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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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人である聖体 聖体は父である: 天にましますわれらの父よ、願わくは御名(みな)の尊まれんことを、御国(みくに)の来らんことを、御旨(みむね)の天に行わるる如く地にも行われんことを。

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人である聖体

聖体は父である

 礼拝 最後の晩さんの席上で、別離の御言葉をお告げになったとき、悲しみに沈んだ人たちに向かい、『小さき子よ、恐るるなかれ、われなんじらを、みなし子として残さじ』とおおせになって彼らを慰められたイエズスよ、私たちは、聖体の中においでになる御身を『父』という甘美なみ名のもとに、子の信頼をもって礼拝したてまつる。『父よ』しかり、御身は父である。御身のような父は、ほかにまたとこの世にいない。子に生命を与え、これを育て、保護するのが父である者の務めであるなら、これこそ、御身が聖体の中で日夜をわかたず営まれるそのみわざでなくて何であろうか。

 私たちが超自然的生命を得たのは、御身の尊い御血の功徳によってである。主よ、御身は寸時もお休みにならず御血を流し、天主の子の数をふやしておいでになる。私たちの受けたこの生命は、いとも尊く、いとも神聖な天主の生命、不朽にして祝福された生命であった。ああ、主はいかに恵み深く、いかに偉大な父であることだろうか。

 次に、御身によって与えられたこの生命は、つづいて高価な要素、材料によって養われ成長する必要がある。この世でも、子どもらの生活を保障し、彼らに財産をわかち、少なくとも、毎日のかてを与えることは、一家の父の大きな心づかいではないだろうか。家族を養うために彼は日々労働し、苦心する。疲労して倒れる生涯の最後の日まで、彼はただそのためにだけ生きている。そして、その最後にあたって、わが子の教育のために必要な貯蓄を残すことができたのを喜び、安心して死ぬのである。ああ、わがあわれみ深く何ごとをも予知なさる父よ、御身は聖体の秘跡を定めて、私たちのため、すべてこれらのことを用意されたのである。

 御身はカトリック教会の穀物倉に尊い麦を山と積み上げ、その穴倉に無尽蔵のぶどう酒を貯えて私たちのために食卓を準備し、また、そこに無数の子どもを連れる使者まで用意された。そして小から大に至るまでのすべての人々が、御身の汗のかたまり、御血と御肉とからなるパン、御身ご自身と御身の生命とにほかならない尊いパンを、ここで飽きるまでに与えられるのである。ああ、いともやさしき忠実なる父よ、御身の子どもが飢餓の悩みを味わうことは決してないのである。

 父なる者の第三の務めは、危険あるいは敵の襲撃に際し、ゆだんしないで勇ましく家を守り、子どもたちを保護することである。されば、ああ、イエズスよ、私たちの父よ、御身が、監視と守護とのとりでのように建てられた地上くまなき無数の聖ひつの中でなしたもうことは何であるか。御身が昼夜をわかたず絶えずそこより見守られるのは、子どもたちを保護するためでなくて何であろう。御身は天主の御怒りに対しては御身の聖徳をもって、また悪魔の攻撃に対しては御身の偉力をもって楯とされる。御身が夜もすがらまどろみもせず私たちを守り、御あわれみの腕(かいな)を伸ばして私たちを保護されるあいだ、すなわち御身が地上においでになり、私たちがみそば近くいるあいだは、だれが主の子らなる私たちを害することができようか。

 イエズスよ、いとも聖にして、いともあわれみ深く、いとも献身的な父よ、御身は私たちの父にてまします。私たちは御身の従順な愛子にふさわしく、御身を愛し、御身を敬い、御身の御言葉を聞き、御身にならうことを望みたてまつる。

 感謝 父よ、私の父よ、ああ父たるみ名のなんと甘美なことよ。なんとやさしくたのもしいことよ。なんたる平和と安心とを私たちに与えることよ。

 イエズスよ、御身は私たちの創造者、力ある天主、審判者でおいでになる。御身はそれだけで少しもさしつかえのない御方である。しかしそれに満足されず、御身は私たちの父となることを望まれた。これはいかなる御いつくしみ、いかなる愛であろうか。しかも御身は、父として愛されることを望まれ、私たちがどれい、召使いのようではなく、子として御身に仕えるのを望んでおられることを、福音書を通じて教えられたのである。しかし、御身の父の愛を最も深く私たちに味わわせようとされたのは、理想的な家族が食卓をともにされた最後の晩さんの時、およびその継続である聖体の秘跡においてであった。聖堂は私たちの家、聖ひつはかまど、聖体拝領台は食卓であって、家の子である私たちは、常にここに近づく権利をもっている。私たちは決して他人ではない。

 いともいつくしみ深い私の父よ。御身とともにいるとき、私たちは心が安らかで、まことの安全を楽しむことができる。御身のそば近くにいる者の味わう平和を、なんと言いあらわそうか。どんなに私たちは御身の愛に引きつけられるであろうか。御身が私たちと全く同じ人間になられたのは、なんというへりくだりであったろうか。御身は私たちの言葉の足りないところを理解され、私たちの矛盾にも怒りたまわず、私たちの忘恩をもお忍びになる。イエズスよ、限りない慈愛の秘跡のうちにおいでになる御身は、いかによき父にてましますことよ。御身は『わが小さき子よ、われなんじらをみなし子として世に残さじ』とのうれしい御言葉をここに実行されたのである。ああ御身がとこしえに祝され、感謝され、愛されんことを。わが愛する父よ、もし、御身が、わが保護者、わが友でなかったなら、この世はどんなに悲しく、暗いことであろうか。そしてだれがこの世の艱難に堪え、危険をおかし、暗礁を避けることができるだろうか。御身がおいでにならなかったなら、この世はどんなに苦しいちくたくの地であることだろうか。御身がおいでになればこそ、私たちはまことのふるさとなる天国を知り、そこへ帰ることができるのである。ああ父よ、私の感謝の心を証明するために、いつも、御身の子にふさわしい信頼の心をもって、隔てなくうちとけて御身をお愛ししよう。

 償い ああイエズスよ、御身のごときよい父をもちながら、御身のあまりにも愛すべき聖心を悩ませ、苦しませる私は、いかに不孝者であろうか。
 よき父よ、いかに多くの子どもが、財産の分け前を要求する福音書中の放蕩息子であることか。彼らは恥ずべき快楽にふけり、財宝を湯水のように捨てようとして、御身をあなどり、御身にそむくのである。御身は彼らが御身から遠く離れ去るのを、心配げにながめられる。御身は彼ら忘恩の子を責められるにもかかわらず、かえって彼らを待ちわび、不安と焦燥とをもって彼らのうえを案じわずらい、絶えいるばかりに聖心を痛ませられるのである。ああどのような心づかいと激しい愛とにうるんだ御身の御まなこが、はるか遠くさまよう彼らの上に注がれていることだろう。

 しかし、御身はついに彼らを改心させられた。彼らは飢えと悩みとを知り、はじめて後悔の念に胸を刺されたのである。こうして彼らは『父のパン』を思い出し、初聖体の日の幸福を思い浮かべて、恥じためらいながら、わが家をさして帰って来る。御身は、そこに彼らの帰りを待ちわびておられる。司祭が彼らに罪の許しを与え父の家の門を開くと、すぐ御身は彼らの手をとって、彼らを胸に抱きしめ、わぼくのしるしであるなつかしいせっぷんをもって彼らを迎え、彼らのために喜びの祝宴を開かれるのである。ああこの平和と、いうにいえない感激とを、私たちは決して忘れてはならない。よき父は、痛悔の涙を喜びの涙に変えられた。主よ、感謝したてまつる。私たちは不幸な放蕩息子であったが、きょうからは常に忠実な御身の子どもとなるであろう。聖体が私たちの父でおいでになることを、私たちはいかにして、ふさわしく御身に感謝することができようか。

 祈願 聖体中のイエズスを見つめながら、その一句一句を味わいつつ、静かに主禱文を唱えよう。

天にましますわれらの父よ
願わくは御名(みな)の尊まれんことを、
御国(みくに)の来らんことを、
御旨(みむね)の天に行わるる如く地にも行われんことを。
われらの日用の糧を、今日(こんにち)われらに与え給え。
われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。
われらを試みに引き給わざれ、
われらを悪より救い給え。
アーメン。

 実行 たとえ何ごとが起っても、天主が私に関してはからってくださるすべてのみ摂理は、私たちのためにすべてよいとお望みになる父の限りない御いつくしみから出るものであることを記憶しよう。

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