2018年9月23日(主日)聖霊降臨後第18主日のミサ
小野田神父 説教
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2018年9月23日、聖霊降臨後第18主日です。
今日この午後は特別のプログラムがあります。聖ピオ十世会のシスターがいらしており、14時半からシスター会のどのような生活をしているか、という事をスライドショーで皆さんにお見せしたいと思っています。14時半からです。どうぞなるべく多くの方が、シスターの特別のご紹介にいらして下さる事を期待しています。よろしくお願いします。
そして今日は16時から主日の第2晩課があります。明日は休日ですが、7時からミサがあります。次のミサは、10月7日です。
“Surge, tolle lectum tuum, et vade in domum tuam.”
「起きて床を取りなさい。そしてお前の家に帰りなさい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日聖霊降臨後第18主日のこのミサでは、イエズス様が奇跡を行なった事を、この史実を読みました。なぜでしょうか?
なぜかというと、今日のこの福音書に出てくる中風の半身不随の人は、皆さんであり、私であります。私たちは今日、教会に運ばれて来ました。今日イエズス様と会って、イエズス様からこの言葉を聞かなければなりません、「さぁ、起き上がって、床を取って、家に帰りなさい。」
この奇跡が今日起こらなければなりませんが、
⑴なぜ一体、今日こんな話が出るのか?
⑵次に、この奇跡が起こる為には、私たちはどうしなければならないのか?一体何が起こるのか?という事を黙想して、遷善の決心を立てる事にします。
⑴では一体、今日何でこの話が出たのでしょうか?
なぜかというと、8月15日、聖母の被昇天、マリア様が天に上げられた祝日の次、9月14日、イエズス様の十字架が天高くに上げられて、称讃させられた事を見ました。教会はこの2つの祝日から、「主の来臨は近い。世の終わりは近い」としるしを、時のしるしを見ています。
なぜかというと、世の終わりには、人の子のしるしが、十字架のしるしが、空に現れるからです。なぜかというと、世の終わりには、十字架によって私たちは裁かれるからです。
ですから教会は既に、私たちの祖国である天国での、私たちの本当の家に帰る事を予感しています。ですから、私たちが天国に天の家に帰る事ができるように、私たちを既に準備させようとしています、「十字架のしるしはもう現れた。世の終わりは近い。さぁ、主の裁きを受ける準備をしなさい」と。
そこで今日この教会は、「教会」というのはつまり「天のエルサレム」の象りでもあります。「エルサレム」というのはヘブライ語で「平和のビジョン」という意味です。「サレム」というのは「平和」という意味です。「平和を、私たちがこの目で見る事。」つまり天主の至福直観を、顔と顔を合わせて見る事、天国の象りでもあります。
教会はですから、私たちが教会に入るやいなや、司祭が教会に入場するやいなや歌った、歌う歌が、「主よ、私たちに平和を下さい。平和のビジョンを下さい。本当の天国での至福直観の平和を下さい」と歌っています。「主の家に行こうと言われて、」つまり、「天国に行こうと言われて、天国での幸せを一緒に味わおうと言われて、私は喜んだ。」「あぁ、主の、天主の家に行くというのは、天国に行くという事は、どれほど嬉しい事でしょうか。」私たちは喜びに満ちています。
では、この事が起こる為に、一体教会は何を祈っているかというと、「主の憐れみの力がありますように。」“tuae miserationis operatio.”これがありますように、と言いますが、つまりこれは、「主の憐れみの働き」というのは、「ミサ聖祭」の事であります。
ミサ聖祭によって、私たちがイエズス様と出会って、イエズス様を目の前にして、イエズス様が私たちの現前に来られて、そして私たちの心の中にも、聖体拝領によって来られる、という憐れみの御業が行なわれるところだからです。
聖パウロは今日は、私たちが主の裁きを受ける準備をする事ができるように、2つの事を提案しています。
まず、「感謝」をする事。私たちが受けた全ての御恵みを感謝する事。
私たちがこの目で美しい世界を見る事ができるというのも、指がこうやって動く事も、健康である事も、この自然の御恵みだけでもものすごい御恵みです。私たちが生きているという事だけでも御恵みです。
しかしイエズス様は、それよりもはるかに超えた、超自然の御恵みを下さいました。洗礼の御恵み。罪の赦しの御恵み、告解の秘跡の御恵み。聖体拝領の御恵み。堅振の御恵み。この超自然の御恵み一つ一つは、大自然、全宇宙の創造全部の美しさをはるかに超える御恵みです。それを私たちは次から次へと受け続けてきました。
聖パウロは私たちの名前によって感謝しています、「私たちの受けた御恵みによって感謝する。これが、主の現れる日まで、最後の日まで、私たちがこの御恵みによって固められるように祈る。イエズス・キリストの御来臨の時まで祈る」と「固められるだろう」と言っています。
この聖パウロの2つの提案を受けて、「感謝」と、そして「最後までこの御恵みを守る」という事を「裁きの日まで堅忍する」という事を、2つの事を思うと、教会はあたかも聖パウロの話を聞いた言葉を、こだまして歌っているかのようです。
まずGradualでは昇階誦では、「あぁ、『主の家に行こう』と言われて、喜んだ。『天国に行こう』と言われて、喜んだ。『天主の家に行く』というのは、何という御恵みだろうか。感謝する。」
そしてその次に、「イエズス様からの裁きが来る。裁きの時には、私たちは御恵みを受けたけれども、しかし異邦人たちは、その裁きの主が来る時には恐れおののくだろう、震えるだろう。そしてこの世でどれほど力のある王であったとしても、その富と、その武力と、武器と、軍隊と、名声と、自分の頭脳に信頼していた、しかし天主に信頼していなかった王たちは、恐れるだろう。しかし私たちは喜ぶ。主の家に行こうと言われた。」これがアレルヤです。
私たちが天主のしるしを見て、主の来臨を準備する。これが為に今日は、私たちは教会に運ばれて来ました。
⑵なぜかというと、第2の点は、私たちは今、裁きを受ける、今、「主の家に行こう」と言われたとしても、その準備ができていないからです。
見て下さい。私たちは全身麻痺しているかのように、道端で動く事もできずに、家に帰る事もできずに、苦しんでいる状態です。なぜ家に帰る事ができないか、なぜ体を動かす事ができないかというと、自分の思う通りに「こうしなければならない」と思っても、体が動かないのです。手が震えてるし、動かそうと思っても動かない。精神は、「天に上がろう」と思っているのですけれども、肉体は地上の事だけを考えています。この地に這いつくばっているのです。その為に私たちは、家に帰る事ができずにいます。
そこでイエズス様は今日、私たちにこう仰って下さいます、人の子が罪を赦す事ができる事を示す為に、奇跡を行ないます、「起き上がって、床を取って、家に帰りなさい。」するとこの男はすぐ起き上がって、床を取って家に帰ります。
これは、過去の私たちの洗礼の象りでもありますし、そして今日この御ミサで、イエズス様が私たちの霊魂に働きかけて下さる事の象りでもあります。
今日では私たちはどうやったら、この起き上がって、床を取って、家に帰る事ができるのでしょうか?
それは、聖体拝領の時の聖体拝領誦に書かれているようです、“Tollite hostias, et introite in atria ejus: adorate Dominum in aula sancta ejus.”
私たちは麻痺していますが、なぜかというと、この地上の事で、天の事を、天を見ようとするのを嫌がっているからです。イエズス様の後に従う事を躊躇しているからです。イエズス様の近くに行く事を躊躇しているからです。でもイエズス様はどこにいらっしゃるかというと、十字架のもとにおられます。「もしも私に従いたいと思うならば、自分の十字架を取って、我に従え。」
ですから私たちも、自分の十字架を取って、いけにえを取って、イエズス様に従わなければなりません。イエズス様に会いに行かなければなりません。
第2には、これがちょうど「自分の床を取る」という事と同じではないでしょうか。そして「立ち上がって家に帰る」と。これはちょうど、「主の中庭に、主の家の中庭に入りなさい」という事と同じではないでしょうか。つまり「私たちは聖体拝領をする時に、主の十字架を取って、イエズス様のいけにいえに合わせて、私たちもいけにえとして自分を捧げて、そして私たちの心の中に主が、イエズス様が入って下さるように、私たちもイエズス様の聖心の中に入ろう。そしてイエズス様を礼拝する。」イエズス様を礼拝する、すなわちこれが天国への幸せの味見であり、前兆であります。
最後に、永遠にイエズス様を礼拝する事ができる為に、天国の家に行く事ができる為に、教会は今日、このリハーサルをするように、私たちを招いています。その時に私たちは、イエズス様からの声を聞くでしょう。最後に、「立ち上がって、床を取って、家に帰れ。」私たちはその時に復活して、そしてイエズス様の準備して下さった私たちの本当の家、天国に帰らなければなりません。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2018年9月23日、聖霊降臨後第18主日です。
今日この午後は特別のプログラムがあります。聖ピオ十世会のシスターがいらしており、14時半からシスター会のどのような生活をしているか、という事をスライドショーで皆さんにお見せしたいと思っています。14時半からです。どうぞなるべく多くの方が、シスターの特別のご紹介にいらして下さる事を期待しています。よろしくお願いします。
そして今日は16時から主日の第2晩課があります。明日は休日ですが、7時からミサがあります。次のミサは、10月7日です。
“Surge, tolle lectum tuum, et vade in domum tuam.”
「起きて床を取りなさい。そしてお前の家に帰りなさい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日聖霊降臨後第18主日のこのミサでは、イエズス様が奇跡を行なった事を、この史実を読みました。なぜでしょうか?
なぜかというと、今日のこの福音書に出てくる中風の半身不随の人は、皆さんであり、私であります。私たちは今日、教会に運ばれて来ました。今日イエズス様と会って、イエズス様からこの言葉を聞かなければなりません、「さぁ、起き上がって、床を取って、家に帰りなさい。」
この奇跡が今日起こらなければなりませんが、
⑴なぜ一体、今日こんな話が出るのか?
⑵次に、この奇跡が起こる為には、私たちはどうしなければならないのか?一体何が起こるのか?という事を黙想して、遷善の決心を立てる事にします。
⑴では一体、今日何でこの話が出たのでしょうか?
なぜかというと、8月15日、聖母の被昇天、マリア様が天に上げられた祝日の次、9月14日、イエズス様の十字架が天高くに上げられて、称讃させられた事を見ました。教会はこの2つの祝日から、「主の来臨は近い。世の終わりは近い」としるしを、時のしるしを見ています。
なぜかというと、世の終わりには、人の子のしるしが、十字架のしるしが、空に現れるからです。なぜかというと、世の終わりには、十字架によって私たちは裁かれるからです。
ですから教会は既に、私たちの祖国である天国での、私たちの本当の家に帰る事を予感しています。ですから、私たちが天国に天の家に帰る事ができるように、私たちを既に準備させようとしています、「十字架のしるしはもう現れた。世の終わりは近い。さぁ、主の裁きを受ける準備をしなさい」と。
そこで今日この教会は、「教会」というのはつまり「天のエルサレム」の象りでもあります。「エルサレム」というのはヘブライ語で「平和のビジョン」という意味です。「サレム」というのは「平和」という意味です。「平和を、私たちがこの目で見る事。」つまり天主の至福直観を、顔と顔を合わせて見る事、天国の象りでもあります。
教会はですから、私たちが教会に入るやいなや、司祭が教会に入場するやいなや歌った、歌う歌が、「主よ、私たちに平和を下さい。平和のビジョンを下さい。本当の天国での至福直観の平和を下さい」と歌っています。「主の家に行こうと言われて、」つまり、「天国に行こうと言われて、天国での幸せを一緒に味わおうと言われて、私は喜んだ。」「あぁ、主の、天主の家に行くというのは、天国に行くという事は、どれほど嬉しい事でしょうか。」私たちは喜びに満ちています。
では、この事が起こる為に、一体教会は何を祈っているかというと、「主の憐れみの力がありますように。」“tuae miserationis operatio.”これがありますように、と言いますが、つまりこれは、「主の憐れみの働き」というのは、「ミサ聖祭」の事であります。
ミサ聖祭によって、私たちがイエズス様と出会って、イエズス様を目の前にして、イエズス様が私たちの現前に来られて、そして私たちの心の中にも、聖体拝領によって来られる、という憐れみの御業が行なわれるところだからです。
聖パウロは今日は、私たちが主の裁きを受ける準備をする事ができるように、2つの事を提案しています。
まず、「感謝」をする事。私たちが受けた全ての御恵みを感謝する事。
私たちがこの目で美しい世界を見る事ができるというのも、指がこうやって動く事も、健康である事も、この自然の御恵みだけでもものすごい御恵みです。私たちが生きているという事だけでも御恵みです。
しかしイエズス様は、それよりもはるかに超えた、超自然の御恵みを下さいました。洗礼の御恵み。罪の赦しの御恵み、告解の秘跡の御恵み。聖体拝領の御恵み。堅振の御恵み。この超自然の御恵み一つ一つは、大自然、全宇宙の創造全部の美しさをはるかに超える御恵みです。それを私たちは次から次へと受け続けてきました。
聖パウロは私たちの名前によって感謝しています、「私たちの受けた御恵みによって感謝する。これが、主の現れる日まで、最後の日まで、私たちがこの御恵みによって固められるように祈る。イエズス・キリストの御来臨の時まで祈る」と「固められるだろう」と言っています。
この聖パウロの2つの提案を受けて、「感謝」と、そして「最後までこの御恵みを守る」という事を「裁きの日まで堅忍する」という事を、2つの事を思うと、教会はあたかも聖パウロの話を聞いた言葉を、こだまして歌っているかのようです。
まずGradualでは昇階誦では、「あぁ、『主の家に行こう』と言われて、喜んだ。『天国に行こう』と言われて、喜んだ。『天主の家に行く』というのは、何という御恵みだろうか。感謝する。」
そしてその次に、「イエズス様からの裁きが来る。裁きの時には、私たちは御恵みを受けたけれども、しかし異邦人たちは、その裁きの主が来る時には恐れおののくだろう、震えるだろう。そしてこの世でどれほど力のある王であったとしても、その富と、その武力と、武器と、軍隊と、名声と、自分の頭脳に信頼していた、しかし天主に信頼していなかった王たちは、恐れるだろう。しかし私たちは喜ぶ。主の家に行こうと言われた。」これがアレルヤです。
私たちが天主のしるしを見て、主の来臨を準備する。これが為に今日は、私たちは教会に運ばれて来ました。
⑵なぜかというと、第2の点は、私たちは今、裁きを受ける、今、「主の家に行こう」と言われたとしても、その準備ができていないからです。
見て下さい。私たちは全身麻痺しているかのように、道端で動く事もできずに、家に帰る事もできずに、苦しんでいる状態です。なぜ家に帰る事ができないか、なぜ体を動かす事ができないかというと、自分の思う通りに「こうしなければならない」と思っても、体が動かないのです。手が震えてるし、動かそうと思っても動かない。精神は、「天に上がろう」と思っているのですけれども、肉体は地上の事だけを考えています。この地に這いつくばっているのです。その為に私たちは、家に帰る事ができずにいます。
そこでイエズス様は今日、私たちにこう仰って下さいます、人の子が罪を赦す事ができる事を示す為に、奇跡を行ないます、「起き上がって、床を取って、家に帰りなさい。」するとこの男はすぐ起き上がって、床を取って家に帰ります。
これは、過去の私たちの洗礼の象りでもありますし、そして今日この御ミサで、イエズス様が私たちの霊魂に働きかけて下さる事の象りでもあります。
今日では私たちはどうやったら、この起き上がって、床を取って、家に帰る事ができるのでしょうか?
それは、聖体拝領の時の聖体拝領誦に書かれているようです、“Tollite hostias, et introite in atria ejus: adorate Dominum in aula sancta ejus.”
私たちは麻痺していますが、なぜかというと、この地上の事で、天の事を、天を見ようとするのを嫌がっているからです。イエズス様の後に従う事を躊躇しているからです。イエズス様の近くに行く事を躊躇しているからです。でもイエズス様はどこにいらっしゃるかというと、十字架のもとにおられます。「もしも私に従いたいと思うならば、自分の十字架を取って、我に従え。」
ですから私たちも、自分の十字架を取って、いけにえを取って、イエズス様に従わなければなりません。イエズス様に会いに行かなければなりません。
第2には、これがちょうど「自分の床を取る」という事と同じではないでしょうか。そして「立ち上がって家に帰る」と。これはちょうど、「主の中庭に、主の家の中庭に入りなさい」という事と同じではないでしょうか。つまり「私たちは聖体拝領をする時に、主の十字架を取って、イエズス様のいけにいえに合わせて、私たちもいけにえとして自分を捧げて、そして私たちの心の中に主が、イエズス様が入って下さるように、私たちもイエズス様の聖心の中に入ろう。そしてイエズス様を礼拝する。」イエズス様を礼拝する、すなわちこれが天国への幸せの味見であり、前兆であります。
最後に、永遠にイエズス様を礼拝する事ができる為に、天国の家に行く事ができる為に、教会は今日、このリハーサルをするように、私たちを招いています。その時に私たちは、イエズス様からの声を聞くでしょう。最後に、「立ち上がって、床を取って、家に帰れ。」私たちはその時に復活して、そしてイエズス様の準備して下さった私たちの本当の家、天国に帰らなければなりません。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。