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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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聖心の小黙想会-11 2018年8月15日童貞聖マリアの被昇天の大祝日のミサ説教 「天国でのマニフィカト」

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2018年8月15日(水)イエズスの聖心小黙想会
童貞聖マリアの被昇天の大祝日のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年8月15日、聖母の被昇天の大祝日を祝っています。

今日のこの御ミサの後で、いつもの通り感謝のお祈りをして、それから簡単な握り飯を食べて、それから聖母行列をしたいと思っています。特にこの聖母行列は私たちにとって非常に大切です。

ぜひ、今脅かされている平和が守られますように、外国からの核爆弾や、あるいは化学兵器や生物兵器とか、あるいはテロとかが、威嚇があるという話をよく聞きますので、それらから守られますように。

そして特に今日本で行なわれている、日本の罪の無い子供たちが毎日殺されている、堕胎という戦争が終戦を迎えますように、マリア様に御取り次ぎを求めたいと思っています。

簡単な昼食を皆さんと取った後に、ロザリオを唱えます。ロザリオを唱えて、できれば15連唱えて、ここの近くの公園までマリア様と一緒に行きます。そしてこのロザリオを唱える5連ごとに、ファチマの聖母の聖歌も間に入れて、それから公園に着いたら、マリア様に日本を奉献する祈りを唱えて、聖母行列を終える予定です。

このマリア様の聖母行列は、もう日本ではするところが非常に少なくなって、非常に貴重なものです。今日天に凱旋して、多くの天使たちに見守られて大行進をされた、天使たちの間を栄光を受けた、天に昇られたマリア様が今日私たちをご覧になって、非常に喜ばれる事は確実です。

ですから皆さん是非この聖母行列に参加なさって下さい。天使たちと心と心を合わせて、マリア様を誉め讃えましょう。そして日本の多くの方が、特にこの大阪の方々が、マリア様からのお恵みをたくさん頂きますように、悪魔に拉致されている、あるいは罪の中に囚われている人々が、早くマリア様の本当の祖国に戻ってきますように、マリア様にぜひ特別の力をお願い致しましょう。

私たちがお願いするのは、アメリカの大統領でもなく、天の女王様です、天地の元后です。ぜひ特別のお恵みを今日願いたいと思います。ぜひ参加なさって下さい。


“Magnificat anima mea Dominum.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は私たちの小黙想会の最後のミサです、最後の黙想です。私たちはこの人生が、私たちのこの生が、この全被造物が、天主からの特別の愛によって満たされている、という事を黙想しました。

この人生はたった一回きりしかありません。繰り返す事はできません。生まれ変わる事もありません。私たちは生まれて、たった一回の、唯一の人生を生きています。そしてこの1回限りの人生によって、永遠の幸せが懸かっています。

しかし、その為には私たちはあまりにも天主の事を知らずに、天主への正しい道を見極める事もできずに、罪の中に深く沈んでいて、一歩を踏み出す事さえもできずに、そして力を落とし、悲しみと苦しみの中に、ただうめいています。

何とか罪の償いの為に、昔の幸せを、私たちが受けたいと思う幸せを望むのですけれども、私たちの力はあまりにも限りがあって、無に等しくて、そして救い主を必要としている、その私たちに、天主は無限の憐れみと、無限の愛を以て身をかがめて、近寄って下さり、そして天主に関する真理を、優しく、私たちに理解できるようなやり方で、少しずつ、少しずつ教えて、照らして下さいました。

罪を赦す為に、私たちの抵抗する心に、御恵みと光を与えて、優しくそこから救い出そうとされました。

私たちが力を落としグッタリとしていると、私たちに励ましの言葉や慰めの言葉、救いの言葉、優しい言葉をかけて下さって、私たちが落胆しないように、力を付けるようになさって下さっています。

何と憐れみ深い、何と良い天主でしょうか。私たちの父です。私たちを極みまで愛しておられる父、天主。

そしてイエズス様の聖心は、私たちの為に人となったイエズス様の聖心は、私たちに代わって、苦しみを受け、血を流され、屈辱を受ける事さえも良しとされました。私たちと共に留まりたいと、御聖体を定め、血を流さないいけにえを祭壇で今日も捧げておられます。私たちを愛して、私たちを御元に集めたくて、全てをなさった愛の天主です。

カトリック教会のカトリックの教えのこの真髄には、「天主が愛である。天主が私たちを極みまで愛されている」という事を知り、信じる事にあります。そして、この天主の愛に全く委ねきる、という事にあります。そして、この天主の愛を愛で返す。ここにこそ本当の幸せがあるのだ、という事を、イエズス様の聖なる宗教は私たちに教えています。

たった一回の人生であるから、かけがえのない人生であるから、私たちは特別に愛された存在であるから、天主は私たちに本当の幸せを与えようと苦しまれた。そして私たちを御自分の愛に招いておられる、という事です。そして愛に愛で返す為に、私たちもイエズス様の苦しみに与るように招かれている、という事です。

ところで第2のポイントは、このイエズス様の愛を深く理解した方がいます。全人類の中で、唯一、天主の深い愛を、上智の座として理解して、そしてこの愛を信じ、愛に全く委ねて、そして御自分を婢女として、生まれたこの地上での生の最初の瞬間から、天主と一致する事、天主を愛する事だけを望んで、一生を終えた方がいらっしゃいます。聖母マリア様です。

聖母マリア様のこの一生は、愛に燃えた全生涯でした。天主が愛であるという事を、私たちを極みまで愛しておられるという事を知り、それを愛で返した霊魂です。

私たちは黙想会の時に、お昼に、シスターヨゼファ・メネンデスの伝記を少し読みかけました。幼い時からヨゼファは、「天主と一致したい」という事に愛熱に、それだけを考えていました。その為に全てを交換して良いと願っていました。

もしもヨゼファがそうであったならば、マリア様の燃える愛熱は更にどれほど大きかった事でしょうか。私たちの想像をはるかに超える愛熱の火で、幼い頃から燃えていました。

大天使聖ガブリエルがマリア様に、無原罪の御宿りであるマリア様にお現れになって、「あなたは天主の、あなたは恵まれた方である。“Ave Maria gratia plena” 聖寵に充ち満たれた方である。主は御身と共に在す」と言って挨拶した時に、マリア様の心は、天主への愛の火で燃え盛っていました。そして天主の御旨を果たす事、思し召しを果たす事だけを求めていました。

マリア様にとってですから、「どのような苦しい事であっても、辛い事であっても、困難な事であっても、それは避けるものではなく、むしろ愛を持って受け取るものである」と知っていました。

この世の人は、「十字架、苦しみは、避けて通りたい。嫌だ」とします。なるべく苦しい事、悲しい事を感じないように、とします。

しかしマリア様はその反対でした。「愛がゆえに、主の御旨を果たすが為に、全てを受け取る」という寛大な心を持っていました。マリア様がその時から天主への黙想、イエズス・キリストの御生涯を見て黙想した時に、どれほど天主の愛を深く理解した事でしょうか。

男を知らなかったのに妊娠をし、そしてクリスマスの夜には、痛みも何もなく、お腹からポコリと赤ちゃんが生まれて来た、イエズス・キリスト。この御子は天主の聖子であるという事は、マリア様にとって確実でした。その生まれ、その起源が、そう言っています。しかしそれにもかかわらず、普通の赤ちゃんと同じように成長して、マリア様の言う事を聞いて、可愛い子供として、すくすくと成長していたのを見て、天主のこの御謙遜と憐れみを、どれほど深く感動を以て見ていた事でしょうか。

イエズス様が働くのを、沈黙の内にお祈りに没頭するのを見て、あるいは汗を流したり、あるいは空腹のうちに耐えておられたり、あるいは愛徳を施したり、あるいは忍耐しているのをご覧になった時に、天主の聖子のその偉大な私たちに対する愛を感じ取らずにはいられませんでした。

その知恵、その優しさ、その憐れみの深さは全て、マリア様の心を感動させたものでした。

見て下さい。私たちでも、ある人は俳句を作って、「あぁ、」蝉の音を聞いて、あるいは花を見て、「あぁ、美しいなぁ」と思うではないですか。マリア様も花を見たら、「あぁ、この花は永遠の昔から、天主を讃美する為にこう作られたのだ。」この刺繍を見れば、「あぁ、誰かが愛を以てこう刺繍をされたのだ。」このような芸術品を見れば、「あぁ、」とその作った作者を思うではないですか。すると大自然を見て、マリア様はどれほど天主の愛を思った事でしょうか。イエズス様の御生涯を見て、どれほど天主の愛を想像して、それに感動して、目には涙をいつも湛えて、天主の愛を讃美していた事でしょうか。

マリア様の御生涯は、イエズス様の御受難を直前にして、どれほど大きく燃え上がった事でしょうか。

岡山には昔あるシスターがいて、そのシスターのお父さんは陸軍の大将でしたが、2.26事件で射殺されて、自分のすぐ目の前でお父さんが殺されるのを見て、そして非常に苦しんだ、という有名なシスターがいます。とても頭の良い方で。

マリア様は、御子イエズス様のその十字架を目の前にして、十字架の下に佇んで、私たちの為に捧げて下さいました。天主への愛に燃えていました。

そして遂には、ご自分の天主への愛のあまりに、イエズス・キリストへの愛のあまりに、イエズス・キリストを思うがあまりに、その祈りと思いとは全て天に昇っていたので、この霊魂はもう最早、肉体に留まる事ができないほどでした。愛に燃えかられていたからです。

これがマリア様の地上での生活の終わりでした。愛による被昇天でした。

マリア様の霊魂がもう肉体に留まる事ができないほど愛に燃え盛っているのを見ると、御子はその御母の肉体が腐敗するのを許さずに、肉体と共に天に上げられました。

ですから今日この御ミサでは、マリア様のその凱旋が、ミサのテキストで語られます。
「太陽を着た女性。その女性に新しい、このマリア様の栄光を讃えて、新しい超自然の天国での歌を歌え。」
あるいは、「ユダヤの、イスラエルの敵の首を切った、取ったユディット。マリア様も私たちの為に、悪魔の頭を踏み砕く本物の現実のユディット。」
あるいは、「マリア様こそ、天国に非常に着飾られて入る、王の娘。」
そしてエリザベトの家に入った時に、マリア様が「マニフィカト」と歌ったように、今日天国に入って、本当にマニフィカトの歌を歌っています。

では、このように栄光に満ちたマリア様は私たちに、どのような事を教えているのでしょうか?どのような遷善の決心を取ったら良いのでしょうか?

マリア様の御生涯は、非常に単純で、謙遜でしたが、目に見ればほとんど普通の人と同じでしたが、しかし心の中は、天主への愛を信じ、その愛に燃えて、愛を愛で返した御方でした。ですから今日のこの栄光があります。イエズス様の救いの愛の御業に、最も固く一致して協力した方でした。ですから今日この栄光があります。

教会の祈りは、集祷文も皆、「私たちもこのマリア様に倣うように。心をいつも天国に上げているように、天国に住むように。そしてそうする事によって、マリア様と一緒に私たちも、遂には天国の栄光を受けるように」と言っています。

ではマリア様の被昇天において、私たちもイエズス様の愛を深く理解する事を、その愛に愛で返す事ができるように、その御恵みを乞い求めましょう。

“Magnificat anima mea Dominum.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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