2018年9月1日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年9月1日、9月の初土曜日です。
今日のミサに、名古屋から多くの友達が来て下さって嬉しく思います。小さなお友達もたくさん来てくれて、嬉しく思います。
今日は初土曜日ですので、ミサが終わって感謝のお祈りが終わりましたら、初土曜日の信心で聖体降福式を致しましょう、御聖体の礼拝を致しましょう。
初土の信心をする為には、マリア様の汚れなき御心を償う為に、告解をして、そして御聖体拝領をして、ロザリオを唱えて、そしてあと15分間黙想をします。特にこの15分間の黙想の為に、これを捧げましょう。
一週間後の9月8日の主日には、シュテーリン神父様が管区長として最後に日本に来られます。夕方のミサがあります、いらして下さい。できればシュテーリン神父様の為に、ささやかな感謝の謝恩会を開いて下さる事できれば嬉しく思います。
“Ecce filius tuus. Ecce Mater tua.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、9月は、私たちにとってとても重要な月です。なぜかというと、9月14日にはイエズス様の十字架の称讃の大祝日が、その翌日15日には、マリア様の御悲しみの祝日があるからです。マリア様の御悲しみとイエズス様の十字架は、決して離れる事ができません。そして特にこの十字架において、マリア様は私たちの本当の霊的な母となります。
そこで今日は是非、特に小さなお友達も、「マリア様が私たちの本当の霊的なお母様である」という事を知ってもらいたいなと思っています。
⑴ そこでまず、マリア様の役割について、マリア様がなぜお母様なのか?という事を今日は少し一緒に黙想しましょう。
⑵ 第2に、では「マリア様がお母様」という事は私たちにとってどういう意味があるだろうか?
⑶ 第3に、では私たちはマリア様に一体、特に9月は、何をしなければならないか、という事を黙想します。
⑴ マリア様は、第2のエヴァです。
「え?第2のエヴァ?」
「エヴァ」というのはよく、友達もよく聞くかもしれませんが、「アダムとイブ」という最初の、人類の最初の天主様から創られた人間、男と女、アダムとイブの「イブ」の事をヘブライ語では「エヴァ」と言います、ラテン語でも「エヴァ」と言います。ですから「イブ」というのは英語ですけれども、カトリック教会ではよく「エヴァ」と言います。
マリア様は第2のエヴァです。なぜかというと、第1のエヴァが犯した罪を償う為に、人類に与えられた方だからです。
それはどういう事かというと、第1の最初に創られたエヴァは、食べてはいけないと言われていた、善と悪の知識の実を、蛇の言葉を信じて悪魔の、蛇の形をとった悪魔の言葉を信じて、それを食べてしまいました。「それを食べると天主のようになる」と信じてしまったからです。
そのそうして罪を犯したエヴァが何をしたかというと、「ごめんなさい」と言ったのではなくて、そうではなくて、アダムをその同じ罪に誘ったのです。アダムに、その「食べてはいけないと言われている木の元にいらっしゃい」と言って、そしてこの木から実を取って、アダムに差し出しました。「これを食べると天主様のようになる。私は食べたけれども死ななかった。あなたも食べなさい。」
禁じられた木の下に足下に、第1のアダムとエヴァが立っていました。そして罪を犯しました。「してはいけない」という事をしました。「してはいけない」という事をよく知っていたにも関わらず、罪を犯しました。
そしてその結果、天主はアダムとエヴァに罰を与えなければなりませんでした。楽園から追放されて、天主の子供として持っていた全ての特権を失いました。天国の門は閉ざされました。
しかし同時に、天主はアダムとエヴァを通して、私たちに約束をしました、「私は、この蛇とお前と女の間に敵対を置く。お前の子孫と女の子孫との間に敵対を置く。」「蛇はお前は、女のかかとを踏むだろう。しかし彼女は女は、お前の頭を踏み砕くだろう。」
マリア様は第2のエヴァでした。それはどういう事かというと、第1のアダムと第1のエヴァが犯した罪を償う為に約束された、この女性だったのです。敵対、悪魔の反対の、敵の女性だったのです。悪魔の頭を踏み砕く為に生まれて来た、作られた、特別に作られた女性で、第1のエヴァが全人類の母親となったように、第2のエヴァは、的な、私たちを超自然の命に生かす母となる方だったのです。
第2のエヴァであるマリア様は、十字架の下に立っています。
第2のエヴァは天使の言葉を信じて、大天使ガブリエルの言葉を信じて、そして天主に従順でありました。第1のエヴァは天主に逆らいました。第2のエヴァのマリア様は天主様に、「私は主の婢女です。仰せの如く我になれかし。私は主の奴隷です。女のしもべです。ですから天主様がお望みの事を、私は全てなします。従います。」
それ以来、常にマリア様は、主のお望みのままに生きていました。罪を知らずに、罪を犯さずに、主の御旨だけを果たしてきました。「主の御旨」というのは、「天主様がお望みの事」を、果たしてきました。
そしてそのクライマックスが、その最高潮が、その頂点が、十字架での足下で、マリア様が留まった事です。マリア様は御自分のお腹の中の実であった、実りであった御自分の御子イエズス様を、木の上に十字架の木に付けて、人類の為に苦しみを捧げて、従順に罪を償いました。
マリア様こそが唯一、天主の聖なるお望みのままに、御旨のままに生活した、唯一の方です。完全にそれを果たした方です。罪が全く無い、聖寵に満ちた方でした。
キリスト教信者は、なぜ「キリスト教信者」かと言われると、第2のキリストと、イエズス様の真似を、キリストの真似をしなければならないキリスト信者ですが、マリア様こそがまさに、イエズス・キリスト様の生き写しでした。全く聖なる方でした。
私が読んだ本の中には、こういう一節がありました。何度も私はその事を引用したので、皆さんはよく知っているかもしれません。イエズス会の、フランス人のイエズス会のプリュス神父様という方は、マリア様に関する本の中で、「神学者たちはこう言っている」と言っています。それによると、「マリア様が、そのお母様の聖アンナ様の御胎内に宿られた瞬間から、聖寵に充ち満ちた方であったので、その最初の御恵みは、最初の聖寵、成聖の聖寵は、全ての天使、あるいは聖人たちがその生涯の終わりに到達する事のできる、最高度の御恵みよりも聖徳よりも、はるかに上だった。」そしてそのプリュス神父様によると、「マリア様がお亡くなりになって、被昇天で天に上げられた時の御恵み、その聖寵は、全ての天使たちと聖人たちを合わせた合計よりも、はるかに上だった。たった一人で」と言うのです。
けれども、私がつい最近読んだエウジェニオ・ボイラン神父様(Eugene Dom Boylan, O.C.R.)の本 "This Tremendous Lover" によると、「マリア様が最初に受けた、その無原罪の御宿りに受けたその最初の瞬間の御恵みは、もう既に全ての天使と聖人たちを合わせたよりも、もっと上だった。それが多くの神学者たちの共通の意見だ」と言っています。
いずれにしても、マリア様は特別の御恵みを受けて、その最初の瞬間から、清い聖なる霊魂でした。そしてこの清い聖なる霊魂を最後まで、この聖徳を最後まで、ますます高めていきました。
エウジェニオ・ボイラン神父様によると、ですから「マリア様たった一人の霊魂は、一人で、全宇宙のあらゆる天使や聖人たちや、全宇宙の美しいものの創造の御業が天主に栄光を与えたよりも、もっとたった一人で、更にもっと大きな栄光を与えた、喜びを与えた」と言っています。
その神父様によると、「マリア様の与えたその栄光というのは、全世界が与える事ができる栄光と比べると、それは大海原の海の水と、たった水の一滴のようだ」と言っています。「全宇宙の美しい、この大天使、聖人たちが与える栄光というのは、マリア様と比べればほんの水の一滴にすぎない。」
ですから、ボイラン神父様によると、「たとえマリア様だけが居たとしても、天主様の創造の御業は大成功であった。私たちがいるかいないかは、天主様の栄光にそれほどの変わりがないかのように思われる。それほどマリア様は天主様の御心にかなった、聖なる霊魂だった。」
さらに「そのマリア様の讃美の栄光を歌う歌は、天使たちと世界中の天国の聖人たちが声を合わせて歌ったとしても、決して終わりを知る事がない。そして終わりを知らずに、ずっと誉め讃えたとしても、それでも足りないほどだ。それでも失敗かもしれない。なぜならマリア様の事を、その素晴らしさを、栄光を誉め讃える事には、遥かに不足しているから。」
それを考えると、もしもマリア様であってそうであるならば、イエズス様の私たちに対する御慈しみと愛はどれほどか、という事が分かります。
マリア様は、イエズス・キリスト様を私たちに下さった、キリストの神秘体の頭であるイエズス様を私たちに下さったので、私たちの霊的な母です。
と同時に、先ほども今、第2のエヴァとしてマリア様がイエズス様と共に十字架の下で苦しんで、そして大きな、大きな栄光を勝ち取った、功徳を勝ち取ったが故に、共償者であるが故に、イエズス様とマリア様が二人で、私たちの為に十字架の下で苦しんだが故に、霊的な母です。これが産みの苦しみでした。
第3には、十字架の上でイエズス様が、「マリア様は私たちの母だ」と宣言されたので、私たちのお母様でもあります。
⑵ では第2に、「マリア様が私たちのお母様だ」という事は一体、どういう意味があるのでしょうか?
幼きイエズスの聖テレジアという有名な立派な聖人がいます。その聖女は聖テレジアは、修道会で生活をしていましたが、マリア様の事をよく黙想していました。そして死ぬ前に、「なぜ私はマリア様を愛しているのか」という詩を書きました。それによると、とても美しい詩なのですけれども、「マリア様は、私たちにとって女王であって、天の元后であるから、確かにマリア様を愛するけれども、更にもっと愛する理由は、マリア様が私たちと同じ、この地上で苦しみを受けて、私たちと同じ悲しみを覚えて、私たちを愛しておられる方だから、私はマリア様を愛する」と書いています。
罪の無い、最高の被造物である、愛に満ちたこのマリア様が、私たちの母として、私たちを霊的に産む為に苦しまれた、というところが、私たちにとっては一番深い意味があります。
「お母さんが僕の為に私の為に、こんなに辛い思いをされた、こんなに苦しんだ。そのおかげで私たちは生まれて来た」と分かったら、私たちはどれほどそのお母さんを感謝しなければならないのでしょうか。
お母さんはただ産んだ時に苦しい思いをしたのみならず、今でも悲しい思いをしています、人類の罪を見て。ですから私たちは、そのお母様をますます愛して、慰めなければならない、という思いに駆り立てられます。
つい最近、デ・ガラレタ司教様が日本にやって来ました。デ・ガラレタ司教様という方はとても偉い方なので、本当なら私のような下にいる神父は、そんなに近くに行って話をしたり、同じテーブルで食事をしたり、とかという事は普通はないのですけれども、しかしマリア様が特別の御恵みを下さったので、日本と韓国とマニラにいる間、10日ぐらいずっと一緒にいる事になりました。2週間ぐらい。
そのデ・ガラレタ司教様は、昔からマリア様に特別の信心がありました。その事は皆がよく知っています。特にファチマのマリア様や、マリア様の汚れなき御心に対してとても信心深い方です。その司教様は、口ではと言うよりは、ご自分の生活で、私に大きなメッセージと印象を与えてくれました。マリア様をどうやって愛するべきなのか、という事を。
すると司教様はまず、お祈りをよくしていました。いつも御聖体の前で、お祈りをしていました。
長崎に巡礼に行って、あっちにもこっちにも引っ張り回そうと思ったのですけれども、そうではなくて、信徒発見の大浦天主堂では、スピーカーがずっと鳴り響いているにもかかわらず、お祈りをしていました、マリア様の前で。
中町教会に行って、日本で最初の女性の聖人殉教者がいる、ドミニコ会の聖人に捧げられた教会に行くと、そこでもずっと黙想をしていました。クーラーも扇風機もない暑い中で、汗をダラダラ流しながら、長い黙想がありました。
浦上教会に行った時には、入る事ができないようになっていたのですけれども、司教様と私はすぐに案内されて中に入るのですけれども、他の人たちがお祈りできないので、「かわいそうだ。大浦教会はうるさいけれども、でもお祈りしていた人がたくさんいた。」
ソウルでもマニラでも、いつもお祈りしていました。お忙しいたくさんの仕事がある身分でしたが、お祈りをよくしていました。それには本当に私は感動しました、感銘を受けました。
そして忍耐強くて、とても苦しみを、いつも微笑みで捧げておられました。暑さや、喉が渇いたとか、非常に苦しみも辛い事も、耐えていました。
清貧の精神に富んでいた方でした。貧しいが故に生じる、私たちが受ける嘲りや苦痛を、不便な事や、待たされる事や、雑音や、それ等を忍耐しておられました。そして「こうあったらいいな」という事がご希望もあったのですけれども、それが叶えられない時には、微笑んで、それを何でもない、というように捧げておられました。
マニラで十字架像を入手したいような事をポロリと仰ったので、司教30周年で何か、それでどのような十字架が良いか、という事を、結局はお買いにならなかったのですけれども、どういう十字架像が良いのかというと、「イエズス様の栄光もなく、色が付いていて、そして脇の傷が無くて、まだ死んでおられずに、生きて苦しんでおられるイエズス様の御像が良い」と。いつもマリア様を通して、イエズス様にご自分の苦しみを捧げておられるのだなぁ、という事がよく分かりました。
⑶ では私たちは、どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?
私たちも特に9月は、私たちのお母様が、汚れなき御心、苦しみに満ちた悲しみに満ちた汚れなき御心が、私たちの為に、私たちを愛するが為に、母として憐れみに満ちて、どれほど御苦しみになっておられるか、という事を黙想する事を提案します。
そして第2に、その悲しみに満ちたマリア様を、私たちの小さな苦しみと祈りを以てお慰めしたい、という事を提案します。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年9月1日、9月の初土曜日です。
今日のミサに、名古屋から多くの友達が来て下さって嬉しく思います。小さなお友達もたくさん来てくれて、嬉しく思います。
今日は初土曜日ですので、ミサが終わって感謝のお祈りが終わりましたら、初土曜日の信心で聖体降福式を致しましょう、御聖体の礼拝を致しましょう。
初土の信心をする為には、マリア様の汚れなき御心を償う為に、告解をして、そして御聖体拝領をして、ロザリオを唱えて、そしてあと15分間黙想をします。特にこの15分間の黙想の為に、これを捧げましょう。
一週間後の9月8日の主日には、シュテーリン神父様が管区長として最後に日本に来られます。夕方のミサがあります、いらして下さい。できればシュテーリン神父様の為に、ささやかな感謝の謝恩会を開いて下さる事できれば嬉しく思います。
“Ecce filius tuus. Ecce Mater tua.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、9月は、私たちにとってとても重要な月です。なぜかというと、9月14日にはイエズス様の十字架の称讃の大祝日が、その翌日15日には、マリア様の御悲しみの祝日があるからです。マリア様の御悲しみとイエズス様の十字架は、決して離れる事ができません。そして特にこの十字架において、マリア様は私たちの本当の霊的な母となります。
そこで今日は是非、特に小さなお友達も、「マリア様が私たちの本当の霊的なお母様である」という事を知ってもらいたいなと思っています。
⑴ そこでまず、マリア様の役割について、マリア様がなぜお母様なのか?という事を今日は少し一緒に黙想しましょう。
⑵ 第2に、では「マリア様がお母様」という事は私たちにとってどういう意味があるだろうか?
⑶ 第3に、では私たちはマリア様に一体、特に9月は、何をしなければならないか、という事を黙想します。
⑴ マリア様は、第2のエヴァです。
「え?第2のエヴァ?」
「エヴァ」というのはよく、友達もよく聞くかもしれませんが、「アダムとイブ」という最初の、人類の最初の天主様から創られた人間、男と女、アダムとイブの「イブ」の事をヘブライ語では「エヴァ」と言います、ラテン語でも「エヴァ」と言います。ですから「イブ」というのは英語ですけれども、カトリック教会ではよく「エヴァ」と言います。
マリア様は第2のエヴァです。なぜかというと、第1のエヴァが犯した罪を償う為に、人類に与えられた方だからです。
それはどういう事かというと、第1の最初に創られたエヴァは、食べてはいけないと言われていた、善と悪の知識の実を、蛇の言葉を信じて悪魔の、蛇の形をとった悪魔の言葉を信じて、それを食べてしまいました。「それを食べると天主のようになる」と信じてしまったからです。
そのそうして罪を犯したエヴァが何をしたかというと、「ごめんなさい」と言ったのではなくて、そうではなくて、アダムをその同じ罪に誘ったのです。アダムに、その「食べてはいけないと言われている木の元にいらっしゃい」と言って、そしてこの木から実を取って、アダムに差し出しました。「これを食べると天主様のようになる。私は食べたけれども死ななかった。あなたも食べなさい。」
禁じられた木の下に足下に、第1のアダムとエヴァが立っていました。そして罪を犯しました。「してはいけない」という事をしました。「してはいけない」という事をよく知っていたにも関わらず、罪を犯しました。
そしてその結果、天主はアダムとエヴァに罰を与えなければなりませんでした。楽園から追放されて、天主の子供として持っていた全ての特権を失いました。天国の門は閉ざされました。
しかし同時に、天主はアダムとエヴァを通して、私たちに約束をしました、「私は、この蛇とお前と女の間に敵対を置く。お前の子孫と女の子孫との間に敵対を置く。」「蛇はお前は、女のかかとを踏むだろう。しかし彼女は女は、お前の頭を踏み砕くだろう。」
マリア様は第2のエヴァでした。それはどういう事かというと、第1のアダムと第1のエヴァが犯した罪を償う為に約束された、この女性だったのです。敵対、悪魔の反対の、敵の女性だったのです。悪魔の頭を踏み砕く為に生まれて来た、作られた、特別に作られた女性で、第1のエヴァが全人類の母親となったように、第2のエヴァは、的な、私たちを超自然の命に生かす母となる方だったのです。
第2のエヴァであるマリア様は、十字架の下に立っています。
第2のエヴァは天使の言葉を信じて、大天使ガブリエルの言葉を信じて、そして天主に従順でありました。第1のエヴァは天主に逆らいました。第2のエヴァのマリア様は天主様に、「私は主の婢女です。仰せの如く我になれかし。私は主の奴隷です。女のしもべです。ですから天主様がお望みの事を、私は全てなします。従います。」
それ以来、常にマリア様は、主のお望みのままに生きていました。罪を知らずに、罪を犯さずに、主の御旨だけを果たしてきました。「主の御旨」というのは、「天主様がお望みの事」を、果たしてきました。
そしてそのクライマックスが、その最高潮が、その頂点が、十字架での足下で、マリア様が留まった事です。マリア様は御自分のお腹の中の実であった、実りであった御自分の御子イエズス様を、木の上に十字架の木に付けて、人類の為に苦しみを捧げて、従順に罪を償いました。
マリア様こそが唯一、天主の聖なるお望みのままに、御旨のままに生活した、唯一の方です。完全にそれを果たした方です。罪が全く無い、聖寵に満ちた方でした。
キリスト教信者は、なぜ「キリスト教信者」かと言われると、第2のキリストと、イエズス様の真似を、キリストの真似をしなければならないキリスト信者ですが、マリア様こそがまさに、イエズス・キリスト様の生き写しでした。全く聖なる方でした。
私が読んだ本の中には、こういう一節がありました。何度も私はその事を引用したので、皆さんはよく知っているかもしれません。イエズス会の、フランス人のイエズス会のプリュス神父様という方は、マリア様に関する本の中で、「神学者たちはこう言っている」と言っています。それによると、「マリア様が、そのお母様の聖アンナ様の御胎内に宿られた瞬間から、聖寵に充ち満ちた方であったので、その最初の御恵みは、最初の聖寵、成聖の聖寵は、全ての天使、あるいは聖人たちがその生涯の終わりに到達する事のできる、最高度の御恵みよりも聖徳よりも、はるかに上だった。」そしてそのプリュス神父様によると、「マリア様がお亡くなりになって、被昇天で天に上げられた時の御恵み、その聖寵は、全ての天使たちと聖人たちを合わせた合計よりも、はるかに上だった。たった一人で」と言うのです。
けれども、私がつい最近読んだエウジェニオ・ボイラン神父様(Eugene Dom Boylan, O.C.R.)の本 "This Tremendous Lover" によると、「マリア様が最初に受けた、その無原罪の御宿りに受けたその最初の瞬間の御恵みは、もう既に全ての天使と聖人たちを合わせたよりも、もっと上だった。それが多くの神学者たちの共通の意見だ」と言っています。
いずれにしても、マリア様は特別の御恵みを受けて、その最初の瞬間から、清い聖なる霊魂でした。そしてこの清い聖なる霊魂を最後まで、この聖徳を最後まで、ますます高めていきました。
エウジェニオ・ボイラン神父様によると、ですから「マリア様たった一人の霊魂は、一人で、全宇宙のあらゆる天使や聖人たちや、全宇宙の美しいものの創造の御業が天主に栄光を与えたよりも、もっとたった一人で、更にもっと大きな栄光を与えた、喜びを与えた」と言っています。
その神父様によると、「マリア様の与えたその栄光というのは、全世界が与える事ができる栄光と比べると、それは大海原の海の水と、たった水の一滴のようだ」と言っています。「全宇宙の美しい、この大天使、聖人たちが与える栄光というのは、マリア様と比べればほんの水の一滴にすぎない。」
ですから、ボイラン神父様によると、「たとえマリア様だけが居たとしても、天主様の創造の御業は大成功であった。私たちがいるかいないかは、天主様の栄光にそれほどの変わりがないかのように思われる。それほどマリア様は天主様の御心にかなった、聖なる霊魂だった。」
さらに「そのマリア様の讃美の栄光を歌う歌は、天使たちと世界中の天国の聖人たちが声を合わせて歌ったとしても、決して終わりを知る事がない。そして終わりを知らずに、ずっと誉め讃えたとしても、それでも足りないほどだ。それでも失敗かもしれない。なぜならマリア様の事を、その素晴らしさを、栄光を誉め讃える事には、遥かに不足しているから。」
それを考えると、もしもマリア様であってそうであるならば、イエズス様の私たちに対する御慈しみと愛はどれほどか、という事が分かります。
マリア様は、イエズス・キリスト様を私たちに下さった、キリストの神秘体の頭であるイエズス様を私たちに下さったので、私たちの霊的な母です。
と同時に、先ほども今、第2のエヴァとしてマリア様がイエズス様と共に十字架の下で苦しんで、そして大きな、大きな栄光を勝ち取った、功徳を勝ち取ったが故に、共償者であるが故に、イエズス様とマリア様が二人で、私たちの為に十字架の下で苦しんだが故に、霊的な母です。これが産みの苦しみでした。
第3には、十字架の上でイエズス様が、「マリア様は私たちの母だ」と宣言されたので、私たちのお母様でもあります。
⑵ では第2に、「マリア様が私たちのお母様だ」という事は一体、どういう意味があるのでしょうか?
幼きイエズスの聖テレジアという有名な立派な聖人がいます。その聖女は聖テレジアは、修道会で生活をしていましたが、マリア様の事をよく黙想していました。そして死ぬ前に、「なぜ私はマリア様を愛しているのか」という詩を書きました。それによると、とても美しい詩なのですけれども、「マリア様は、私たちにとって女王であって、天の元后であるから、確かにマリア様を愛するけれども、更にもっと愛する理由は、マリア様が私たちと同じ、この地上で苦しみを受けて、私たちと同じ悲しみを覚えて、私たちを愛しておられる方だから、私はマリア様を愛する」と書いています。
罪の無い、最高の被造物である、愛に満ちたこのマリア様が、私たちの母として、私たちを霊的に産む為に苦しまれた、というところが、私たちにとっては一番深い意味があります。
「お母さんが僕の為に私の為に、こんなに辛い思いをされた、こんなに苦しんだ。そのおかげで私たちは生まれて来た」と分かったら、私たちはどれほどそのお母さんを感謝しなければならないのでしょうか。
お母さんはただ産んだ時に苦しい思いをしたのみならず、今でも悲しい思いをしています、人類の罪を見て。ですから私たちは、そのお母様をますます愛して、慰めなければならない、という思いに駆り立てられます。
つい最近、デ・ガラレタ司教様が日本にやって来ました。デ・ガラレタ司教様という方はとても偉い方なので、本当なら私のような下にいる神父は、そんなに近くに行って話をしたり、同じテーブルで食事をしたり、とかという事は普通はないのですけれども、しかしマリア様が特別の御恵みを下さったので、日本と韓国とマニラにいる間、10日ぐらいずっと一緒にいる事になりました。2週間ぐらい。
そのデ・ガラレタ司教様は、昔からマリア様に特別の信心がありました。その事は皆がよく知っています。特にファチマのマリア様や、マリア様の汚れなき御心に対してとても信心深い方です。その司教様は、口ではと言うよりは、ご自分の生活で、私に大きなメッセージと印象を与えてくれました。マリア様をどうやって愛するべきなのか、という事を。
すると司教様はまず、お祈りをよくしていました。いつも御聖体の前で、お祈りをしていました。
長崎に巡礼に行って、あっちにもこっちにも引っ張り回そうと思ったのですけれども、そうではなくて、信徒発見の大浦天主堂では、スピーカーがずっと鳴り響いているにもかかわらず、お祈りをしていました、マリア様の前で。
中町教会に行って、日本で最初の女性の聖人殉教者がいる、ドミニコ会の聖人に捧げられた教会に行くと、そこでもずっと黙想をしていました。クーラーも扇風機もない暑い中で、汗をダラダラ流しながら、長い黙想がありました。
浦上教会に行った時には、入る事ができないようになっていたのですけれども、司教様と私はすぐに案内されて中に入るのですけれども、他の人たちがお祈りできないので、「かわいそうだ。大浦教会はうるさいけれども、でもお祈りしていた人がたくさんいた。」
ソウルでもマニラでも、いつもお祈りしていました。お忙しいたくさんの仕事がある身分でしたが、お祈りをよくしていました。それには本当に私は感動しました、感銘を受けました。
そして忍耐強くて、とても苦しみを、いつも微笑みで捧げておられました。暑さや、喉が渇いたとか、非常に苦しみも辛い事も、耐えていました。
清貧の精神に富んでいた方でした。貧しいが故に生じる、私たちが受ける嘲りや苦痛を、不便な事や、待たされる事や、雑音や、それ等を忍耐しておられました。そして「こうあったらいいな」という事がご希望もあったのですけれども、それが叶えられない時には、微笑んで、それを何でもない、というように捧げておられました。
マニラで十字架像を入手したいような事をポロリと仰ったので、司教30周年で何か、それでどのような十字架が良いか、という事を、結局はお買いにならなかったのですけれども、どういう十字架像が良いのかというと、「イエズス様の栄光もなく、色が付いていて、そして脇の傷が無くて、まだ死んでおられずに、生きて苦しんでおられるイエズス様の御像が良い」と。いつもマリア様を通して、イエズス様にご自分の苦しみを捧げておられるのだなぁ、という事がよく分かりました。
⑶ では私たちは、どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?
私たちも特に9月は、私たちのお母様が、汚れなき御心、苦しみに満ちた悲しみに満ちた汚れなき御心が、私たちの為に、私たちを愛するが為に、母として憐れみに満ちて、どれほど御苦しみになっておられるか、という事を黙想する事を提案します。
そして第2に、その悲しみに満ちたマリア様を、私たちの小さな苦しみと祈りを以てお慰めしたい、という事を提案します。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。