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聖心の小黙想会-4 2018年8月12日主日説教 「イエズス様は良きサマリア人である」

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2018年8月12日(主日)イエズスの聖心小黙想会
聖霊降臨後第12主日のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年8月12日、聖霊降臨後第12主日のミサをしています。

この今日は、小黙想会の最中の主日です。本来ならば、黙想会のプログラムに沿って昨日のように1日を過ごす予定でしたが、夕方のミサの為に東京に行かなければなりません。そこで少し今日だけは予定を変えて、このミサの直後に、感謝のお祈りをしたら聖体降福式を致しましょう。

聖時間を御聖体の前で過ごした後に、皆さん黙想会のプログラムの1つである昼食を皆さん一緒に食べて下さい。沈黙の内に昼食を食べていらっしゃる間に、昨日のように読書を聞いて下さい。これも小黙想会のプログラムの1つです。

その後には自由時間があります。お祈りをなさったり、休憩をされたりして、そしてその後ここの御聖堂は17時まで開いています。

お祈りをされたり、あるいは今度の8月15日の、聖母の被昇天の為の聖歌の練習も計画されています。どうぞ良い主日を過ごすようになさって下さい。

明日も、8月15日まで10時半から毎日ミサがあって、そして明日・明後日は午後も、霊的講話と聖時間があります。8月15日には聖母行列も準備されています、計画されています。デ・ガラレタ司教様が今週いらっしゃるので、良い堅振の準備ができるようにお祈りしましょう。


“Homo quidam descendebat ab Jerusalem in Jericho.”
「ある人が、エルサレムからイエリコに下って行った。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様が、「私たちにとって隣人とは誰か」という事を教える為に、例えの話をします。「エルサレムから、聖なる街、天主ヤーウェの神殿のある街、ユダヤ教の中心地エルサレムから、娼婦で有名なイエリコまで、ある人が下って行った。」

このエルサレムとイエリコの間は、聖書学者によると、37kmあるそうです。そしてエルサレムは聖なる山の上にあったので、イエリコまではずっとほぼ下り坂で、1000mの高さの違いがありました。

この人は簡単な下り坂をトボトボと歩いて行きました。現代でも、つい最近までは今でも、警察、あるいは駐屯所があったにもかかわらず、警備していた人がいたにもかかわらず、非常に強盗や盗賊、追い剥ぎなどで有名だったところです。

この寂しい道を、この人は通っている間に、やはり強盗に追い剥ぎに遭って、暴力を受けました。

殴られ、叩かれ、身ぐるみを剥がされて、そして持ち物を全部奪われ、傷付き、血だらけになって、半死半生になって、ぐったりと道に倒れて、息絶え絶えに助けを待っていました。

そのままほっぽらかされていて、この男はきっと入祭誦の始めにあったように、「天主よ、早く我が救いに来たり給え。早く助けに来たり給え。とく助けに来たり給え」と心の中で祈っていた事でしょう。

祈りが通じました。このかわいそうな人、この人の近くを、司祭が通ったのです。旧約の司祭です。おそらく神殿での務めを終えた事でしょう。エルサレムからイエリコの方へと歩いて行きます。「あぁ、司祭が来た!」声も出せずにその方を見ていると、司祭はこの人を見て、そのまま通り過ぎました。うめき声をあげて、「助けて下さい」と言っていたかもしれません。司祭は手ぶらで何もする事ができなかったのかもしれません。声すらもかけませんでした。横目でチラリと見て、通り過ぎました。ラテン語によると、“praeterivit.”「横を去って行った。」

「主よ、早く助けて下さい。」“Deus, in adjutorium meum intende. Domine, ad adjuvandum me festina.”何度お祈りした事でしょうか、「助けて下さい。あぁ、来たり給え。」

すると、レビ人がレビ族の人が、ユダヤ人がやって来ます。「あぁ!来た来た来た!」レビ族も特別に天主から選ばれた、神殿に仕える者です。「あぁ!」

「主を、全てを越えて、心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くし、愛せよ」という掟を知っているはずの男のはずです。しかしこの彼を見ると、そのまま通り過ぎて行きます。“pertransiit.”「そのまま通過した。」

同胞の聖なる人々から見捨てられた、このかわいそうなユダヤ人。息絶え絶えに、「ハァ、ハァ、もうこのまま、ここで息尽きるのか」と思っていると、そこによそ者がやって来ます。サマリア人で、ユダヤ人からは憎まれていて、呪われた人々、破門された人です。

この人はきっとお金持ちだったのかもしれません。歩いていたのではなくて、動物、家畜を持って、それに荷物を運んでいたらしいのです。そしてブドウ酒や、旅行用の油も持っていました。この彼が来るのを見ると、「あぁ、この人また通っちゃうのかな。ユダヤ人ではないな。サマリア人のようだ。この帽子のかぶり方から、服から、ユダヤ人じゃないな。これはダメだ。」

すると、サマリア人はその様子を見て、半死半生のこの傷だらけのぐったりした人を見て、近寄って、そして哀れに思って、「大丈夫か」と声をかけました。「ハァ、ハァ、はい…はい…。」

そしてこの傷にブドウ酒を注いで、ドクドクと注いで洗って、そして油も塗って、早くこの油の染み通って、早く傷が治るように、そして息絶え絶えのこの男をきれいにしてから、今度は抱きかかえて、自分のその持っていたこの家畜の上に乗せて、それから近くの旅籠屋(はたごや)、宿屋まで連れて行くのです。

そして宿屋に一緒に泊まって、この男を看病します。「大丈夫か。」「ご飯を食べろ。」「さぁ、このきれいな布団で寝ろ。」

翌日、この男は行かなければなりません、このサマリア人は行かなければなりません。「あぁ、あなたの名前は何ですか?どうしてこの私の、ユダヤの私に、あなたはそんなに親切をしてくれるのですか?」

このサマリア人は旅館の主人にお願いして、「ここにお金があるから、2デナリオ、(1デナリオは1日の給料、肉体労働の値でした。それを2デナリオ与えて)、これをやるから、どうぞこの男を看病してほしい。面倒を見てほしい。もしも足りなかったら、十分なはずだけれども、足りなかったら、また用事が終わって帰ってくる時にもっと払う。」それを見て旅館の主人は非常に喜んで、「あぁ、分かりました!」と言ったに違いありません。

イエズス様はこの例えを聞かせて、一体、私たちにとって隣人は誰かというと、もちろんこの憐れみを下した人が私たちの隣人です。確かに、同胞、同じ血を持つ者としては、司祭、あるいはレビ人が最も隣人であったかもしれません。しかし本質を知っていた彼は、「憐れみを施した者がそうだ」と言います。

今日、ではこの例えが私たちに語っている事は何でしょうか?

この聖なる街エルサレムからイエリコに下って、簡単な下り道を下りて行った人は、私たちです。私たち一人ひとりでした。この薄暗い、誰も人通りのないような寂しい道を、トボトボと簡単に下って行く間に、私たちは敵に襲われました。この世と、悪魔と、肉欲でした。

そして私たちも、このかわいそうなユダヤ人のように、敵に、三重の敵に襲われて、身ぐるみを剥がれ、天主から受けた全ての超自然の恵みも、聖寵の御恵みを奪われて、傷付き、罪と誘惑の傷を受けて、血もダラダラになって、傷を受けて、もう一人で立ち上がる事ができないほど半死半生の身で、このままほっぽらかされて、そのまま永遠の死を迎えなければならない、地獄の火で焼かれるべき者でありました。

私たちもお祈りをしました、「あぁ、このまま死んでしまうのか。このまま息絶え絶えに、もうそのままどうしようもないのか。誰か救いの手は差し伸べられないのか。」

旧約の教えは力がありませんでした。旧約の司祭は、たとえモーゼのような者であったとしても、その栄光に満ちた者であったとしても、石に書かれた文字の宗教では、私たちを生かす事はできませんでした。私たちはただその律法の重さと厳しさに、罪に定められ、裁かれるだけでした。レビ族も何もできません。

しかし、天から良きサマリア人、イエズス・キリストが来られました。私たち、罪を負っている、罪によって傷付いて、半死半生の私たちを探して来られました。イエズスの聖心は来られました。私たちを癒す為に、私たちを聖とする為に、私たちに命を与える為に、私たちに赦しを与える為に、私たちの無知を照らす為に、教える為に、探して来られました。

そして御自分の御血を、ブドウ酒のようにドクドクと流して、きれいに洗ってくれます。そして御自分の聖霊を、油のように染み通らせて、私たちを力強めてくれます、養ってくれます。私たち一人ではとても動く事ができない、体中が痛く、足もぎこちなく、頭もふらふらしている私たちを抱きかかえて、ちょうど迷子の子羊を良き牧者が肩に担いで運んでくれるように、傷付いた私たちを抱きかかえて、イエズスの聖心は、宿屋まで運んでくれます。

この「宿屋」というのは、御自分が立てた「聖なるカトリック教会」です。そしてこのカトリック教会の主人に、聖職者たちに、司祭たちに委ねます、「この罪人を彼を世話をしてほしい。さぁ、ここにデナリオがある、秘跡がある、ここに教えがある。これを使って、彼の世話をしなさい。また私がもう一度戻った時には、報いを与えよう。」

この「デナリオ」というのは、「イエズス様の十字架の死によって勝ち得た贖い」でした。私たちに命を与えるそのお金でした。その功徳でした。

私たちは、今日福音で語られたこの傷付いたユダヤ人です。しかし、傷付いて道で息絶え絶えに救いを待っていたユダヤ人ですが、良きサマリア人、イエズス・キリストに出会って、救われて、教会の中に運ばれた、このユダヤ人です。そしてイエズス様からワイン、ブドウ酒と油を塗ってもらった、この介抱されたユダヤ人です。良きサマリア人に出会ったユダヤ人です。

今日、ミサ聖祭だ、それと同じ事が起こっています。イエズス様は私たちを、御自分の旅籠屋に旅館に連れて来ました、「この彼の世話を、このデナリオでこの世話をしなさい。十字架の贖いであるミサの効果を以て、御聖体を以て、御血を以て、この世話をしなさい。聖霊の油を以て、この霊魂の世話をしなさい」と教会に委ねています。

皆さんが今日御聖体を拝領する時には、教会はこう歌います、「主よ、御身の御業の実りは、この地上、大地を満足させる。御身は力、この大地からパンを導き出し、そしてブドウ酒は人の心を喜ばせる。」

私たちも、ブドウ酒を御聖体を受けるので、心は御聖体拝領の時に喜びます。そして「油において、私たちのその顔は喜ぶ。パンは人の心を強める。」私たちもこの御聖体拝領する時に、看病を受けたサマリア人のように喜び、心は強められ、主に満たされる、満足します。

これが今日私たちの、福音の事が私たちに今日起こる事です。

典礼学者によると、「サマリア人が連れて行った、良きサマリア人イエズス様が連れて行ったこの旅籠屋、旅館とは、カトリック教会の事であって、そして良きサマリア人が注ぐ油とワインは、御聖体の事であって、聖霊の御恵みの事である」と言います。

「更に、書簡を通してこの福音を見る事によって、書簡と奉献誦を比べてみる事によって、実は旧約の時代の司祭たちは、無力のあまりに通って行ったけれども、それでもこの司祭職は栄光あるものであった。なぜかというと、モーゼが十戒を、石に刻まれた十戒を受け取る時に、天主とその顔と顔を合わせて話を対話をしていた。それなので、その顔は、その天主と対話したそのモーゼの顔はあまりにも輝いていて、イスラエルの人たちはモーゼの顔を見る事ができなかった、直視する事ができなかったので、モーゼは自分の顔の前にベールを被らなければならかった。それほどモーゼの、旧約の時代の司祭職でさえも栄光に満ちたものだった。」

モーゼがせっかく十戒を持って地上に帰っても、イスラエルの子らは偶像を作って、天主以外のものを崇拝していました、礼拝していました。そこでモーゼは非常に怒って、十戒を粉々に、石を粉々にして、また天主に行きます。そして何とか彼らの為に取り次ぎを願います。すると天主はその怒りを宥めて、モーゼの言う事を聞きます。モーゼの言う通りにします。

「たとえ力の無い旧約の職務でさえも、これほど力があって栄光に満ちているものであるならば、新約の本物のモーゼ、イエズス・キリストの栄光とその聖務は、どれほど力があり、どれほどの栄光に満ちたものであるのか。良きサマリア人イエズス・キリストはどれほど力に満ちているものか、という事を教えようとしている」と言います。

ところで典礼学者は、「私たちはモーゼよりも更に恵まれている。モーゼでさえ、旧約の王でさえダヴィドでさえ見る事ができなかった、聞く事ができなかったものを、私たちが見る事ができ、聞く事ができるから。」「なぜかというと、私たちはミサの時に、イエズス様を見て、イエズス様を拝領して、イエズス様とお話をする事ができるから。愛の対話をする事ができるから。」ですから、「私たちの顔はモーゼ以上に輝かなければならないのではないか。」

聖体拝領誦でも言います、「油において、私たちの顔は喜びに輝く」と。

ミサの時にイエズス様と親しく一致して、会話のできる私たちは、何と幸いな事でしょうか。

モーゼがこの旧約の人たちをイスラエル人たちの為に取り次いで下さったように、良きサマリア人であるイエズス・キリスト、新約の本物のモーゼはイエズス・キリストは、私たちの為に更に取り次いで下さいます。

これが、イエズス様の聖心の愛であって、私たちに注がれる、溢れるばかりの愛情です。どうぞ良きサマリア人の愛を感じ取って下さい。この中に深く入って下さい。

この話を黙想している中に、少し私も個人的に考えた事があります。

もう長くなるので、本当はもうこの私の勝手に考えた事は言わないようにしようかな、とも思うのですけれども、1分間、話を続けます。

確かに旧約の、確かに傷を受けたユダヤ人が、この話は愛徳の話と、天主に対する愛の話と、そして旧約と新約のその違い、新約の優位さ、優位性について私たちに教えるものです。

しかし21世紀の日本に生きる私たちにとって、何んで、なぜこの司祭たちは傷付いた人を、この同胞の、同じユダヤ人を見て見ぬふりをして通り過ぎてしまったのだろうか?と思いました。

一体、別の仕事があったのだろうか?仕事が終わったから、もう早く家に帰って休みたいと思ったのだろうか?それとも無関心だったのだろうか?「関係ねぇよ」と思ったのだろうか?でも同じ、同じユダヤ人なのに?「これはお医者さんの仕事であって、司祭の仕事じゃないから」と思ったのだろうか?あるいは見るからに身ぐるみ剥がれて、手伝ってやってもお金も持ってなさそうだし、お礼もする事もできないし、そのまま「儲からないよ」と思ったのだろうか?「面倒くさい」と思ったのだろうか?一体何だろうか?と思いました。

この傷付いた人は私たちですけれども、どのようなもので傷付いたのだろうか。

罪を負っていて、この「罪の重荷に、傷を早く癒やしたい」と思っている私たちです。ですから「告解をしたい」と思って、「罪の、告解の秘跡を受けたい」と思っている人たちなのかもしれません。しかし「告解を聞いて下さい」と言っても、もしかしたら聞いてくれる人はいなかったのかもしれません。

あるいは、イエズス様についての、天主についての真理にあまりにも無知で、息絶え絶えだったのかもしれません。しかし公教要理について教えてくれる人がいなかったのかもしれません。

あるいは、この世俗の考えに惑わされたり、あるいは肉欲に引かされて家庭がボロボロになっていったり、苦しんでいたりする人なのかもしれません。

しかし、イエズス様のカトリックの教えを本当は聞きたくて、知りたくて、御恵みを受けたかったのですけれども、それを本当に受けるべき人から、受ける事ができなかった霊魂たちの事も表しているのかもしれません。

イエズス様はこの例えの時に、福音書を読むと、こう質問されるのです、「永遠の命を受ける為には、どうしたら良いのですか?」
「永遠の命を受ける為には、何と書かれているのか?」
「はい、全ての力を尽くし、霊魂を尽くし、精神を尽くし、天主を愛する事。」

真の宗教というのは、天主への愛に基づいています。天主への愛に基づく、隣人への愛に基づいて教えています。カトリックの教えは、「人間と天主との愛の関係」を教える宗教です。

「天主が聖父であって、憐れみ深い聖父であって、私たちがその被造物であって、子供のように愛されている、聖父と親子の関係のように愛されている」という事を教える宗教です。

しかし、もしその超自然の、「天主が聖父である、天主が聖父であって、私たちを愛している」という聖心の神秘の中に深く入る事ができないと、もしかしたら宗教は、イエズス様の当時のユダヤ教のように、形式的で、外的で、見かけだけのものに成り下がってしまうかもしれません。

ですから「外見だけやってればそれが宗教だ。だから、一致のために、日本では、御聖体は手で立って拝領しなければならない。」「もしもそうしなければ、一致を乱す。」「もしもそうしなければ、教会から離れている。」
今の新しいミサの教会のようです。

でもカトリックの本当の真髄は、天主を全てに超えて愛して、心を尽くして、力を尽くして愛して、そしてこの私たちを子供として愛する父のような天主の愛、この親しい関係にあるのではないか。もしそのような時に、この天主を愛を込めて礼拝する時に、なぜ跪いてはいけないのか。もしもそのようであれば、もしもそのような天主への愛をもしも表してしまったとすると、呪われた者になります。破門された者になります。教会から離れた者になります。一致を乱す者に。

非常に外見的で、形式的で、もしかしたらファリサイ人のような態度になってしまうような危険があるのではないでしょうか。

でもこの罪に傷付いた私たち、イエズス様への命に、イエズス様への教えに渇く霊魂たち、また超自然の命を受けたくて、「救い主は来ないか、救いの手は来ないか」と待っていた私たちに、良きサマリア人がやって来ました。

この良きサマリア人は現代では、ルフェーブルと言われています。そしてちょうどこの良きサマリア人ルフェーブルは、傷付いた私たちの所にやって来て、そして油とブドウ酒を注いでくれます。

「ブドウ酒」は「聖伝のミサ」であって、「油」は「聖伝の堅振の秘跡」です。

ちょうどあと数日後に、デ・ガラレタ司教様が私たちに、良きサマリア人のように来られるというのも、ちょうどこの主日のミサが私たちに現実に起こりつつある、という事をイエズス様が準備して下さっているかのようです。

イエズス様の深い愛の中にますます入る事に致しましょう。イエズス様は私たちを決して見捨てたり、そのまま通り過ぎたりする事はありません。イエズス様の愛がますます理解できるように、マリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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