Quantcast
Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』 近代主義の誤謬について 聖ピオ十世教皇(2)

$
0
0
回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』
近代主義の誤謬について
聖ピオ十世教皇

訳者 聖ピオ十世司祭兄弟会

Copyright (c) Society of Saint Pius X, 2001
All rights reserved


これまでにも排斥されてきた近代主義

  28.尊敬する兄弟たちよ、出版物の著者としてであれ、思想の宣布者としてであれ、近代主義者たちにとって、教会には安定したもの、変わり得ないものは何一つありません。実際、彼らは自らの教説を唱えるに際し、[思想的]先駆者を有していないわけではありません。と言うのも、先任者ピオ九世が次のように述べたのは、こういった者たちについてだったからです。「天主的啓示の敵であるこれらの者たちは、人間の進歩を天上にまで祭り上げ、かつ向こう見ずで涜聖的な大胆さでこれをカトリック教の中に取り入れようとするのです。あたかもこの宗教が天主のではなく人間の業、または人間の努力によってより完全なものと成され得る、ある種の哲学的発見であるかのように。」かかる宣言によって私たちの認識が、信仰に関する認識も含めて、妨げられるわけではなく、反対に、支持かつ保持されます。なぜなら、その同じ公会議は続けて、次のように述べているからです。「それゆえ知性、学知、知恵が個人において、また大衆において、信仰者において、また教会全体において豊かに、そして力強く世々代々にわたって増大し、前進せんことを。しかるに、それはその種類においてのみ、すなわち、同じ教義、同じ意味、同じ解釈に基づいてである。」

近代主義のさらなる検証

  29.私たちは哲学者、信仰者、それに神学者としての近代主義者を研究してきました。私たちはこれから歴史学者、批判学者、護教論者、ならびに改革者としての近代主義者を考察してみなければなりません。

歴史学者としての近代主義者

  30.ある近代主義者たちは、歴史の研究に専念し、哲学者として見られることを極度にきらうようなそぶりを見せます。「哲学については全く何も知らない」と彼らは公言しますが、ここにおいて彼らは非凡な抜け目なさを示します。と言うのも、彼らは自分たちが客観的と称するところから外れているとの非難を自らの身に招くことのないよう、種々の哲学的理論に対して、どのようなものであれ好意的先入見をもっているとの嫌疑を免れることを何よりも望んでいるからです。しかるに、彼らの歴史学および批判学には、彼らの哲学が浸透しており、また彼らの導き出す諸々の歴史批判的結論は、彼らの哲学的原理の当然の帰結なのです。このことは、誰であれじっくりと考えてみる人には、いたって明らかでしょう。彼ら近代主義者の3つの主な法則は、すでに扱った彼らの3つの哲学的原理の中に含まれています。すなわちそれは、不可知論の原理、信仰による事物の変容の定理、および歪曲化と称し得るもう一つ別の原理です。これらの原理のそれぞれから、どのような結果が生じてくるのかを見てみることにしましょう。「不可知論によれば、歴史は科学と同様、まったく現象のみを扱い、その結果、天主、また人間的事柄に対する天主の一切の介入は、信仰のみに属するものとして、信仰に委ねられねばなりません。それゆえ、天主的ならびに人間的という2重の要素が結び合わさっている事物、たとえばキリスト、または教会、あるいは秘跡、ないしはそれに類したその他多くの事物においては、区別と分離が成されねばならず、人間的要素は歴史に委ねられ、他方、天主的な要素は信仰に割り当てられなければなりません。ここから、近代主義者たちの間で非常に広まっている、歴史上のキリストと信仰上のキリストとの区別、歴史上の秘跡と信仰上の秘跡ととの区別、およびこれに類した事柄における同様の区別という、よく知られた区別が出てくるのです。次いで私たちは、歴史学者が取り扱うべき、文書中に現れている限りでの人間的要素は、信仰によって変容されたもの、つまり、本来の歴史的状況よりも高く上げられたものとして見なされるべきである、ということを了解します。このため、キリストを扱うに当たって、心理学が人間について述べること、あるいは彼が生きた場所と時代から私たちが推測するところにしたがって、歴史学者は、自然的条件における人間[の域]を越え出る一切のことを除外しなければなりません。」最後に彼らは、第3の原理に基づいて、歴史の領域に属する事柄さえもふるいにかけられ、彼らの判断に即して事実の論理[的関係]に合わないことや、取り扱われている人物に似つかわしくないことは全て除外され、信仰に委ねられることを求めます。こう言うわけで、彼ら近代主義者は、キリストが彼の話を聞く群衆の[知解]能力の範囲外のことを、たとえ一度であれ口にしたということを認めようとしないのです。このため、彼らはキリストの現実の歴史から、その説教中に見出される全ての寓話をのぞき去り、それらをことごとく信仰の手に委ねるのです。私たちは、いかなる原理に基づいて彼らがこういった区別を成すのか問うてみることができるでしょうか。彼らの返事は、自分たちは当の人物の人格、彼の生活状態、教育、諸々の事実が生じた状況の複雑な絡み合いに即して議論しているのだというものです。つまり要するに、───もし私が彼らを正しく理解しているのであれば─── 主観的なものにすぎない原理に基づいて議論しているのです。このようにして、徹頭徹尾ア・プリオリに、また、それについて無知であると公言しながら、[実際は]支持している種々の哲学的原理に立脚し、彼らは自分たちがキリストについての現実の歴史と称するものに即してこう宣言します。すなわち、キリストは天主ではなく、したがって天主的なことは一度として行わず、また人間として、その生活した時代から判断して彼が言い、また為したであろうと、彼らが見なすところのことのみを言い、行ったのだと。

批判学者としての近代主義者

  31.歴史がその種々の結論を哲学からとるように、同様に批判学も歴史から自らの諸結論をくみとります。批判学者は、歴史学者から供給されたデータに基づいて、自分の取り扱うあらゆる文書を2つの部分に分類します。先に述べた3重の除外をくぐり抜けて残ったものは現実の歴史を構成し、その他の部分は信仰の歴史ないしは内的と称される歴史を構成します。近代主義者たちは、これら2種類の歴史をきわめて入念に区別するのですが、ここで注意すべきなのは、彼らが信仰の歴史を現実の歴史と対置させる際、後者をまさに、事実に即したものとして見なしている、という点です。こういうわけで、先述したように、「現実のキリスト」および「実際には存在しなかった信仰上のキリスト」からなる2つのキリストという概念が生まれるのです。一方は「特定の時間と特定の場所で生きたキリスト」であり、他方は「信仰者の敬虔な観想の外では決して存在したことのないキリスト」です。後者の例として、たとえば近代主義者によれば始めから終わりまで単なる観想でしかない聖ヨハネ福音書中に見出されるキリストがこれに当たります。

近代主義者の批判学の原理

  32.しかるに、歴史に対する哲学の支配はこれに止まりません。今述べた、種々の文書を2つの部分に分ける区別が成された後、哲学は再び生命的内在という自らの教義を従えて介入し、「いかに教会の歴史における一切の事物は、生命的発出によって説明されねばならないか」を示します。[彼らによれば]「あらゆる生命的発出の原因ないし条件は、何らかの必要ないし欠乏の中に見出されるべきものですから、したがっていかなる事実も、それをつくり出した必要に先行するものとは見なされ得ません。歴史的には、事実が必要より後になるのです。」それでは、歴史学者はこの原理を念頭に置いて、何をするのでしょうか。彼は研究の対象となっている文書を ───それが聖書に含まれているものであろうと、あるいはその他の書物から取られたものであろうと─── 再度見直し、それらの文書から教会が殊更抱いている必要のリストを独自に作り上げます。ここで言う「必要」とは教義に関するもの、あるいは典礼、あるいはそれらの文書中で叙述されている当の教会において見出される他の事柄に関するもののことを指しますが、歴史学者は自分の作成したこのリストを批判学者に託します。批判学者は信仰上の歴史を取り扱っている文書を手にとり、それらを時代ごとに分類し、そうして必要のリストと完全に対応するようにします。これは批判学者が「諸々の事実は必要にしたがって生じるのと同様、叙述もまた事実に引きつづいてなされるものである」という信条を常に自らの指導原理としているからです。[彼らによれば]「時として聖書中のある部分───例えば[使徒]書簡───それ自体が、必要によって創り出された事実を構成している、ということが起こり得ます。しかし、たとえそうではあっても、いかなる文書の年代も、個々の必要が教会の中で表面化した年代によってのみ確定され得るという原則は依然として有効です。さらに、ある事実の発端および発展とを区別しなければなりません。ある日生まれたものが成長するには時間を要するからです。」それゆえ「批判学者は、自らの取り扱う時代ごとに分類された文書をもう一度見直し、種々の事実の起源に関するものを、当の事実の発展を扱ったものから分離するという仕方でそれらを再び2つの部分に分け、そしてこれらを各々の時代ごとにもう一度分類しなければならない」のです。

近代主義の歴史書に見られる混乱

  33.そこで、再び哲学者が介入し、歴史学者に、彼のなす全ての研究において進化の掟と法則に従う義務を課します。これを受けて歴史学者は、もう一度自分の扱っている文書を吟味し、異なった時代において教会に影響を及ぼした状況および諸々の条件、教会が前面に出してきた保守の力、教会を刺激して進歩を遂げるよう駆り立ててきた教会内外の必要、教会が直面しなければならなかった障害、つまり、進化の法則が教会においてどのようなかたちで実現されてきたかを見定めるのに役立つ一切のことを入念に検証します。この作業をすませた後、歴史学者は自分の仕事の仕上げとして、[教会の]発展の歴史を概略的に描き出します。引き続いて、批判学者が当の文書の残りの部分を埋め合わせることになります。批判学者は歴史学者が記述していない箇所を埋めるべく筆を執り、こうして歴史が完成します。ここで私は尋ねます。誰がこの歴史の著者なのでしょうか。歴史学者でしょうか。それとも批判学者でしょうか。無論、このどちらでもなく、哲学者です。この歴史中に記されてあることは、始めから終わりまで一切がア・プリオリであり、また異端の気味のある、体験に基づかない空理空論です。これらの人々は確かにあわれむべき者たちであり、使徒パウロの次の言葉は、まさに彼らによく当てはまるものと言えましょう。「彼らは自分の考えに傲り高ぶり...(中略)...自ら知者と称えて愚かな者となった。」その一方で、彼らは教会が独自の流儀で自らに都合のいいように種々の文書を編纂し、かつ混交している、と非難して教会に対する反感をあおっています。このようにする際、彼らは自らの良心が直截に自分たちを咎める、他でもないそのことについて教会を断罪しているのです。

近代主義者による聖書の扱い方

  34.[文書のかたちで残された]記録をこのように分断し、世紀ごとに分ける結果、[彼らによれば]「当然のごとく聖書の諸書典はもはやその名をもって呼ばれている著者の作とされることはできなくなってしまう」のです。近代主義者たちは、「一般的に言ってこれらの書───とりわけモーセ五書ならびに3つの共観福音書───が度重なる付け足しと神学的ないしは寓意的解釈、あるいは種々の異なる文章をつなぎ合わせるためにだけ書き加えられた箇所の挿入によって、原初の簡潔な叙述から徐々に形成されていった」と何のためらいもなしに断定します。「これははっきり簡潔に言うならば、聖書に含まれる諸書典の中に、私たちは信仰の進化から由来し、これに対応する生命的進化の存在を認めねばならない」ということです。彼らの述べるところによれば、「かかる進化の痕跡はあまりにも明瞭であり、およそこの進化の歴史を綴ることができる」くらいです。実際、彼らはそのような歴史をしたためるのであり、しかも、あまりに安易な確信をもってそれを著すため、ほとんど、いく時代にもわたって聖書の諸書の記述を水増ししていった著作者たちの仕事を、その目で見てきたかのように思われるほどです。このような見解を保持するに当たって、彼らはテキスト批判と彼ら自身が称する批判学の一分野を援用し、何某かの事実あるいは文章の一節が正しい本来の箇所にないということを、その他これに類した議論をもち出して実証するよう腐心します。実際、彼らは自らのために、あるものがその本来の場所にあるか否かについて彼らが確信をもって下す判定の基準となる、特殊な形態の叙述ないし論述を編み出したように見受けられます。しかるに、彼らは一体このような識別をする資格がどれほどあるでしょうか。聖書について行っている作業について彼らがとうとうと説くのを聞く人は、彼らがかくも多くの欠陥を見つけ出すことのできた聖書というものを、彼ら以前の誰一人としてひもといてみたことがなかったかのように感じられることでしょう。しかし、実際のところは、才知、学識、聖性において彼らをはるかに凌ぐ数多の教会博士たちのことごとくが聖書の各書をありとあらゆる仕方でふるいにかけた結果、その中に何か一つでも難ずべきことを見つけるどころか、それらを深く調べれば調べるほど、このようなかたちで人々に語りかけてくださった天主の慈愛に一層、心からの感謝を捧げたのです。残念ながら、これらの偉大な博士たちは、近代主義者たちが有している「研究の助力」なるものを持っていませんでした。天主の否定に根ざす哲学ならびにそれ自体で存立する [近代主義者たちの] 基準を、自らの規範ないし導きとして抱いていなかったからです。

カトリックの教えと矛盾する近代主義

  以上、近代主義者の歴史学的手法を充分明晰に示してきたことと信じます。哲学者が先頭を切り、歴史学者がそれに続き、そして、しかるべき順序にしたがって内的批判およびテキスト批判がその後を締めくくります。そして、第一原因は諸々の二次的原因に自らの力をわかち与えることをその特徴とするため、ここで私が問題としている批判がただ無差別にどのような批判でもというわけではなく、正しくも不可知論的、内在論的、そして進化史観的と呼ばれている批判である、ということは明らかです。そのため、誰であれこれを採用し、適用する人はその中に含まれている誤謬をも奉じていることを公言することになり、自らをカトリックの教えに対立する立場に置くはめになります。このようなわけで、一部のカトリック者の間で、この近代主義がかくも広く受け容れられるに至ったということは、実に驚くべき事態です。この原因として2つのことが挙げられるでしょう。第一に、近代主義学派の歴史学者ならびに批判学者があらゆる国籍ないし宗教の壁を越えて互いの間で結ぶ緊密な同盟、第二には、彼らの限りを知らぬ厚顔無恥です。すなわち、彼らの中誰か一人が何か口に出して言えば、他の者は科学がさらに一歩前進したとこぞって賞賛の声を上げるのですが、他方、外部の者が当の新しい発見を自分で調べてみようと思うと、彼らはその人に対して共同戦線を張るのです。その新説を否定する人は無知な者としてこきおろされる一方、それを支持し擁護する人は彼らからの惜しみない賞賛をほしいままにします。このようにして彼らは少なからぬ者たちを陥れていますが、その同じ人たちがもし自分が何をしているかに気づいたならば、恐れをなして後込みするに違いありません。謬説を教える者たちの横柄で威圧的な態度は、彼らに賛同する、より浅はかな者たちの無思慮な追従を得て、いたるところに蔓延し、病毒の感染をもたらす腐敗しきった空気を生み出しています。しかし、[批判学者としての近代主義者についての考察はひとまず終えて] 今度は護教論者としての近代主義者に論究を進めねばなりません。

護教論者としての近代主義者

  35.近代主義の護教論者は2つの意味で[近代主義の]哲学者に依存しています。第一に、間接的に依存しており、それは彼が主題とするものが歴史───先に見たように哲学者によって述定された歴史───であるからです。第二に近代主義の護教論者は哲学者に直接的に依存しており、それは彼が自らの教条ならびに結論を哲学者からゆずり受けるからです。ここから、「新しい護教論において宗教的事柄に関する論争は心理学的および歴史学的研究によってその正否が判定されなければならない」という近代主義学派に共通の定理が出てくるのです。さて、近代主義の護教論者は表舞台に躍り出、唯理主義者たちに向かって、「自分たちはたしかに宗教を擁護しているが、しかし聖書からのデータもしくは今日教会で一般的に用いられている、古い線に沿って書かれた歴史を使う意志はいささかもなく、ただ現代的原理に立脚し、現代的手法にしたがって作成された現実の歴史のみを用いるだけだ」と公言します。このように語る際、彼らは聞き手に応じた論法を用いているわけではありません。なぜなら「ただこの種の歴史にのみ真理が見出され得る」と彼らは心から信じているからです。彼ら近代主義の護教論者には、著作中で自分たちに裏表がないことをわざわざ披瀝する必要はないと感じられるのです。彼らはすでに唯理主義者たちから、同じ旗印の下に闘う仲間として知られ、賞賛されています。そして彼らはこういった礼賛を得て得意になるばかりでなく、───それならば、真のカトリック者に嫌悪感をもよおさせるだけのことでしょうが───それを教会からの譴責に対する埋め合わせとして利用するのです。

近代主義護教論の方法論

  ここで、近代主義者がどのように彼独自の護教論を展開するかを見てみることにしましょう。彼が自らに課す目的は、いまだ信仰をもたない人に、近代主義の体系において信仰の唯一の基礎とされるところの、カトリック宗教の体験を得させることです。彼は客観的手法、ならびに主観的手法という2つの方法から自由に選ぶことができます。このうち前者は、不可知論を出発点とし、「宗教、とりわけカトリック教は、『誠意のある全ての心理学者および歴史学者をして、その歴史には何か不可知なるものの要素が隠されている』と認めざるを得なくするほどの生命力を宿したものである」ということを示そうとします。この目的を果たすためには、今日あるカトリックの宗教がイエズス・キリストによって創立されたところのものであること、すなわち、それが、イエズス・キリストがこの世にもたらした芽生えが漸進的に発達したものに他ならないことを証明する必要があります。このため、まず第一に、そもそもこの芽生えがどのようなものであったかを特定することが絶対必要となりますが、近代主義者は次の定式文によってその問題を解決することができるとしています。すなわち、「キリストは天主の御国の到来を告げましたが、これは短期間のうちに実現すべきことであり、またキリストはそのメシア、天主から与えられた創立者かつ統治者となるべき者でした。次に、カトリック教の中に常に内在し、永在するこの芽生えが、どのように歴史の流れをつうじて徐々に発達してきたかが示されなければなりません。実際、この芽生えは様々な状況に次々と自らを適合させ、そういった状況から自らの目的のために役立つあらゆる教義的、文化的、教会的な形態を生命的同化吸収によって借り受けて発達してきたのです。その一方で、この芽生えはあらゆる障害を克服し、全ての敵を打ち負かし、あらゆる攻勢、戦闘に耐え抜いてきました。この山のような数多の障害、敵対勢力、攻撃、闘争、ならびに教会がこれら全てを通して示してきた生命力と豊饒性をじっくりと、しかるべく考えてみる人は誰でも、たとえ進化の法則が教会の生活において目に見えるかたちで現れているにしても、かかる法則をもってしてはその歴史の全てを説明することができない、と認めざるを得ません。不可知なるものがそこから立ち現れ、私たちの前に姿を現します。」このように彼らは議論を立てるのですが、その際彼らは、原初的萌芽に関して自分たちの成す確定が、不可知論および進化論に根ざす哲学によるア・プリオリな仮定にすぎないこと、またこの芽生え自体も、自分たちの主張にうまく合うよう、何の根拠もなく定義されたものであることに気づいていません。

内的混乱をはらんだ近代主義

36.このような論法によってカトリック教[の卓越性]を証明し、弁護しようとする彼ら新しい護教論者たちはしかし、この宗教の中に多くの好ましからざることがあると認め承知するのにやぶさかではありません。それどころか、彼らは「その教義さえもが誤謬と矛盾とから免れていない」ということを発見したと、あからさまに、満足を下手に隠そうとしながら、告白するのです。彼らはつけ加えて、これは酌量の余地のあることであるばかりでなく、───奇妙なことに─── それは正しく、適当なことであると言うのです。彼らによれば「聖書の各書の中には、科学や歴史に関して明らかな誤りのある箇所が多く見出される」のです。しかるに、彼らの言うには、「これらの書の主題は科学や歴史ではなく、ただ宗教と道徳なのであり、これらの書において、歴史と科学は一種の覆いとして働き、その中に包み込まれている宗教的および道徳的体験が、より容易に衆人の間に浸透するのを助けるだけのものである。民衆は科学と歴史とを、これらの書において表現されているままのかたちで理解するのであり、そしてもし科学と歴史がより完全な仕方で表現されたならば、[理解の]助けとなるどころか、妨げとなってしまうのは明らかなこと」なのです。さらに彼らは「本質的に宗教的なものである聖書は、必然的に生命に満ちあふれたものであるはずだ」と補足します。ところで、[彼らによれば]「生命はそれ自身の真理と論理とを有していますが、それは理性によって把握される真理および理性によって構築される論理とはまったく異なり、別の次元に属するものです。すなわち、この真理とは適合、ならびにそれ(真理)がその中で生きるいわゆる媒体と、それが生きる目的との比例関係の真理なのです。」最後に、抑制の感覚を一切失った近代主義者たちは、「生命によって説明されることは、たとえ何であれ真実であり、正当である」と宣言するまでに至ります。

真理の単純さ

  尊敬する兄弟たちよ、一つの、ただ一つの真理のみ存在すると信じ、また聖書が「聖霊の霊感を受けて書かれ、天主をその著者とする」と信じる私たちは、このような教説は天主ご自身が便宜上の嘘をつかれた、と言うことに等しいと断言します。そして、聖アウグスチヌスと共に、こう述べるのです。「かくも崇高な権威において、ただ一つでも便宜上の嘘[の存在]を認めるならば、一見実践あるいは信じることが困難に見える命題の中で、その同じこの上なく有害な原則に基づいて、その書の著者が故意に、ある目的のためについた嘘であると説明しおおせない、ただ一つの文もなくなるでしょう。」そして、このようにして、この聖なる博士が続けて述べているような事態が生じるのです。つまり、「誰もが自分の好む、好まないに応じて、これらの文章───すなわち聖典───に記されていることを信じ、あるいは信じるのを拒むようになる」のです。しかし、近代主義者たちは自分たちの定めた方向に邁進してゆきます。彼らはまた「ある特定の教理の証明として持ち出されるある種の議論、例えば預言に基づいた議論は、何らの理知的根拠も有していない」と認めます。しかるに、彼らはこれらさえ宣教のための術策であり、生命[の必要]によって正当化され得るものだとして擁護するのです。それのみならず、彼らは「キリストご自身さえもが天主の御国の到来の時期について明らかな間違いをおかされた」ということを認める、否、声を大にして主張するのです。そして彼らの言うには、これについて驚くにはあたりません。なぜなら、[彼らによれば]「キリストご自身も生命の法則に服されていた」のですから!こうなれば、教会の諸々の教義は一体どうなってしまうでしょうか。近代主義者たちに言わせれば、「これらの教義は甚だしい矛盾に満ちています。しかし、それに何の問題があるでしょうか。なぜなら、生命の論理がそれらを認め、受け容れているという事実はさておき、それらの教義は象徴的真理にそぐわぬものではないからです。問題となっているのは無限なるものであり、しかるに無限なるものは無限に多様な側面をもっているのではないでしょうか。」つまるところ、こうした諸説を主張し、弁護するために、彼らは、「無限なるものに対して捧げることのできる最も気高い礼賛は、互いに相矛盾する命題をこの存在に帰することである」、と憚(はばか)ることなく宣言するのです。しかし、もし彼らが矛盾さえも正当化するのなら、彼らが正当化するのを拒むようなものが、一体何かあるでしょうか。

主観的議論

  37.しかるに、[近代主義に従えば]不信仰者をして信仰を受け入れるよう導くのは、客観的議論によってだけではありません。主観的な議論もまた存在するのであり、このために近代主義の護教論者は内在という教説にその根拠を求めます。彼らは事実、自分たちが関わる当の不信仰者が、自らの本性ならびに生命の奥深いところに、何かある宗教、それもただどんな宗教でもよいのではなく、カトリック教の名で知られている特定の宗教に対する必要および欲求が隠れていることを納得させようと努めます。「この宗教こそが生命の完全な発達のために絶対必要なものとして要請される宗教だから」です。ここでもまた私は、内在を教説としては否定しながら、それを護教論の手法として用いるカトリック者がいることに不服の念を表わす充分な理由をもっています。実際、こうした人々はあまりに賢明さを欠いた仕方でそうするので、カトリックの護教家たちによって常に、しかるべき限度をまもって強調されてきたように、人間には超自然的事柄に対する受容能力ならびに適合性がある、と認めるに止まらず、「人間本性には超自然的次元に対する真の、厳密な意味での必要がある」と認めさえするように見受けられるほどです。実のところ、カトリック宗教に対するこのような[人間本性の根元からの]切迫した必要という論拠を用いるのは、まだ穏健な方の近代主義者たちです。その他の徹頭徹尾のとでもいうべき近代主義者は、不信仰者に、彼の存在の内に、キリストご自身がその意識の中に持っておられ、人類に伝達されたのとまさに同一の芽生えが潜んでいる、ということを示そうとします。尊敬する兄弟たちよ、以上が近代主義たちの用いる、彼らの教説と完全に調和した護教論の手法の概略的な説明です。こういった誤謬にあふれた手法ならびに教説は、建設のためではなく破壊のためのもの、また、カトリック信者をつくるためではなく、すでにカトリック信者である人を異端へと誘い入れるためのものであり、宗教全体の完全な転覆へと導く種類のものです。

改革者としての近代主義者

  38.さて、私はここで、改革者としての近代主義者について少し述べておかなければなりません。これまで述べてきたことから、このような人々が抱く刷新への熱情がどれほど強く、どれほど激しいものであるかは充分すぎるほど明らかです。カトリシズムの中で、かかる熱情の対象とならぬものは、実に一つとしてありません。彼らは哲学が、特に神学校において刷新されることを望んでいます。彼らはスコラ哲学が哲学史の単なる一章として種々の絶対的体系の中に位置づけられること、また「唯それのみが真でありかつ私たちの生きる時代に適合したものである現代哲学」が青少年に教えられることを望んでいます。さらに、彼らは神学の刷新を希求しています。合理的神学は現代哲学をその基礎とし、また実証神学は教義[発達]の歴史に基づいてなされるべきである、としています。歴史に関していえば、歴史は彼らの方法論ならびに現代的原理にしたがって書かれ、教えられなければなりません。教義とその進化は科学と歴史とに調和されねばならない、と彼らは力説します。「公教要理においては、刷新されたものおよび一般の人々の理解能力の及ぶものをのぞいて、いかなる教義も記されるべきではありません。」礼拝について彼らが言うには、「外的な信心の数は減らされ、これ以上それが増えることのないように手段が講じられなければなりません。」もっとも、彼らの中で象徴主義を信奉する一部の者は、このことに関しては、より寛容な姿勢を見せるのですが。

  彼ら近代主義の改革者は、教会の統治機構がその全ての部門において改革されること、特に規律および教義に携わる部局の改革を声を大にして唱えます。彼らは外部に向かっても、また内部においても、「教会の統治機構が、今やことごとく民主主義を志向する現代人の意識に合致されねばならず、したがって聖職者の中でも低い階級に属する者たち、さらには一般信徒にさえも同機構において何がしかの役割が与えられるべきであること、また、過剰に一点集中している権威もまた、分権化されねばならないこと」を強く主張しています。ローマ聖省、中でも特に図書検閲聖省ならびに検邪聖省も同様に改変されなければなりません。教会の権威は社会的および政治的な世界において、その行動方針を変えなければなりません。すなわち、政治的機構の外にありながら、自らをそれに適合させて、これに自らの精神を浸透させることを図るべきなのです。道徳に関しては、彼らは活動的な徳が消極的な徳よりも重要であり、その実践が、より奨励されるべきであるとするアメリカ主義者の原理を採り入れています。彼らは「聖職者が原初の謙遜と清貧とに立ち帰り、また思想と活動において近代主義の原理を認め受け入れること」を求めます。さらに一部の者は、プロテスタントの教師の教えに喜んで聞き入り、「聖職者の独身制の廃止」を望んでいます。こうなると、教会の中で彼らによって、彼らの原理にしたがって改革されるべきでないものが一つでもあるでしょうか。

あらゆる異端の総合である近代主義

  39.尊敬する兄弟たちよ、ある人たちには、私がこのように近代主義の教条をあまりに長々と詳細に敷衍してきたと思われるかもしれません。しかし、自分たちの思想を理解していない、という彼ら近代主義者のおきまりの非難に答え、またさらに、彼らの体系がばらばらで互いに関連のない理論ではなく、かえっていわば密接に結びついた一つの全体であり、その中の一つを認めたならば、全てのを認めざるを得なくなるということを示すために、こうすることが必要だったのです。それゆえ、私はこの解説をいくぶん教育的な形式で行い、また近代主義者たちが導入した、ある種の耳慣れない用語をはばからずに用いざるを得ませんでした。さて、こうしてその体系全体に眼を注いだならば、私がこれをあらゆる異端を総合したものである、と断じたところで、誰一人驚く者はないでしょう。もし誰かが[カトリック]信仰に対して打ち出されてきた全ての誤謬を一つに集め、それらみなの樹液と実質とを一つにまとめようとしたとしても、近代主義者たちがしたよりも、首尾よくそれを成し遂げることはできないでしょう。否、彼ら近代主義者は、それよりももっとひどい結果を招こうとしているのです。なぜなら、先にほのめかしたように、彼らの体系は単にカトリック教の抹殺ではなく、宗教全体の抹殺を意味するものだからです。それゆえ唯理主義者たちは近代主義者に惜しみない賞賛を浴びせ、その上、彼らの中でもとりわけ率直でうそ偽りのない者たちは、近代主義者たちを、あらゆる盟友の中でももっとも価値のある盟友として得た、と言って喜んでいるほどです。

  尊敬する兄弟たちよ、ここでしばしの間、破滅的な教説である不可知論にもう一度、注意を向けてみることにしましょう。この教説によって、天主に対する知性の側からのいかなる道も人間には閉ざされてしまうのですが、他方、霊魂のある種の感覚、ならびに活動の側から、よりよい道が開けるのだとされています。しかし、このような主張がいかに誤ったものであるか気づかぬ者があるでしょうか。と言うのも霊魂の感覚とは、知性もしくは外的感覚が[霊魂に対して]現前させる事物の活動に対する反応に他ならないからです。知性を取り去ってしまうならば、元来感覚に追従しがちな人間は、これの奴隷となってしまいます。また、もう一つ別の観点からも、このような主張は二重の誤りをおかしていると言えます。なぜなら、宗教的感覚にまつわるこれらの夢想とも言ってよい理論は決して常識を破壊してしまうことはできず、そしてその常識は感情ならびにその他、心を虜にしてしまう一切のものは、真理を発見する助けとなるどころか妨げとなることを私たちに教えているからです。私がここで言う真理とは、それ自体における真理のことです。と言うのも、内的な感覚ならびに活動の結実に他ならない、もう一つ別の純粋に主観的な真理は、たとえ言葉の遊びのために有用であるとしても、自分の外の世界に、その手の内にいつの日か身を横たえねばならない天主が存在するのか否かを、他の何事にも先んじて知ることを望む人には、まるで何の役にも立ちません。無論、近代主義者たちは体験というものを持ち出して、自分たちの体系の欠陥を補おうとするのですが、当の霊魂の感覚に、かかる体験は一体何をつけ加えるでしょうか。対象の現実性についての確信をある程度強め、これを[当の体験自体の]程度に比例して深めること以上には、全く何も付け足しはしません。しかるに、これら2つのことは霊魂の感覚を、感覚の他の何ものかに変えることは決してなく、また、知性によって導かれるのでなければ誤りに陥りがちなその性質を改変させることもありません。反対に、これら[の作用]は、ただ感覚の持つこの性質を固め、一層強いものとするだけです。と言うのも、感覚とは、激烈であればあるほど、それだけ一層本当の意味での感覚であるからです。そして、私たちがここで取り扱っているのは宗教的感覚およびそれに含まれている体験であるため、この種の事柄において、いかに賢慮およびその賢慮の規範となる学識が必要であるかは、尊敬する兄弟のみなさんには周知のことでしょう。あなた方はそれを自ら自身、人々の霊魂、殊に感情がその中において支配的立場にある霊魂に接することを通じて熟知しています。あなた方はまた、修徳神学のさまざまな著作を読むことを通じてこのことを承知しています。[ちなみに]この種の著作の価値を近代主義者たちは、まったく軽視していますが、これらは学知ならびに堅実さにおいて、彼らの著作をはるかに凌ぎ、さらに近代主義者たちが自ら具備すると思いなしているものよりもはるかに緻密で洗練された観察に基づいています。近代主義者がかくも誇りとする、これらの不完全な体験を検証もせずに真実のものとして受け容れることは、ほとんど狂気の沙汰か、あるいは少なくともこの上なく向こう見ずな行為であるように思われます。私たちはここで、次のように問いかけてみましょう。もし体験が彼らの目には、それほどの力と価値とを有しているのであるとしたら、どうして彼らは、近代主義者たちが誤った道を歩んでいるという、かくもおびただしい数のカトリック信徒が抱く体験にも同等の価値を置かないのでしょうか。それはつまり、カトリック者の体験だけが誤り、欺瞞を含む体験である、と言うことでしょうか。人類の圧倒的に大多数は、感覚と体験だけでは───もしそれらが理性によって照らされ、導かれるのでないなら───天主の認識には達し得ないという見解を抱き、また常に抱き続けるでしょう。もし近代主義者たちの見解が正しいとすれば、無神論と一切の宗教の欠如以外の何が残るでしょうか。もちろん、私たちをこの窮地から救い出すのは象徴主義の教条ではありません。なぜなら、もし宗教の含むあらゆる知性的な───と彼らの称する─── 要素が単に天主の象徴でしかないのであれば、天主の御名自体、もしくはその天主的な位格さえも同様に象徴に過ぎぬものとなり、そしてもしこれを認めるならば天主の位格もまた疑念をゆるす事柄となり、汎神論への門が開かれるでしょう。そして純然たる汎神論へと、天主的内在という別の教条が真っ直ぐ導くのです。と言うのも、私が問うているのは、次の問いだからです。かかる内在[の教説]は、依然として天主を人間から区別されたものとして認める余地を残すのでしょうか。もし、そうであれば、それはカトリックの教理とどこが違うのでしょうか。また、どうしてそれは外的な啓示という教理を拒絶しなければならないのでしょうか。もし、天主と人間とを区別する余地を残さないのであれば、それは汎神論になります。さて近代主義者の理解する限りでの内在の教条は、あらゆる意識[内]の現象は人間たる限りでの人間から出来するという見解を保持し、表明するものです。ここから厳密な論理にしたがって導き出される結論は、人間と天主との同一性であり、これは汎神論に他なりません。近代主義者たちが科学と信仰との間に成す区別も同じ結論へと至らせます。彼らの言うには科学の対象は可知的なものの現実であり、信仰の対象はその反対に、不可知なるものの現実だからです。ところで、不可知なるものをして不可知なるものたらしめるのは、対象となるものと知性との間に一切の均衡関係が存しない、───これは近代主義者の教説においてさえ、いかなるものによってもうめることのできない、とされる均衡の欠如です───という事実に他なりません。そのため、不可知なるものはそのまま残り、信仰者にとっても、哲学者にとっても永遠に不可知なるものとしてとどまることになります。したがって、もし何らかの宗教が存在する余地があるとすれば、それはただ不可知なるものの宗教でしかあり得ません。そして、この不可知なるものが、一部の唯理主義者たちが語るところの、宇宙の霊魂とは異なると主張されるとすれば、それは私には了解しかねることです。これらの論拠によって、近代主義がいかに多くの道筋を通して無神論ならびに一切の宗教の抹殺へと導くかが、充分すぎるほど明らかに示されたでしょう。プロテスタント主義は、この道の第一歩を踏み出し、近代主義が二歩目を印し、無神論がさらにもう一歩、歩を進めるのです。

好奇心の危険

  40.尊敬する兄弟たちよ、近代主義のもつ意味に一層深く分け入り、これほど深い傷に対する適当な治療策を見出すために、私たちはそれを生み出し、その成長を育む諸々の原因を究明しなければなりません。その近接的、直接的原因が知性における誤りであることには疑いの余地がありません。近代主義の遠因となるものについては、2つの項目にまとめることができます。好奇心と傲慢です。好奇心は、もし賢明に律されるのでなければ、ただそれだけで全ての誤謬の充分な理由となります。先任者グレゴリオ16世は、このような見解に基づいて次のように記しています。「理性が新奇なものを求める精神に屈するとき、使徒[パウロ]の警告に反して、それが本来知るべきものよりさらに知ろうとするとき、また、自ら[の力]を過信し、真理が誤謬のわずかの陰さえも被らずに見出されるカトリック教会の外に真理を見出すことができると考えるとき、人間の理性の逸脱は見るに堪えない光景を呈します。」

近代主義の中に居を構える傲慢

  しかるに、霊魂の上に[好奇心よりも]比較にならないほど大きな影響力を及ぼしてそれを盲目にし、誤謬へと導くのは傲慢です。そして傲慢は近代主義の中に、それが自分の住居であるかのようにあぐらをかきます。傲慢は、近代主義の教えのいたるところに自らを養うものを見出し、そのあらゆる側面に潜みます。実際、近代主義者をして、自分たちが万事の基準[を定める者]であると見なし、かつそのように振る舞うほどに自信で満たすのは、この傲慢です。彼らを虚しい傲りで満たし、知識の唯一の保持者を自認させるのも、また、得心し、僭越心にふくれ上がって「我々は他の者たちとは違う」と言わせるのも、さらに、自分たちが他の人々と同じように見えることのないよう、最も愚昧な新説さえをも採り入れ、また自ら考案するよう導くのも傲慢です。さらに、彼らの心中に不従順の精神をかき立て、権威と自由との間に歩み寄りを要求させるのもまた傲慢です。傲慢のゆえにこそ、彼らは自らを改めることを忘れて他の者たちを矯め直す者となることを欲し、また、権威に対する敬意に、───最高の権威に対してさえも─── 甚だしく欠くようになるのです。まことに傲慢ほど近代主義へと直接に、また速やかに導くものはありません。もしカトリックの一般信徒もしくは司祭が、キリストに従うために己れを捨てるよう強いるキリスト教生活の戒律を忘れてしまい、傲慢を自らの心から引きはがすのを怠るならば、彼は他の誰にもまして近代主義の誤謬の格好の標的となります。それゆえ、尊敬する兄弟たちよ、このように傲慢の餌食となった者たちに対抗し、彼らを最も低い、目立たない役職にのみ用いることがあなた方の第一の義務となります。彼らが高い所に上ろうとすればするほど、それだけいっそう彼らを低い位置に置かなければなりません。それは彼らの地位の低さのゆえに、彼らの及ぼす害悪が制限されるためです。あなた方のもとにある若い聖職者らをあなた方自身で、また神学校の校長を通し、きわめて入念に審査しなさい。もし傲慢の精神を彼らの中に見出したならば、呵責なく彼らに司祭職の道を閉ざしなさい。倦むことのない用心深い警戒によって、今日に至るまでずっとこのことが為されていたならば、どれほどよかったでしょう。

近代主義者たちの無知

  41.近代主義の道徳的原因から知的原因へと視点を移すならば、第一の主要な原因として、無知が見出されます。そうです、教会の教師として目されることを望む近代主義者たち、現代哲学をかくも称揚し、スコラ哲学に対してあれほどの軽蔑を表す当の彼らが前者をその全ての偽りの魅力と共に受け容れたのは、まさに後者についての無知のために、彼らは思考の混乱を識別し、詭弁的論法を論駁する能力を持ち合わせていなかったからです。実に、かくも多くの、かくも甚だしい誤謬を含んだ彼らの体系全体は、信仰と誤った哲学との結合から生まれたものです。

宣布のための手段

  42.彼らがこれほどの熱意と精力を注いでその宣布に努めなかったとしたら、どれほどよかったでしょう。しかるに、自分たちの主義のためになす彼らの活動とたゆまぬ骨折りとはかくも大きいので、彼らがそれほどの精力を、教会の衰亡を招くために無駄に費やすのを見て、心を痛めずにはいられないくらいです。もし彼らの努力が、より良い方向に向けられていたならば、教会に対してきわめて大きな貢献を成すことができたでしょうから。彼ら近代主義者は2つの術策を用いて人々の知性を欺きます。第一のものは、自分たちの進路の妨げとなるものを取り除くために、第二のものは、自らの目的の達成の助けとなる、あらゆる手だてを積極的に、かつ根気よく開発および適用するために用いられます。自分たち[の計画実現]を阻む3つの主要な難点がスコラ的方法論に基づく哲学、教父の権威ならびに伝統、教会の教導権にあることを認識している彼らは、これらに対して容赦のない戦いを挑むのです。スコラ的哲学と神学とに対し、彼らは嘲笑と軽蔑という武器を用います。彼らにこのような行動をとらせるのが恐れであれ、あるいは無知、もしくはその両方であれ、確実なのは、彼らの心中で新奇なものへの情熱がスコラ学に対する憎悪といつも結びついていること、そして、ある人が近代主義に傾く場合、スコラ的手法に対する嫌悪感を示し始めるのが、その最も確かな印になる、ということです。近代主義者たち、ならびに彼らの信奉者たちが、ピオ九世によって排斥されている次の命題を心に呼び起こしますように。すなわち、「古えのスコラ学の博士たちが神学に取り組む際に用いた手法と原理は、現代のさまざまな必要あるいは科学の進歩にもはや対応することができない」という命題です。彼らは持てる限りの巧知を駆使して伝統の力を弱め、その性格を歪めるよう腐心します。しかるに、カトリック者に対して、何ものも[以下の決定を下した]ニケア第2公会議あるいはコンスタンティノープル第4公会議の権威を取り去ることはできません。すなわち、ニケア第2公会議は「異端者らの不敬な態度にならって教会の伝統を嘲笑し、何か新奇なことがらを案出し(中略)、あるいは悪意または術策によってカトリック教会の正当な伝統の何か一つでも覆そうと大胆にも試みる者たち」を排斥し、そしてコンスタンティノープル公会議は次のように宣言したのでした。「それゆえ、私たちは聖にしていとも栄えある使徒たちによって、また全ての正統な普遍的および地方的公会議によって、さらには神聖なことがらを解釈する者たち、すなわち教会の教父ならびに博士のことごとくによって、聖なる普遍の使徒的教会に伝えられている諸々の原則を保存し、守る[べき]ことを公言する」と。それゆえ、ピオ四世ならびにピオ九世教皇は、信仰宣言において下記の宣誓文を挿入するよう命じたのです。「私は使徒伝来のものである教会の伝統、およびその他教会が定めた儀典ならびに教令をいともかたく認め、受け容れます。」

教父を軽視する近代主義者たち

  近代主義者たちは、伝統に対してそうするのと同様、教会の聖なる教父たちに対しても審判を下します。途方もない大胆さをもって、彼らは「教父たちが、人格の面ではあらゆる崇敬にこの上なく値するとはいえ、歴史と批判学については全く無知だったのであるが、これは教父たちが生きた時代を考慮に入れれば、しかたのないことである」と衆人に説き聞かせるのです。最後に、近代主義者たちは、あらゆる手だてを尽くして教会の教導権自体の権威を減じ、弱めようとします。そのため彼らはその起源、性格、ならびにその諸々の権利を涜聖的に歪曲し、また、教会の敵対者らの中傷をそのまま繰り返して攻撃するのです。近代主義者の徒党のことごとくに、私の前任者が悲痛な心持ちで記した言葉が当てはまります。「真の光であられるキリストの神秘的な花よめに軽蔑と憎悪とをふり向けるために、闇の子らは世人の目前で彼女の顔に愚にもつかない中傷を投げかけ、そして種々の事物や言葉の意味ないしは真意をねじ曲げて、彼女を暗闇と無知との友、光明と科学、進歩の敵という烙印を押すのを常としてきました。」 このようなわけですから、尊敬する兄弟たちよ、近代主義者たちが持てる限りの辛辣さと憎悪を、教会のための戦いを熱心に戦うカトリック者にぶつけてくるのも、何ら不思議なことではありません。近代主義者たちは、ありとあらゆる侮辱をカトリック者に加えますが、ふつう、無知または頑迷さというレッテルを貼るのが彼らの用いる常套手段です。学識と力によって脅威となるような反対者が立ち上がると、彼らはその人の周りに沈黙の策略を張りめぐらして、彼の攻撃の効力をなくしてしまおうとします。カトリック教徒に対してとられるこのような方策の理不尽なところは、自分たちの側につく著述家たちには、感嘆を込めた、とどまるところを知らぬ賞賛を浴びせ、ほとんど毎頁に新奇な思想をにじませる彼らの著作を、声を合わせて歓呼する、という点です。彼ら近代主義者にとって、ある著述家の学識は、彼が古代(から)の事物に対してどれだけ軽率・短絡に非難を浴びせ、また教会の教導権と伝統を覆す努力を為しているかに直接比例して決まるのです。もし彼らの中の誰かが教会による排斥を被るならば、残りの者は善良なカトリック信徒をよそおって当の人の周りに群れ集い、公衆の面前で声を大にして彼を賞賛し、まるで真理のための殉教者でもあるかのように祭り上げます。年若い者たちは、かかる賞賛と讒言(ざんげん)の叫び声に刺激されたり、困惑させられたりして、ある者は無学の烙印を押されることを恐れて、またある者は学のある人の仲間入りをする熱望に駆られて、───そしてこの両者は共に好奇心と傲慢にせきたてられて───往々にして近代主義に屈し、身を委ねてしまうのです。

近代主義者たちの大胆不敵さ

  43.近代主義者が自分たちの思想を売り込むために用いる数々の術策のいくつかが、こうして出そろいました。新たな賛同者を勝ち取るために、彼らはどれほどの努力を払うことでしょうか!彼らは神学校と大学の教授職に矛先を向け、徐々にそれを有害な思想の座と変えてゆきます。説教台から与える説教の中で、彼らは自分たちの教理を、たとえ、時としてそれとない言い回しを通してであれ、広めます。会議や会合において、彼らは自らの教説をより公然と表明します。彼らはそれを社交的な集いにおいても、他の人々に紹介し、薦めます。彼らは実名あるいは偽名でおびただしい数の書籍、新聞、雑誌を発行し、また時には同一の著者がいろいろな偽名を用いて、注意力を欠いた読者にあたかも多数の著述家が存在するかのような印象を与えようとすることさえあります。要するに、熱烈な精力でもって行動、言論、および著述を通し、ありとあらゆる手段を尽くして自らの目的を果たそうとするのです。しかし、ここからどのような結果が生じたでしょうか。かつては有望で教会のために大きな働きを為し得た数多くの若者が、今や道を誤ってしまっている光景を目の当たりにして、私は嘆かずにはいられません。その上、他の多くの者たちが、先の者たちほどではないのは確かだとしても、やはり毒を帯びた周りの空気を吸ってこれに冒され、カトリック者に相応しからぬ、奔放な考え方、話し方、書き方をしていることも、私の悲しみの種となっています。この種の人々は一般信徒の中に、また聖職者階級の中にも見出され、最も思いがけない場所、すなわち修道会の中にすら存在しています。もし彼らが聖書を扱うとすれば、それは近代主義の諸原理に基づいてであり、歴史を著すなら、注意深く、そして下手に満足を隠そうとしながら、真理全体を述べるためと称して、一見、教会の顔に泥を塗るように思われることを全て明るみに出します。ある種のア・プリオリな観念に基づいて、彼らは能うる限り人々の敬虔な伝統を破壊し、その古さのゆえに、非常な崇敬を払うべき特定の聖遺物への敬意を損なわせています。彼らは自分たちの名が衆人の口にのぼることへの虚しい望みに駆られており、そして万人によって常に言われてきたことを述べたなら、この望みは決して実現しないことを彼らは承知しています。その一方、彼らはこういったこと全てを通じて天主と教会とに事実、奉仕しているのだと信じ込んでいるのかも知れません。しかし実際には、彼らはその両者にただ侮辱と危害のみを加えています。そして、それは彼らの著作そのものによってよりも、むしろ彼らがそれらを著す際の精神によって、また彼らがこのようにして近代主義者たちのもくろみに与えてしまう力づけによってです。

警戒への呼びかけ

  44.これら一連の重大な誤謬、およびそれらの密かなあるいは公然の進展に対して、思い出深い前任者レオ十三世は言葉と行いとをもって果敢に対抗しましたが、それは聖書の研究に関して特にそうでした。しかし、先に見たように、近代主義者たちはこのような武器によっては、易々と[その活動を]阻まれません。強い服従と敬意をよそおい、彼らは同教皇の言葉を自分たちの意味にねじ曲げてしまい、その一方で教皇の行為を、別の者たちに対して向けられたものだと述べ立てます。このようにして、害悪が日に日に増大してゆきます。それゆえ、尊敬する兄弟たちよ、私はこれ以上の遅れを許さず、より有効な手段を適用することを決断するに至ったのです。私は、このいたって重大な事柄において、誰もあなた方がたとえほんのわずかでも警戒心、熱意、あるいは強固さに欠けていた、と言う余地のないように注意するよう、あなた方を励まし、かつ命じます。そしてあなた方に要請し、かつ期待することを、同様に他の全ての霊魂の牧者、全ての教育者、ならびに聖職者の教育を担当する教授、そして特別に修道会の長上に要請し、期待します。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

Trending Articles