2018年8月14日(火)イエズスの聖心小黙想会
小野田神父 霊的講話【5】
イエズス様の聖心の溢れる愛について、黙想しています。
イエズス様が私たちに光を照らして教えて下さって、天主様について教えて下さって、私たちの罪の中にもがいているのを助けて下さって、慰めを下さって、そして私たちの為に、私たちに代わって、唯一、天主聖父に嘉されるいけにえを捧げて下さる、という事を黙想しています。
昨日は、高貴な霊魂マグダレナのマリア、被造物の愛に本当の愛を見出す事ができずに、イエズス様の元に自分で近寄って来た事。それからザケオが、聖寵の御助けによって、好奇心という光によって、イエズス様を見ようとしてきた事。そしてサマリアの女性が、イエズス様について全然知らなかったけれども、イエズス様が自らその出会いの機会を作って下さって、ヤコブの泉までやって来た事を少し黙想しました。
では今日は、イエズス様が悪魔憑きさえをも御愛しになって、そして憐れみの心を開かれた、という事を少し黙想する事を提案します。
イエズス様は、病の人や、傷付く人、弱い人、悲しむ人について、とても大きな憐れみを示しました。悪魔に取り憑かれている人に対しても、惨めな状態の人々にも、憐れみを示しました。
悪魔に憑かれていると言っても、悪魔は人間の意思に直接力を及ぼす事はできません。ですから肉体だけに取り憑いて、その意思には何もする事ができないはずなのです。ですから悪魔に取り憑かれた聖なる人たちも、霊魂たちも、いた事はいたのですけれども、本当にそれは少数に過ぎませんでした。大部分は多くの場合には、体も取り憑かれると、弱い意志は、悪を為したりしていました。
マルコの聖福音の9章によると、イエズス様がある日、聖伝によると御受難の40日前、御変容をなさいました。そして弟子たちに、選ばれた弟子たちに、御自分の姿を見せました。タボル山に登って、弟子たちを連れて降りて来ました。すると、3人の弟子たちとイエズス様が弟子たちの元に帰って来ると、ワイワイガヤガヤやって、人々がタボル山の麓に集まっているのが分かりました。山に登ったのは4人でした。
イエズス様は山を下る時に、「人の子が死者の中から蘇るまで、今見た事を誰にも言うな」と3人に言います。でも、その3人はその言いつけを守ったけれども、「死者の中から蘇るとはどんな事か?」イエズス様が復活するという事はあまりよく分かりませんでした。そこで、「どんな事か」と互いに議論していました。それから話が色々あって、「なぜ律法学士たちは、『エリアが先に来る』と言っているのですか?」とイエズス様に尋ねたりするのですけれども、イエズス様は、「先にエリアが来るはずだ。全ての事を元通りに整えるだろう。それはそうだ。しかし人の子について、どうして彼が多くの苦しみを受け、軽蔑されると書かれているのか。私は言う、エリアはもう来た。そして書かれてある通り、人々は欲しいままに彼をあしらった」と説明するのですけれども、そうこうしている内に、弟子たちの元に戻って来ます。
“彼らが弟子たちの所に帰って来ると、大勢の人々に取り囲まれた弟子たちが、律法学士たちと議論しているのが目に入った。群衆はイエズス様を見ると大いに驚いて、走り寄って来て、挨拶した。”
イエズス様は聞くのです、「あなたたちは、あの人たちと一体何を議論していたのか?」とお問いになると、群衆の内の一人が、その議論の核心を言います、「先生、啞の悪魔に憑かれた私の息子をここに連れて来たのです。悪魔が憑くと、どこでもこの子は地上に倒れ、泡を吹き、歯を食いしばり、体を硬直させます。弟子の方に、悪魔を追い出して下さい、と頼んだのですけれども、それができませんでした。」そこで議論が起こります。
おそらく弟子たちはですね、一生懸命、「悪魔よ!出ろ!」色々したのだと思います、悪魔祓いを。イエズス様の真似をしたりとか。何の効果もありませんでした。おそらく律法学士や他の人たちに「ほら、見ろ。」笑われていたのかもしれません。弟子たちが一生懸命やっていた光景が目に浮かぶようです。
するとイエズス様は何と答えたかというと、「あぁ、不信仰な世だ。私はいつまであなたたちと共におり、いつまであなたたちを忍んでいなければならないのか。その子をここに連れて来るがよい」と言うと、その通りに子供を連れて来るのです。子供がイエズス様を見ると、悪魔はその子にひきつけを起こさせます。すると子供は地上に倒れて、泡をブクブク吹いて、転び回ります。かわいそうに。何歳くらいの子供だったのでしょうか。
イエズスが父親に、「いつ頃からこうなったのか?」と尋ねると、父親は、「小さい時からです。悪魔がしばしばこの子を、火の中や水の中に投げ入れて殺そうとしました。もしもあなたに何かおできになりますなら、私たちを憐れんでお助け下さい」と答えました。このお父さんはイエズス様を探してやって来たのだと思いますけれども、タボル山に行ってしまったので、不在だったので、弟子たちが何かやろうとしたのですけれども、弟子たちができずに、「もしもできるなら、憐れんで下さい。」
イエズスが、「もしもできるなら、と言うのか。信じる人には何でもできる」と仰せられると、子供の父親はすぐ、「私は信じます。不信仰なのを助けて下さい」と叫びます。
すると、「あ、イエズス様が子供を連れて何かやっている」というのを見て、群衆が走り集まって来るのを見てイエズス様は、汚れた霊を叱り、「啞とつんぼの霊よ、私は命令する。この子から出て、二度と入るな!」と仰られます。悪魔は叫びを上げて、ギャーッ!その子をひきつけを起こさせて出て行ったので、その子は死人のようになりました。ですから「死んでしまった」と言う人が多かったのです。しかしイエズス様が手を取って起こされると、その子は立ち上がります。こうやってイエズス様は、悪魔に憑かれた子供を治します。
今日このお話をしようと思ったのは、その続きがあるのです。イエズス様が家にお入りになると、弟子たちがそっと近寄って来て、先生に尋ねるのです、「どうして私たちには追い出せなかったのでしょうか?」
イエズス様は既に「不信仰なこの世だ。どうしていつまで私は忍耐しなければならないのか。不信仰な世を」と言ったり、嘆いたり、あるいはこのお父さんには、「信仰があれば何でもできる、信じよ。信じるか」と仰っていたので、「信仰が大切だ」という事を言うのですけれども、弟子たちにはこう言うのです、「この種のものには、祈りと断食によらずには、どうしても追い出す事ができない。」
イエズス様はここで、「イエズス様の御業は、人間のやり方ではなくて、人間の自分のやり方でやるのではなくて、天主の力によるものだ」という事を強調します。
祈りと断食によらなければ、どうしても追い出せないという事は、人間がこう神経を集中して、こう、というよりは、天主の全能の無限の憐れみと、優しさ、その善良さ、天主の私たちに対する愛に信頼する、私たちがもっと謙遜に、「私たちには力が無いのだけれども、主ならできる」という事に無限に依り頼む、という事を教えます。
そこでそのイエズス様は私たちに、「祈りの大切さ」という事について教えてくれています。霊魂を救う為には、イエズス様はどれほどお祈りをして、どれほど厳しい生活、断食や苦行をされた事でしょうか。もちろんイエズス様は天主様ですから、天主の力を以て、「私は命ずる!」と言えばそれで良いのですけれども、私たちに模範を示そうとされました。そこでイエズス様はどれほどお祈りをされた事でしょうか。
イエズス様はどうやって模範を示したかというと、まず30年間、隠れた生活を、祈りと労働と沈黙の生活をされました。イエズス様はその準備なしに、この祈りと労働と沈黙の30年間なしに、すぐにでも霊魂の救いの業をする事ができたはずですが、しかし私たちに模範を示そうとしました。
ヨゼファ・メネンデスの伝記によると、まさにその通りです。「シスターがどれほど良いシスターかというと、何の変哲もなく、普通で、平凡であれば平凡であるほど、隠れてあれば隠れてあるほど、目立たなければ目立たないほど、それほど聖なるシスターである。」
イエズス様も非常に目立たなく、ただ30年間の仕事は、ヨゼフ様とマリア様にただ服従していた。その4つの単語で表現されるほど聖なるものでした。外見とは内面の燃える聖父への愛とは全く想像もつかないものでした。
イエズス様が最初に、公生活を始める最初になさった事は、40日間砂漠でお祈りする事でした。孤独の内に、厳格な生活の内に、熱烈な、絶え間ない祈りを捧げていました。イエズス様は聖父と一心同体ですから、聖父の懐に永遠の昔から居る聖子ですから、お祈りをしなくても、懇願しなくても、40日間お祈りを、熱い祈りを捧げなくても、好きなだけ、光も、御恵みも、賜物も、自由に受ける事ができたはずですけれども、イエズス様はお祈りを以て始めました。すると私たちは、どれほどお祈りをしなければならないか、という事が分かります。
イエズス様はある時に言います、「私はお前たちに模範を見せた。」
では私たちは、もしも天主の子がここまでお祈りをされたのなら、私たちもどれほどお祈りをしなければならないか、という事を考えましょう。
この続きはまたこの後であります。15時頃まで黙想します。
小野田神父 霊的講話【5】
イエズス様の聖心の溢れる愛について、黙想しています。
イエズス様が私たちに光を照らして教えて下さって、天主様について教えて下さって、私たちの罪の中にもがいているのを助けて下さって、慰めを下さって、そして私たちの為に、私たちに代わって、唯一、天主聖父に嘉されるいけにえを捧げて下さる、という事を黙想しています。
昨日は、高貴な霊魂マグダレナのマリア、被造物の愛に本当の愛を見出す事ができずに、イエズス様の元に自分で近寄って来た事。それからザケオが、聖寵の御助けによって、好奇心という光によって、イエズス様を見ようとしてきた事。そしてサマリアの女性が、イエズス様について全然知らなかったけれども、イエズス様が自らその出会いの機会を作って下さって、ヤコブの泉までやって来た事を少し黙想しました。
では今日は、イエズス様が悪魔憑きさえをも御愛しになって、そして憐れみの心を開かれた、という事を少し黙想する事を提案します。
イエズス様は、病の人や、傷付く人、弱い人、悲しむ人について、とても大きな憐れみを示しました。悪魔に取り憑かれている人に対しても、惨めな状態の人々にも、憐れみを示しました。
悪魔に憑かれていると言っても、悪魔は人間の意思に直接力を及ぼす事はできません。ですから肉体だけに取り憑いて、その意思には何もする事ができないはずなのです。ですから悪魔に取り憑かれた聖なる人たちも、霊魂たちも、いた事はいたのですけれども、本当にそれは少数に過ぎませんでした。大部分は多くの場合には、体も取り憑かれると、弱い意志は、悪を為したりしていました。
マルコの聖福音の9章によると、イエズス様がある日、聖伝によると御受難の40日前、御変容をなさいました。そして弟子たちに、選ばれた弟子たちに、御自分の姿を見せました。タボル山に登って、弟子たちを連れて降りて来ました。すると、3人の弟子たちとイエズス様が弟子たちの元に帰って来ると、ワイワイガヤガヤやって、人々がタボル山の麓に集まっているのが分かりました。山に登ったのは4人でした。
イエズス様は山を下る時に、「人の子が死者の中から蘇るまで、今見た事を誰にも言うな」と3人に言います。でも、その3人はその言いつけを守ったけれども、「死者の中から蘇るとはどんな事か?」イエズス様が復活するという事はあまりよく分かりませんでした。そこで、「どんな事か」と互いに議論していました。それから話が色々あって、「なぜ律法学士たちは、『エリアが先に来る』と言っているのですか?」とイエズス様に尋ねたりするのですけれども、イエズス様は、「先にエリアが来るはずだ。全ての事を元通りに整えるだろう。それはそうだ。しかし人の子について、どうして彼が多くの苦しみを受け、軽蔑されると書かれているのか。私は言う、エリアはもう来た。そして書かれてある通り、人々は欲しいままに彼をあしらった」と説明するのですけれども、そうこうしている内に、弟子たちの元に戻って来ます。
“彼らが弟子たちの所に帰って来ると、大勢の人々に取り囲まれた弟子たちが、律法学士たちと議論しているのが目に入った。群衆はイエズス様を見ると大いに驚いて、走り寄って来て、挨拶した。”
イエズス様は聞くのです、「あなたたちは、あの人たちと一体何を議論していたのか?」とお問いになると、群衆の内の一人が、その議論の核心を言います、「先生、啞の悪魔に憑かれた私の息子をここに連れて来たのです。悪魔が憑くと、どこでもこの子は地上に倒れ、泡を吹き、歯を食いしばり、体を硬直させます。弟子の方に、悪魔を追い出して下さい、と頼んだのですけれども、それができませんでした。」そこで議論が起こります。
おそらく弟子たちはですね、一生懸命、「悪魔よ!出ろ!」色々したのだと思います、悪魔祓いを。イエズス様の真似をしたりとか。何の効果もありませんでした。おそらく律法学士や他の人たちに「ほら、見ろ。」笑われていたのかもしれません。弟子たちが一生懸命やっていた光景が目に浮かぶようです。
するとイエズス様は何と答えたかというと、「あぁ、不信仰な世だ。私はいつまであなたたちと共におり、いつまであなたたちを忍んでいなければならないのか。その子をここに連れて来るがよい」と言うと、その通りに子供を連れて来るのです。子供がイエズス様を見ると、悪魔はその子にひきつけを起こさせます。すると子供は地上に倒れて、泡をブクブク吹いて、転び回ります。かわいそうに。何歳くらいの子供だったのでしょうか。
イエズスが父親に、「いつ頃からこうなったのか?」と尋ねると、父親は、「小さい時からです。悪魔がしばしばこの子を、火の中や水の中に投げ入れて殺そうとしました。もしもあなたに何かおできになりますなら、私たちを憐れんでお助け下さい」と答えました。このお父さんはイエズス様を探してやって来たのだと思いますけれども、タボル山に行ってしまったので、不在だったので、弟子たちが何かやろうとしたのですけれども、弟子たちができずに、「もしもできるなら、憐れんで下さい。」
イエズスが、「もしもできるなら、と言うのか。信じる人には何でもできる」と仰せられると、子供の父親はすぐ、「私は信じます。不信仰なのを助けて下さい」と叫びます。
すると、「あ、イエズス様が子供を連れて何かやっている」というのを見て、群衆が走り集まって来るのを見てイエズス様は、汚れた霊を叱り、「啞とつんぼの霊よ、私は命令する。この子から出て、二度と入るな!」と仰られます。悪魔は叫びを上げて、ギャーッ!その子をひきつけを起こさせて出て行ったので、その子は死人のようになりました。ですから「死んでしまった」と言う人が多かったのです。しかしイエズス様が手を取って起こされると、その子は立ち上がります。こうやってイエズス様は、悪魔に憑かれた子供を治します。
今日このお話をしようと思ったのは、その続きがあるのです。イエズス様が家にお入りになると、弟子たちがそっと近寄って来て、先生に尋ねるのです、「どうして私たちには追い出せなかったのでしょうか?」
イエズス様は既に「不信仰なこの世だ。どうしていつまで私は忍耐しなければならないのか。不信仰な世を」と言ったり、嘆いたり、あるいはこのお父さんには、「信仰があれば何でもできる、信じよ。信じるか」と仰っていたので、「信仰が大切だ」という事を言うのですけれども、弟子たちにはこう言うのです、「この種のものには、祈りと断食によらずには、どうしても追い出す事ができない。」
イエズス様はここで、「イエズス様の御業は、人間のやり方ではなくて、人間の自分のやり方でやるのではなくて、天主の力によるものだ」という事を強調します。
祈りと断食によらなければ、どうしても追い出せないという事は、人間がこう神経を集中して、こう、というよりは、天主の全能の無限の憐れみと、優しさ、その善良さ、天主の私たちに対する愛に信頼する、私たちがもっと謙遜に、「私たちには力が無いのだけれども、主ならできる」という事に無限に依り頼む、という事を教えます。
そこでそのイエズス様は私たちに、「祈りの大切さ」という事について教えてくれています。霊魂を救う為には、イエズス様はどれほどお祈りをして、どれほど厳しい生活、断食や苦行をされた事でしょうか。もちろんイエズス様は天主様ですから、天主の力を以て、「私は命ずる!」と言えばそれで良いのですけれども、私たちに模範を示そうとされました。そこでイエズス様はどれほどお祈りをされた事でしょうか。
イエズス様はどうやって模範を示したかというと、まず30年間、隠れた生活を、祈りと労働と沈黙の生活をされました。イエズス様はその準備なしに、この祈りと労働と沈黙の30年間なしに、すぐにでも霊魂の救いの業をする事ができたはずですが、しかし私たちに模範を示そうとしました。
ヨゼファ・メネンデスの伝記によると、まさにその通りです。「シスターがどれほど良いシスターかというと、何の変哲もなく、普通で、平凡であれば平凡であるほど、隠れてあれば隠れてあるほど、目立たなければ目立たないほど、それほど聖なるシスターである。」
イエズス様も非常に目立たなく、ただ30年間の仕事は、ヨゼフ様とマリア様にただ服従していた。その4つの単語で表現されるほど聖なるものでした。外見とは内面の燃える聖父への愛とは全く想像もつかないものでした。
イエズス様が最初に、公生活を始める最初になさった事は、40日間砂漠でお祈りする事でした。孤独の内に、厳格な生活の内に、熱烈な、絶え間ない祈りを捧げていました。イエズス様は聖父と一心同体ですから、聖父の懐に永遠の昔から居る聖子ですから、お祈りをしなくても、懇願しなくても、40日間お祈りを、熱い祈りを捧げなくても、好きなだけ、光も、御恵みも、賜物も、自由に受ける事ができたはずですけれども、イエズス様はお祈りを以て始めました。すると私たちは、どれほどお祈りをしなければならないか、という事が分かります。
イエズス様はある時に言います、「私はお前たちに模範を見せた。」
では私たちは、もしも天主の子がここまでお祈りをされたのなら、私たちもどれほどお祈りをしなければならないか、という事を考えましょう。
この続きはまたこの後であります。15時頃まで黙想します。