2018年8月11日(土)イエズスの聖心小黙想会
小野田神父 霊的講話【1】
「イエズス様は私たちに真理を教えて下さる」
人類は、真理を知らずに、罪を犯し、苦しみの中に真っ只中に浸かり込んでいます。人類の代わりに、人類の名前によって、いけにえを捧げてくれる誰かを必要としています。
ちょうど、エルサレムの神殿にいたにもかかわらず、「エルサレム」という聖なる街にいたにも関わらず、道を間違えて、罪の街に行ってしまうような、そしてその道の途中で悪魔に襲われて半死半生になってしまった、そんな、そして捨てられて、傷付いて、自分の手ではどうしても何もする事ができない状態になっているかのようです。
そんな暗闇の中にいる人類に、イエズス様は光を照らして、そして人類を教えようとします。
今のこのお話では、黙想では、「イエズス様が私たちにどうやって真理を教えて下さるか」という事を黙想致しましょう。
ではイエズス様は、どうやって私たちを教えられたのでしょうか?
イエズス様は真理そのものでありますし、天主の知性でもあります。永遠の知恵であります。ですからイエズス様は、勉強したりとか、努力したりとかする必要もありませんし、学校で先生から何か教えてもらう必要もありません。イエズス様は無限の真理を持っています。しかしこの永遠の天主の光は、よく見ると、まず30年間、沈黙の内に準備をしました。人々を教える為の準備をしました。「イエズス様はもう少し早く教えて下さればよかったのに。」しかしイエズス様は30年間、12歳の時を除いて、公に教えようとはせずに、祈りと、従順と、隠れた生活で準備をします。もしかすると日本でも30年間必要なのかもしれません。イエズス様はこの御自分の模範を以て、「どれほど準備が必要であるか」という事を教えられているのかもしれません。
一方、当時の世界は、ちょうど今の日本と同じように、闇の中と誤謬の中に包まれていました。ユダヤ教でさえも、異教の考えが浸透してしまいましたし、ギリシャやローマなどの多神教や、あるいは肉体崇拝や、あるいはサーカスとスポーツと音楽とお金と快楽を求める風潮が染み通りつつありましたし、唯一の天主への愛というものは、ユダヤ教の中でさえもますます失われつつありました。それ以外のところではもう目も当てられません。奴隷と奴隷とが戦うのを殺し合うのを見て楽しんだりとか、そのますます暗黒の中に陥る人類を、イエズス様は、光の中の光、真の天主よりの真の天主は、教えようとします。
ちょうど今の世界も、YouTubeではイスラム教が身代金を要求して、そして誘拐した人を殺害するのを放映したりとか、あるいは不潔なものがあったりとか、映画とか読み物とか、2000年前の異教の世界よりもますますひどくなっているように思われます。
イエズス様はその中で、真理を教えようと来られました。イエズス様が教えようとする事は、まず、「天主様が人類に対して権利を持っている事」「創造主として人類に要求する権利がある事」「人間は天主に従う義務がある事」を、イエズス様は教えます。同時にイエズス様は、「天主の憐れみと人間の哀れさ」について教えてくれます。
イエズス様が、メシアが、救い主が、人類を教えるという事は、その当時の人は知っていました。ユダヤの人は知っていました。ユダヤ以外の人も知っていました。サマリアの罪の生活をしていた、結婚もせずに同棲生活をして、色んな男を取り替えては、罪の深い、かわいそうな女性さえも知っていました。「私はキリストと言われるメシアがおいでになる事を知っています。その方が来られれば、全ての事を知らせて下さるでしょう。」
イエズス様の使命は、闇に、深い闇の中に留まる霊魂たちに教える事でした。天主について人類に教える事でした。天主の知識を与える事でした、天主に関する知識を与える事でした。天主がこの世の創造主であって、私たちの聖父であって、聖なる方であって、正義の方であって、絶対の権力を持っていて、絶対の力を持っていて、私たちがそれに従わなければならない、その御旨を果たさなければならない、という事を教えなければなりません。と同時に、イエズス様は私たちに、この「天主がとても良い私たちの聖父であって、無限の憐れみを持って私たちを愛しておられる」という事を啓示しなければなりません。
イエズス様は言います。イエズス様はその使命を知っていました。ですから御自分の模範を以て、実際の生活を以て、それから生活を以て示した後には、自分の御言葉を以て、その事を教えなければなりません、「私は世の光である。私に従う人は闇を歩かない。永遠の命を持つだろう。私はこの為に生まれてきた。真理を証明する為に。真理からの者は全て私の声を聞く。」
そしてイエズス様がこの真理の声を、優しい謙遜な御声を、3年間、この世界の片隅のガリレアとユダヤの片隅で御話になったその言葉を、全人類は聞かなければなりません。イエズス様が御生涯を以て、御言葉を以て教えて下さった事は、この世の教えとは全く正反対の事でした。この世から見たらイエズス様の教えは、全くの愚かさに見えて、狂気のように思えました。とても受け入れる事ができないとさえ思われますが、しかし真理は真理のまま留まります。
たとえこのか弱い声のように思われても、最後には勝利を収めます。決して負ける事がありません。なぜかというと、真理は天主から生まれたものであって、永遠のものだからです。変わる事がないからです。
イエズス様は御自分の模範と御言葉を以て、全ての人に教えました。小さな子供たちから、ユダヤの先生ラビや、律法学士たち、貧しい人々にも、お金持ちにも、若い人にも、年寄りにも、女性にも、男性にも、大司祭たちにも、サマリアの婦人にも、イスラエルの師であったニコデモにも、イエズス様は深い真理を教えました。
律法学士や司祭長たちには、イエズス様は律法と預言者と聖書について教えました。でも一般の民衆に対しては、イエズス様は単純な、あるいは素朴な近付きやすさを以て、例えを以て教えました、「天の国は、種を撒く人と似ている。」「天の国は、芥子種と似ている。」「天の国は、ぶどう畑と似ている。ぶどうの木と似ている。」
イエズス様のこの教えを見ると、下品な事は1つもありませんし、奥が非常に深いにもかかわらず、かといって難しくて何を言ってるのか分からない、という事もありません。そのレベルに合わせて、分かりやすく、明確に、単純に、でも深い教えを教えて下さいます。
イエズス様が口を開いて教える時には、威厳がありますし、慎み深い、とても優雅なものです。とても高貴なものです。そしてたとえ非常にデリケートな話をする時にも、正確に話しつつも、しかし子供が聞いても別に恥ずかしい思いをする事のない、とても慎み深い話をします。とても賢明であって、誰もが信頼して近付いて耳を傾ける事ができる、2000年経っても、決して古びたり、つまらなくなったりする事のない、深い教えを教えています。
イエズス様は、かといって教えた事を皆がすぐに理解したとは限りませんでした。分からなかったり、理解できなかったりとか、弟子たちさえも非常に理解が遅い、という事にも出会いました。
でもイエズス様は非常に忍耐強く、また「もうダメだ、何度も教えてもこいつらは頭が固いから」と言う事もなく、聞く人たちが非常に野蛮で、乱暴で、下品で、あるいは反対をしたり、批判したり、攻撃したり、罠にかけようとしたとしても、イエズス様は忍耐強く、彼らを優しく取り扱います。何とかして光を当てよう、何とかして教えを導こうと思っていました。
イエズス様は、自分の栄光とか、自分が褒められようとか、自分が何か「すごいですね、先生」というのを求めたよりは、この「霊魂たちが真理を知る」という事だけを追求していました。天主聖父がより良く知られて、より良く愛されて、より良く尊敬を受ける、従順される、という事だけを追求していました。
イエズス様の教えは、この世の教えとは全く反対だったので、あるいはこの世が受け入れる事ができないような厳しいものも含まれていたので、この教えを言う事によって、教える事によって、人々は自分の元を去る、という事も知っていました。また、せっかくこう教えたにもかかわらず、その御言葉を根こそぎ取ってしまって、捨ててしまう人々がいる、という事を知っていました。でもだからといって、真理を薄めたりとか、ちょっと色を付けて、あるいは変えて伝えたりとか、この世の人が飲み込む事ができるようにちょっと甘くして、という事はありませんでした。イエズス様は妥協する事もなく、この世のやり方で教える事もなく、自分の利益を追求する事もなく、教えていました。
弟子たちにはこう言います、「私があなたたちを送るのは、羊を狼の中に入れるようなものだ。だから蛇のように聡く、鳩のように無邪気であれ。」
もしも罪を犯すような人がいても、その人のもちろん名前を出した事もなし、あるいは誤謬を間違った事をしている人を指差すような事もしないにもかかわらず、しかし悪を悪とちゃんと言っていた、非常に賢明に知恵深くお話されて、行動されていました。議論で打ち勝って何か優越感を得るというよりは、何とかして真理が心に響くように、人々が罪を忌み憎んで、そこで聖徳の生活に移るように、と優しく話しておられました。
イエズス様は、こう何か強制的に、この世的にこの世を改革しようとスローガンを立てる、というよりは、御恵みによって、天主の御憐れみによって、こう優しく、こう世の中を聖化しようと行動しておられました。
では、イエズス様の教えが私たちの心に響き渡りますように、15分ほど黙想致します。
小野田神父 霊的講話【1】
「イエズス様は私たちに真理を教えて下さる」
人類は、真理を知らずに、罪を犯し、苦しみの中に真っ只中に浸かり込んでいます。人類の代わりに、人類の名前によって、いけにえを捧げてくれる誰かを必要としています。
ちょうど、エルサレムの神殿にいたにもかかわらず、「エルサレム」という聖なる街にいたにも関わらず、道を間違えて、罪の街に行ってしまうような、そしてその道の途中で悪魔に襲われて半死半生になってしまった、そんな、そして捨てられて、傷付いて、自分の手ではどうしても何もする事ができない状態になっているかのようです。
そんな暗闇の中にいる人類に、イエズス様は光を照らして、そして人類を教えようとします。
今のこのお話では、黙想では、「イエズス様が私たちにどうやって真理を教えて下さるか」という事を黙想致しましょう。
ではイエズス様は、どうやって私たちを教えられたのでしょうか?
イエズス様は真理そのものでありますし、天主の知性でもあります。永遠の知恵であります。ですからイエズス様は、勉強したりとか、努力したりとかする必要もありませんし、学校で先生から何か教えてもらう必要もありません。イエズス様は無限の真理を持っています。しかしこの永遠の天主の光は、よく見ると、まず30年間、沈黙の内に準備をしました。人々を教える為の準備をしました。「イエズス様はもう少し早く教えて下さればよかったのに。」しかしイエズス様は30年間、12歳の時を除いて、公に教えようとはせずに、祈りと、従順と、隠れた生活で準備をします。もしかすると日本でも30年間必要なのかもしれません。イエズス様はこの御自分の模範を以て、「どれほど準備が必要であるか」という事を教えられているのかもしれません。
一方、当時の世界は、ちょうど今の日本と同じように、闇の中と誤謬の中に包まれていました。ユダヤ教でさえも、異教の考えが浸透してしまいましたし、ギリシャやローマなどの多神教や、あるいは肉体崇拝や、あるいはサーカスとスポーツと音楽とお金と快楽を求める風潮が染み通りつつありましたし、唯一の天主への愛というものは、ユダヤ教の中でさえもますます失われつつありました。それ以外のところではもう目も当てられません。奴隷と奴隷とが戦うのを殺し合うのを見て楽しんだりとか、そのますます暗黒の中に陥る人類を、イエズス様は、光の中の光、真の天主よりの真の天主は、教えようとします。
ちょうど今の世界も、YouTubeではイスラム教が身代金を要求して、そして誘拐した人を殺害するのを放映したりとか、あるいは不潔なものがあったりとか、映画とか読み物とか、2000年前の異教の世界よりもますますひどくなっているように思われます。
イエズス様はその中で、真理を教えようと来られました。イエズス様が教えようとする事は、まず、「天主様が人類に対して権利を持っている事」「創造主として人類に要求する権利がある事」「人間は天主に従う義務がある事」を、イエズス様は教えます。同時にイエズス様は、「天主の憐れみと人間の哀れさ」について教えてくれます。
イエズス様が、メシアが、救い主が、人類を教えるという事は、その当時の人は知っていました。ユダヤの人は知っていました。ユダヤ以外の人も知っていました。サマリアの罪の生活をしていた、結婚もせずに同棲生活をして、色んな男を取り替えては、罪の深い、かわいそうな女性さえも知っていました。「私はキリストと言われるメシアがおいでになる事を知っています。その方が来られれば、全ての事を知らせて下さるでしょう。」
イエズス様の使命は、闇に、深い闇の中に留まる霊魂たちに教える事でした。天主について人類に教える事でした。天主の知識を与える事でした、天主に関する知識を与える事でした。天主がこの世の創造主であって、私たちの聖父であって、聖なる方であって、正義の方であって、絶対の権力を持っていて、絶対の力を持っていて、私たちがそれに従わなければならない、その御旨を果たさなければならない、という事を教えなければなりません。と同時に、イエズス様は私たちに、この「天主がとても良い私たちの聖父であって、無限の憐れみを持って私たちを愛しておられる」という事を啓示しなければなりません。
イエズス様は言います。イエズス様はその使命を知っていました。ですから御自分の模範を以て、実際の生活を以て、それから生活を以て示した後には、自分の御言葉を以て、その事を教えなければなりません、「私は世の光である。私に従う人は闇を歩かない。永遠の命を持つだろう。私はこの為に生まれてきた。真理を証明する為に。真理からの者は全て私の声を聞く。」
そしてイエズス様がこの真理の声を、優しい謙遜な御声を、3年間、この世界の片隅のガリレアとユダヤの片隅で御話になったその言葉を、全人類は聞かなければなりません。イエズス様が御生涯を以て、御言葉を以て教えて下さった事は、この世の教えとは全く正反対の事でした。この世から見たらイエズス様の教えは、全くの愚かさに見えて、狂気のように思えました。とても受け入れる事ができないとさえ思われますが、しかし真理は真理のまま留まります。
たとえこのか弱い声のように思われても、最後には勝利を収めます。決して負ける事がありません。なぜかというと、真理は天主から生まれたものであって、永遠のものだからです。変わる事がないからです。
イエズス様は御自分の模範と御言葉を以て、全ての人に教えました。小さな子供たちから、ユダヤの先生ラビや、律法学士たち、貧しい人々にも、お金持ちにも、若い人にも、年寄りにも、女性にも、男性にも、大司祭たちにも、サマリアの婦人にも、イスラエルの師であったニコデモにも、イエズス様は深い真理を教えました。
律法学士や司祭長たちには、イエズス様は律法と預言者と聖書について教えました。でも一般の民衆に対しては、イエズス様は単純な、あるいは素朴な近付きやすさを以て、例えを以て教えました、「天の国は、種を撒く人と似ている。」「天の国は、芥子種と似ている。」「天の国は、ぶどう畑と似ている。ぶどうの木と似ている。」
イエズス様のこの教えを見ると、下品な事は1つもありませんし、奥が非常に深いにもかかわらず、かといって難しくて何を言ってるのか分からない、という事もありません。そのレベルに合わせて、分かりやすく、明確に、単純に、でも深い教えを教えて下さいます。
イエズス様が口を開いて教える時には、威厳がありますし、慎み深い、とても優雅なものです。とても高貴なものです。そしてたとえ非常にデリケートな話をする時にも、正確に話しつつも、しかし子供が聞いても別に恥ずかしい思いをする事のない、とても慎み深い話をします。とても賢明であって、誰もが信頼して近付いて耳を傾ける事ができる、2000年経っても、決して古びたり、つまらなくなったりする事のない、深い教えを教えています。
イエズス様は、かといって教えた事を皆がすぐに理解したとは限りませんでした。分からなかったり、理解できなかったりとか、弟子たちさえも非常に理解が遅い、という事にも出会いました。
でもイエズス様は非常に忍耐強く、また「もうダメだ、何度も教えてもこいつらは頭が固いから」と言う事もなく、聞く人たちが非常に野蛮で、乱暴で、下品で、あるいは反対をしたり、批判したり、攻撃したり、罠にかけようとしたとしても、イエズス様は忍耐強く、彼らを優しく取り扱います。何とかして光を当てよう、何とかして教えを導こうと思っていました。
イエズス様は、自分の栄光とか、自分が褒められようとか、自分が何か「すごいですね、先生」というのを求めたよりは、この「霊魂たちが真理を知る」という事だけを追求していました。天主聖父がより良く知られて、より良く愛されて、より良く尊敬を受ける、従順される、という事だけを追求していました。
イエズス様の教えは、この世の教えとは全く反対だったので、あるいはこの世が受け入れる事ができないような厳しいものも含まれていたので、この教えを言う事によって、教える事によって、人々は自分の元を去る、という事も知っていました。また、せっかくこう教えたにもかかわらず、その御言葉を根こそぎ取ってしまって、捨ててしまう人々がいる、という事を知っていました。でもだからといって、真理を薄めたりとか、ちょっと色を付けて、あるいは変えて伝えたりとか、この世の人が飲み込む事ができるようにちょっと甘くして、という事はありませんでした。イエズス様は妥協する事もなく、この世のやり方で教える事もなく、自分の利益を追求する事もなく、教えていました。
弟子たちにはこう言います、「私があなたたちを送るのは、羊を狼の中に入れるようなものだ。だから蛇のように聡く、鳩のように無邪気であれ。」
もしも罪を犯すような人がいても、その人のもちろん名前を出した事もなし、あるいは誤謬を間違った事をしている人を指差すような事もしないにもかかわらず、しかし悪を悪とちゃんと言っていた、非常に賢明に知恵深くお話されて、行動されていました。議論で打ち勝って何か優越感を得るというよりは、何とかして真理が心に響くように、人々が罪を忌み憎んで、そこで聖徳の生活に移るように、と優しく話しておられました。
イエズス様は、こう何か強制的に、この世的にこの世を改革しようとスローガンを立てる、というよりは、御恵みによって、天主の御憐れみによって、こう優しく、こう世の中を聖化しようと行動しておられました。
では、イエズス様の教えが私たちの心に響き渡りますように、15分ほど黙想致します。