール神父 (Père Congar) も同じことを言っています。「教会は、平和のうちに、その10月革命をはたした。」 自分が何を言っているのかを十分自覚して、「信教の自由に関する宣言は、シラブス (1864年のピオ9世、1907年の聖ピオ10世により発令された謬説表) と内容上、正反対を述べている」と認めています。やろうと思えば、この類の自白を私は数多く持ち出すことが出来ます。
新しいミサにおいては、これまで全世界で執行されてきた典礼様式とほんの少しの違いがあるけれども、しかし根本的に驚異的な違いというものは全くない、と思いたいと考えている人々がいますが、1976年、典礼司牧全国センターの指導者の一人、ジェリノー (Gélineau) 神父は、そう思う人たちのあらゆる幻想を一掃しています。
「第2バチカン公会議で決定された教会改革は、雪解けの合図を与えた・・・。全体構造は崩れ落ちた・・・。それに関して間違ってはならない。翻訳するということは、別の言葉で同じ事柄を述べることではない。それは形を変えることだ。形が変われば、典礼様式も変わる。一つの要素が変化したら、全体も変わる・・・。はっきりと言わなければならないのは、私たちが知っていたローマ典礼は、もう存在していないということだ。それは破壊されてしまった。」(Demain la liturgie, Ed. Du Cerf)
カトリック自由主義者たちは、疑う余地もなく革命的環境を確立しました。彼らの内の一人、フランスのドゥー県の上院議員である、プルロ (Prelot) によって書かれた本の中には、こう書かれています。
「我々は、一世紀半の間、教会の内部で私たちの思想が支配するように闘ってきたが、成功を見なかった。最後に、第2バチカン公会議が来て、我々は勝利した。今後は、リベラルなカトリック主義の命題と原則は、決定的かつ公式に聖なる教会によって受け入れられた。」
革命が教会内に、平和主義と普遍的兄弟愛を装って持ち込まれたのは、このリベラルなカトリック主義の影響を通してでした。現代人の誤謬と誤った原理は、リベラルな教皇自身らのおかげで、また、第二バチカン公会議のために、教会に染み込み、聖職者達を汚染してしましました。
事実を正確に知らなければならないので、私はこう言いたいと思います。先ず、1962年に、私は公会議の開催に反対していませんでした。むしろ私は、それを大きな希望を抱いて迎えました。手短な証拠として、1963年に私が聖霊修道会の司祭たちに書き送り、私の前著の中の一つで公表された、手紙があります。私はその手紙の中で「いくつかの典礼的な刷新は必要であったと、私たちは躊躇なく言えるでしょう。そして公会議がこの方針で継続することが期待されます」と私は書いています。刷新は、礼拝の場所の中だけに制限される祈りと、行動、学校、職場、市民生活との間で掘られた溝から来る、硬化症に終止符を打つためには必要不可欠でした。
教皇によって私は第二バチカン公会議の中央準備委員会のメンバーの一人に指名され、2年の間その仕事に熱烈かつ根気強く貢献しました。この中央委員会は、専門委員会から出される予備概要の草案に目を通し、審査する責務を担っていました。そのため、何がそこで行われ、審査されるべき内容と、第二バチカン公会議に提案されるべき事柄とを知るためには、私は最適な位置にいました。
この仕事は、非常に入念に、かつ細心の注意をはらって完全に実行されたのです。今でも72の予備概要の草案を私は持っています。その中で、教会の教義は完全に正統であり、これら予備草案は何らかのやり方で、現代に合うように適応されていますが、そこには大きな節度と智恵がありました。
すべては、予告されたその日の為に準備万端でした。1962年10月11日、第二バチカン公会議の教父たち(=公会議に参加した司教らのこと)は、ローマの聖ペトロ大聖堂内の中央部にある議場に着席しました。しかしその時、聖座によって予期されていなかったある出来事が起きたのです。公会議は、その初日から急進派の勢力によって包囲されたのです。私たちはそれを経験し、感じたのです。ここで「私たち」と言う時、それはこの時の公会議教父たちの大部分を指します。
私たちは何か異常なことが起きていると感じました。これはまもなく確証されたのです。公会議開会の15日後、あの72ある予備概要の草案は何も残っていませんでした。草案のすべてが返送され、否決されて、くずかごに捨て去られたのです。
この出来事はこのように起こりました。公会議規定によれば、予備概要草案の否決には、3分の2 (67%) にあたる票が必要とされていました。ところが、実際に投票してみると、予備草案反対が60% (5分の3)、賛成が40% (5分の2) でした。従って、反対票は3分の2を獲得していないことになり、本来なら公会議は準備されていた予備草案を基礎にして続行されるべきでした。
強力な、いや非常に強力な組織が姿を見せたのはこの時でした。この組織は、ライン河沿岸諸国の枢機卿たちによって作られ、完璧に組織された秘書部と共にすべて整えられていました。彼らは教皇ヨハネ23世に謁見し、言いました。
「教皇様、これには承認できません。彼らは多数票を得ない草案の検討をすることを望んでいるのです。」
とうとう彼らの嘆願は受諾され、達成された彪大な仕事は忘れ去られてしまいました。こうして第二バチカン公会議は、空手で何の準備もなくなっていました。例え会社は小さくとも、重役会議の議長の誰が、協議事項や書類の準備もせずに会議を進行するでしょうか? ところが公会議はこのように始まったのです。
それから、公会議の委員達を指名する仕事がありました。これが難しい問題だったのです。何故なら世界中至る所からやって来て、聖ペトロ大聖堂内で突然顔を合わせる司教たちのことを想像してみて下さい。大半の司教たちはお互いを知らず、知っていても3人か4人であり、その他そこに参列する司教2400人中の僅か数人を、その名声によって知っていたくらいです。このような状況で、司祭に関する、又は典礼に関する、あるいは教会法に関する等々の特別専門委員会のメンバーに誰が最も適任なのかを、彼らはどうやって知りえたでしょうか?
全く合法的に、オッタビアーニ枢機卿は参列している各司教たちに対し、第二バチカン公会議準備委員会のメンバーリストを配布しました。従って、このメンバーたちは聖座によって選抜され、討論される題目に、既に携わっていた方々でした。このやり方は参列司教たちにとって、いかなる強制もなく、自由に適任者を選ぶ助けになりえたのです。そしてこれら経験を積んだ方の委員会への任命されることは確かに望ましいことでした。
しかしその時、ある抗議の声が起きたのです。その時立ち上がりこのような演説をした枢機卿の名前を挙げる必要はありません。「適任者名を提示することで、公会議のうえに黙認することのできない圧迫がかかっている。公会議教父 (司教) たちには自由が与えられるべきだ。またもや、教皇庁は、自分のメンバーを置こうとしている。」
この野蛮な介入を前に衝撃を受け、第二バチカン公会議の議事を終了しました。その日の午後、事務長であるフェリチ枢機卿はこう発表しました。「教皇様は、司教評議会を開いてそこでリストを作成するほうが良いかもしれないと認めておられます。」
当時の司教評議会は依然として未熟なものでした。たった24時間という時間しか与えられなかったので、然るべきやり方で彼らが集まることも出来ず、とにかく要求されていたメンバーリストを、司教評議会はやっとのことで準備したのです。
しかしこの小さなクーデターの計画を練った者たちは、様々な国々から特別に選ばれた人たちを準備していました。彼らは司教評議会に先んじることが出来、事実上過半数を得ることが出来ました。その結果、委員会は、3分の2が進歩派に属し、3分の1が教皇によって指名されて構成される結果になりました。
新しい草案は、初期のものとは全く違う方針のもので、すばやく出されました。いつの日か、公会議の直前には教会の教義がいかなるものであったかの比較が出来るように、捨てられた草案と新しい草案を出版してみたいと思っています。
政治的な議事や教会の議事に少しでも出席経験がある方なら、教父達(=公会議参列司教たち)の置かれた状況が理解できると思います。これら新しい草案の中で、僅かに節あるいは命題を修正案によって修正し得たのですが、草案の本質的要素は変えることが出来ませんでした。その結果は深刻なものだったのです。元々から歪んでいる原文は決して完全なものへと修正されません。原文にはそれを起草した人の跡とそれの考えを息吹いた人の思想が残るからです。その時以来、公会議は (進歩主義に) 傾斜してしまったのです。
第三の要素が第二バチカン公会議をリベラルな方に導くことに寄与しました。ヨハネ23世によって任命された十名の公会議の議長の代わりに、パウロ6世は、終わり2つの総会のため4人の議長を任名しました。この任命された4人について少なくとも言えることは、彼らは最も穏健でバランスの取れた枢機卿たちから選ばれたのではなかった、ということです。彼らの影響は、公会議の教父たちにとっては決定的なものでした。
リベラル派は少数でしたが、しかしアジテートし、組織化され、近代主義神学者の大群に助けられた少数派でした。そこには、公会議を我が物顔で振る舞い続けた人々の名前がみなそろっていました。ルクレルク (Leclerc)、マーフィ (Murphy)、コンガール (Congar)、ラーナー (Rahner)、キュンク (Küng)、スキレベークス (Schilebeeckx)、ベスレー (Besret)、カルドネル (Cardonnel)、シュニュ (Chenu) などでした。
そして思い起こさなければならないのは、ドイツ・オランダ司教評議会から助成金を支給された、IDOC (オランダ・インフォメーション・センター) による莫大な出版物の量です。ドイツ・オランダ司教会議は何時如何なる時も、司教たちが国際的な世論から期待されるやり方で行動するように促していました。このような状況は、教会がこの世の考え方と合作するのを見たいと望んでいるこの世の期待を裏切ってはならないのだというほうへと一種の強迫観念を創りだすことでなされました。
この運動の扇動者は、教会を現代人に適応させること、つまり、教会をあらゆる束縛から自分を解放したいと望む人間に適応させることをひっきりなしに求める有利な立場にいました。
彼らは硬直化した、適応できない、無力な教会というものを見せつけました。彼らは自分の前任者たちの胸を打たせて彼らに罪を着せました。彼らはカトリック信者を昔の分裂についてプロテスタントや正教徒と同様に罪があると提示しました。彼らは第二バチカン公会議に参加するように招かれた多数の「別れた兄弟たち」がローマいたので、謝罪するように求めました。
聖伝の教会は、その富と凱旋主義において咎めるべきであり、公会議の教父たちはこの世の外にいること、この世のものではないことを罪深いことだと感じ始めていました。彼らは自分の身につけていた司教の印を恥じていました。もうすぐ彼らはスータンを着るのさえ恥じるようになるのです。
この解放の雰囲気はすぐに全ての領域に広がることになります。司教団体主義の精神は、二十世紀の人間、いえ正確にはリベラルな人間のメンタリティーにかくも反対する個人的な権威の行使を恥じ、その恥を隠すために人が投げてくれるノアのマントとなることでしょう。【大洪水の後、ブドウ酒を飲んで酔い服が乱れたノアに、子供のセムとヤフェトはマントを父ノアの裸にかけた。創世の書九章より】
信教の自由、エキュメニズム、神学の探求、カトリック教会法典の改訂は、救いの唯一の方舟であると宣言していた教会の凱旋主義を軽減するだろうと考えられました。「乞食を恥じる人」がいるという言い方があるように、「司教であることを恥じる人々」がいました。司教たちに後ろめたい思いをさせることによって彼らに影響力をふるっていたのです。まさにこれこそ全ての革命で使われてきたやり方なのです。
この効果は、公会議の議事録の多くに記録されています。このことに関して『現代世界憲章』の最初のところ、現代世界の変化、歴史の加速化した動き、宗教生活に影響を与える新しい条件、科学と技術の優位性などに関することをもう一度読んでみるべきです。これらの文章においてリベラリズムのもっとも純粋な表現を誰が見ないでいられるでしょうか?
私たちは、公会議について教皇ピオ12世をその師と仰ぐことによって、素晴らしい公会議にすることができました。私は、ピオ12世がその全ての知識と全ての神学と全ての聖性をもって解決をしなかったような現代世界の問題があるとは思い当たりません。ピオ12世は、信仰の角度から物事を真に見ることによって、ほとんど決定的な解決策を与えました。
しかし教義決定の公会議をすることを拒否したその瞬間、物事をそのように見ることはできなくなりました。第二バチカン公会議は司牧会議でした。ヨハネ23世はそういいましたし、パウロ6世はそう繰り返して言いました。様々な総会の最中に、私たちは何度もいろいろな言葉の概念を定義させようと望みました。しかしこう言う答えが返ってくるだけでした。「いや、私たちはここで教義決定の公会議をしているのではないのだ。私たちは哲学をしているのでもない。私たちは司牧をしているのだ。」
自由とは何でしょうか? 人間の尊厳とは何でしょうか? 司教団とは何でしょうか? これらの用語によって何を理解すべきかを知るために公会議の文書を決定的に分析することができなくなってしまっています。従って、用語が曖昧なので、だいたいのことしか分からないのです。しかもこれは怠けていたのでも偶然そうなったのでもありません。教父であるスキレベークスはこう告白しました。「私たちは公会議で曖昧な用語を使ったが、私たちはそこから後でどの意味で取り出せばよいか知っている。」これらの人々は自分たちが何をしているかをよく知っていたのです。
長い歴史の中で、第二バチカン公会議以外の他の全ての公会議は、教義決定のための公会議でした。すべての公会議は誤謬と闘いました。ところで現代において闘わなければならない誤謬があったかについては天主がご存じです。教義決定の公会議はもっともの必要なものだったでしょう。私はウィンスジンスキー枢機卿が私たちにこう言っていたのを思い出します。「どうか、共産主義に関する文章を起草して下さい。今日、世界を脅かす重大な誤謬があるとすれば、共産主義こそがそれです。もしもピオ11世教皇が共産主義に関する回勅を書かなければならないと思ったのなら、同じように私たち、ここに公会議の総会に集う私たちにとってもこの問題に関して専門の文書を作るのはたいへん有益でしょう。」
共産主義はサタンの霊から出たものの中でもっとも恐ろしい誤謬です。共産主義は公式にバチカンに入りました。共産主義革命は東欧諸国の牢獄を経験した枢機卿たちの絶望的な警告にもかかわらず、特に教会の公式の無抵抗によって、しかも、教会にある頻繁な支持によって賞賛されることになりました。
何千万の殉教者たちや、精神病院において科学的に非人格化され人間の実験材料とされたキリスト者や反体制の人々を思いやる時、この司牧公会議が荘厳に共産主義を排斥することを拒否したことは、それだけで、全歴史を前にして恥となる行為でした。それにもかかわらず司牧公会議は沈黙していました。私たちは共産主義に反対する宣言をするように要請する四百五十の名の司教たちの署名を得ました。しかしこれらの署名を持つ請願書は引き出しの中に忘れ去られました。『現代世界憲章』の起草代表者は私たちに質問にこう答えました。
「共産主義を排斥することを求める請願は二つありました。」
私たちは叫んで聞きました。「たった二つだけですか?四百以上ありました。」
「あれ? そうですか? 知りませんでした。」
その後で請願書を探し、それを確かに見つけましたが、全ては後の祭りでした。
これらの事実を私はじかに体験して来ました。公会議事務総長のフェリチ大司教にディアマンティナ大司教区のデ・プロエンサ・シガウド大司教この署名を持っていたのは私でした。
従って、私は実際に起こったことは本当の意味で容認することができないことだったと言わなければなりません。私は公会議を排斥するためにこう言うのではありません。そして私はこれが多くの場合、数多いカトリック信者の困惑の原因となっていると言うことも知っています。何故なら、彼らは公会議がそれでも聖霊によって息吹かれていると考えていますから。
公会議が聖霊によって息吹かれている、とは必ずしも言えるわけではありません。何故なら、第二バチカン公会議は司牧公会議であり、教義決定の公会議ではないからです。何故なら、第二バチカン公会議は説教であって、それ自体で不可謬性を行使した公会議ではないからです。総会の終わりに私たちはフェリチ大司教にこう質問しました。
「神学者たちが公会議の性格と呼んでいるものを私たちに与えてくれることができないでしょうか?」
フェリチ大司教はこう答えました。
「草案、章、過去において既に教義決定の対象になったものに従って区別しなければなりません。新しい性格を持った宣言については、留保しなければなりません。」
従って、第二バチカン公会議はその他の公会議のような公会議ではないのです。ですから私たちには第二バチカン公会議を、賢明に慎重に判断することができるのです。私はこの公会議と改革の中で、聖伝と完全に調和するものを全て受け入れています。私が創立した事業がそのことを十全に証明しています。私たちの神学校はとりわけ公会議によって表明された望みとカトリック教育聖省の「基本理念 Ratio fundamentalis」に完全にかなっています。
しかし、公会議そのものではなく公会議後の適応だけが間違っていたと言い張るのは不可能なことです。聖職者の反乱、教皇の権威に対する抗議、典礼と新しい神学の無茶苦茶、教会の荒廃などは、つい最近ある人が主張したように第二バチカン公会議とは何の関係もないのでしょうか? まさか! 正直になりましょう。それらは公会議の実りなのです!
こんなことを言うと、不安に思う読者の当惑を増してしまうだけだと言うことは分かっています。しかしこの騒動において、キリストの教会を終わらせようとするこの世の努力を無に帰すことのできる一条の光が輝きました。教皇様は1968年6月30日その信仰宣言をなさったからです。これは、教義上の観点から見ると、全第二バチカン公会議よりも重要な行為です。
この信仰宣言は、ペトロの信仰を断言するためにペトロの後継者によって書かれ、絶対的に特別な荘厳さを帯びています。教皇様がこの信仰宣言を読むために立ち上がると、枢機卿たちも起立し、群衆もそれをまねして立ち上がりました。しかし教皇様は皆を座らせました。教皇様はキリストの代理者として一人でこの信仰を宣言したかったのです。そして教皇様はもっとも荘厳な言葉をもって、聖三位一体の名において、聖なる天使達と全教会の前においてそうしたのです。従って、教皇様は教会の信仰に関わる行為をなしたのです。
私たちはこうして、聖霊は私たちをうち捨ててはおかれなかったことを感じる慰めと信頼を得たのでした。信仰のアーチは、第一バチカン公会議にその一つの土台を持ち、またパウロ6世の信仰宣言に新しい土台を見つけたと言うことができると思います。