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聖心の小黙想会-10 2018年8月14日霊的講話【6】 「イエズス様はどのように祈られたか、どれほど祈る模範を示して下さったのか」

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2018年8月14日(火)イエズスの聖心小黙想会
小野田神父 霊的講話【6】
「イエズスはどうやってお祈りをしたのか、どれほどお祈りの模範を示して下さったのか」

今回の黙想会では、イエズス様が私たちに対してどれほど愛しておられるか、どれほどの憐れみを持っておられるか、という事を深く理解する事を目標にしました。

そこで、イエズス様が私たちの真理を照らして下さって、私たちを罪から解きほどいて下さって、私たちの惨めさを慰めて下さって、そしていけにえを私たちの代わりに捧げて下さる。

本当はもっと色々深い話もあるのだと思います。イエズス様はどれほど十字架の上で苦しまれて、私たちの為にいけにえを捧げたのか、御血を流されたのか、という事を黙想をすると、イエズス様の私たちに対する愛の深さも分かります。

御聖体において昼夜、世の終わりまで私たちと共に留まっている、という事を黙想しても、イエズス様が私たちを愛して下さっている、という事が分かります。

そのような愛深いイエズス様が私たちにこう教えようと、御自分の模範を以て教えようとしたその1つに、私たちがこの小黙想会の後に遷善の決心を取る為に、イエズス様の色んな聖徳を倣う事ができればと思っています。

イエズス様の愛、聖父と私たちの霊魂への愛、これはイエズス様のこの態度によって現れるのですけれども、柔和・謙遜なイエズス様。その特に今回は、このイエズス様の最も、徳の内の第一というか、一番いつも現れている態度というのが、「聖父に対する祈り」です。

そこで、この黙想会の締めくくり(明日もありますけれども)を準備する為に、「イエズス様がどうやってお祈りをしたのか、私たちにどれほどお祈りの模範を示して下さったのか」という事を見ようと思っています。

「私がいなければ、お前たちは何もする事ができない」と言いました。

ヨゼファ・メネンデスの話を聞くと、家族への愛、お母さんへの愛、兄妹たちの自分を必要としている、という事を痛いほど知っていたので、お母さんから色々と、イエズス様の元に行きたい、というものも犠牲にしてしまった事、そしてそれでもう修道院に行くドアを、門を閉めてしまった事もありました。

でも、祈って、祈って、祈って、祈って、祈って、祈って、御聖体拝領の時にお祈りして、十字架の下でお祈りして、すると、本当ならできないはずのものが、もう一度開かれた。ヨゼファ・メネンデスも、「イエズス様がどれほどお祈りしていたか」というのを見習ったのだと思います。ヨゼファ・メネンデスがこう修道院長様にこう直接話しかけたわけでもないのにもかかわらず、向こうの方からいきなり、「来ませんか」という手紙を受けた。

そこで、イエズス様のなさっているのは、「霊魂の救い」という最も大切な御業ですから、そして私たちもイエズス様の道具として、イエズス様の為に何とか多くの霊魂を救おうとしていますから、その為に祈りが必要です。なぜかというと、天主様の仕事だからです。一番ある意味で難しい仕事だからです。一番高貴で、高い仕事だからです。なぜかというと、霊魂に永遠の幸せを与えるという事ですけれども、まず「自分が一体何か」という事をわきまえなければなりません。私たちは単なるつまらない人間ですし、弱い人間ですし、無に等しいものですし、天の上でも、天の下でも、「俺だけが唯一偉い」等と誰が言う事ができるでしょうか。人間の無を深く自覚しなければなりません。

そうすると、そうすればそうするほど、イエズス様の無限の聖心の、愛の聖心といつも一致していなければ、いつも話が通じて、いつもコミュニケーションが取れていなければならない、という事が分かります。ですから祈りが必要です。

霊魂の救いというのは、隣人を天主様の元に連れて行くというのは、時々には反対に会います。なぜかというと、霊魂は変な誤解をしていたりとか、生まれの環境の違いや、教えの違いや、あるいは意思が変なものを望んでいる、頑固に世俗のものに愛着している、自分の才能に凝り固まっている、天主の憐れみを、その良さに信頼できない、というものに打ち当たるかもしれません。特に日本ではそうです。イエズス様の事について知らない人もたくさんあります。ですから、イエズス様から憐れみを受ける、という事について知らない人もたくさんいます。

どうやったらこのような人たちの心を、冷たく固くなっている心をとろかせて、開かせて、イエズス様の愛を受ける事ができるようにする事ができるのでしょうか?

一体、人間がこう自分の言葉で説得して、人間の言葉にどれほどの力があるというのでしょうか?あるいはいくら私たちが何かやっても、心にどれほどの効果があるのでしょうか?

イエズス様はですから、私たちに教える為に、いつも祈る事を模範で見せました。ある時は山に登って、夜中祈りをして過ごしました。ある時にはゲッセマニの園で、オリーブの木の下で跪いてお祈りをしていました。ある時にはベタニアの家でお祈りをしました。ある時には奇蹟を行う度ごとに、父に、聖父にお祈りをしました、「御身の栄光がありますように。」

ある時には山に行って、夕方から明け方の3時までお祈りをしました。これは面白いのです。パンを増やして、その直後の事だったのです。

多くの群衆を見て憐れに思って、病人たちを治していたのですけれども、もう夕方になってしまったので、群衆を草の上に座らせるように命じて、5つのパンと2匹の魚を持って、天を仰いでお祈りをして、祝福して、弟子たちに御与えになって皆に配るのです。すると、皆は満腹するまで食べました。パン5つと魚2匹で、5000人を養うのです。残りを集めると12の籠にいっぱいになりました。食べた人は女と子供を除いておよそ5000人でした。ですから女性と子供を入れると、1万人ぐらい居たのでしょうか。たとえ女性の方も子供はあまり食べなかったとしても、男の人は2人分食べるので、満腹するまで食べたのです。

するとそれが終わった後で、イエズス様は弟子たちを強いて舟に乗せます。そして御自分は群衆を家に帰らせるのです。その間に向こうの岸に渡っているように言って、お命じになりました。弟子たちは舟に乗せて、「さぁ、お前たちは向こうに行け。群衆たちは帰れ」と言って、イエズス様は一人になると、祈ろうとして人気のない山に登って、夕べになっても一人でそこにおいでになって、お祈りしています。マテオの14章。

ところが弟子たちは、真夜中でまだこのガリラヤの湖の上に浮かんでいたのです。なぜかというと、向こう側に行く事ができなかったのです、逆風が来ていたので。波に弄ばれていたのです。

夜明けの3時頃、お祈りが終わってイエズス様は海の上を歩いて行くと、弟子たちの元に行こうとするのです。でも弟子たちはイエズス様を見て、幽霊だと思って叫びます。イエズス様は、「安心せよ。私だ。恐れるな」と言います。でもこの話を見ると、イエズス様はお祈りしていた事が分かります。

啞とつんぼを開かせる時も、お祈りをして、「エフェタ」と言いました。

あと有名な話がラザロの話で、ラザロがもう死んで4日目になって、腐っていて、悪臭を漂わせて墓に葬られて、マグダラのマリアはがっかりしているのですけれども、そのラザロを起こしに行きます。イエズス様は言うのです、「石を取り除けなさい。」でもマルタは、「主よ、4日も経っていますから臭くなっています。」イエズス様は、「もしあなたが信じるなら、天主の光栄を見るだろうと言ったではないか。」そこで石が取り除かれます。

イエズス様は目を上げて仰せられます、「聖父よ、私の願いを聞き入れて下さった事を感謝致します。私は、あなたが常に私の願いを聞き入れて下さる事をよく知っています。しかし私がこう言うのは、ここを取り囲んでいる人々の為で、あなたが私を遣わされた事を、この人たちに信じさせる為であります」とお祈りします。聖ヨハネはこれを直接聞いて、このイエズス様のお祈りを覚えていました。

そう言って後に、声高く、「ラザロ、外に出て来なさい」と言うと、死者は手と足を布で巻かれて、顔を汗ふきで包まれたまま、そのまま出て来ます。「聖父よ、私の願いを聞き入れて下さった事を感謝します。」

イエズス様は最後の晩餐の時もお祈りします。
イエズス様は弟子たちにまず、「今、あなたたちは信じているのか。しかし、あなたたちが各自のところに散り、私を一人取り残す時が来る、いやもう来ている。だが、私は一人ではなくて、父が一緒においでになる。私がこういう事を言ったのは、私によってあなたたちが平安を受ける為である。あなたたちは、この世で苦しむだろう。しかし信頼せよ。私はこの世に勝った。」

こう話し終えてから、天を仰いでこう祈られます、「父よ、時が来ました。あなたの子に光栄をお与え下さい。子があなたに光栄を帰するように。そして、あなたが子にお授けになった万民を治める権力によって、あなたが子にお与えになった全ての人に、永遠の命を与えるように。永遠の命とは、唯一の真の天主であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエズス・キリストを知る事にあります。私は、あなたが行なわせようと思し召した業を成し遂げて、この世にあなたの光栄を現しました。父よ、この世が存在するより先に、私があなたの御元で有していたその光栄をもって、今、私に光栄をお現し下さい。

私は、あなたがこの世から取り去って私に下さった人々に、聖名を現しました。その人たちは、あなたのものであったのに、あなたは私に下さり、そして彼らは、あなたの御言葉を守りました。今や彼らは、あなたが私に下さったものが、みなあなたから出ている事を知っています。なぜなら、あなたの下さった御言葉を、彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、私があなたから出たものである事を本当に認め、あなたが私をお遣わしになった事も信じました。その彼らの為に、私は祈ります。この祈りは、この世の為ではなくて、あなたが下さった人々の為であります。彼らはあなたのものです。私のものはみなあなたのもの、あなたのものはみな私のものです。そして私は、彼らにおいて光栄を受けています。これから、私はもうこの世にはいませんが、彼らはこの世にいます。私は、あなたの御元に行きます。聖い父よ、私に下さったあなたの聖名において、私たちが一つであるがごとく、彼らもそうなるようにお守り下さい。私は、彼らと共にいた間、私に下さったあなたの聖名において彼らを守り、また守護しました。そのうちの一人も滅びる事なく、ただ、聖書を実現する為に、滅びの子だけが滅びました。今、私はあなたの元に行きます。この世にあって、私がこう語るのは、彼ら自身に私の持つ完全な喜びを持たせる為であります。

私は彼らにあなたの御言葉を与え、この世は彼らを憎みました。私がこの世のものではないのと同様に、彼らもこの世のものではないからです。私は、彼らを、この世からお取り下さいと言うのではなく、悪からお守り下さいとお願いします。私がこの世のものでないと同様に、彼らもこの世のものではありません。彼らを、真理において聖別して下さい。あなたの御言葉は真理であります。あなたが私をこの世におくって下さったように、私も彼らを世におくります。彼らを真理によって聖別する為に、彼らの為に自らいけにえにのぼります。

また、彼らの為だけではなく、彼らの言葉によって私を信じる人々の為にも祈ります。父よ、あなたが私の中においでになり、私があなたの中にあるように、皆が一つになるように。そして、彼らも、私たちにおいて一つになるように。それは、あなたが私をお遣わしになった事を、世に信じさせる為であります。」

イエズス様のお祈りはまだまだこの倍ぐらい続きますが、イエズス様は最後の晩餐の時には、弟子たちの前で、弟子たちにも分かるような言葉でお祈りをされました。

これを見ると、イエズス様がいつも、聖父と親しく一致していた、祈りを交わしていた、という事が分かります。

「正しい父よ、この世はあなたを知りませんが、私はあなたを知り、この人たちも、あなたが私をお遣わしになった事を知るに至りました。あなたが私を愛して下さったその愛が、彼らにもあるように。そして、私が彼らの中にいるように、私は聖名を知らせ、また知らせましょう。」

こうお祈りをしてからイエズス様は、「さぁ、ここを出て行こう」と言って、どこに行くかというと、ゲッセマニの園に行って、お祈りをします。3人だけを選んで、特に近くに呼んで、もう1回お祈りをします、「聖父よ、もしもできる事なら、このカリスが私から遠ざかりますように。」

今度は、弟子たちも一緒にお祈りをするようにお願いします、「私の心は死なんばかりに憂い悲しむ。私と一緒にお祈りしなさい。」「1時間も一緒に祈る事ができなかったのか。霊魂は熱していても肉体は弱い。祈れ。」

イエズス様は、十字架の上でもお祈りします。
「聖父よ、彼らをお赦し下さい。彼らはその為す事を知らないからです。」
「おお我が天主よ、我が天主よ、なぜ我を見捨て給うのか。」
「聖父よ、御手に我が霊魂を委ねます。」

聖書に記録された、あるいは聞いてこう弟子たちが書いたお祈りだけでも、イエズス様がどれほどお祈りしてこられたか、という事が分かります。書かれなかった多くの心の中のお祈りがあったに違いありません。

イエズス様は私たちに、「いつも祈りによって一致しているように」という事を模範で示して下さっています。

憐れみの愛の聖心の持っていた一番の特徴的な聖徳というのは、「お祈り」のようです。多くの聖人たちが射祷を唱えて、いつもイエズス様の聖心と一致していました。ルビオ神父様もヨゼファに、「射祷を唱えるように」と勧めています。

イエズス様もいつも心の中で、聖父と射祷によってお祈りをしていたに違いありません。マリア様もきっと同じだったと思います。

あと10分後に、聖時間が始まります。

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