アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
先日、東京で、ポール・クローデル生誕一五〇周年を記念して、日仏シンポジウムが開かれました。
ソルボンヌ大学のドミニック・ミエ=ジェラール先生が「ポール・クローデルと〈象徴〉の詩的=霊的体系:聖母マリア、教会、聖書」という題で、首都大学東京の南大沢キャンパスでなさったのでそれを伺いに参りました。(同じドミニック・ミエ=ジェラール教授の講話が日仏会館であったのですが、ミサのために残念ながらそれには参加できませんでした。)
ポール・クローデルについて、以前から名前は知っていましたが、とても深いカトリック思索家であったと今回初めて知りました。
特にポール・クローデルが旧約聖書のあちこちに「前兆 figure」(コリント前10:11)として「聖母だ!聖母だ!C'est elle! C'est elle!」と聖母を見いだして叫んでいること、などを知りました。旧約聖書には聖母のことがたくさん書かれている(特に「雅歌」!)のは本当です。ああ、しかし、私たちはちょうどエンマウスへの旅人のようでした(ルカ24:13~)。誰かが「モイゼからはじめ全ての預言者にわたり、聖書の全ての本の中で、聖母マリアについてしるされたことを説明」してくれる必要がありました(ルカ24:27)。
確かに、モーゼの見た「燃える茂み」が聖母の前兆(figura)であったこと、ゲデオンの「濡れた、また、濡れなかったマント」も、聖母のことを言葉ではなく、現実の出来事で、印として、あったことなどは知っていました。しかし、それがもっともっと多く聖書のいたるところにちりばめられていることを、今回確認しました。
またポール・クローデルは詩人として、その聖書に現れた前兆を、詩においては象徴として使ったこと、聖書を詩に適用したことなど、面白いと思いました。
ドミニック・ミエ=ジェラール先生が著作した「印と刻印」Le Signe et Le Sceau, Variations littéraires sur le Cantique des Cantiques, Histoire des Idées et Critique Littéraire, 2010, Droz を戴いたので、特に旧約聖書の「雅歌」について、私たちがそのまま読んだだけでは見落としてしまうようなところをいくつかご紹介したいと思います。
ミエ先生のこの本は、非常に博学の濃い内容のもので、ギリシア語・ラテン語のみならずヘブライ語やロシア語も出てくきます。そこで、この本のさわりだけをご紹介いたします。
雅歌には鳥がでてきます。「牝鳩(めばと)」と「山鳩(やまばと)」です。
「牝鳩(めばと)」は、ラテン語のウルガタ訳では7回でてきます。ラテン語で Columba です。ギリシア語ではペリステラ(περιστερά)、ヘブライ語ではヨナ(yona)です。
全て喩え(比較)として(一つを例外がある)、前兆と「型どり」figura の次元で出てきます。
例外は雅歌2:12の「私たちの土地には、山鳩の声が聞こえる Vox turturis audita est in terra nostra」です。山鳩は渡り鳥ですが、牝鳩はそうではありません。冬が去って花咲く春が来た、山鳩がやって来た、ということです。
「牝鳩」は、愛する男性が愛する女性を呼びかける時に3回使われます。たとえば、
雅歌2:10 Surge, propera, amica, columba mea, formosa mea, et veni (Vulg.)
【直訳:立ち上がれ!急げ!友よ、私の牝鳩よ、私の美しい女性よ、おいで】
ヘブライ語のマソレット写本には「牝鳩」(columba)という言葉がなく、私の愛する者 ra'aiti、私の美しい者 yafati しかありません。ヘブライ語に従ったと思われるバルバロ訳では次の通りです。
「さあ、愛する者よ、おいで、私の美しい者、おいで。」(バルバロ訳)
牝鳩と山鳩とをつかった比較(「牝鳩のようだ」「山鳩のようだ」)は、ヴルガタ訳では2回あります。
雅歌5:12 Oculi ejus sicut columbae super rivulos aquarum (Vulg.)
【直訳:彼の両目は、水の川岸にいる牝鳩たちのよう】
彼の目は、乳で洗って、岸辺で休む、水際の牝鳩のようだ。(バルバロ訳)
雅歌1:9 Pulchrae sunt genae tuae sicut turturis (Vulg.)
【直訳:あなたの両頬は、山鳩のように美しい】
あなたの顔は、両耳の飾りに囲まれて美しく、あなたの首は、首飾りをつけて愛らしい。(バルバロ訳)
牝鳩をつかった比喩として oculi tui columbarum 【牝鳩たちのあなたの両目】が2回出てきます。
雅歌1:14 ecce tu pulchra es amica mea ecce tu pulchra oculi tui columbarum
【直訳:ほら、あなたは美しい、私の友よ、見よ、あなたは美しい、牝鳩たちのあなたの両目よ】
私の愛する者よ、あなたは実に美しい!実に美しい!あなたの目は牝鳩。(バルバロ訳)
雅歌4:1 quam pulchra es amica mea quam pulchra es oculi tui columbarum, absque eo quod intrinsecus latet, capilli tui sicut greges caprarum quae ascenderunt de monte Galaad
ところで、何故、牝鳩であり、山鳩なのでしょうか?
オリゲネスの指摘によると「山鳩か牝鳩かをささげよ」(レヴィの書1:14)「二羽の山鳩か、二羽の牝鳩かを主のもとに携えてゆかなければならない」(レヴィ5:7)par turturum et duo pulli columbarum と関係があります。
またイエズス・キリストの洗礼のときに現れた鳩のような聖霊 Columba Spiritus sanctus est とも関係があります。鳩はほとんど家畜で人々の間に住んでいます。山鳩は野生の鳥で山の中、木々の高みに生活しています。私たちの主イエズス・キリストは天の高いところから地上に降りて人間の本性を受け人となり私たちのあいだに住み給うたので、また、私たちの無数の罪を一身に引き受けてヨルダン川で洗礼を受けられたので、山鳩ではなく鳩の形で現れた、と。
オリゲネスは雅歌2:14の columba mea in foraminibus petrae in caverna maceriae ostende mihi faciem tuam sonet vox tua in auribus meis vox enim tua dulcis et facies tua decora
(バルバロ訳は「14 岩の穴に、崖の切れ目にかくれる私の牝鳩よ、顔をお見せ、声をお聞かせ。あなたの声はやさしく、あなたの顔は愛らしい。)
の "in foraminibus petrae in caverna maceriae" (岩の穴に、崖の切れ目に)を解釈して言います。
主はモーゼに仰せられます。「あなたは岩の上に立ちなさい。私の栄光が通ると、私は岩の割れ目の中に (in foramine petrae) あなたを入れて、和が通る間私の手のひらであなたをおおう。それから私が手のひらを取り去れば、あなたは私の背を眺めてもよい。しかし私の顔は眺められない。」(出エジプト33:22-23)
出エジプトも、雅歌も、「岩の中に」と「顔を見る、顔を見せる」というテーマを取り扱っています。牝鳩も、モーゼのように、岩の中に隠れていますが、牝鳩は顔を見せるように招かれます。天主の御顔は見ることが出来ないのですが。
ところで、山鳩についてですが、古来から貞潔と童貞性のシンボルでした。寡婦となっても忠実に一人でとどまる女性の象徴でした。山鳩は春になるとやってきます。聖なるカトリック教会も、律法の冬が過ぎ去り、聖寵の春に輝きだします。
アポニウスは次のように言います(大意)。
Vox turturis audita est in terra nostra. 「私たちの土地には、山鳩の声が聞こえる 」聖母のおかげで、このいとも貞潔な鳥の声のおかげで、童貞女の声のおかげで、私たちの土地にはじめて春がやってきた。聖母が大天使ガブリエルにお答えになった時、呪われたこの土地、不敬の土地、情欲と快楽の土地は、童貞を守るという意志の声を聴いた。詩篇にある通り「私たちの土地はその実をいだすだろう」Terra nostra dabit fructum tuum. Ps. 84:13 よき実りを出だすことが出来なかったこの私たちの土地には、悪魔によって支配されてきた土地には、聖母によってなされた、山鳩の優しい声が響いた。正義の太陽(マラキ4:2)が昇るとき、--- 私たちにとってはあわれみのたいようだけれど --- 夏の豊な実りが私たちにあたえられるだろう。その最初は、貞潔な山鳩の声だ。
Surge, amica mea, speciosa mea, et veni, tu columba mea, in foraminibus petrae, incarevna maceriae. さあ、愛する者よ、おいで。私の美しい者、おいで。岩の穴に、崖の切れ目にかくれる私の牝鳩よ。聖母は、謙遜な隠れたところに身を置く。謙遜によって、霊魂は天主の現存にまで高められる。偶像を捨てることによって、高められる。霊魂は洗礼を鳩の形で現れた聖霊を受ける。そして聖母は鳩となる。キリストは岩である。この岩には五つの傷がある。十字架に付けられた手足とやりに貫かれた脇腹だ。使徒トマスのように、教会もこの傷の中に入るように招かれている。
アポニウスの言葉を聞くと、山鳩と牝鳩とは区別されながら一つの神秘を作っていることがわかります。大天使ガブリエルの声は、聖霊(鳩)の声、それに対応する聖母のこえは、山鳩の声。鳩は同時に教会をも意味する、と。
雅歌2:8-9にはこうあります。
「私は、愛する者がくる音を聞く。ほら、彼は来る。山々をとび、丘々をはねて。私の愛する者は、かもしかのよう、若い小鹿のようだ。ごらん、彼は、壁のむこうに立ち、窓からうかがい、格子からのぞいている。」
ヒポリトゥス(オリゲネスをローマで教えた教師)はこのように言います。
天主の御言葉は天から童貞女の胎内まで飛び、聖母の胎内から十字架の上まで跳ねた。十字架の木から地獄(古聖所)まで飛び、そこから復活して地上に跳ねた。地上から天に飛び上った。天主御父の右に座し給う主は、そこから生ける人と死せる人を裁くために跳ねてくる。
すると「彼は、壁のむこうに立ち、窓からうかがい、格子からのぞいている。」という部分もキリストの意味に理解できます。悪魔によって支配されている私たちをたすけようと、悪魔の格子と罠と網を砕こうとしていると。
では、以上の教父たちの教えを踏まえて、雅歌の2章を一部お読みください。
8 <花嫁>私は、愛する者がくる音を聞く。ほら、彼は来る。山々をとび、丘々をはねて。
9 私の愛する者は、かもしかのよう、若い小鹿のようだ。ごらん、彼は、壁のむこうに立ち、窓からうかがい、格子からのぞいている。
10 私の愛する者は、声を上げ、私にむかって言う。愛する者よ、おいで、美しい者よ、おいで。
11 さあ、冬は過ぎ去り、雨はやみ、もう去った。
12 私たちの土地に、花がふくらみ、はればれとした歌の季節が来る。私たちの土地には、山鳩の声が聞える。
13 いちじくは、初めて実をつけ、ぶどうは、その香りを放つ。さあ、愛する者よ、おいで。私の美しい者、おいで。
14 岩の穴に、崖の切れ目にかくれる私の牝鳩よ、顔をお見せ、声をお聞かせ。あなたの声はやさしく、あなたの顔は愛らしい。
聖ピオ十世会日本の2019年のカレンダーは、雅歌の内容が実際に、イエズスの聖心と私たち人間の霊魂とのあいだでなされているということに光をあてて、ただいま作成中です。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、
先日、東京で、ポール・クローデル生誕一五〇周年を記念して、日仏シンポジウムが開かれました。
ソルボンヌ大学のドミニック・ミエ=ジェラール先生が「ポール・クローデルと〈象徴〉の詩的=霊的体系:聖母マリア、教会、聖書」という題で、首都大学東京の南大沢キャンパスでなさったのでそれを伺いに参りました。(同じドミニック・ミエ=ジェラール教授の講話が日仏会館であったのですが、ミサのために残念ながらそれには参加できませんでした。)
ポール・クローデルについて、以前から名前は知っていましたが、とても深いカトリック思索家であったと今回初めて知りました。
特にポール・クローデルが旧約聖書のあちこちに「前兆 figure」(コリント前10:11)として「聖母だ!聖母だ!C'est elle! C'est elle!」と聖母を見いだして叫んでいること、などを知りました。旧約聖書には聖母のことがたくさん書かれている(特に「雅歌」!)のは本当です。ああ、しかし、私たちはちょうどエンマウスへの旅人のようでした(ルカ24:13~)。誰かが「モイゼからはじめ全ての預言者にわたり、聖書の全ての本の中で、聖母マリアについてしるされたことを説明」してくれる必要がありました(ルカ24:27)。
確かに、モーゼの見た「燃える茂み」が聖母の前兆(figura)であったこと、ゲデオンの「濡れた、また、濡れなかったマント」も、聖母のことを言葉ではなく、現実の出来事で、印として、あったことなどは知っていました。しかし、それがもっともっと多く聖書のいたるところにちりばめられていることを、今回確認しました。
またポール・クローデルは詩人として、その聖書に現れた前兆を、詩においては象徴として使ったこと、聖書を詩に適用したことなど、面白いと思いました。
ドミニック・ミエ=ジェラール先生が著作した「印と刻印」Le Signe et Le Sceau, Variations littéraires sur le Cantique des Cantiques, Histoire des Idées et Critique Littéraire, 2010, Droz を戴いたので、特に旧約聖書の「雅歌」について、私たちがそのまま読んだだけでは見落としてしまうようなところをいくつかご紹介したいと思います。
ミエ先生のこの本は、非常に博学の濃い内容のもので、ギリシア語・ラテン語のみならずヘブライ語やロシア語も出てくきます。そこで、この本のさわりだけをご紹介いたします。
雅歌には鳥がでてきます。「牝鳩(めばと)」と「山鳩(やまばと)」です。
「牝鳩(めばと)」は、ラテン語のウルガタ訳では7回でてきます。ラテン語で Columba です。ギリシア語ではペリステラ(περιστερά)、ヘブライ語ではヨナ(yona)です。
全て喩え(比較)として(一つを例外がある)、前兆と「型どり」figura の次元で出てきます。
例外は雅歌2:12の「私たちの土地には、山鳩の声が聞こえる Vox turturis audita est in terra nostra」です。山鳩は渡り鳥ですが、牝鳩はそうではありません。冬が去って花咲く春が来た、山鳩がやって来た、ということです。
「牝鳩」は、愛する男性が愛する女性を呼びかける時に3回使われます。たとえば、
雅歌2:10 Surge, propera, amica, columba mea, formosa mea, et veni (Vulg.)
【直訳:立ち上がれ!急げ!友よ、私の牝鳩よ、私の美しい女性よ、おいで】
ヘブライ語のマソレット写本には「牝鳩」(columba)という言葉がなく、私の愛する者 ra'aiti、私の美しい者 yafati しかありません。ヘブライ語に従ったと思われるバルバロ訳では次の通りです。
「さあ、愛する者よ、おいで、私の美しい者、おいで。」(バルバロ訳)
牝鳩と山鳩とをつかった比較(「牝鳩のようだ」「山鳩のようだ」)は、ヴルガタ訳では2回あります。
雅歌5:12 Oculi ejus sicut columbae super rivulos aquarum (Vulg.)
【直訳:彼の両目は、水の川岸にいる牝鳩たちのよう】
彼の目は、乳で洗って、岸辺で休む、水際の牝鳩のようだ。(バルバロ訳)
雅歌1:9 Pulchrae sunt genae tuae sicut turturis (Vulg.)
【直訳:あなたの両頬は、山鳩のように美しい】
あなたの顔は、両耳の飾りに囲まれて美しく、あなたの首は、首飾りをつけて愛らしい。(バルバロ訳)
牝鳩をつかった比喩として oculi tui columbarum 【牝鳩たちのあなたの両目】が2回出てきます。
雅歌1:14 ecce tu pulchra es amica mea ecce tu pulchra oculi tui columbarum
【直訳:ほら、あなたは美しい、私の友よ、見よ、あなたは美しい、牝鳩たちのあなたの両目よ】
私の愛する者よ、あなたは実に美しい!実に美しい!あなたの目は牝鳩。(バルバロ訳)
雅歌4:1 quam pulchra es amica mea quam pulchra es oculi tui columbarum, absque eo quod intrinsecus latet, capilli tui sicut greges caprarum quae ascenderunt de monte Galaad
ところで、何故、牝鳩であり、山鳩なのでしょうか?
オリゲネスの指摘によると「山鳩か牝鳩かをささげよ」(レヴィの書1:14)「二羽の山鳩か、二羽の牝鳩かを主のもとに携えてゆかなければならない」(レヴィ5:7)par turturum et duo pulli columbarum と関係があります。
またイエズス・キリストの洗礼のときに現れた鳩のような聖霊 Columba Spiritus sanctus est とも関係があります。鳩はほとんど家畜で人々の間に住んでいます。山鳩は野生の鳥で山の中、木々の高みに生活しています。私たちの主イエズス・キリストは天の高いところから地上に降りて人間の本性を受け人となり私たちのあいだに住み給うたので、また、私たちの無数の罪を一身に引き受けてヨルダン川で洗礼を受けられたので、山鳩ではなく鳩の形で現れた、と。
オリゲネスは雅歌2:14の columba mea in foraminibus petrae in caverna maceriae ostende mihi faciem tuam sonet vox tua in auribus meis vox enim tua dulcis et facies tua decora
(バルバロ訳は「14 岩の穴に、崖の切れ目にかくれる私の牝鳩よ、顔をお見せ、声をお聞かせ。あなたの声はやさしく、あなたの顔は愛らしい。)
の "in foraminibus petrae in caverna maceriae" (岩の穴に、崖の切れ目に)を解釈して言います。
主はモーゼに仰せられます。「あなたは岩の上に立ちなさい。私の栄光が通ると、私は岩の割れ目の中に (in foramine petrae) あなたを入れて、和が通る間私の手のひらであなたをおおう。それから私が手のひらを取り去れば、あなたは私の背を眺めてもよい。しかし私の顔は眺められない。」(出エジプト33:22-23)
出エジプトも、雅歌も、「岩の中に」と「顔を見る、顔を見せる」というテーマを取り扱っています。牝鳩も、モーゼのように、岩の中に隠れていますが、牝鳩は顔を見せるように招かれます。天主の御顔は見ることが出来ないのですが。
ところで、山鳩についてですが、古来から貞潔と童貞性のシンボルでした。寡婦となっても忠実に一人でとどまる女性の象徴でした。山鳩は春になるとやってきます。聖なるカトリック教会も、律法の冬が過ぎ去り、聖寵の春に輝きだします。
アポニウスは次のように言います(大意)。
Vox turturis audita est in terra nostra. 「私たちの土地には、山鳩の声が聞こえる 」聖母のおかげで、このいとも貞潔な鳥の声のおかげで、童貞女の声のおかげで、私たちの土地にはじめて春がやってきた。聖母が大天使ガブリエルにお答えになった時、呪われたこの土地、不敬の土地、情欲と快楽の土地は、童貞を守るという意志の声を聴いた。詩篇にある通り「私たちの土地はその実をいだすだろう」Terra nostra dabit fructum tuum. Ps. 84:13 よき実りを出だすことが出来なかったこの私たちの土地には、悪魔によって支配されてきた土地には、聖母によってなされた、山鳩の優しい声が響いた。正義の太陽(マラキ4:2)が昇るとき、--- 私たちにとってはあわれみのたいようだけれど --- 夏の豊な実りが私たちにあたえられるだろう。その最初は、貞潔な山鳩の声だ。
Surge, amica mea, speciosa mea, et veni, tu columba mea, in foraminibus petrae, incarevna maceriae. さあ、愛する者よ、おいで。私の美しい者、おいで。岩の穴に、崖の切れ目にかくれる私の牝鳩よ。聖母は、謙遜な隠れたところに身を置く。謙遜によって、霊魂は天主の現存にまで高められる。偶像を捨てることによって、高められる。霊魂は洗礼を鳩の形で現れた聖霊を受ける。そして聖母は鳩となる。キリストは岩である。この岩には五つの傷がある。十字架に付けられた手足とやりに貫かれた脇腹だ。使徒トマスのように、教会もこの傷の中に入るように招かれている。
アポニウスの言葉を聞くと、山鳩と牝鳩とは区別されながら一つの神秘を作っていることがわかります。大天使ガブリエルの声は、聖霊(鳩)の声、それに対応する聖母のこえは、山鳩の声。鳩は同時に教会をも意味する、と。
雅歌2:8-9にはこうあります。
「私は、愛する者がくる音を聞く。ほら、彼は来る。山々をとび、丘々をはねて。私の愛する者は、かもしかのよう、若い小鹿のようだ。ごらん、彼は、壁のむこうに立ち、窓からうかがい、格子からのぞいている。」
ヒポリトゥス(オリゲネスをローマで教えた教師)はこのように言います。
天主の御言葉は天から童貞女の胎内まで飛び、聖母の胎内から十字架の上まで跳ねた。十字架の木から地獄(古聖所)まで飛び、そこから復活して地上に跳ねた。地上から天に飛び上った。天主御父の右に座し給う主は、そこから生ける人と死せる人を裁くために跳ねてくる。
すると「彼は、壁のむこうに立ち、窓からうかがい、格子からのぞいている。」という部分もキリストの意味に理解できます。悪魔によって支配されている私たちをたすけようと、悪魔の格子と罠と網を砕こうとしていると。
では、以上の教父たちの教えを踏まえて、雅歌の2章を一部お読みください。
8 <花嫁>私は、愛する者がくる音を聞く。ほら、彼は来る。山々をとび、丘々をはねて。
9 私の愛する者は、かもしかのよう、若い小鹿のようだ。ごらん、彼は、壁のむこうに立ち、窓からうかがい、格子からのぞいている。
10 私の愛する者は、声を上げ、私にむかって言う。愛する者よ、おいで、美しい者よ、おいで。
11 さあ、冬は過ぎ去り、雨はやみ、もう去った。
12 私たちの土地に、花がふくらみ、はればれとした歌の季節が来る。私たちの土地には、山鳩の声が聞える。
13 いちじくは、初めて実をつけ、ぶどうは、その香りを放つ。さあ、愛する者よ、おいで。私の美しい者、おいで。
14 岩の穴に、崖の切れ目にかくれる私の牝鳩よ、顔をお見せ、声をお聞かせ。あなたの声はやさしく、あなたの顔は愛らしい。
聖ピオ十世会日本の2019年のカレンダーは、雅歌の内容が実際に、イエズスの聖心と私たち人間の霊魂とのあいだでなされているということに光をあてて、ただいま作成中です。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)