アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
8月17日の東京での聖伝のミサの報告を戴きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。日本でのミッションに行ってくださったレネー神父様に心から感謝します。レネー神父様のような聖なる学識の深い司祭に私もなれるように聖母マリア様に祈ります。
シュテーリン神父様は、8月16日にシンガポールに到着されたとのことです。
昨年の8月は、私はアジア管区を代表してポーランドのチェンストホーバへの巡礼する恵みを受けましたが、シュテーリン神父様は、今年の8月は東欧の管区長として最後の時をチェンストホーバへの巡礼で過ごされたようです。ポーランドの方々が私たちに「大きな挨拶」を送り、シュテーリン神父様に、アジア管区の信徒の皆様と一緒にまたチェンストホーバへ巡礼に招待しているとのことです。
8月18日の聖霊降臨後第10主日のミサは、いつもの聖歌隊の方々が数名、仕事や家庭の関係でどうしても参加することが出来ませんでした。しかし、有志の方々の練習とがんばりで、全曲歌い切り、立派な歌ミサになりました。
聖歌隊の方によると「各自全力を尽くし何とか歌い切れたというだけで十分な達成感でした^^;」
「なんとかかんとか歌えたと思います。(;´∀`)」
とのことです。本当にありがとうございます。
報告によると、18日の主日のごミサの人数は24名でした。
男9人(侍者2人を含みます)
女15人
霊的講話は10名でした。
男4人
女6人
晩課は5名でした。
男2人
女3人
19日の月曜日の朝ミサ聖祭に与った方々は、
男:5人
女:2人
の計7人でした。
来月は、東京では9月14日に聖伝のミサが行われます。ミサ聖祭は「聖十字架称賛」で、聖霊降臨第14主日のミサとは別のものになります。来月は、シュテーリン神父様と参ります。その日を楽しみにしています。
もしも出来ましたら、シュテーリン神父様のために霊的花束を日本からお送りしたいと思っています。シュテーリン神父様が来日するときまでお祈りをして(或いはお祈りの約束をなさって)、霊的花束のご報告をいただければ幸いに思います。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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それではレネー神父様のお説教をご紹介いたします。大阪(8月15日)東京(8月17日)
親愛なる兄弟の皆さん、
【大阪】本日は、童貞聖マリアの被昇天をお祝いしています。
【東京】二日前、童貞聖マリアの被昇天をお祝いしました。
被昇天の際、聖母の御体は霊魂とともに天に上げられました。それから聖母は、天主に、私たちの主イエズス・キリストに完全に忠実であった生涯にふさわしい報いをお受けになりました。聖パウロは、ローマ書8章17節で「もし私たちが、キリストと共に、自分の苦しみを天主に捧げる生き方をするならば、永遠の命を受け、キリストと共に栄光を受けるようになる」と教えています。聖母は、私たちの主イエズス・キリストと共に十字架の下でお苦しみになりました。そこでは、聖母は主の苦しみと最も密接に一致しておられました。ですから、聖母は、天に上げられ、イエズス様の栄光に最も密接に一致するにふさわしい方となりました。そして、この報いは、被昇天において与えられたのです。
さて、聖母が豊かな恵みの報いをこの日にお受けになったのなら、この真理は、生涯の最初からすでに聖母が「聖寵充ち満てる」状態だったという教会の教えと、どのようにして矛盾無く両立するのでしょうか? 聖トマス・アクィナスはこの疑問に対して、「豊かさ」を3種類に区別することによって答えました。つまり、「ご托身の天主の御母」になるという、聖母の使命を果たすために必要な完璧なdisposition , すなわち日本語でいうところの心構え、精神的態度、準備された心を持っていたという豊かさ、聖母の使命それ自体の豊かさ、そして聖母が受けた報いの豊かさです。
この心構え、精神的態度の豊かさとは、聖母が無原罪の御宿りにおいてお受けになった恩寵の豊かさの結果なのです。この第一の豊かさ、恩寵による豊かさによって、聖母の心は、次の段階の豊かさをお受けになれるよう完璧に準備されていました。それは、へりくだりの豊かさ、従順の豊かさ、忠実さの豊かさでした。さて、ヤコボ書4章6節は「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」と言っています。ですから、このへりくだりという精神的態度が、聖母がさらなる恩寵をお受けになる準備となったのです。すなわち、ルカ1章48節で、聖母御自身がおっしゃられたように「主は、そのはしための卑しさをかえりみてくださった」のです。
第二の豊かさは、聖母の使命の豊かさです。お告げの日に、聖霊の影が聖母を覆ったとき、聖母はこの使命をお受けになりました。そのとき、聖母は「天主の御母」になられました。これが聖母の偉大な使命でした。それは、天主の賜物のうち最も偉大なもの、すなわち、天主の御子であるまさにその方、私たちの主イエズス・キリストが、ご自分の子になることでした。聖母は、聖霊の御働きによって、そのいとも清らかな御胎内にイエズスを宿されました。聖母はイエズスの世話をし、誰よりもイエズスを愛し、誰よりもイエズスに仕え、誰よりもイエズスと一致するようになられました。聖母は、イエズスの生涯の初め、幼子のときだけでなく、イエズスの地上生活の終わりのときにも、すなわち「世の罪を取り除く天主の小羊」(ヨハネ1章29節)としてイエズスがご自分の命をお捧げになるときにも、イエズスにお仕えになりました。聖母が、この使命を完全に果たすことができるように、この第二の豊かさ、恩寵による豊かさをお受けになったのです。
ところで、第一の豊かさがすでに充ち満てる程のものであるのなら、第二の豊かさが、さらに大きな豊かさであったというのは、どのようにして可能だったのでしょうか? これは、恵みを受けて容れて置く聖母の霊魂の側の容量が増えたからなのです。受ける容量が大きくなれば、つまり器が大きくなれば、小さな器よりも多くの豊かさを受けられるようになります。しかし、聖母の使命を成し遂げるには、単なるその使命のための「心構え」以上のさまざまな「質」、素養、美点が必要とされました。このポイントを、さまざまな聖人の中から、一つの例を取って考えてみましょう。例えば、聖ピオ十世は、司祭時代、既に良き司祭になっていましたが、司教になったとき、その職務を果たすため、より大きな「質」、美点、素養が必要とされました。その後、教皇になったときには、既に良き司教になっていましたが、さらに大きな「質」、美点、素養が必要とされました。でも、小教区での司祭としての良き運営の経験が、彼に良き司教となる素養、準備、質を与えました。そして、司教として、自分の教区で、良き霊的指導を与え続けた経験が、良き教皇となる準備となりました。
第三の豊かさとは、聖母が受けた報いの豊かさです。聖母は、それを被昇天の際にお受けになりました。地上の命というのは、天国の永遠の命への準備に過ぎません。人生の究極の完成というのは、天国で天主と顔と顔を合わせて完全に一致するときの、その天主との一致にしかないのです。聖母にとってさえも、地上生活の間に、私たちの主イエズス・キリストと完全に一致して協力したことは、イエズスと天国で最も完全にそして最も密接に一致するための準備でした。そこでは、今も、また、これから先も、聖母は、王たるキリストの右に座す元后として、この王と協力して、いとも聖なる三位一体への讃美を捧げつつ、全ての恩寵を私たち信者のために分配してくださっているのです。ですから、被昇天の祝日は、童貞聖マリアの終わりのときに起きたことを私たちに黙想させてくれるのです。それは、どんな被造物も、かつて持ったことのない、今も持っていない、またこれからも永遠に持つことのない最も美しい栄光なのです。「壮大なしるしが天に現れた。太陽に包まれた婦人があり、その足の下に月があり、その頭に十二の星の冠をいただいていた」(黙示録12章1節)。
聖母がほかのすべてのものの上にいらっしゃるのならば、聖母の栄光は私たちすべての模範であり、天主が私たちにお与えになりたがっているもののモデル、ひな型、模範なのです。もっとも、私たちが聖母のへりくだりや信仰、希望、愛、そして完璧な忠実さの模範に従って生きていこうとするならば、私たちにも、栄光と救いを与えてくださるという話なのですが。
聖トマスは、道徳についての論文の最初に次の原則を置いています。「主体は皆、ある目的のために行動する」。これは言い換えれば、私たちの選択はすべて、次のものによって動機づけられるということです。つまり、私たちが求める目標、私たちの考慮する目的、私たちが獲得し到達しようと願う善です。直近の目標は、長期にわたる目標を考慮して選ばれ、長期にわたる目標は、最終の目的を考慮して選ばれます。ビジネスの言葉で言えば、「強いモチベーションを持ち、自分の目標に突き動かされて行動するビジネスマンは成功する」ということになります。キリスト教の言葉で同じ真理を言えば、「聖人とは、天主に対する愛に満ち、それに突き動かされて生きた人間である」ということです。このように、私たちの人生の終わりを、人間の究極の目標、そして聖母マリアの被昇天の祝日の意味を黙想することは大変有益です。天主が、童貞聖マリアの一生の最後にお与えになったものを黙想することは、私たちの霊的生活に非常に役立つのです。
私たち人間は自分で自分をつくったわけではありません。両親でさえも、私たちを創造したわけではありません。両親は、自分たち自身もその親から受けとった命を私たちに伝達しているだけです。両親は、私たちが二つの目や二つの耳などを持つことを意図して、決定したわけではありません。両親は、私たちの体を設計したわけでもありませんし、まして、私たちの霊魂を設計することなどできません。両親は、私たちに命が伝達された際に使われた道具に過ぎません。命の作者は天主です。天主は偉大なる設計者であり、すべてのもの、特に私たちの命に秩序を与えた至高の知性的存在であり、私たちの体のような目に見えるものと、私たちの霊魂のような見えないものすべての創造主です。誰かが何かをつくるとき、その人には何か考えがあり、それをつくる目的があります。自動車をつくる技師には、うまく運転でき、安全に運転できる機械をつくろうという目的があります。家をつくる建築家には、実際的で心地よい住居にしようという目的があります。それと同じように天主は、私たちを創造なさったときにも、ひとつの目的を、しかも驚くべき目的をお持ちだったのです。自然のレベルにとどまる目的ではなく、超自然的な目的をお持ちだったのです。それは、天主ご自身の幸福へ私たちを参加させようという目的なのです。天主は、私たちを天国で天主と共に、永遠の祝福に満たして生きさせたいのです。「よくやった、善良で忠実なしもべよ。おまえはわずかなものに忠実だったから、多くのものを管理させよう。おまえの主人の喜びに入れ」とマテオ25章21節が述べている通りなのです。これが私たちの最終目的であり、私たちは常にこれを考えておく必要があります。私たちがつくられたのは、地上の喜びのためではなく、天国の喜びのためなのです。聖アウグスティヌスは美しく言っています。「主よ、御身はわれらを、御身に向けて、つくり給えり。されば、われらが心、御身のうちにやすろうまでは、安らかならず」
さて、私たちは人間ですから、人間らしいやり方で、すなわち、意図的な、計画的な方法で、目的に到達しようと努めるべきです。人は知性と意志を与えられているのですから、これらの能力を上手に使えば、目標に到達できます。言い換えれば、最終目標に到達するのにも、放っておけばそうなるというものではありません。私たちがそれについて考えをめぐらさなかったとしても、また、その目的のために意志の力を使わなかったとしても実現するような、自動的なものではありません。私たちは、自分の全生涯を積極的にこの目標に向けて、秩序立ててゆくことが必要です。知性をもって天主を求めて選択し、何にも超えて天主を愛し、天主を悲しませるだろうと思われることを避ける必要があります。聖アウグスティヌスは、これを次のような言葉で単純に表現しました。「gressibus amoris – 一歩一歩、愛の手段を重ねてゆくことによって」と。最も重要なのは、力を尽くして、決意と忍耐をもって、この至福に到達しようと本当に願うこと、そして、この偉大な望みを他のすべての望みに優先させることです。別の言葉で言えば、天主を喜ばせようと努めることです。
人間の人生のドラマは罪であり、これがあるために、私たちは 天主という最終目標を脇に片付けて、創造主の中でなく、被造物の中に、私たちの幸福を探し求め始めます。私たちの最高の目標として、創造主の場所に被造物を置くのです。これは大罪であり、人を天主から引き離してしまいます。なぜなら、この態度が、すべてに超えて天主を愛すべきという掟と相容れないからです。聖母はそのようなことは決してなさいませんでした。小罪さえも犯しませんでした。小罪とは、本質的に、これらやがては過ぎ去ってしまうような被造物を人生の最終目的としたり、また、天主よりもそれらをもっと好むというところまでいかなくても、あまりにもそれら過ぎ行く被造物に愛着しすぎることなのです。
現代世界において、極めてよく見られる大きな罪、それは絶望です。テサロニケ前書4章13節が指摘するように、今日、多くの人々には「希望がありません」。希望がないということは、天主を私たちの人生の最終目的として、求め、望みということに完全に矛盾します。絶望は人々を自殺や、合法的な安楽死に導きます。今日の世界は、安楽死を強く推し進めようとしています。現代人の多くの人生目標は、お金や楽しみ、権力といったこの世的なものだけです。彼らは自分たちが最早それを獲得することができないと分かると、特に老いが苦しみとともにやって来ると、特に死の近い病気になると、自殺をします。彼らにとって、苦しみは十分悪いものですが、絶望は苦しみをさらに悪くします。そして自殺は、人生最後の罪によって、天主なき人生の最後を飾るということと同じです。故意に自殺をする人々はすべて、罪びとして死にます。自殺する前に既に罪びとであったのか、あるいは、その人が成聖の恩寵の状態にあったとしても、そのような自分自身を殺すことによって、大罪者になるかのどちらかです。苦しみを避けるどころか、彼らは自分たちを永遠の苦痛の中に投げ込んでしまうのです。本当に悪いことであり、自分を殺すことで、悔い改めるのに必要な時間をなくしてしまいます。この大きな罪を防ぐために、教会は、教会による埋葬を拒否することによって罰してきました。私たちは、自殺の誘惑にさらされている人々のために、私たちの主イエズス・キリストに祈らなければなりません。彼らがそのような行為に出る前に天主が恩寵を持って彼らの霊魂に触れてくださり、そのような最終的な罪を避けることが出来るように祈らなければなりません。彼らには希望が必要です。まさしくこのポイントに関して、聖母の被昇天は希望を与えるものです。天主が私たち一人一人について、素晴らしい目的、すなわち永遠の命を与えるという目的をお持ちだということを教えてくれるからです。天主の愛に応え、信仰を自分の人生の宝物とし、私たちの罪を悔い改めるようにいたしましょう。
自殺は悪いこと、大変悪いことですから、安楽死によって自殺を助けることも悪いこと、大変悪いことであるのは明らかです。さらに悪いことは、年老いた病気の患者や死が近い病気の患者に自殺するようプレッシャーをかけることです。これらの患者は、家族や友人たちに対して負担をかけるものです。(年老いた両親や親族の面倒を見るのは簡単ではありませんし、経済的負担がかかります。)安楽死が法律によって認められているならば、患者たちには自殺するようにプレッシャーがかかってしまい、こうして永遠に霊魂を失ってしまうきっかけとなる心理的圧力がかかってしまうのです。現代人は、人間社会が制定する法律が安楽死を許すならば、しても構わないと考えます。ですから、さらに多くの人々が、実質的に自殺であるこの恐るべき犯罪によって自分たちの命を終わらせようとし、多くの人がこの犯罪の共犯者になってしまうのです。これは、まさに現代世界を脅かしている悪なのです。人々はまず、始まったばかりの命を殺す中絶という恐るべき罪を受け入れました。そして今や、終わろうとしている命を殺す安楽死という恐るべき罪を受け入れようとしています。これはまことに死の文化です。まことに「罪にたいして与えられる報酬は死である。しかし天主の恵みは、主イエズス・キリストにおける永遠の命である」とローマ書が、6章23節で述べている通りです。
聖母の被昇天はこの絶望から人を癒やし、人生に意味を与え、人のために天主が定めた人生の目的を教えてくれます。しかも、聖母の被昇天は、苦しみそれ自体にも意味があることを教えてくれるのです。聖母は、十字架の下にたたずんで苦しむ御子イエズスを天主に捧げたとき、御自分の苦しみをキリストの苦しみと一致させてお苦しみになりましたから、苦しむすべての人々、特に死が近い病気の患者にとって、偉大な模範であり、インスピレーション(励み)になる御方なのです。この模範から学ぼうとすれば、全ての苦しむ人と死が近い患者たちは、自分の苦しみを私たちの主イエズスの苦しみと一致させ、自分自身の過去の罪を償うだけでなく、他の人々の贖いに協力し、参加することができるのです。彼らは、自分を十字架に上げられた私たちの主と一致させることの中に、いつの日にか、聖母に起こったのとまったく同じように、天の栄光に包まれた主イエズスと自分を一致させることができるのだという最上の保証を見出すでしょう。
私たちは命のために立ち上がる必要があります。中絶に反対することにより、始まったばかりの命を守り、安楽死に反対することで、終わろうとしている命を守るのです。私は、日本の「プロライフ運動」のことはよく知りません。しかし、多くの国々では、この運動は、それを見た多くの人々がカトリックの信仰に改宗する機会になってきています。なぜなら、カトリック教会は、全力で命のために立ち上がる唯一の組織であるからです。近代主義者はこの点で弱いのですが、カトリック教会の公式な立場は、ピオ十二世が述べたように、非常に明確です。
聖母は、母そのものです。命を与えてくださる方です。聖母は、至高の命そのものである御方、すなわち、私たちの主イエズス・キリストを与えてくださいました。コロサイ書の3章4節が教えるように、イエズスこそ「私たちの命である方」なのです。聖母は、あらゆる死の文化に対する最上の治療薬であり解毒剤なのです。受胎から死に至るまでの命を保護し、老いた者にも死にゆく者にも希望を与え、被昇天において、人生の美しい目的が何であるか、また、わたしたち皆が人生において追い求めるべき目標が何であるかをお示しになりました。その目的とは、天主と共に永遠に生きるのにふさわしい者となるように生きるということなのです。
私たちは、私たちの主イエズス・キリストへの忠実とへりくだり、従順において、童貞聖マリアの模範に従うならば、この目標を達成することができます。また、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、これを達成することができます。この偉大な祝日において、聖母が、私たちのためにこの恩寵を獲得してくださいますように。アーメン。
●聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!
●ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)
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愛する兄弟姉妹の皆様、
8月17日の東京での聖伝のミサの報告を戴きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。日本でのミッションに行ってくださったレネー神父様に心から感謝します。レネー神父様のような聖なる学識の深い司祭に私もなれるように聖母マリア様に祈ります。
シュテーリン神父様は、8月16日にシンガポールに到着されたとのことです。
昨年の8月は、私はアジア管区を代表してポーランドのチェンストホーバへの巡礼する恵みを受けましたが、シュテーリン神父様は、今年の8月は東欧の管区長として最後の時をチェンストホーバへの巡礼で過ごされたようです。ポーランドの方々が私たちに「大きな挨拶」を送り、シュテーリン神父様に、アジア管区の信徒の皆様と一緒にまたチェンストホーバへ巡礼に招待しているとのことです。
8月18日の聖霊降臨後第10主日のミサは、いつもの聖歌隊の方々が数名、仕事や家庭の関係でどうしても参加することが出来ませんでした。しかし、有志の方々の練習とがんばりで、全曲歌い切り、立派な歌ミサになりました。
聖歌隊の方によると「各自全力を尽くし何とか歌い切れたというだけで十分な達成感でした^^;」
「なんとかかんとか歌えたと思います。(;´∀`)」
とのことです。本当にありがとうございます。
報告によると、18日の主日のごミサの人数は24名でした。
男9人(侍者2人を含みます)
女15人
霊的講話は10名でした。
男4人
女6人
晩課は5名でした。
男2人
女3人
19日の月曜日の朝ミサ聖祭に与った方々は、
男:5人
女:2人
の計7人でした。
来月は、東京では9月14日に聖伝のミサが行われます。ミサ聖祭は「聖十字架称賛」で、聖霊降臨第14主日のミサとは別のものになります。来月は、シュテーリン神父様と参ります。その日を楽しみにしています。
もしも出来ましたら、シュテーリン神父様のために霊的花束を日本からお送りしたいと思っています。シュテーリン神父様が来日するときまでお祈りをして(或いはお祈りの約束をなさって)、霊的花束のご報告をいただければ幸いに思います。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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それではレネー神父様のお説教をご紹介いたします。大阪(8月15日)東京(8月17日)
親愛なる兄弟の皆さん、
【大阪】本日は、童貞聖マリアの被昇天をお祝いしています。
【東京】二日前、童貞聖マリアの被昇天をお祝いしました。
被昇天の際、聖母の御体は霊魂とともに天に上げられました。それから聖母は、天主に、私たちの主イエズス・キリストに完全に忠実であった生涯にふさわしい報いをお受けになりました。聖パウロは、ローマ書8章17節で「もし私たちが、キリストと共に、自分の苦しみを天主に捧げる生き方をするならば、永遠の命を受け、キリストと共に栄光を受けるようになる」と教えています。聖母は、私たちの主イエズス・キリストと共に十字架の下でお苦しみになりました。そこでは、聖母は主の苦しみと最も密接に一致しておられました。ですから、聖母は、天に上げられ、イエズス様の栄光に最も密接に一致するにふさわしい方となりました。そして、この報いは、被昇天において与えられたのです。
さて、聖母が豊かな恵みの報いをこの日にお受けになったのなら、この真理は、生涯の最初からすでに聖母が「聖寵充ち満てる」状態だったという教会の教えと、どのようにして矛盾無く両立するのでしょうか? 聖トマス・アクィナスはこの疑問に対して、「豊かさ」を3種類に区別することによって答えました。つまり、「ご托身の天主の御母」になるという、聖母の使命を果たすために必要な完璧なdisposition , すなわち日本語でいうところの心構え、精神的態度、準備された心を持っていたという豊かさ、聖母の使命それ自体の豊かさ、そして聖母が受けた報いの豊かさです。
この心構え、精神的態度の豊かさとは、聖母が無原罪の御宿りにおいてお受けになった恩寵の豊かさの結果なのです。この第一の豊かさ、恩寵による豊かさによって、聖母の心は、次の段階の豊かさをお受けになれるよう完璧に準備されていました。それは、へりくだりの豊かさ、従順の豊かさ、忠実さの豊かさでした。さて、ヤコボ書4章6節は「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」と言っています。ですから、このへりくだりという精神的態度が、聖母がさらなる恩寵をお受けになる準備となったのです。すなわち、ルカ1章48節で、聖母御自身がおっしゃられたように「主は、そのはしための卑しさをかえりみてくださった」のです。
第二の豊かさは、聖母の使命の豊かさです。お告げの日に、聖霊の影が聖母を覆ったとき、聖母はこの使命をお受けになりました。そのとき、聖母は「天主の御母」になられました。これが聖母の偉大な使命でした。それは、天主の賜物のうち最も偉大なもの、すなわち、天主の御子であるまさにその方、私たちの主イエズス・キリストが、ご自分の子になることでした。聖母は、聖霊の御働きによって、そのいとも清らかな御胎内にイエズスを宿されました。聖母はイエズスの世話をし、誰よりもイエズスを愛し、誰よりもイエズスに仕え、誰よりもイエズスと一致するようになられました。聖母は、イエズスの生涯の初め、幼子のときだけでなく、イエズスの地上生活の終わりのときにも、すなわち「世の罪を取り除く天主の小羊」(ヨハネ1章29節)としてイエズスがご自分の命をお捧げになるときにも、イエズスにお仕えになりました。聖母が、この使命を完全に果たすことができるように、この第二の豊かさ、恩寵による豊かさをお受けになったのです。
ところで、第一の豊かさがすでに充ち満てる程のものであるのなら、第二の豊かさが、さらに大きな豊かさであったというのは、どのようにして可能だったのでしょうか? これは、恵みを受けて容れて置く聖母の霊魂の側の容量が増えたからなのです。受ける容量が大きくなれば、つまり器が大きくなれば、小さな器よりも多くの豊かさを受けられるようになります。しかし、聖母の使命を成し遂げるには、単なるその使命のための「心構え」以上のさまざまな「質」、素養、美点が必要とされました。このポイントを、さまざまな聖人の中から、一つの例を取って考えてみましょう。例えば、聖ピオ十世は、司祭時代、既に良き司祭になっていましたが、司教になったとき、その職務を果たすため、より大きな「質」、美点、素養が必要とされました。その後、教皇になったときには、既に良き司教になっていましたが、さらに大きな「質」、美点、素養が必要とされました。でも、小教区での司祭としての良き運営の経験が、彼に良き司教となる素養、準備、質を与えました。そして、司教として、自分の教区で、良き霊的指導を与え続けた経験が、良き教皇となる準備となりました。
第三の豊かさとは、聖母が受けた報いの豊かさです。聖母は、それを被昇天の際にお受けになりました。地上の命というのは、天国の永遠の命への準備に過ぎません。人生の究極の完成というのは、天国で天主と顔と顔を合わせて完全に一致するときの、その天主との一致にしかないのです。聖母にとってさえも、地上生活の間に、私たちの主イエズス・キリストと完全に一致して協力したことは、イエズスと天国で最も完全にそして最も密接に一致するための準備でした。そこでは、今も、また、これから先も、聖母は、王たるキリストの右に座す元后として、この王と協力して、いとも聖なる三位一体への讃美を捧げつつ、全ての恩寵を私たち信者のために分配してくださっているのです。ですから、被昇天の祝日は、童貞聖マリアの終わりのときに起きたことを私たちに黙想させてくれるのです。それは、どんな被造物も、かつて持ったことのない、今も持っていない、またこれからも永遠に持つことのない最も美しい栄光なのです。「壮大なしるしが天に現れた。太陽に包まれた婦人があり、その足の下に月があり、その頭に十二の星の冠をいただいていた」(黙示録12章1節)。
聖母がほかのすべてのものの上にいらっしゃるのならば、聖母の栄光は私たちすべての模範であり、天主が私たちにお与えになりたがっているもののモデル、ひな型、模範なのです。もっとも、私たちが聖母のへりくだりや信仰、希望、愛、そして完璧な忠実さの模範に従って生きていこうとするならば、私たちにも、栄光と救いを与えてくださるという話なのですが。
聖トマスは、道徳についての論文の最初に次の原則を置いています。「主体は皆、ある目的のために行動する」。これは言い換えれば、私たちの選択はすべて、次のものによって動機づけられるということです。つまり、私たちが求める目標、私たちの考慮する目的、私たちが獲得し到達しようと願う善です。直近の目標は、長期にわたる目標を考慮して選ばれ、長期にわたる目標は、最終の目的を考慮して選ばれます。ビジネスの言葉で言えば、「強いモチベーションを持ち、自分の目標に突き動かされて行動するビジネスマンは成功する」ということになります。キリスト教の言葉で同じ真理を言えば、「聖人とは、天主に対する愛に満ち、それに突き動かされて生きた人間である」ということです。このように、私たちの人生の終わりを、人間の究極の目標、そして聖母マリアの被昇天の祝日の意味を黙想することは大変有益です。天主が、童貞聖マリアの一生の最後にお与えになったものを黙想することは、私たちの霊的生活に非常に役立つのです。
私たち人間は自分で自分をつくったわけではありません。両親でさえも、私たちを創造したわけではありません。両親は、自分たち自身もその親から受けとった命を私たちに伝達しているだけです。両親は、私たちが二つの目や二つの耳などを持つことを意図して、決定したわけではありません。両親は、私たちの体を設計したわけでもありませんし、まして、私たちの霊魂を設計することなどできません。両親は、私たちに命が伝達された際に使われた道具に過ぎません。命の作者は天主です。天主は偉大なる設計者であり、すべてのもの、特に私たちの命に秩序を与えた至高の知性的存在であり、私たちの体のような目に見えるものと、私たちの霊魂のような見えないものすべての創造主です。誰かが何かをつくるとき、その人には何か考えがあり、それをつくる目的があります。自動車をつくる技師には、うまく運転でき、安全に運転できる機械をつくろうという目的があります。家をつくる建築家には、実際的で心地よい住居にしようという目的があります。それと同じように天主は、私たちを創造なさったときにも、ひとつの目的を、しかも驚くべき目的をお持ちだったのです。自然のレベルにとどまる目的ではなく、超自然的な目的をお持ちだったのです。それは、天主ご自身の幸福へ私たちを参加させようという目的なのです。天主は、私たちを天国で天主と共に、永遠の祝福に満たして生きさせたいのです。「よくやった、善良で忠実なしもべよ。おまえはわずかなものに忠実だったから、多くのものを管理させよう。おまえの主人の喜びに入れ」とマテオ25章21節が述べている通りなのです。これが私たちの最終目的であり、私たちは常にこれを考えておく必要があります。私たちがつくられたのは、地上の喜びのためではなく、天国の喜びのためなのです。聖アウグスティヌスは美しく言っています。「主よ、御身はわれらを、御身に向けて、つくり給えり。されば、われらが心、御身のうちにやすろうまでは、安らかならず」
さて、私たちは人間ですから、人間らしいやり方で、すなわち、意図的な、計画的な方法で、目的に到達しようと努めるべきです。人は知性と意志を与えられているのですから、これらの能力を上手に使えば、目標に到達できます。言い換えれば、最終目標に到達するのにも、放っておけばそうなるというものではありません。私たちがそれについて考えをめぐらさなかったとしても、また、その目的のために意志の力を使わなかったとしても実現するような、自動的なものではありません。私たちは、自分の全生涯を積極的にこの目標に向けて、秩序立ててゆくことが必要です。知性をもって天主を求めて選択し、何にも超えて天主を愛し、天主を悲しませるだろうと思われることを避ける必要があります。聖アウグスティヌスは、これを次のような言葉で単純に表現しました。「gressibus amoris – 一歩一歩、愛の手段を重ねてゆくことによって」と。最も重要なのは、力を尽くして、決意と忍耐をもって、この至福に到達しようと本当に願うこと、そして、この偉大な望みを他のすべての望みに優先させることです。別の言葉で言えば、天主を喜ばせようと努めることです。
人間の人生のドラマは罪であり、これがあるために、私たちは 天主という最終目標を脇に片付けて、創造主の中でなく、被造物の中に、私たちの幸福を探し求め始めます。私たちの最高の目標として、創造主の場所に被造物を置くのです。これは大罪であり、人を天主から引き離してしまいます。なぜなら、この態度が、すべてに超えて天主を愛すべきという掟と相容れないからです。聖母はそのようなことは決してなさいませんでした。小罪さえも犯しませんでした。小罪とは、本質的に、これらやがては過ぎ去ってしまうような被造物を人生の最終目的としたり、また、天主よりもそれらをもっと好むというところまでいかなくても、あまりにもそれら過ぎ行く被造物に愛着しすぎることなのです。
現代世界において、極めてよく見られる大きな罪、それは絶望です。テサロニケ前書4章13節が指摘するように、今日、多くの人々には「希望がありません」。希望がないということは、天主を私たちの人生の最終目的として、求め、望みということに完全に矛盾します。絶望は人々を自殺や、合法的な安楽死に導きます。今日の世界は、安楽死を強く推し進めようとしています。現代人の多くの人生目標は、お金や楽しみ、権力といったこの世的なものだけです。彼らは自分たちが最早それを獲得することができないと分かると、特に老いが苦しみとともにやって来ると、特に死の近い病気になると、自殺をします。彼らにとって、苦しみは十分悪いものですが、絶望は苦しみをさらに悪くします。そして自殺は、人生最後の罪によって、天主なき人生の最後を飾るということと同じです。故意に自殺をする人々はすべて、罪びとして死にます。自殺する前に既に罪びとであったのか、あるいは、その人が成聖の恩寵の状態にあったとしても、そのような自分自身を殺すことによって、大罪者になるかのどちらかです。苦しみを避けるどころか、彼らは自分たちを永遠の苦痛の中に投げ込んでしまうのです。本当に悪いことであり、自分を殺すことで、悔い改めるのに必要な時間をなくしてしまいます。この大きな罪を防ぐために、教会は、教会による埋葬を拒否することによって罰してきました。私たちは、自殺の誘惑にさらされている人々のために、私たちの主イエズス・キリストに祈らなければなりません。彼らがそのような行為に出る前に天主が恩寵を持って彼らの霊魂に触れてくださり、そのような最終的な罪を避けることが出来るように祈らなければなりません。彼らには希望が必要です。まさしくこのポイントに関して、聖母の被昇天は希望を与えるものです。天主が私たち一人一人について、素晴らしい目的、すなわち永遠の命を与えるという目的をお持ちだということを教えてくれるからです。天主の愛に応え、信仰を自分の人生の宝物とし、私たちの罪を悔い改めるようにいたしましょう。
自殺は悪いこと、大変悪いことですから、安楽死によって自殺を助けることも悪いこと、大変悪いことであるのは明らかです。さらに悪いことは、年老いた病気の患者や死が近い病気の患者に自殺するようプレッシャーをかけることです。これらの患者は、家族や友人たちに対して負担をかけるものです。(年老いた両親や親族の面倒を見るのは簡単ではありませんし、経済的負担がかかります。)安楽死が法律によって認められているならば、患者たちには自殺するようにプレッシャーがかかってしまい、こうして永遠に霊魂を失ってしまうきっかけとなる心理的圧力がかかってしまうのです。現代人は、人間社会が制定する法律が安楽死を許すならば、しても構わないと考えます。ですから、さらに多くの人々が、実質的に自殺であるこの恐るべき犯罪によって自分たちの命を終わらせようとし、多くの人がこの犯罪の共犯者になってしまうのです。これは、まさに現代世界を脅かしている悪なのです。人々はまず、始まったばかりの命を殺す中絶という恐るべき罪を受け入れました。そして今や、終わろうとしている命を殺す安楽死という恐るべき罪を受け入れようとしています。これはまことに死の文化です。まことに「罪にたいして与えられる報酬は死である。しかし天主の恵みは、主イエズス・キリストにおける永遠の命である」とローマ書が、6章23節で述べている通りです。
聖母の被昇天はこの絶望から人を癒やし、人生に意味を与え、人のために天主が定めた人生の目的を教えてくれます。しかも、聖母の被昇天は、苦しみそれ自体にも意味があることを教えてくれるのです。聖母は、十字架の下にたたずんで苦しむ御子イエズスを天主に捧げたとき、御自分の苦しみをキリストの苦しみと一致させてお苦しみになりましたから、苦しむすべての人々、特に死が近い病気の患者にとって、偉大な模範であり、インスピレーション(励み)になる御方なのです。この模範から学ぼうとすれば、全ての苦しむ人と死が近い患者たちは、自分の苦しみを私たちの主イエズスの苦しみと一致させ、自分自身の過去の罪を償うだけでなく、他の人々の贖いに協力し、参加することができるのです。彼らは、自分を十字架に上げられた私たちの主と一致させることの中に、いつの日にか、聖母に起こったのとまったく同じように、天の栄光に包まれた主イエズスと自分を一致させることができるのだという最上の保証を見出すでしょう。
私たちは命のために立ち上がる必要があります。中絶に反対することにより、始まったばかりの命を守り、安楽死に反対することで、終わろうとしている命を守るのです。私は、日本の「プロライフ運動」のことはよく知りません。しかし、多くの国々では、この運動は、それを見た多くの人々がカトリックの信仰に改宗する機会になってきています。なぜなら、カトリック教会は、全力で命のために立ち上がる唯一の組織であるからです。近代主義者はこの点で弱いのですが、カトリック教会の公式な立場は、ピオ十二世が述べたように、非常に明確です。
聖母は、母そのものです。命を与えてくださる方です。聖母は、至高の命そのものである御方、すなわち、私たちの主イエズス・キリストを与えてくださいました。コロサイ書の3章4節が教えるように、イエズスこそ「私たちの命である方」なのです。聖母は、あらゆる死の文化に対する最上の治療薬であり解毒剤なのです。受胎から死に至るまでの命を保護し、老いた者にも死にゆく者にも希望を与え、被昇天において、人生の美しい目的が何であるか、また、わたしたち皆が人生において追い求めるべき目標が何であるかをお示しになりました。その目的とは、天主と共に永遠に生きるのにふさわしい者となるように生きるということなのです。
私たちは、私たちの主イエズス・キリストへの忠実とへりくだり、従順において、童貞聖マリアの模範に従うならば、この目標を達成することができます。また、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、これを達成することができます。この偉大な祝日において、聖母が、私たちのためにこの恩寵を獲得してくださいますように。アーメン。
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