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2018年10月5日(初金) 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ 「天主の御言葉と合体せるイエズスの聖心」

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2018年10月5日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年10月5日、10月の初金曜日のミサをしています。

10月は司祭の黙想会のある為、いつも予定されている19日と20日の、金曜と土曜のミサをここでする事ができなくなってしまいました。
しかし来週火曜の夕方と水曜日の朝に、ミサがここである事になりました。

イエズス様が「ミサがあるように」と計らって下さったのだと思っています。そこでミサが、明日と、それから火曜日の夜と水曜日の朝にあります。


「天主の御言葉と合体せるイエズスの聖心、我らを憐れみ給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は初金曜日です。聖時間を行ないましょう。
イエズス様の聖心の連祷の中に、こういう言葉があります、「天主の御言葉と合体せるイエズスの聖心、我らを憐れみ給え。」

「天主の御言葉と合体せる」とは、一体どういう事でしょうか?どのように合体しているのでしょうか?一体その合体する事によって、何が起こっているのでしょうか?それを今晩一緒に黙想して、イエズス様の聖心には、イエズス様の聖心は、真の人間の心臓、聖心であって、同時に、天主の心臓である、聖心である、という事を理解を深めたいと思っています。この事を理解する為に、少し難しい話をする事を許して下さい。

イエズス様は、真の人であり、真の天主であります。真の天主、真の人です。真の天主であるという事は、イエズス様は天主として、その天主の本性をひとつも変える事なく、ひとつも失う事なく、完全に保ちながら、完全な天主のまま留まりながら、人間となられた、という事です。

これはどういう事かというと、ここで少し、壁を見て下さい。壁は白い壁です。でも、壁が白いか或いは赤いかというのは、全く、壁であるか壁でないかには関わりません。

でも壁が白いという事には、これには壁のどんな所にも白さがあるのです。この壁の白さがあります。それでこの「壁の白さ」というのは分解する事はできません。

そしてその壁の所にはその白さというのがあって、ある壁はその「白さ」を持っていますが、ある壁は「赤さ」を持っているかもしれません。ある壁は「灰色さ」を持っているかもしれません。

それで、「壁である」という事と、その「どんな色が付いているか」という事は、別のものだという事が分かるのですけれども、しかしその「壁」というものが土台になって、色が付いているのだな、という事が分かります。

そしてこれを例えば人間に当てはめると、人間が、ある人は日本人だ、ある人は色が白い、ある人は太っている、色々なものがあるかもしれませんけれども、「人間」というものは、たとえどうであれ、どのようなものであれ、変わらないものが土台に残っています。

そしてこの「壁」とか「人間」とかいうものは、それを何とかを「壁たらしめているもの」、あるものを「人間たらしめているもの」を、「人間の本性」、「人間を人間たらしめているもの」とします。

「天主を天主たらしめているもの」もあります。それが「天主の本性」、あるいは日本語では「神性」とも言われています。天主の本性。神性。

ところで、ちょうど人間の本性に色々な、日本人であるという事や、あるいは背が高い事である事とか、あるいは太っている事であるとか、色々な、たまたまそうなっている、というようなものが、そのような性質があります。「たまたまそう有る」と言うので、難しい言い方をすると、「偶然」の「偶」に「そう有る」という事で、『偶有』とも言うのです。でもその名前がどうであるかは問題ではありません。そのちょうど色々な偶有は、「何であるか」という事を元に、そうあります。

ところで、理性を持った存在である、知性を持った存在、「人間」とか「天使」とか「天主」というのを、それが自立して存在している事ができる、その最も中核というものは何かというと、これを『ペルソナ』と言います。あるいは『位格』とも言われていたり、あるいはギリシャ語では“ヒュポスタシス”という言葉を使って、「自立して存在している、その基礎にあるもの」というものを表現します。

例えば人間が、「私である」という、この「私」のこの中核にある、この「自立して存在している」という事です。

これは、色が付いたりしている、というものが、その土台が「実態」というのですけれども、それと似ているのですけれども、少しだけ違っているのは、その「実態」というのは、壁とか理性がないものであっても、そういう風に言うのですけれども、この「自立して存在している」という、その「ヒュポスタシス」とか、「ペルソナ」というのは、理性を持って知性を持った、意思を持った存在に付いている、その中核の土台の事を言うのです。

そして天主の第二のペルソナ、天主の御言葉のペルソナにおいて、それを土台にして、完全な天主の本性と、完全な人間の本性とが、そこで一致して、一つになって、合体している。

ですから、天主の本性は、その合体する事によって、人間の本性と混ぜ合わさって別のものに変化した、という事もないし、人間の本性も、天主の本性と混ぜ合わせて別の本性となった、という事もないし、また第二のペルソナ、天主の第二のペルソナと、人間のイエズス・キリストのペルソナ、という別のペルソナが二つあるのでもないし、たった一つのペルソナにおいて、その中核において、二つの本性が合体している、という事を表す為に、イエズス様の聖心の連祷では、「天主の御言葉と合体せるイエズスの聖心よ、我らを憐れみ給え」と私たちに祈らせています。

これはどういう事かというと、「イエズス様の人間の御霊魂、御体、全ては、天主の本性と全く一致している」という事です。ですからイエズス様の御体、御血、あるいはたとえそれが、霊魂が離れてしまった御受難の時に亡くなったその御体であったとしても、天主の本性に充ち満ちておられた、という事です。

御聖体の中においても、御聖体においても、天主の本性とイエズス様の御体は全く一致している、天主の御言葉のペルソナにおいて、ヒュポスタシスにおいて一致している、どんなイエズス様の小さな御聖体のかけらにおいても、天主の本性の充満が、充ち満ちておられる。ですからイエズス様の聖心、御心臓においても、天主の充満が、天主の本性が充ち満ちておられて、完全な天主がそこに存在している、という事です。

それは私たちにどういう事を教えているかというと、「イエズス様の聖心というのは、真の天主の心臓であって、聖心であって、たとえその体の一部であったとしても、天主の本性に充ち満ちておられる。この全ての全宇宙を支配して、歴史を支配して、私たちの生涯を全て知り尽くしている、御恵みを下さっている創造主、全能の天主の聖心である」という事です。

そして「その同じ聖心は、御聖体の中にも、御聖体の外見の内におられる。そして私たちを無限の慈しみにおいて愛して、私たちの前に留まっておられる」という事です。

「真の天主、真の人なるイエズス・キリストは、そのたとえ御心臓の一部であっても、天主性の充満を持っておられる」という事です。

このイエズス様の聖心は私たちに、「我に来たれ。重いくびきを負い疲れた者よ、我に来たれ。そして私のくびきは軽く、そして私は心の柔和で謙遜な者であるから、我に倣え。」

天主の聖心は私たちに、その「天主の充満から倣うように」と招いておられます。イエズス様における二つの本性の一致を、深く私たちが理解できますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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