2018年8月13日(月)イエズスの聖心小黙想会
殉教者聖ヒッポリト、聖カッシアノのミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年8月13日平日ですが、記念を行っている聖ヒッポリトと聖カッシアノ殉教者のミサを捧げています。
いつものようにミサの後に感謝の祈りがあります。今日は小黙想会の最中のミサですから、その後で一緒に昼食をとりましょう。その昼食の時には読書があります。読書は、シスターヨゼファ・メネンデスの伝記です。これを一緒に読んで、沈黙の内に聞いて下さい。
その後少し休憩があって、14時から霊的講話があります。その後しばらく黙想があって、15時からもう1回霊的講話、そして16時から17時まで聖時間を過ごしましょう。
イエズス様の前で、イエズス様の聖心の溢れる愛について黙想致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、私たちはこの小黙想会で、イエズス様が私たちに対して持っておられる、その溢れるばかりの無限の愛について黙想し出しました。イエズス様が私たちにとって愛の溢れるあまり、私たちの哀れな状況を、どんな状況に置かれているかという事も黙想しました。
そしたら、私たちが右も左も分からない、天主の事も全く知らない、無知の暗闇に置かれているという事、また私たちが罪を犯して、罪に傷付いて、そして赦しを必要としているという事、悪に傾いているという事、聖なる都市エルサレムから簡単な道をダラダラと下って、聖なる所から離れてしまった状態にいる、そしてその挙句の果てに、追い剥ぎにあって、半死半生で、息もゼェゼェ、血をダラダラと垂らして、グッタリと道端に倒れて、助けを必要としている、という事を黙想しました。そればかりか、私たちは苦しみの状態に置かれている、という事を黙想しました。
そこでイエズス様は、そのような状態の私たちを何とかして優しく教えようとされ、そして私たちの罪を赦そうと、油を注ぎ、ブドウ酒を注いで、私たちの罪の傷を癒そうとされている事を黙想しました。
そこで今日は、この殉教者のこのミサに全く相応しい、苦しむ私たちをイエズス様が何とかして力づけよう、励まそうとしている事について黙想します。
そこで今日3つのポイントがあります。3つのポイントをしっかり黙想します。
⑴ 1つは、私たちが一体、生まれてから死ぬまで、どれほど苦しみに、十字架に、苦悩に苛まされて生きているか、という事。
⑵ 第2に、イエズス様はそのような私たちを、どうやって慰めようとされるのか、どうやって力づけようとするのか。第2は、2つあります。
(2-1) 一つはイエズスがご自分で苦しみを体験して知っておられるから。
(2-2) もう一つはイエズス様と共に苦しんでいるその苦しみは、栄光に変わるからです。
その2つの理由とやり方を黙想致しましょう。その2つとも、まさにこの殉教者のミサで語られます。
⑴ では第1のポイントで、私たちは生まれてから死ぬまで、苦しみでいっぱいです。
天主様は、私たちの為に苦しみを作った覚えはありませんでした。最初はそんな計画はありませんでした。全て、苦しみも悲しみも、涙も死も、何もない、この地上での楽園、喜びと幸福の人生を私たちが送る事ができるようにと、全てを整えてくれました。
この地上の目に見える動植物は、全て人間に従っていました。人間に微笑みかけて、そして気候も全て穏やかで、人間にとってもうこれ以上楽な生活がない、という、食べ物も飲み物も、全て幸福に満ちていました。どんなに乱暴な獰猛な動物であったとしても、人間には素直に従っていました。巨大な恐竜もウジャウジャ動いていたかもしれませんけれども、人間に従順に従っていました。もしかしたら巨大な恐竜や、空を飛ぶ大きな鳥たちは、人間の為の乗り物となっていたのかもしれません。「ここに行け」と言えば、そのまま連れて行ってくれたかもしれません。
でも人間が罪を犯したその時、天主様の私たちに与えて下さった愛のその御計画、溢れるばかりの無限の愛によって作られた幸せの計画を人間が踏みにじった時、その時初めて、人間に悲しみと苦しみの泥のようなものが、堰を切って、人間に襲いかかったのです。
ちょうど何か私の知ったところによると、つい最近ラオスで、造ったダムが破壊されて、今までの作ったものが全く無くなってしまって、そして多くの人々が行方不明になって、亡くなって、そしてそこは非常に山奥なので、誰も救助に行く事が難しい、という事件が起こったそうですけれども、何かそのように、人間が罪を犯したが為に、今までせき止められていた苦しみや、悲しみ、そのようなものが無かったはずのものが、人間がその天主の御摂理を、計画したダムを壊してしまったので、全てが私たちに悲しみと苦しみとなって襲いかかってしまいました。
私たちの体はですから、その後労働をしなければならなくなりました。額に汗して、日常のパンを糧を取らなければなりません。疲れ、疲労困憊、苦しみが体に来ました。天候も、暑かったり寒かったり、雨が降らなかったり、あるいは洪水があったり、あるいは病気になったり、伝染病や皮膚病や、風邪や、その他多くの病に冒されるようになりました。事故にも遭うようになりました。怪我をしたり骨を折ったり、多くの不幸や、痛みや苦しみに苛まされる事になりました。罪の結果によって。
人間の心は、天主の愛を感じる為に創られました。天主から受けた愛を感じ取る、非常に繊細で、非常に敏感な、美しいものを美しいとして認識するものとして作られています。ですから人間は、音楽やあるいは詩を作ったり、ある人は俳句を作ったり、あるいは大自然を見て、あるいは愛を感じて、幸せに感じるようにできています。非常に繊細にできています。
しかしこの綺麗に創られたこの人間の心も、罪によって、忘恩や恩知らずや、裏切りや憎しみ、あるいは汚い言葉や、あるいは非道な態度など、あるいは見捨てられたり、あるいは孤独であったり、騙されたり、辛い思いをしたり、あるいは期待が叶えられなかった、希望を失ってしまったり、あるいは何かこうあってほしいと思ったのができなかった等という、心で悲しい思いもするようになりました。
皆、罪によって、このような心の苦しみが入ってきました。
「一体、何でこんな事?」「なぜ、一体?」
私たちの、被造物として天主の似姿によって創られたこの知性も、意思も、本当ならば真理を知る為に作られたこの知性も、罪によって暗み、真理をそのまま理解する事ができなかったり、あるいは真理にまで到達するのに非常に困難だったり、あるいは騙されてしまったり、誤解してしまったり、あるいは意思も、本当なら、本当の善を追求するところが、見せかけの善に目を眩まされて、それを求めてしまったり、あるいは私たちの記憶力も、本当の事をすっかり忘れてしまったり、善、良い事を忘れてしまったり、あるいは昔の悲しい思い出を忘れる事ができなかったり、あるいは昔の喜びを、失ってしまった幸せなその日々の事を思い出したり、善を求めようとしながらもいつも意志が弱かったり、心が移ろいだり、変わったり、天主様を愛するつもりがそれに逆らってしまったり、恐れや恐怖や、将来の不安などによって、私たちの霊魂も苛まされてしまいます。
これも罪によって、私たちの中に激流のように入ってきた悲しみです、苦しみです。
赤ちゃんも、生まれた時から涙を流し、そして子供の時にも、大人になっても、辛い事や悲しい事を経験します。年を取ったらそれが無くなるかといえばそうでもなく、孤独や、病気や、あるいは体がますます衰えたり、死に直面したり、その死の苦しみや辛さ、過去の人生の後悔などによって、人間の一生は、生まれた時から終わりまで、苦しみでいっぱいであるかのようです。
このような私たちは、あまりにも自分で勇気を出して立ち上がって歩くには、あまりにも弱々しくて、あまりにも孤独で、あまりにも力が無くて、誰か助けを必要としています。ちょうどエルサレムからイエリコに行くまでに強盗に遭って、半死半生になって身ぐるみを剥がれて、どうしても助けが必要だ、というこの男と全く同じです。
誰かが助けてくれなければ、誰かが支えてくれなければ、誰かが励ましてくれなければ、誰かが、「頑張れ!さぁ!」と応援してくれなければ、私たちはどうして、この重い心を引きずって、痛い体を引きずって、砕かれたこの心を引きずって、後悔と悲しみと涙の中で、私たちはこの人生の荒波の中を行き着く事ができるでしょうか。
誰かが優しく、デリケートな心で近付いてくれて、私たちのそばに寄ってくれて、微笑んで下さって、そして手を取って、「さぁ、一緒に頑張ろう!」と言ってくれなければ、どうして私たちがこの荒波を超える事ができるでしょうか。私たちにはどなたか、慰めて下さる、助けてくれる人が必要です。
そのような事を、イエズス様の聖心はよく知っていました。「天主の御言葉は人となって、我らの内に住み給えり。」私たちを慰めて助ける為に、私たちを探して、私たちのその元にやって来られました。「悲しみ、重荷を担う者よ、我が元に来たれ。」イエズス様の御言葉は聖心は、私たちに呼びかけています。「私はお前を回復させよう。」
⑵ では、イエズス様はどうやって、私たちにその慰めを下さるのでしょうか?2つあります。
(2-1) まず第1に、イエズス様の聖心は、私たちの苦しみを御自分でよく御存知であるからです。なぜかというと、御自分も、生まれた時から十字架の上に亡くなるまでに、私たちが体験するよりも更に大きい苦しみと、悲しみと、そして孤独と痛みを体験しているからです。
生まれた時から、オギャーとベトレヘムで、寒い冬に、人々から拒否されて、まぐさ桶に置かれて、凍えて、生まれた時から、王の王が、真の天主よりの真の天主、光からの光が、私たちを愛するが為に生まれた方が、拒絶されて、その生まれた時から、悲しみを御存知です。
生まれたその8日目から割礼を受けて、血を流されました。「ヤーウェは私たちを救う」という名前を受ける為に、「イエズス」という名前を受ける為に、最初の血を流され、苦しまれました。
国家当局から王からはその命を狙われて、外国での逃亡生活もします。30年間、極めて貧しい、もしかしたら毎日食べるご飯もなかったかもしれない、隠れた労働生活、疲労と、暑さと、そして貧しさの中での生活を御存知です。
公生活を始める時にも、罪人を、悲しむ人を探し回って、ガリレア中ユダヤの山々を歩き回って、あるいはゲネサレト湖、ガリレア湖を舟に乗って、全ての岸に舟を着けて、私たちに慰めの言葉をかけようと、癒しを与えようと、そして罪を赦そうと回った、その時の御疲労、困難、砂漠での祈り、あるいは断食、夜を通しての祈り、寒さ、辛さを御存知です。
弟子たちをこれほど愛したにもかかわらず、全く無理解で、理解されなかった、忍耐強く彼らを教えた事。
お金の為にユダから裏切られた事、イエズス様は体験されました。
十字架に付けられて、鞭を打たれて、辱められて、イエズス様は、極悪人として盗賊の間に十字架に付けられました。
ですからイエズス様こそ、私たちの想像を超えるような苦しみを全て身に受けた方であるので、私たちに余りある同情と、そして愛の心を持っています。私たちの苦しみを全て御自分で体験したので御存知です。ですからイエズス様は、それを以て私たちを慰めて下さいます。イエズス様は私たちの心を知っているが故に、慰める事ができるからです。
(2-2) 第2の理由は、今日ミサのこの聖パウロの言葉、イエズス様の御言葉にも表れています。なぜかというと聖パウロは、「お前たちはこの過去の苦しみを思い出せ。お前たちは全財産を奪われても、喜んで我慢したではないか。イエズス様が報いを持ってもうすぐやって来る。義人は信仰によって生きる。この短い苦しみというのは、将来来たる栄光と比べれば何でもない。このお前たちの今、イエズス様と共に苦しんでいるその苦しみは、栄光に変わる、無限の喜びに変わる。だからその事を思い出せ」と言っています。
超自然の慰めをイエズス様は与える事ができるからです。イエズス様でさえも避ける事ができなかった苦しみを、私たちは避ける事ができません。もしもこの地上から苦しみを避ける事ができるなどという宗教がいたら、それは嘘です。インチキの偽物です。
「この壺を買うと幸せになるよ。一個100万円だけど。」
「このペンダントを付けると全てが成功するし商売繁盛で儲かるよ。」
「この世で全ておもしろおかしくうまく行くよ。」
そうではなくて、イエズス様は、真の宗教は、イエズスの聖心は、「私たちの苦しみが、実は永遠の価値を持つものだ。だからこれを捧げよう、一緒にお捧げしよう」と、「私たちの生まれてから死ぬまでの全ての苦しみ、悲しみ、裏切り、あるいは暗闇のどん底は、光の、幸福の世界の為の種だ」という事を教えて下さっています。
ですからイエズス様は福音の中で、今日のミサの福音の中で、とても慰めに満ちた事を仰います。
「たとえこの世で苦しみがあったとしても、何も恐れる事はない。恐れる人は、私たちを地獄に入れるその力のある方だけを恐れれば良い。それ他の事は何でもない。なぜかというと、私たちは溢れるばかりの愛を受けているから。この明日は市場で売られる鶏も、あるいはスズメも、特別の愛を受けて今生きている。しかし私たちはこのような動物よりももっと大切だ。聖父が聖子を送って、その命を屠らせたほど大切だ。あまりにも大切なので、私たちの毛の一本一本さえも数えられている。全ての事は御存知だ。心配するな。お前たちは全て愛されている。無限の愛を受けている。何も心配する事はない。苦しみ、何も心配するな。迫害がある、心配するな」と、イエズス様を仰って下さいます。何という超自然の、何という本物の、真理に満ちた慰めでしょうか。
ですから、今日の殉教者たちも喜んで、この世の苦しみを雄々しく耐え忍んで、全財産を没収されようが、命が無くなろうが、嬉しくて、嬉々として、喜んで、この全てを捧げました。
イエズス様は私たちを慰めてくれます。本当の意味で慰めてくれます。そしてこの地上で慰めるのみならず、天国で永遠に慰めて下さいます、「よくやった。さぁ、私と一緒に、聖父の喜びの中に入れ。」
マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は最後に、被昇天の喜びを受けました。私たちもマリア様と共に、この永遠の慰めを受ける事ができますように、この地上の時からすでに、慰めを受ける事ができますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
殉教者聖ヒッポリト、聖カッシアノのミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年8月13日平日ですが、記念を行っている聖ヒッポリトと聖カッシアノ殉教者のミサを捧げています。
いつものようにミサの後に感謝の祈りがあります。今日は小黙想会の最中のミサですから、その後で一緒に昼食をとりましょう。その昼食の時には読書があります。読書は、シスターヨゼファ・メネンデスの伝記です。これを一緒に読んで、沈黙の内に聞いて下さい。
その後少し休憩があって、14時から霊的講話があります。その後しばらく黙想があって、15時からもう1回霊的講話、そして16時から17時まで聖時間を過ごしましょう。
イエズス様の前で、イエズス様の聖心の溢れる愛について黙想致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、私たちはこの小黙想会で、イエズス様が私たちに対して持っておられる、その溢れるばかりの無限の愛について黙想し出しました。イエズス様が私たちにとって愛の溢れるあまり、私たちの哀れな状況を、どんな状況に置かれているかという事も黙想しました。
そしたら、私たちが右も左も分からない、天主の事も全く知らない、無知の暗闇に置かれているという事、また私たちが罪を犯して、罪に傷付いて、そして赦しを必要としているという事、悪に傾いているという事、聖なる都市エルサレムから簡単な道をダラダラと下って、聖なる所から離れてしまった状態にいる、そしてその挙句の果てに、追い剥ぎにあって、半死半生で、息もゼェゼェ、血をダラダラと垂らして、グッタリと道端に倒れて、助けを必要としている、という事を黙想しました。そればかりか、私たちは苦しみの状態に置かれている、という事を黙想しました。
そこでイエズス様は、そのような状態の私たちを何とかして優しく教えようとされ、そして私たちの罪を赦そうと、油を注ぎ、ブドウ酒を注いで、私たちの罪の傷を癒そうとされている事を黙想しました。
そこで今日は、この殉教者のこのミサに全く相応しい、苦しむ私たちをイエズス様が何とかして力づけよう、励まそうとしている事について黙想します。
そこで今日3つのポイントがあります。3つのポイントをしっかり黙想します。
⑴ 1つは、私たちが一体、生まれてから死ぬまで、どれほど苦しみに、十字架に、苦悩に苛まされて生きているか、という事。
⑵ 第2に、イエズス様はそのような私たちを、どうやって慰めようとされるのか、どうやって力づけようとするのか。第2は、2つあります。
(2-1) 一つはイエズスがご自分で苦しみを体験して知っておられるから。
(2-2) もう一つはイエズス様と共に苦しんでいるその苦しみは、栄光に変わるからです。
その2つの理由とやり方を黙想致しましょう。その2つとも、まさにこの殉教者のミサで語られます。
⑴ では第1のポイントで、私たちは生まれてから死ぬまで、苦しみでいっぱいです。
天主様は、私たちの為に苦しみを作った覚えはありませんでした。最初はそんな計画はありませんでした。全て、苦しみも悲しみも、涙も死も、何もない、この地上での楽園、喜びと幸福の人生を私たちが送る事ができるようにと、全てを整えてくれました。
この地上の目に見える動植物は、全て人間に従っていました。人間に微笑みかけて、そして気候も全て穏やかで、人間にとってもうこれ以上楽な生活がない、という、食べ物も飲み物も、全て幸福に満ちていました。どんなに乱暴な獰猛な動物であったとしても、人間には素直に従っていました。巨大な恐竜もウジャウジャ動いていたかもしれませんけれども、人間に従順に従っていました。もしかしたら巨大な恐竜や、空を飛ぶ大きな鳥たちは、人間の為の乗り物となっていたのかもしれません。「ここに行け」と言えば、そのまま連れて行ってくれたかもしれません。
でも人間が罪を犯したその時、天主様の私たちに与えて下さった愛のその御計画、溢れるばかりの無限の愛によって作られた幸せの計画を人間が踏みにじった時、その時初めて、人間に悲しみと苦しみの泥のようなものが、堰を切って、人間に襲いかかったのです。
ちょうど何か私の知ったところによると、つい最近ラオスで、造ったダムが破壊されて、今までの作ったものが全く無くなってしまって、そして多くの人々が行方不明になって、亡くなって、そしてそこは非常に山奥なので、誰も救助に行く事が難しい、という事件が起こったそうですけれども、何かそのように、人間が罪を犯したが為に、今までせき止められていた苦しみや、悲しみ、そのようなものが無かったはずのものが、人間がその天主の御摂理を、計画したダムを壊してしまったので、全てが私たちに悲しみと苦しみとなって襲いかかってしまいました。
私たちの体はですから、その後労働をしなければならなくなりました。額に汗して、日常のパンを糧を取らなければなりません。疲れ、疲労困憊、苦しみが体に来ました。天候も、暑かったり寒かったり、雨が降らなかったり、あるいは洪水があったり、あるいは病気になったり、伝染病や皮膚病や、風邪や、その他多くの病に冒されるようになりました。事故にも遭うようになりました。怪我をしたり骨を折ったり、多くの不幸や、痛みや苦しみに苛まされる事になりました。罪の結果によって。
人間の心は、天主の愛を感じる為に創られました。天主から受けた愛を感じ取る、非常に繊細で、非常に敏感な、美しいものを美しいとして認識するものとして作られています。ですから人間は、音楽やあるいは詩を作ったり、ある人は俳句を作ったり、あるいは大自然を見て、あるいは愛を感じて、幸せに感じるようにできています。非常に繊細にできています。
しかしこの綺麗に創られたこの人間の心も、罪によって、忘恩や恩知らずや、裏切りや憎しみ、あるいは汚い言葉や、あるいは非道な態度など、あるいは見捨てられたり、あるいは孤独であったり、騙されたり、辛い思いをしたり、あるいは期待が叶えられなかった、希望を失ってしまったり、あるいは何かこうあってほしいと思ったのができなかった等という、心で悲しい思いもするようになりました。
皆、罪によって、このような心の苦しみが入ってきました。
「一体、何でこんな事?」「なぜ、一体?」
私たちの、被造物として天主の似姿によって創られたこの知性も、意思も、本当ならば真理を知る為に作られたこの知性も、罪によって暗み、真理をそのまま理解する事ができなかったり、あるいは真理にまで到達するのに非常に困難だったり、あるいは騙されてしまったり、誤解してしまったり、あるいは意思も、本当なら、本当の善を追求するところが、見せかけの善に目を眩まされて、それを求めてしまったり、あるいは私たちの記憶力も、本当の事をすっかり忘れてしまったり、善、良い事を忘れてしまったり、あるいは昔の悲しい思い出を忘れる事ができなかったり、あるいは昔の喜びを、失ってしまった幸せなその日々の事を思い出したり、善を求めようとしながらもいつも意志が弱かったり、心が移ろいだり、変わったり、天主様を愛するつもりがそれに逆らってしまったり、恐れや恐怖や、将来の不安などによって、私たちの霊魂も苛まされてしまいます。
これも罪によって、私たちの中に激流のように入ってきた悲しみです、苦しみです。
赤ちゃんも、生まれた時から涙を流し、そして子供の時にも、大人になっても、辛い事や悲しい事を経験します。年を取ったらそれが無くなるかといえばそうでもなく、孤独や、病気や、あるいは体がますます衰えたり、死に直面したり、その死の苦しみや辛さ、過去の人生の後悔などによって、人間の一生は、生まれた時から終わりまで、苦しみでいっぱいであるかのようです。
このような私たちは、あまりにも自分で勇気を出して立ち上がって歩くには、あまりにも弱々しくて、あまりにも孤独で、あまりにも力が無くて、誰か助けを必要としています。ちょうどエルサレムからイエリコに行くまでに強盗に遭って、半死半生になって身ぐるみを剥がれて、どうしても助けが必要だ、というこの男と全く同じです。
誰かが助けてくれなければ、誰かが支えてくれなければ、誰かが励ましてくれなければ、誰かが、「頑張れ!さぁ!」と応援してくれなければ、私たちはどうして、この重い心を引きずって、痛い体を引きずって、砕かれたこの心を引きずって、後悔と悲しみと涙の中で、私たちはこの人生の荒波の中を行き着く事ができるでしょうか。
誰かが優しく、デリケートな心で近付いてくれて、私たちのそばに寄ってくれて、微笑んで下さって、そして手を取って、「さぁ、一緒に頑張ろう!」と言ってくれなければ、どうして私たちがこの荒波を超える事ができるでしょうか。私たちにはどなたか、慰めて下さる、助けてくれる人が必要です。
そのような事を、イエズス様の聖心はよく知っていました。「天主の御言葉は人となって、我らの内に住み給えり。」私たちを慰めて助ける為に、私たちを探して、私たちのその元にやって来られました。「悲しみ、重荷を担う者よ、我が元に来たれ。」イエズス様の御言葉は聖心は、私たちに呼びかけています。「私はお前を回復させよう。」
⑵ では、イエズス様はどうやって、私たちにその慰めを下さるのでしょうか?2つあります。
(2-1) まず第1に、イエズス様の聖心は、私たちの苦しみを御自分でよく御存知であるからです。なぜかというと、御自分も、生まれた時から十字架の上に亡くなるまでに、私たちが体験するよりも更に大きい苦しみと、悲しみと、そして孤独と痛みを体験しているからです。
生まれた時から、オギャーとベトレヘムで、寒い冬に、人々から拒否されて、まぐさ桶に置かれて、凍えて、生まれた時から、王の王が、真の天主よりの真の天主、光からの光が、私たちを愛するが為に生まれた方が、拒絶されて、その生まれた時から、悲しみを御存知です。
生まれたその8日目から割礼を受けて、血を流されました。「ヤーウェは私たちを救う」という名前を受ける為に、「イエズス」という名前を受ける為に、最初の血を流され、苦しまれました。
国家当局から王からはその命を狙われて、外国での逃亡生活もします。30年間、極めて貧しい、もしかしたら毎日食べるご飯もなかったかもしれない、隠れた労働生活、疲労と、暑さと、そして貧しさの中での生活を御存知です。
公生活を始める時にも、罪人を、悲しむ人を探し回って、ガリレア中ユダヤの山々を歩き回って、あるいはゲネサレト湖、ガリレア湖を舟に乗って、全ての岸に舟を着けて、私たちに慰めの言葉をかけようと、癒しを与えようと、そして罪を赦そうと回った、その時の御疲労、困難、砂漠での祈り、あるいは断食、夜を通しての祈り、寒さ、辛さを御存知です。
弟子たちをこれほど愛したにもかかわらず、全く無理解で、理解されなかった、忍耐強く彼らを教えた事。
お金の為にユダから裏切られた事、イエズス様は体験されました。
十字架に付けられて、鞭を打たれて、辱められて、イエズス様は、極悪人として盗賊の間に十字架に付けられました。
ですからイエズス様こそ、私たちの想像を超えるような苦しみを全て身に受けた方であるので、私たちに余りある同情と、そして愛の心を持っています。私たちの苦しみを全て御自分で体験したので御存知です。ですからイエズス様は、それを以て私たちを慰めて下さいます。イエズス様は私たちの心を知っているが故に、慰める事ができるからです。
(2-2) 第2の理由は、今日ミサのこの聖パウロの言葉、イエズス様の御言葉にも表れています。なぜかというと聖パウロは、「お前たちはこの過去の苦しみを思い出せ。お前たちは全財産を奪われても、喜んで我慢したではないか。イエズス様が報いを持ってもうすぐやって来る。義人は信仰によって生きる。この短い苦しみというのは、将来来たる栄光と比べれば何でもない。このお前たちの今、イエズス様と共に苦しんでいるその苦しみは、栄光に変わる、無限の喜びに変わる。だからその事を思い出せ」と言っています。
超自然の慰めをイエズス様は与える事ができるからです。イエズス様でさえも避ける事ができなかった苦しみを、私たちは避ける事ができません。もしもこの地上から苦しみを避ける事ができるなどという宗教がいたら、それは嘘です。インチキの偽物です。
「この壺を買うと幸せになるよ。一個100万円だけど。」
「このペンダントを付けると全てが成功するし商売繁盛で儲かるよ。」
「この世で全ておもしろおかしくうまく行くよ。」
そうではなくて、イエズス様は、真の宗教は、イエズスの聖心は、「私たちの苦しみが、実は永遠の価値を持つものだ。だからこれを捧げよう、一緒にお捧げしよう」と、「私たちの生まれてから死ぬまでの全ての苦しみ、悲しみ、裏切り、あるいは暗闇のどん底は、光の、幸福の世界の為の種だ」という事を教えて下さっています。
ですからイエズス様は福音の中で、今日のミサの福音の中で、とても慰めに満ちた事を仰います。
「たとえこの世で苦しみがあったとしても、何も恐れる事はない。恐れる人は、私たちを地獄に入れるその力のある方だけを恐れれば良い。それ他の事は何でもない。なぜかというと、私たちは溢れるばかりの愛を受けているから。この明日は市場で売られる鶏も、あるいはスズメも、特別の愛を受けて今生きている。しかし私たちはこのような動物よりももっと大切だ。聖父が聖子を送って、その命を屠らせたほど大切だ。あまりにも大切なので、私たちの毛の一本一本さえも数えられている。全ての事は御存知だ。心配するな。お前たちは全て愛されている。無限の愛を受けている。何も心配する事はない。苦しみ、何も心配するな。迫害がある、心配するな」と、イエズス様を仰って下さいます。何という超自然の、何という本物の、真理に満ちた慰めでしょうか。
ですから、今日の殉教者たちも喜んで、この世の苦しみを雄々しく耐え忍んで、全財産を没収されようが、命が無くなろうが、嬉しくて、嬉々として、喜んで、この全てを捧げました。
イエズス様は私たちを慰めてくれます。本当の意味で慰めてくれます。そしてこの地上で慰めるのみならず、天国で永遠に慰めて下さいます、「よくやった。さぁ、私と一緒に、聖父の喜びの中に入れ。」
マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は最後に、被昇天の喜びを受けました。私たちもマリア様と共に、この永遠の慰めを受ける事ができますように、この地上の時からすでに、慰めを受ける事ができますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。