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回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』 近代主義の誤謬について 聖ピオ十世教皇(1)

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回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』
近代主義の誤謬について
聖ピオ十世教皇

訳者 聖ピオ十世司祭兄弟会

Copyright (c) Society of Saint Pius X, 2001
All rights reserved

尊敬する兄弟のみなさんに健康と使徒的祝福をおくります

使徒座の責務

1.主の群を養う[Pascendi Dominici gregis]という、天主から私に託された職務にキリストによって定め与えられた主要な責務の一つは、涜聖的な新しい言葉づかいと、誤って知識と呼ばれる異議異論とをしりぞけ、最大の注意を払って聖徒らに託された信仰の遺産を守ることです。最高の牧者である教皇におけるこのような警戒心が教会全体にとって必要でなかった時は、かって一度もありませんでした。なぜなら、人類の敵の働きのゆえに、「よこしまなことを語る人々」、「自ら誤り、人を誤りへと引き込む」「むなしいことを語り、惑わす者たち」のいないことは、たえてなかったからです。しかしながら、昨今、キリストの十字架の敵が目に見えて増している事実を認めざるを得ません。彼らは全く新しい、狡猾な手管(てくだ)によって教会の生命力を破壊し、そして力の及ぶ限りキリストの御国自体を覆そうとしているのです。それゆえ、私はこれ以上沈黙を保つことはできません。もしそうするなら、私は自らの最も神聖な責務を怠るものと見なされ、また、彼らが考え直すことを期待してこれまで示してきた好意が、私の職務の執行における熱心さの不足に堕してしまうこととなってしまうでしょう。

迅速な対応の必要性

2.この問題に関して、即座に行動に出ることが、必要不可欠なこととなっています。それはなによりも、誤謬に与する者が教会の公然の敵の中だけでなく、きわめて恐れかつ嘆くべきことに、教会のただ中においても見出され、そして表立っていないだけに、なおさら一層質(たち)が悪いという事実によります。尊敬する兄弟たちよ、私がここで問題にしているのは、多くのカトリック一般信徒、そしてさらに一層憂うべきことに司祭階級自体に属する者たちのことです。誤った教会に対する熱意に駆られている彼らは、哲学と神学の確固とした知的防御に欠け、さらに、教会の敵たちによって教えられているきわめて有害な教理に骨の髄まで染まっています。彼らは一切の慎みをかなぐり捨て、教会の改革者として名乗り出、しかる後、より大胆に攻勢に移り、キリストの御業の中で最も神聖なるもの、天主なる贖い主の位格さえも攻撃するのです。と言うのも、彼らは涜聖的な大胆さをもって、主キリストをただの何の変哲もない人の境地に落としめるのです。

近代主義者の特徴

3.私が彼らを教会の敵たちの中に数えることに対して彼らは驚きの色を示すのですが、ただ天主のみが審判者となる魂の内的な意向を考慮に入れず、彼らの教条、彼らの語り口、彼らの行動とに眼を注ぐならば、分別のある者の中、誰一人として私がこのようにすることに驚きはしないでしょう。また、彼らを教会のあらゆる敵の中で最も有害な敵であると考えることも誤りではありません。なぜなら、すでに述べたとおり、彼らは教会の瓦解をはかる自分たちの計画を教会の外側ではなく、内側から実行に移すからです。したがって、危険はおよそ教会の血管ならびに心臓に存し、彼らが教会をより近しく知っているという事実自体により、一層確実に危害を及ぼすものとなっています。さらに、彼らは斧を枝や芽にではなく、根、すなわち信仰とその最も内奥の繊維に振るうのです。そして、一旦この不滅の根に斬り付けた彼らは、木全体に毒を広げるのです。それは、カトリックの真理のいかなるものも、彼らが手を付けず、腐敗しようと試みずにおくものがないようにです。その上、ありとあらゆる有害な術策を操るに当たって彼らほど巧妙で抜け目のない者はいません。なぜなら、彼らは唯理主義者とカトリック者との2重の役を演じ、しかも、不用心な者を容易に誤りへと導くほど巧みに演じるからです。そして持ち前の大胆不敵さのゆえに、彼らは自らが標榜する主義から帰結するところのいかなる結論からもしり込みするということがなく、却ってそのことごとくを頑迷に、しかも確信をもって提唱するのです。さらに付け加えておくべきことは、彼らがきわめて活動的な生活を営み、あらゆる分野の学問に勤勉かつ熱心に取り組み、その上、概して、非の打ちどころのない品行の評判を得ているのが常であるという点です。最後に、自らが唱える教説自体の性格によって影響された彼らの心はあらゆる権威を軽視し、いかなる抑制も受けつけようとせず、このため、彼らの治癒回復の見込みは、ほとんどありません。こうして誤った良心に依拠する彼らは、傲慢と頑迷さの結果に他ならないものを、真理への愛によるものだと称するのです。

失敗に帰した説得の試み

一度は私も、彼らに考えを改めさせることができるとの望みを抱いていたのであり、このために始めは私の子供たちとして優しく、その後は厳しく、最後には、きわめて遺憾ながら公の譴責をもって彼らに対したのです。しかし、の努力が徒労に帰したことを、尊敬する兄弟のみなさんはよくご存じです。ほんのつかの間、彼らは頭を下げたのですが、すぐに以前よりもっと尊大に頭をもたげました。もし問題となっている事柄が彼らにのみ関することだったなら、私もおそらく見過していたかもしれません。しかし、カトリックの名声の保全がかかっているのです。それゆえ私はこれ以上引きのばすならば過失となるであろう沈黙を破り、全教会に、まずく変装した者たち ───彼らは実際そのようなものです─── を指し示さなければなりません。

本回勅の構成

4.近代主義者たち(これは一般に、正しくも彼らに付されている名称ですが)最も巧妙な手管の一つは、自らの教説を、順序や系統だった配列なしに、バラバラで相互につながらない仕方で提示し、あたかも彼らの心が疑いや、ためらいの状態にあるかのように見せかけることです。しかしながら、実際には、彼らの見解は固く定まっており、揺らぐことがありません。このため、尊敬する兄弟たちよ、彼らのさまざまな教えを一つのカテゴリーにまとめ、それらの相互連関を指摘し、こうして種々の誤謬の起源の検証に移り、そこから帰結する悪い結果を回避するための対処策を提示することが有益であると思われるのです。

近代主義者の人格

5.このいささか難解な主題を順序立った仕方で取り扱うために、近代主義者は自らの内に多重の人格を抱き、含んでいることを念頭に置かなければなりません。彼は哲学者であり、信仰者、神学者、歴史家、批評家、護教家、改革者であるからです。彼らの体系を理解し、彼らの教説の諸原理ならびに[論理的]結論を余すところなく把握しようとする人は誰でも、[近代主義者の演じる]これらの役割をはっきりと区別する必要があります。

不可知論

6.それでは、哲学者としての近代主義者から始めましょう。近代主義者たちは宗教哲学の基礎を一般的に不可知論と呼ばれている教説に置いています。この教えによれば「人間の理性はことごとく現象の領域、即ち現れ見えるもの、およびそれらのものが現れ見える様態に限定されているのであり、理性にはこの限界を越える権利も力もない」とされています。したがって、「人間の理性は目に見えるものを通して天主にまで自らを上げること、および天主の存在を認識することができない」ことになります。この結果、「天主は決して学問の直接の対象たり得ず、そして、歴史学に関しては、天主は歴史的主題と見なされてはならない」ということが導き出されます。これらの前提を前にすれば、誰もが直ちに自然神学、[カトリック信仰の]信憑性の根拠、外的啓示といった事柄がどのようになってしまうかを見て取るでしょう。近代主義者たちは、これらを完全に取り除けてしまい、彼らがばかばかしく、また久しくすたれた体系と見なす主知主義の中に含めるのです。また、教会がこれらの忌まわしい誤謬を正式に排斥してきたという事実も、彼らにいささかの歯止めを利かせることにもなりません。しかし、ヴァチカン[第1]公会議は、次のように定義したのです。『もし誰であれ、私たちの創り主にして主である真の天主が、創られたものを通して人間の理性の自然的な光によって確実に知られ得ない、と述べるならば、彼は[教会から]排斥されるように。』 さらに、『もし誰かが、人間が天主および天主に対して払うべき礼拝について、天主的啓示を通して教えられることが不可能、あるいは適当ではない、と述べるならば、彼は排斥されるように。』 そして最後に、『もし誰かが、天主的啓示は外的なしるしによって信憑性を得ることができず、また、したがって人は自らの個人的、内的な体験あるいは詩的霊感によってのみ信仰に引き寄せられるべきである、と述べるならば、彼は排斥されるように。』 と定めています。近代主義者たちがどのようにして「全き無知の状態に他ならない不可知論」から「断定的な否定の教説である科学的および歴史的な無神論」に至ろうとするのか、またこの結果として、いかなる推論をもって、天主がじっさい人類の歴史に介入したのか否かについて無知である[はずの]彼らが、この歴史を天主を全く度外視して、あたかも天主が事実それに介入しなかったかのように説明するのか疑問に付すことができます。いったい誰がこのような疑問に答えることができるでしょうか。しかるに、「科学と歴史とは共に無神論的でなければならない」というのが、彼らの間では定まった、すでに確立した原理なのです。すなわち、この両者の範囲内には、ただ現象のみしか含まれる余地がないのであり、天主およびすべて天主的なるものは完全に除外されるのです。私たちは少し後で、この非常に荒唐無稽な教説の論理的結果として、キリストのこの上なく神聖なペルソナ、その生涯と死去、復活と天国への昇天の奥義に関してどのように考えねばならないかを、はっきりと見ることになります。
生命的内在

7.しかしながら、かかる不可知論は近代主義者たちの体系の否定的側面にすぎません。彼らの体系の積極的側面とは、彼らが生命的内在と称するところのものです。このようにして、彼らは一つの教条から他の教条へと進んで行くのです。自然的なものであれ、超自然的なものであれ、宗教は他のあらゆる事象と同じく、何らかの説明の余地を有しています。しかるに、自然的神学が排除され、また信憑性を裏打ちする議論の拒否によって啓示に対する道が閉ざされ、そしていかなる外的啓示も完全に否定されれば、この種の説明は人間自身の外には求められ得なくなってしまいます。したがって、これは人間の内に探し求められねばならないことになります。そして、宗教とは一種の生命なのであるから、かかる説明は当然のごとく人間の生命の内に見出されなければなりません。このようにして、宗教的内在の原理が定式化されるのです。さらに、あらゆる生命的現象 ───上で述べられたように、宗教もこのカテゴリーに含まれます─── のいわば最初の活動は、ある種の必要ないし衝動によるとされます。しかるに生命について特に述べるとすれば、それは心の動きに源を発するのであり、この動きは感覚と呼ばれます。したがって、天主こそが宗教の対象なのですから、宗教全体の土台にして基盤である信仰は、天主的なるものの必要に起因する、ある種の内的感覚に存するのであると結論せざるを得ません。天主的なるものに対するこの必要は、それ自体としては意識の領域に属し得ず、かえって意識の下に、あるいは近代哲学の術語を借りるなら、潜在意識の中に潜んでいるのだとされています。そこで、かかる必要の根源は見つけられずに隠れているのです。
天主的なるものの必要

  人間が自らの内に経験する、この天主的なるものに対する必要がどのようにして宗教に転ずるのかとの疑問が出るかもしれません。この問いに対する近代主義者の返答は次のようなものでしょう。「科学と歴史は2つの境界の中に含まれるのである。すなわち、1つは外的な境界、すなわち可視的な世界であり、もう1つは内的な境界、すなわち意識である。これら2つの境界の1つあるいは両方がふみ越えられた場合、それ以上前に進むことはできない、なぜならその先にあるのは不可知なるものだからだ。人間の外側にあり目に見える自然界の彼方にあるそれであれ、あるいは無意識の内に隠れているそれであれ、この不可知なるものを前にして、宗教に対する傾きを有した霊魂に存する、天主的なるものの必要は、ある種の特別な感覚を喚起する。それは唯信主義の原理に即して、精神によるいかなる先行的気付きなしに起こる。そして、この感覚は自らの対象として、および自ら自体の内属的原因として、自らの内に天主的現実そのものを有し、さらにある意味において人間を天主に一致させる」と。この感覚にこそ、近代主義者たちは信仰の名を与えるのであり、これこそ彼らが宗教の始原と見なすものなのです。

近代主義者にとっての啓示

  8.しかし、私たちはまだ彼らの哲学的思索、あるいはもっと正確に言えば彼らの愚考の終局に至っていません。近代主義者は「この感覚の中にただ信仰のみならず、信仰の中に、また信仰と共に ───このように彼らは理解しているのですが─── 啓示もまた見出されるべきである」と主張するのです。なぜなら、「啓示を構成するために他にこれ以上なにが必要だろうか。良心の中に感じられる宗教的感覚こそが啓示、もしくは少なくとも啓示の始まりではないか。否、むしろ天主ご自身が自らを不明瞭な仕方であるにせよ、この同じ宗教的感覚において霊魂にお現しになるのではないか。」[と言うのです。] さらに彼らは、次のように言い加えます。「天主が信仰の対象かつ原因なのであるから、この啓示は同時に天主のおよび天主からのものである、つまり、天主こそが啓示者であり、かつ啓示の内容である」と言うのです。

宗教的意識と信仰

  尊敬する兄弟たちよ、ここから近代主義たちの最も愚かしい教条が生じてくるのです。すなわち、「宗教というものはことごとく、それがどのような観点の下に見られるかに応じて自然的、また超自然的なものとなる」のです。このように、彼らは意識と啓示とを同義的なものとします。今述べたことから、彼らは普遍的基準として彼ら自身が定めるところの法を引き出します。その法とはすなわち、「宗教的意識が啓示と同列に置かれ、この意識に全ての者、はては教師として、あるいは聖なる典礼または規律の領域における立法者としての教会の最高の権威までもが服従しなければならない」ということです。

宗教の歴史の歪曲

  9.信仰と啓示とがそこから源を発すると近代主義者たちが目するこの過程において、1つの点が殊に留意されるべきです。と言うのも、この事は彼ら近代主義者がそこから引き出す歴史的結論のゆえにきわめて重要であるからです。彼らの言う不可知なるものは、信仰に対してなにか単一で、他の者と区別されたものとして現前するのではありません。反対に、[彼らによれば]「それは科学または歴史の範疇に属しながらも、それをある程度越え出るようなある種の現象と密接につながったかたちで現れる。そのような現象とは、それ自体何か神秘的なことを含んだ自然の事実の場合もあれば、あるいは、人格、行動、言葉が一見、通常の歴史の法則と合致させることができないように思われる人物の場合もある。現象と結びついた不可知なるものによって惹きつけられた信仰は、当の現象全体を捉え、そして、いわばそれに自らの生命をしみ通らせる。ここから、2つのことが結果として生じる。第一のことは当の現象の変容である。これは、そのもの自体の真の境位より以上に引き上げることを意味し、かかる昇化によって当の現象は、信仰がそれに付与する天主的な性格を帯びるのにより適したものとなる。第二の結果は、当の現象の一種の歪曲化とでも呼ぶことができるものである。これは、信仰が時間と場所の状況が取捨されたとき、信仰がその現象に、それが本当は有していない種々の特性を帰するという事実に起因する。そして、このような事態は特に過去の現象の場合に生じ、その現象の起こった年代が古ければ古いほど、より一層十全なかたちで発現する。」これら2つの原理から近代主義者たちは2つの法則を引き出します。そして、この2つの法則が彼らがすでに不可知論から導き出したところの第三の法則と結び合わされるとき、歴史的批判の基盤を構成することとなります。一例として、キリストのペルソナ[に関して彼らが立てている説]を挙げることができます。キリストのペルソナにおいて科学と歴史とは人間的でないものを何一つ見出さない、と彼らは言います。したがって、不可知論から導き出された第一の規範に基づき、キリストについて伝える歴史の中で何であれ彼の天主性を示唆する要素をことごとく排除しなければいけません。さらに第二の規範に従えば、キリストのペルソナは信仰によって変容させられたのですから、これを歴史的諸条件を越え出るほどに高めているものをすべて取り除かねばなりません。最後に、キリストのペルソナは信仰によって歪曲されたとする第三の規範は、キリストの人格、境遇、教育ならびに彼が生活した時代と場所に厳密に調和一致しない行い、言葉およびその他全てはことごとく除外されることを要求します。甚だ奇妙な推論の立て方ですが、ここにこそ近代主義的批判が存するのです。

宗教的感覚

  10.[彼らによれば]「このようにして、宗教的感覚は生命的内在を媒介として潜在意識の密やかな場から一切の宗教の芽生え、かついかなる宗教においてかつてあり、あるいは将来あるであろう全ての要素の説明となる。始めは未発達で、およそ形の定まらないものでしかなかったこの感覚は、それの起源である、かの神秘的な原理の影響を受けて、人間的生命 ───先に述べたように、この感覚は人間の生命のある種の形相であるが─── の進歩と共に徐々に成熟し[てき]た。そしてこれこそが、超自然的なものも含めてあらゆる宗教の起源である。なぜなら、諸々の宗教は、この宗教感覚の発展したものに過ぎないからである。カトリック宗教も、この例に漏れず、他の諸々の宗教と同列に置かれる。と言うのも、カトリック教も生命的内在の過程によって、ただこの過程を通してキリスト ───最も優れた性質に恵まれ、これに並ぶ者はかつてなく、これからもいないであろうこの人物─── の意識の中で生成されたものだからである。」こういったことを耳にするとき、私たちはかくも恐れ知らずの主張と涜聖とに身震いを禁じ得ません。しかるに尊敬する兄弟たちよ、これらは単に不信仰者の愚かしいたわごとではないのです。これらのことを公然と述べるカトリック信徒、および、あろうことか司祭らがいるのです。そして彼らはこれらのうわごとによって教会を改革しようとしているのだと豪語するのです。[ここで]問題となっているのはもはや、人間の自然本性が超自然的事物に対する一種の権利を有しているとする旧来の誤謬の一つではありません。近代主義の誤謬はこれをはるかに越え、私たちのいとも聖なる宗教が、キリストという人物においても、また私たちにおいても、自然本性から自発的に自ずから発生したと断定するとき、その頂点に達しました。確かに超自然的次元全体をこれほど徹底的に打ち壊してしまうものはないでしょう。このため[第1]ヴァチカン公会議が次のように定めたのは、きわめて正当なことでした。「もし誰かが、人間は天主によって自然本性を超える認識と完全性とにまで高められることができず、かえって自ら自身の努力ならびに着実な発達によって最後にはあらゆる真理と善とを所有するに至ると言うならば、彼は排斥されるように。」

知性と宗教的感覚

  11.尊敬する兄弟たちよ、これまで知性については一切ふれませんでした。近代主義者たちの教えに従えば、知性もまた信仰の行為において一定の役割を担っているのです。そして、それがどのような役割であるかを見ることは、[たいへん]重要です。これまで再三述べてきた当の感覚の中に ───と言うのも、感覚は知識ではないので─── 天主はご自分をお現しになるのだと彼らは言います。しかし彼らによれば、この意味では、天主は信仰者によってほとんど認識され得ないほど、混迷かつ不明瞭な仕方でしかご自分をお現しになりません。したがって、天主がくっきりと明るみに出され、感覚自体からは区別されるために、この感覚の上にある種の光が投げかけられる必要があります。そして、これこそ反省し、分析することを本分とする知性に課せられた務めなのです。そしてこれによって初めて人間は自らの内に生成する生命的現象を知的な図象に転じ、それをさらに言葉で表現するのです。ここから、近代主義者たちが共通に用いる言い回しが生まれます。すなわち、「宗教的な人は自分の信仰を考えなければならない」と。[彼らによれば]「この感覚に直面した知性は自らをその上に投じ、その中で年月と共にかすんでしまった描線をよりくっきりと修復する画家の要領で働きます。(この比喩は近代主義の指導者の一人によるものです。)この働きにおいて知性は二重の活動を果たします。第一に、自然的かつ自発的な行為によって知性は自らの概念を単純で通俗的な命題で表わします。」それから反省とより深い考察の上で、あるいは彼らの言い方を借りれば、自らの思惟を推敲することによって、その思念を、第一のものから由来しながらも、より正確かつ判然とした二次的な命題で表現するのです。これらの二次的な命題は、もしそれらが最終的に教会の最高教導権の承認を得るならば教義(ドグマ)となるのです。

教義の起源

  12.こうして私たちは近代主義者による体系の中でも主要な点の一つにたどりきました。すなわち、教義の起源および本性です。なぜなら、彼らは教義の起源を一定の側面の下では信仰に必要である種々の単純素朴な定式文に置くからです。と言うのも、啓示が真にその名に値するものであるためには、意識における天主についてのはっきりとした知識を必要とするからです。しかるに教義自体は二次的な定式文の中に存すると彼らは信じているように見受けられます。

教義の本性

  教義の本性を定めるために、私たちはまず宗教的定式文と宗教的感覚との間にある関係を見出さねばなりません。この関係は、これらの定式文が信仰者に自らの信仰についての説明を与える役割しかもたないとする者たちには、即座に把握されるでしょう。信仰との関係において、これらの定式文は、その対象となるものの不充分な表現であり、ふつう象徴(シンボル)と呼ばれます。[彼らによれば]「信仰者との関係において、それら定式文は単なる道具に過ぎません。」

象徴としての教義

 [彼らによれば]「したがって、それらの定式文が絶対的なかたちで真理を含んでいるという立場を保つことがおよそ不可能となります。なぜなら、それら定式文が象徴である限り、それらは真理の似像に過ぎず、それゆえ人間との関係における宗教的感覚に適合されねばなりません。また道具として、これら定式文は真理の伝達媒介であり、したがって、この意味では宗教的感覚との関係における人間に適合されねばなりません。しかるに、宗教的感覚の対象は絶対的なるものに含まれた何かとして、無限に多様な側面を有しており、あるときにはその中のあるものが、また別のときには別のものが姿を現すのです。同様に、信じる者もさまざまな状況を利用することができます。したがって、私たちが教義と呼ぶ種々の定式文は、こういった[状況的]変転に服さねばならず、それゆえ変化を被るものです。こうして、教義の内因的進化への道が開けるのです。」そして、ここに私たちは宗教全体を滅ぼし、荒廃させる巨大な詭弁の構造を見るのです。

教義の進化

  13.「教義は進化し得るだけでなく、進化しなければならず、また、変えられなければならない。」これは近代主義者たちによって強く主張されている点であり、彼らの奉じる原理に明白に由来するものです。と言うのも、彼らの教えの主要な点の中には、彼らが生命的内在の原理から導き出す次の教条があるからです。すなわち、「宗教的定式文が単に知的な思弁に止まらず、真に宗教的であるためには、生きたものでなければならず、宗教的感覚の生命を生きる必要がある」という主張です。かかる信条は、これら定式文が、特にそれらが単に想像の産物である場合、宗教的感覚のために案出されるべきである、という意味に解されてはなりません。これらの定式文の起源は、それらの数や質と同様、まったく重要ではありません。必要なのは、宗教的感覚が ───もし必要であれば何らかの調整・変更を加えて─── それらを生命的に同化吸収することです。言い換えれば、原初的な定式文が[信仰者の]心情によって受け容れられ、裁可されることが必要なのです。同様に、それに引き続いてなされ、二次的な定式文がそこから引き出されることになる知的労作もまた、心情の導きの下に進められねばならないのです。ここから、これらの定式文が生きたものとなるためには、信仰および信じる者に適合したものでなければならず、またそうあり続けねばならない、という結論が出てくるのです。したがって、もしいかなる理由によってであれ、この適合が存在しなくならば、それら定式文は始めに持っていた意義を失い、それゆえ変えられねばならなくなります。教義的定式文の性格ならびに命運がこのように不安定なものであるということを見れば、近代主義者たちがそれらをかくも軽視し、かくも公然と不敬の態度を示し、宗教的感覚および宗教的生活に対して以外は、いかなる考慮も賞賛も持ち合わせていないという事実はまったく驚くに値しません。そういうわけで、彼らはこの上ない大胆不敵さで教会を批判するのです。[彼らによれば]教会は種々の定式文の宗教的および道徳的意味とそれらの表面上の意味との区別をつけないことによって、また宗教[心]自体が失墜するのをみすみす見逃しながら、無意味な定式文にむやみやたらと頑迷に執着することによって、正道からはずれてしまったのです。[このような主張を成す]彼ら近代主義者は「盲人」、また学問という誇らしげな名におごり高ぶった「盲人の導き手」であり、永遠にすたれることのない真理の概念、および宗教の意味をねじ曲げるまでの愚昧の深淵に至ったのです。そこにおいて「彼らが新奇なものへの盲目で歯止めを欠いた情熱にかき立てられている様が見受けられます。彼らは何らかの、真理の強固な基盤を見出すことなどおよそ眼中になく、聖なる使徒伝承の伝統を蔑視して、他のむなしく不毛で不確かな、教会によって認められていない教理を奉じ、その上に真理そのものを打ち立て、保持し得ると、高慢のきわみをもって考えるのです。」

信仰者としての近代主義者

  14.尊敬する兄弟たちよ、これまで私たちは哲学者としての近代主義者を考察してきました。ここで、もし信仰者としての近代主義者を考察し、そして近代主義に従えば、どのように信仰者が哲学者から区別されるかを知ろうと思うならば、次のことに留意しなければなりません。すなわち、[近代主義によれば]「哲学者は天主的なるものの現実を信仰の対象として認めるとしても、この現実は哲学者によって見出されるものではなく、信仰者の心中に感情ならびに肯定の対象として、したがって現象の領域に限定されたかたちで見出される」のです。しかし[彼らによれば]「かかる現実がそれ自体として当の感情と肯定の外に存在するのかどうかという問いは、哲学者が看過し、なおざりにする問題です。反対に、信仰者としての近代主義者にとっては、天主的なるものがそれ自体として存在し、それを信仰する者におよそ依存しないということは、すでに確立した確実な事実です。」そしてもし、信仰者によるこの確固とした肯定はどのような根拠に基づいているのかと尋ねるならば、彼は「各人の個人的体験」こそそれであると答えるでしょう。この点において近代主義者は合理主義者と異なっており、むしろプロテスタントおよびエセ神秘家の見解に与する者となります。近代主義者は次のように問題を提示します。宗教的感覚において、人間を天主の現実と直接に接触させる一種の心の直感があることを認めなければなりません。この直感は天主の存在および人間の内と外における働きかけについて、いかなる科学上の確信をもはるかに超える確信を注ぎ込むのです。それゆえ、彼らは「現実的経験が存在し、それはあらゆる理知的経験をも凌駕するものである」と主張するのです。もし、かかる経験[の存在]が誰か、たとえば合理主義者によって否定されるなら、彼らは「それはこのような人々は、かかる経験を生み出すのに必要な道徳的状態に自らを置こうとしないからだ」と言います。「かかる経験こそが、それを得る人をして本来の意味で真の信仰者とする」と言うのです。

唯一の真の宗教の抹殺

  このような立場は、いったいどれほどカトリックの教えから離れていることでしょうか。すでに私たちは、このような見解に基づく種々の誤謬が[第1]ヴァチカン公会議によって排斥されたことを見ました。これから後、私たちはどのようにこれらの誤謬が、上で言及した種々の謬説と合わさって、無神論への広い道を開くかを見ていくことにしましょう。ここで、この体験についての教説が象徴主義の教説と結びつけられるとき、あらゆる宗教、異邦の宗教までもが真なるものとして見なされねばならなくなる、ということを指摘しておかなければなりません。いったい、このような体験がいかなる宗教においても見出されることを妨げるものがあるでしょうか。実際、この種の体験がいかなる宗教においても見出されると主張する者が少なからずいます。一体、いかなる根拠をもって近代主義者たちはイスラム教の信奉者によって断定される体験の真実性を否定することができるでしょうか。近代主義者たちはカトリック信者だけが真の経験を独占していると主張するでしょうか。果たして、近代主義者たちは否定するどころか、ある者はあいまいに、またある者はあからさまに、あらゆる宗教は真なるものであると主張しています。彼らが別様に感じることができないのは明らかなことです。なぜなら、彼らの理論に従う限り、いかなる根拠をもって、何某(なにがし)かの宗教の虚偽性を語ることができるでしょうか。無論、それは宗教的感覚の虚偽性のためか、あるいは精神によって述定された定式文の虚偽性のためか、そのいずれかでしょう。さて、宗教的感覚は、たとえその完全性に上下の差があるにしても、常に同一のものです。そして知的な定式文が真なるものであるためには、宗教的感覚ならびに信仰者 ───たとえ彼の知的能力がいかほどであろうと─── に呼応するだけで足りるのです。異なる宗教が対峙するにあたって近代主義者たちが主張できることは、せいぜいカトリック教はより多くの真理を持っている、なぜなら他の宗教にまして生気に満ち、またキリスト教の起源により充全に対応しているため、キリスト教の名により値するものであるからだ、ということくらいです。このような結論が[彼らの立てる]前提から出てくるということは、誰の目にも当然のことでしょう。しかるに、何よりも驚くべきことは、カトリック信徒や司祭の中に、このように甚だしく劣悪な理論を嫌悪しつつも ───そうであると私は信じます─── 、あたかもそういった考え方を完全に認めているかのように行動する者たちがいる、という事実です。と言うのも、彼らはこれらの誤謬を教える者たちに賞賛を惜しみなく与え、また公の栄誉を授けており、こうすることを通して、彼らの賞嘆が単に人物 ───称賛の対象となっている当の者たちが何らかの優れた点をもっているということは充分あり得ますから─── に対してだけでなく、むしろ、これらの者たちが公言してはばからず、力の限りを尽くして広めようとする誤謬のためである、という確信に至らせるからです。

宗教的体験と聖伝

  15.しかるに、カトリックの真理に完全に反した彼らの教説中のこの部分には、もう一つ別の要素があります。すなわち、体験に関して述定されることはカトリック教会によって絶えず保持されてきた聖伝にも当てはめられ、破滅的な結果を引き起こします。近代主義者たちによって理解される限りの伝承ないし伝統とは、「原初的体験を理知的な定式文を通して他の者たちと分かち合うこと」です。かかる定式文に彼らは、再現的価値の他に一種の暗示的効果があるとします。「この暗示的効果とは、まず第一に信仰者の内に宗教的感覚を惹起し、もしこの感覚が弛緩してしまうならば一旦獲得された体験を新たにするというかたちで働き、そして第二に、まだ信じていない者の内で初めて宗教的感覚を呼び覚まし、体験を生み出すというかたちで働きます。このようにして、宗教的体験は諸民族の間に広がるのです。そしてこれはなにも同時代の人たちの間に宣教を通してなされるだけでなく、未来の世代にも書物や口頭の伝承によってある者から他の者へと伝えられていくのです。ある時にはこのような宗教体験の伝達は根を下ろし、活気に満ちていますが、また別の時には、またたく間に枯れ衰え、死に絶えてしまいます。」近代主義者たちにとっては[あるものが]生きていること即ちそれが真であることの証明であり、それは彼らにとって生命と真理とはまったく同一のことだからです。このようなわけで、「現存している全ての宗教は等しく真なるものである」という結論に至るよう促されます。[彼らによれば]「もしそれらが真なるものでなければ生き残らないはず」だからです。

信仰と科学

  16.尊敬する兄弟たちよ、ここまで私たちは近代主義者たちが信仰と科学 ───この中に彼らは歴史学をも含めます─── との間に打ち立てる関係を把握するために、充分あるいは充分すぎるほどの材料を得るところまで考察を進めてきました。[彼らによれば]「まず第一に、このうちの一方にとっての対象物は、もう一方にとっての対象物とは異質で別々のものであるということが受け容れられなければなりません。なぜなら、信仰は、科学が自らにとって不可知なるものであると宣言するところのもののみに関わるからです。したがって、それぞれは自らに定められた別個の視野を有していることになります。科学は全く現象[のみ]に関わり、信仰はそれ(現象)にいっさい立ち入りません。反対に、信仰は天主的なるものに携わり、科学にとってそれは全く不可知な事柄です。」こういうわけで、「信仰と科学との間には決して反目が生じ得ない」という主張がなされるにいたります。なぜなら、もしそれぞれが自らに固有な場に留まるならば、両者は決して出会うことができず、そのため決して互いに矛盾対立し得ないからです。また、もし目に見える世界においては、キリストの人間としての生活のように、信仰に属する事柄がある、という反論がなされるならば、近代主義者たちはこれを否定するかたちで答えます。すなわち、「そういった事柄は確かに現象のカテゴリーに入りますが、しかるにそれらが信仰によって生きられ、また先に述べた仕方で信仰により変容および歪曲される限りにおいて、そういった事柄は感覚の世界から取り去られ、天主的なるもの[を形成するため]の素地となる」のです。それゆえ、キリストが本当の奇跡を行い、また、本当の予言を語ったのか、そして真に死者の中から復活して天に昇ったのかと、さらに問わねばならなくなりますが、不可知論の立場をとる科学の答えは否定的であり、信仰の側の答えは肯定的なものとなります。しかるに、このために両者の間に対立が生まれることは一切ありません。なぜなら[彼らによれば]「この種の事柄は哲学者に対して語り、キリストをその歴史的現実においてのみ考察する、哲学者たる限りでの哲学者によっては否定されますが、信仰者に語りかけ、キリストの生涯を信仰によって、また信仰の内に再び生きられるものとして捉える信仰者たる限りでの信仰者によっては肯定されるから」です。

科学に従属する信仰

  17.しかしながら、これらの理論に従う限り、信仰と科学とは互いに対して完全に独立していると考えて差し支えないと推量するなら、大きな誤りを犯すことになるでしょう。科学の側に関する限り、実際それはきわめて真実かつ正しいのですが、しかし信仰に関しては、まるでそうではありません。[彼らによれば]「信仰は科学にただ一つのみならず、三つの理由によって従属するからです。なぜなら第一に、あらゆる宗教的事実において、天主的現実ならびにそれについて信仰者が有する体験を取り去るなら、他の一切のもの、特に宗教的定式文は現象の領域に属すこととなり、したがって科学の支配下にくだることになります。もし望むならば信仰者に世界の外に行かせましょう。しかし、それは彼が世界の中に留まる限りの話です。好もうと好ままいと、彼は科学と歴史の法則、観測、判断とから逃れることはできないのです。さらに、天主は信仰のみの対象であると唱えられているにしても、これはただ天主的現実のみについて言われていることであり、天主の観念については当てはまりません。後者はまた科学の考察主題でもあるからです。すなわち、科学が論理的次元と呼ばれるものにおいて哲学的思索をめぐらすとき、絶対的なもの、観念的なものにいたるまで舞い上がるからです。それゆえ、天主の観念についての認識を形成し、それをその進化[の過程]において導き、かつその中に混じり込んでしまっているかもしれない外から加えられた異質な要素の一切から浄めるということは、哲学ならびに歴史の権利に属することです。」ここから、「宗教的進化は道徳的・理知的事柄と一致するようにはかられねばならない」、もしくは彼らが指導者と目するある者が言い表したように、「宗教的進化は道徳的・理知的事柄に従属されねばならない」という近代主義者の定理が出てくるのです。結局、人間は自らの内に二重の原理が存在するということに耐えられず、また、それゆえ信仰者は自らの内に信仰を科学と調和させ、そうすることによって科学が宇宙について定める一般的概念に信仰が決して対立しないようにする、駆り立てるような必要を感じるのです。

  このようなわけで、科学が信仰に全く依存しないとされ、他方、その両者は互いに縁遠いはずなのにも関わらず、信仰は科学に従属するものとされるのです。尊敬する兄弟たちよ、こういったこと全ては、私の前任者ピオ九世の教説に明らかに反しています。同教皇は、次のことをしかと定めたのでした。「宗教的事柄における哲学の務めは命令することではなく仕えることであり、信じられるべきことを定めるのではなく、理性的な恭順をもって信じられるべき事柄を拝受することであり、天主の神秘の深みを詮索するのではなく敬虔に、そして謙虚にそれを崇敬することです。」 

  近代主義者は、この順序を完全に逆転させてしまいます。したがって彼らには、私のもう一人の前任者グレゴリオ9世が、当時のある神学者たちに対して述べた言葉が当てはまるでしょう。「あなた方のなかのある者たちは高慢の精神で浮き袋のようにふくれ上がり、涜聖的な種々の新思想によって、教父たちにより定められた境界を乗り越えようとするのです。この際、彼らは理性主義者の哲学的教条に合わせて聖なる原典の意味をねじ曲げるのですが、それは聴衆の利益のためではなく、学識のあるところを見せびらかすためなのです。これらの者たちは種々の珍奇な教説にたぶらかされて上のものを下にし、女王を下女に仕えるよう無理強いするのです。」

近代主義者の用いる方法

  18.誰であれ、近代主義者たちの行動を研究する者には、その教えるところに完全に合致する彼らの方法論は、より明らかに知られるでしょう。著作および講演において、近代主義者は互いに対立する教理を提唱しているように見受けられることが少なからずあり、このため、ともすれば彼らの態度を裏表があり、疑わしいと見なしてしまうことにまります。しかし、これはわざと熟慮の上でなされるのであり、その理由は信仰と科学の相互の分離に関する彼らの思想の内に求められなければなりません。このようなわけで、近代主義者の著作をひもとけばカトリック信者によって承認され得ることがいくらか見出されるのですが、ページを繰るうちに、いかにも理性主義者によって述べられそうなことを記した他の箇所に出くわします。近代主義者が歴史を書く際、彼らはキリストの天主性についていかなる言及もしませんが、説教台に立てばはっきりとこれを言明するのです。また、歴史[の研究]に携わる際、彼らは教父や諸公会議のことを気にも留めませんが、人々に要理を教えるにあたっては、それらを恭(うやうや)しく引用します。同様に、彼ら近代主義者は、神学的および司牧的な聖書釈義と科学的で歴史的な聖書釈義とを区別します。したがって、彼らが科学は信仰に全く依存しないという原則に基づいて哲学や歴史、批判学に携わる際、ルターの足跡にしたがって歩むことに彼らは別段何の恐れも抱かず、かえってカトリックの教理、諸々の教父と公会議、教会の教導権に対する軽蔑を表わすのが常です。そしてこのために非難される場合、彼らは「自分たちの自由が奪われている」と不服を申し立てます。「信仰は科学に従属しなければならない」という理論を支持する彼らは、「教会が自らの教義を哲学の憶説に従属かつ適合させることを頑なに拒んでいる」として非難します。しかるに、他方、上述の目的のために旧来の神学をぬぐい去った彼らは、哲学者の逸脱した諸説を支持する新しい神学を導入すべく努めるのです。

神学者としての近代主義者

  19.尊敬する兄弟たちよ、ここにいたって神学の領域における近代主義者について考察する道が開けました。これは困難な課題ですが、簡潔に処理し得ることでもあります。[ここで]問題となるのは信仰と科学の和合を成し遂げることですが、これは常に一方を他方に従属させるというかたちでなされます。この問題において近代主義者の神学者は、近代主義者の哲学者によって用いられるのと全く同一の原理、すなわち内在ならびに象徴主義を採用し、それらを信仰者に適応します。このプロセスはきわめて単純なものです。[近代主義の]哲学者が「信仰の原理は内在する」と宣言すれば、信仰者はそれに「この原理は天主である」と言い加え、神学者は「天主は人間の内に内在している」という結論を導き出すのです。こうして神学的内在という理念が生まれます。同様に哲学者はまた、「信仰の対象を表現したものは単に象徴的なものに過ぎない」ということを確実なこととして見なします。信仰者もまた同様に「信仰の対象は天主それ自体である」と言明し、神学者は「天主的現実を表現したものは象徴的なものである」と断定します。このようにして神学的象徴主義が生まれます。これらの誤謬はまことに誤謬の中でも最も重大な部類に属するものであり、両者の有害な性格は、それらの生む結果を検証することを通じて明らかに知られます。と言うのも、まず象徴主義から始めるなら、「象徴はその対象となっているものに対しては[あくまで]象徴であり、また信仰者に対しては単なる道具にしか過ぎない」ため、近代主義者の教えるところに従えば「信仰者は定式文たる限りにおいての定式文に過大な強調を置かないことが第一に必要となる」のです。したがって「信仰者はかかる定式文を、それが同時に明かし、かつおおい隠す、すなわち表現しようとしながら決してそれを完遂しないところの絶対的真理へと自らを一致させる目的でのみ用いるようにしなければならない」のです。近代主義者はまた、信仰者が種々の定式文を、それらが彼にとって助けとなる限りにおいてのみ用いさせようとします。と言うのも、かかる定式文は妨げとしてではなく、助けになるものとして与えられているものだからです。しかしながら、この際に公の教導権が一般共通の意識を表わすのに適当だと判断した定式文に対して、その同じ教導権が別様に規定する時まで払われるべき社会的敬意へのふさわしい配慮を怠らないようにしなければなりません。内在に関しては、近代主義者たちがそれをもって厳密に何を意味するのかを見定めることは容易ではありません。なぜなら、これについて彼らの見解はまちまちだからです。ある者たちはこの言葉を、「人間の内に働く天主は、人間が自分自身の内にあるよりも、より親密に現存している」という意味に解しますが、かかる概念はもし適当に理解されるならば非の打ちどころのないものです。他の者たちは、「天主の働きは自然本性の働きと同一である、なぜなら第一原因の働きは二次的原因の働きと同一であるから」と主張します。このような考え方は超自然の次元を抹消してしまうことでしょう。最後に、また別の者たちは内在という概念を汎神論がかった流儀で説明するのですが、実際これが近代主義者が標榜する他の諸々の教条に最もよく適合する意味なのです。

天主的永在の原理

  20.この内在という原理には、天主的永在と呼ぶことのできる、もう一つの原理が関連しています。後者と前者との違いは、「個人的な体験」と「伝承によって伝えられる体験」との間にある違いと、ほぼ同じです。この天主的永在というものが何を意味するかを明らかにする例が、教会と秘跡との中に見出されるでしょう。近代主義者によれば、「教会および秘跡はキリストによって制定されたものと見なされるべきではない」のです。「このように見なすことは、キリストの中に、全ての人と同様その宗教的感覚が徐々に段階を追って形成されていった一人の人物しか認めない不可知論によって禁じられている」からです。それはまた、近代主義者が外的適用と呼ぶところのものを否定する「内在の法則」によっても禁じられます。それはさらに、種子の発達のためには時間、および特定の一連の状況が必要だとする「進化論」によって禁じられています。最後にそれは、事実、このように物事は進んできたのだと示す「歴史」によって禁じられるのです。しかるに近代主義者は、「教会および秘跡のどちらも、キリストによって間接的に制定されたと信じるべきだ」としています。しかし、どのようにと言うのでしょうか。それは次のようにしてです。近代主義者によれば、「全てのキリスト者の良心ないし意識は、ちょうど植物が種の中に含まれているように、キリストの意識の中にある意味で、実質的に含まれていたのです。しかし、枝々が種の生命を生きるように、全てのキリスト者もまた、キリストの生命を生きると言われねばなりません。しかるに、キリストの生命とは、信仰に従えば天主的なるものであり、したがってキリスト者の生命も天主的なるものとなります。そして、もしこの生命が長い年月を経て教会ならびに秘跡を生み出したのであるとすれば、それらはキリストに起源を発し、天主的なものであると言って全くさしつかえないことになります。」同様の論法で、彼らは聖書ならびに教義が天主的であることを論じ立てます。そして、ここにおいて近代主義の神学はその完成を見ると言うことができるでしょう。まことに脆弱な思想体系ですが、科学の結論はそれがどのようなものであろうと常に受け入れられねばならない、と公言する神学者にとっては、これで充分すぎるほどなのです。誰でも、これらの理論を私が取り扱おうと試みる[近代主義の教条の]他の諸点に容易に当てはめてみることができるでしょう。

教義と秘跡

  21.これまで私たちは[近代主義の教条に即して]信仰の起源と本性についてふれてきました。しかるに、信仰には多くの区別された部分があり、そしてその中でも主要なものに教会、教義、礼拝、信心、ならびに私たちが「神聖な」ものと呼ぶ諸書があるので、近代主義者がこれらについて何を教えているかを知ることが、私たちの[当面の]課題となります。まず教義について言うと、私はすでにその起源と本性とを指摘しました。教義は一種の衝動あるいは必要から生まれます。これ(教義)によって信仰者は自分の思念を練り上げて、自らの意識と他者のそれとにとって、より明白なものとするのです。かかる練り上げはことごとく、原初的で素朴な精神内の定式文を検証し、洗練する過程の中に存しています。しかるにそれは、それ自体において、何らかの論理的説明に即してなされるのではなく、状況に即して、あるいは近代主義者たちが用いるこれよりいささか解りにくい表現に従えば、生命的になされるのです。そのようなわけで、始原的な定式文を取り囲むようにして二次的な種々の定式文が ───すでに私が指摘したように─── 徐々に形成され続け、そしてこれらは引きつづいて一つのかたまり、ないしは一つの教理的構築物にまとめられ、さらに公の教導権によって一般共通の意識に呼応するものとして承認され、教義と呼ばれるにいたるのです。教義は神学者たちの思索から慎重に区別されるべきですが、後者もそれなりの有用性をもっています。と言うのも、かかる思索は教義のもつ生命にみなぎっていないとしても、宗教と科学を調和させ、両者の対立を取りのぞくと共に、宗教を外側から照らし、擁護するために有益であり、さらには将来定められる教義のための材料を準備することにもなるからです。礼拝については、この題目の下に、それに関して近代主義の誤謬がこの上なく深刻な様相を呈するところの秘跡が含まれている、ということの他にはあまり言うことはないでしょう。近代主義者にとって「秘跡とは二重の衝動ないし必要から結果するもの」です。なぜなら、すでに見たように、彼らの体系においては「万事が内的な衝動ないし必要によって説明される」からです。「最初の必要とは宗教に何か感覚で捉え得る表明[の手段]を与えることであり、第二の必要とは、それを表現することです。しかるに、これは何らかの感覚で捉え得る形および聖化の行為なしには成され得ず、それらを称して秘跡と呼ぶ」のです。しかし、近代主義者にとって「秘跡はある一定の効能に欠けるものではないにしても、ただの象徴あるいは印でしかない」のです。彼らの言うところによると、「かかる効能とは、一般民衆の耳を捉えるべく通俗的な表現を用いたある種の言い回しが持つのと同様のもの、すなわち、何かの枢要な理念を巷に広め、そして精神に著しい印象を与える力を有しているという意味での効能」なのです。「言い回し」が「理念」に対するのと同様の関係を「秘跡」は「宗教的感覚」に対して持つに過ぎません。もし近代主義者が、秘跡はただ信仰を育むために制定されたと言明したなら、それは彼らの考えるところをより明白に表わすことになるでしょう。しかるに、これはトリエントの公会議によって排斥されています。「もし誰かが、これらの秘跡は信仰を育むためだけに制定されたと言うならば、彼は排斥されるように。」

聖書

  22.聖書の本性と起源については、すでにふれました。近代主義者の原理に従えば、聖書は体験の集大成と呼んでさしつかえのないものです。しかるに、ここで言う体験とは、誰にでも時として起こり得る種類のそれではなく、「あらゆる宗教が有している並外れた顕著な体験」のことです。そして、これこそ近代主義者が旧・新約聖書に含まれる諸書典について教えるところなのです。しかし、自分たちの理論に適合させるために、彼らはたぐいまれな巧知をもって、こう指摘するのです。「たしかに体験は現在に属する事柄であるが、信仰者が記憶によって現在と同様の仕方で過去を再び生き、未来をすでに期待によって生きる限りにおいて、その素材を過去および未来からも同様に汲み取ることができる」のだと。こう考えることによって、歴史的ならびに黙示的な書が正典の中に含まれているという事実の説明がつきます。天主は事実、これらの著作において信仰者を通して語られるのですが、しかるにそれは近代主義神学に基づき、ただ内在と生命的永在によってのみ、そうされるのです。それでは一体、天主的霊感はどうなるのでしょうか。彼らは答えて、「天主的霊感とは信仰者が自らの内にある信仰を著述を通して啓示するようにつき動かすところの衝動と、おそらくその激しさの他は全く変わるところがないものである」と言います。「これは詩的な霊感において起こることと同様のものです。さて、この詩的な霊感については、次のように言われてきました。『私たちの中には天主がいて、天主が動くとき、私たちは炎で燃え立たされる』と。この意味においてのみ、天主が聖書の霊感の起源であると言われる」のです。近代主義者はさらに、この天主的霊感ということについて、聖書の中にはそれに欠くものは一切ない、と断言しています。この点に関して、ある人たちは、彼らが天主的霊感[の及ぶ範囲]をいささか限定する ───例えば、いわゆる暗黙の引用と称されるものに限ってそれを認める─── 近年のある著作家たちに比して、より正統であると考えてしまうかもしれません。しかし、こういったことすべては単なる言葉上の作り事に過ぎません。なぜなら、もし聖書を不可知論の基準にしたがって、つまり人々によって人々のためにつくられた人間の所作として ───もっとも[近代主義の]神学者はそれが内在によって天主的なるものであると述べることが許されますが─── 見なすならば、一体、天主的霊感の余地はどこにあるでしょうか。近代主義者たちは聖書に一般的なかたちで及ぶ霊感が存在するとは言うのですが、カトリック的な意味での天主的霊感は一切認めないのです。

教会

  23.近代主義学派が教会の本質と見なすところのものについては、非常に多くのことを述べることができます。彼らはまず、「教会は二重の必要に基づいて生まれた」という憶測から論議を始めます。「第一に、個人としての信仰者が、殊に彼が何か他に類を見ない特別な体験をした場合に、自分の信仰を他者に伝達する必要が生じ、第二に、信仰が多くの人に共通のものとなったとき、一つの社会へと発展し、共通善を守り、促進し、伝播するための集団としての必要です。それでは、教会とは一体なんでしょうか。それは集団的意識、すなわち個々人の良心ないし意識の集合から生じるものであり、内在の原理によって一人の最初の信仰者たる者 ───それはカトリック者にとってはキリストです─── にことごとく依存するものです。ところで、あらゆる社会はその成員を共通の目的へと導き、一致団結を生む要素 ───宗教的社会においては教理および礼拝です─── を育む指導的権威を必要とします。ここからカトリック教会における規律、教義、典礼を司る三重の権威が生じます。この権威の本質はその起源から、またそれが有する諸々の権利ならびに義務は、その本質から推し量られるべきものです。過去には、権威が教会の外から、すなわち天主から来るというのが一般の誤謬でした。そして当時、かかる権威は正しくも専制的なものと見なされました。しかし、今ではこのような概念はすたれてしまいました。と言うのも、教会が集団的良心ないし意識の生命的発出であるのと同様、権威もまた、教会自体から生命的に発出するからです。したがって、権威は教会と同様、宗教的感覚の内にその起源を有しており、そのため、これに従属するのです。もし権威がこの依存関係を否定するならば、専制になってしまいます。実際、私たちは自由の感覚が最高の発展を遂げた時代に生きているからです。世俗的領域においては、民衆の意識が人民的政府の導入にいたらせました。ところで、人間の中には、ちょうど一つの生命しかないように、一つの意識しかありません。したがって、民主的形態を採択するのは教会の権威 ───もっとも、当の権威が人類の意識の中に内部的対立を引き起こし、助長することを望むなら話は別ですが─── ということになります。これを拒否することは破滅的な結果をもたらします。なぜなら、今日当たり前となっている自由の感覚が後退し得るということは、あろうはずもないからです。もしそれが力ずくで抑圧され、束縛されたならば、その爆発はより恐ろしいものとなり、教会と宗教をひとまとめに一掃してしまうことでしょう。」近代主義者の心中に思い描かれた状況はかくのようなものであり、したがって彼らが大いに心にかけている一事は、教会の権威と信仰者たちの自由との間に折り合いをつける手段を見出すことです。

教会と国家の関係

  24.しかるに、教会が折り合いをつけなければならないのは、その内輪だけではありません。内側にいる者たちとの関係の他に、外側にいる者たちとの関係があるからです。教会は世界全体を埋め尽くしているわけではありません。世界には他の諸々の社会があり、教会は必然的にそれらと交渉ならびに接触を持たなければならないのです。したがって、教会が世俗的社会に対して有する諸々の権利と義務は無論、教会自身の本性によって、すなわち近代主義者がすでに描き出してみせたところの本性によって決定される必要があります。この問題において適用されるべき原則は明らかに科学と信仰のために定められたものと同一ですが、後者の場合、問題は対象であったのに対し、今取り扱っている事柄においては目的が問題となります。したがって同様に、「信仰と科学はそれぞれが対象とするものの相違のゆえに互いに無関係であるように、教会と国家とは両者の目的の相違のために互いに無関係なものとなる」のです。すなわち「教会の目的が霊的なものであるのに対し、国家の目的は地上的なものだから」です。[彼らによれば]「一昔前は地上的な事柄を霊的な事柄に従属させ、ある種の問題を混合的な問題として扱い、教会にそういった事柄全てにおいて女王ならびに女主人の地位を与えることが可能でした。と言うのも、教会はその当時、超自然的次元の造り主たる天主によって直接打ち立てられたものだと見なされていたからです。しかし、このような教理は今日、哲学者によっても歴史家によっても認められていません。したがって国家は教会から分離されなければならないのであり、またカトリック信徒[としての個人]は市民[としての個人]から分離されなければならないのです。各々のカトリック信徒は、彼がまた同時に市民でもあるという事実により、自分が一番適当だと思うやり方で共通善のために働く権利と義務とを有しているのです。この際、彼は教会の権威にいちいち配慮する必要はないのであり、教会の望みや勧め、命令に少しも留意せず、否、教会の譴責に反してまでも行動する権利を持っています。教会が市民のために行動の指針を策定し、指示することは権威の乱用を犯すこととなり、これに対して人は全力を尽くして戦う義務があります。」尊敬する兄弟たちよ、これらの教条の元となっている諸々の原理は、先任者ピオ六世により、使徒教令『アウクトレム・フィデイ』を通して荘厳に排斥されたものです。

教会の教導権

  25.しかるに近代主義派にとって、国家が教会から分離されるということだけでは充分ではありません。と言うのも、[彼らによれば]「現象的な事柄に関する限り信仰が科学に従属させられるべきであるのと同様、地上的事柄において教会は国家に従属せねばならないから」です。このことを近代主義者たちはまだ公然と口にすることはないかもしれませんが、しかし彼らは自分たちの指示する命題の論理的帰結として、これを認めないわけにはいきません。なぜなら、[彼らによれば]「地上的事柄において国家のみが権利を有しているとするならば、信仰者が宗教の単に内的な行為だけで飽き足らず、例えば秘跡の授受などのような外的行為に及ぶとき、これらは国家の規制の下におかれます。そうすれば外的行為のみによって行使され得る教会の権威は一体どうなってしまうでしょうか。当然それは完全に国家の支配下におかれることになる」からです。まさに、この避けることのできない結論のために、多くのリベラルなプロテスタントは一切の外的礼拝、否、一切の宗教的共同性を拒絶し、そして彼らが言うところの個人的宗教を標榜しているのです。もし近代主義者たちが、あからさまにはまだそこまで行っていないとしても、彼らは「自分たちの示す方向付けに教会が自発的に従い、かつ国家の形態に自らを適合させる」ことを求めるのです。以上が規律的権威についての彼らの考え方です。しかるに、教理的また教義的な権威に関する彼らの見解は、はるかに悪辣かつ有害なものです。教会の教導権について彼らが抱く概念は以下のようなものです。彼らが述べるところによれば、「その成員の宗教的意識が一致し、かつ彼らが採択する定式文もまた一致しているのでなければ、いかなる宗教的社会も本当の意味で一つにまとまった集団となり得ないのです。しかるにこの二重の一致のためには、この共通意識に最もよく適合する定式文を見出し定める一種の共通精神が必要となります。さらに、決定された宗教的定式文を共同体に課する権威がなければなりません。」近代主義者に言わせると、「これら二つの要素の結合および一種の融合から、教会の教導権の観念が生まれる」のです。そして「この教導権は、つまるところ個々人の意識から発生するのであり、公共の利便をはかるべく附与される委任権をそれらの人々の益のためにこそ有するのですから、当然、教会の教導権はその成員に依存するのであり、それゆえ一般民衆の理想となっているところのものに追従しなければならないのです。個人の良心が自ら感ずるところの衝動を自由に公然と表明するのを妨げること、教義がそのたどるべき必然的進化の道のりをたどるよう強く促す批判の働きを阻むことは公共の福利のために与えられた権利の正当な行使ではなく濫用に他なりません。同様に、権威の行使においても、しかるべき方法と度合いとが守られなければなりません。著者の与り知らぬうちに、本人の説明を聞くことも話し合うこともなしに著作を排斥し、発禁処分にすることは、およそ圧制と変わりないことです。ここでもまた、問題となるのは、権威の側の十全な権利と自由の側の十全な権利との間で折り合いをつける方法をなにか見つけ出すことです。カトリック者にとっての取るべき道は、権威に対する深い尊敬を抱いていると公言しつつも、決して自分自身の判断に従うことをやめないことです。」教会に対して近代主義者たちは次のような方向付けを示します。すなわち、「教会の権威は、自らの目的が完全に霊的なものであることに鑑みて、公衆の眼前にその姿を飾るところの外的な壮麗さを脱ぎすてなければなりません。」かかる主張を成すに当たって、彼らは宗教は霊魂のためのものであるとは言え、ただ霊魂のためのみのものではなく、また権威に対して払われる敬意は、それを制定したキリストご自身に帰されることになる、という事実を忘れているのです。

教義の進化

  26.尊敬する兄弟たちよ、信仰とその多様な部分についてのこの問題を総括するに当たって、私たちはまだ近代主義者たちが信仰とそれを構成する各部分の発展について述べていることに考察を加えてみなければなりません。まず第一に、彼らは「生きた宗教においては一切が変化に服しており、また事実、変えられなければならないという一般的原理」を定めます。このようにして彼らは、事実上彼らの中心的教条となっているもの、すなわち「進化」へと議論を進めるのです。[彼らによれば]「進化の法則には一切のものが服しており、これに背くことは死を意味します。教義、教会、礼拝、神聖なものとして私たちが崇敬する書典、そして信仰そのものさえ、この例にもれません。」この原則をあからさまに述べたところで、近代主義者がこういった事柄のそれぞれについて唱えていることを念頭に置く人の中、誰も驚きはしないでしょう。この進化の法則を打ち立てて後、近代主義者たちは自ら、どのようにそれが働くかを説明します。まず第一に、信仰について彼らは説明します。彼らの述べるところによれば、「信仰の原初的形態は未発達で万人に共通なものでした。それは、かかる形態が人間の自然本性および人間の生命に起源を有するものだったからです。生命的進化は進歩をもたらしましたが、それは新しい、純粋に付帯的な形態を外部から増し加えられることによってではなく、宗教的感覚が良心内に一層深く浸透することによって生じました。さて、この進歩には2つの種類があります。消極的進化とは、例えば家系や国籍に由来するもののような、本質的でない要素をことごとく排除することによって生じる進化です。積極的進化とは、人間の知的および道徳的洗練によってもたらされる進化であり、これによって天主的なるものについての観念はより十全かつ明晰なものとなり、また宗教的感覚は一層鋭敏になります。信仰の進歩に対しては、先に信仰の起源を説明するために挙げられたのと同じ諸原因が当てはめられます。しかるに、これらの原因に加えて、私たちが預言者と呼ぶところの並外れた人たち ───この中でキリストは最も偉大な者でした─── を挙げなければなりません。それは、一つには彼らの生活ならびに言葉の中に、信仰が天主的な存在に由来するものとした、神秘的な何かがあったからであり、もう一つには、これらの人々は、彼らの時代の宗教的必要に完全に合致した新しい独自の体験をする命運を有するにいたったからです。教義の進歩は主に、信仰に対する障害は乗りこえられねばならず、その敵はうち負かされ、異論は反駁されねばならない、という事実によるものです。また、これに加えて信仰の奥義に含まれている事柄に、より一層深く分け入ろうとするたゆまぬ努力を挙げねばなりません。このようなわけで、他の例はさておき、キリストにおいてはこのような事態が生じたことがわかるのであり、彼において、信仰が彼の中に認めるところの、かの天主的な何かがゆっくりと徐々に拡大されてゆき、終いには天主であると見なされるまでになったのです。礼拝の進化を生じさせる主要な刺激は、さまざまな民族の風俗習慣に適合する必要、ならびに特定の行為が慣習として得ることになった価値を利用する必要のうちに存します。最後に、教会自体における進化は、歴史的状況に適合し、既存の社会の形態に自らを調和させる必要によって力を得[て進行し]ます。」以上が、これらのものそれぞれの進化についての彼らの見解です。さてここで、これ以上先に進む前に私は必然性ないし必要に関するこの理論全体にあなた方の注意を喚起したいと思います。なぜなら、私たちがこれまで見てきたことの何物にも優って、この教条は彼ら近代主義者が歴史と呼ぶ、かのよく知られた手法の基礎かつ土台であるからです。

伝統と進歩

  27.進化は諸々の必要ないし必然性によって促されるとはいえ、もし、ただこれらのみによって統御されるならば伝統の境界線をたやすく越え出てしまい、こうして、その原初的な生命原理から切り離された進化は、進歩よりもむしろ衰退をもたらすこととなるでしょう。このため、近代主義者の近代主義者のをつぶさに研究する者たちによって、「進化とは、一方は進歩に、もう一方は保守へと向かう2つの力の拮抗から生じるもの」として説明されています。[彼らによれば]「保守をはかる力は教会の中に存し、また伝統の中に見出されます。伝統は宗教的権威によって代表されますが、これは正当な権利に基づいて、また事実としてそうなっているのです。正当な権利に基づいて、というのは、伝統を保護することが権威の本性自体に属することだからです。また、事実として、というのは、生活上の具体的な事柄のはるか上に上げられた権威は、進歩のつき動かす力をほとんど、あるいはまったく感じないからです。それと反対に、内部の必要に呼応する進歩的な力は個々人の良心の中にあり、そこで働きますが、これは生活と密接かつ親密な接触を持っている人々の良心において特にそうです。」尊敬する兄弟たちよ、すでに私たちは一般信徒をして教会における進歩の要因たらしめる、この上なく有害な教説が導入されるのを目にしています。さて、保守と進歩というこの2つの勢力間、すなわち権威と個々人の良心との間でなされる一種の協定および妥協によって変化ならびに進歩が生まれるのです。個々人の良心または、ある特定の人々の良心が集合的良心に働きかけ、この集合的良心は権威の保持者に、それらの人々の良心と折り合いをつけ、またそれに従うよう圧力をかけるのです。

近代主義者たちの屈折した性質

  こういったことをみな考慮に入れれば、近代主義者たちが譴責や処罰を受ける際に表わす驚きのわけが分かります。誤ちとして彼らに帰せられることを、彼ら自身は神聖な義務と見なしているからです。彼らは人々の良心の必要を他の誰よりもよく理解しています。なぜなら、彼らは教会の権威よりも、より緊密に人々の良心と接して [と考えて] いるからです。否、彼らはいわば自らのうちに人々の良心を体現している[と考えている]のです。このため、彼らにとって公然と語り、著述をおこなうことは決して怠ってはならない義務なのです。もし望むならば権威は彼らをとがめればいいでしょう。彼ら近代主義者は自らの良心、ならびに自分たちは非難ではなく、称賛にこそ値するという確信を抱かせる直接の体験を自らの側にもっています。それから彼らは、結局のところ逃走なしに進歩なく、また犠牲者のでない逃走もないと考え、そして預言者やキリストご自身のように自分たちが犠牲者となることをあえて辞しません。彼らは自分たちを荒々しく取り扱う権威に対して、いささかの恨みも心に抱いていません。なぜかと言うに、彼らは結局のところ権威は権威としての義務を果たしているに過ぎないと認めるのにやぶさかではないからです。彼らにとっての唯一の悲しみは、権威が彼らの発する警告に耳を閉ざし、こうして人々の霊魂の進歩を妨げていることです。しかるに、これ以上[進歩を]引きのばすことがもはや不可能となる時が来ることは、およそ確実です。なぜなら、たとえ進化の法則はしばらくの間押し止められ得るとしても、最終的には、それから免れることはできないからです。このように考えて、彼らは譴責や排斥にも関わらず、信じがたい大胆さを見せかけの謙遜で覆いかくし、自らの道を行くのです。頭を下げるふりをしつつも、彼らの心と手は自分たち退きとを成し遂げるべく、以前にもまして大胆となるのです。そして彼らはこのようなやり方に、望んで知りつつ従うのです。それは、権威は転覆されるのではなく、刺激されるべきものである、ということが彼らの思想体系の一部を成しているからであり、また集合的良心を徐々に改変するために、彼らが教会の階層中に留まることが必要だからでもあります。そして、このように述べるに当たって彼らは、集合的良心は彼らの許にないこと、また、彼らはかかる良心の解釈者を名乗るいかなる権利もないことを告白していることになります。


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