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2016年聖母小黙想会 霊的講話【5】 8月12日 シュテーリン神父様「まことの信心と誤った信心」

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2016年8月12日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【5】
同時通訳:小野田圭志神父

昨日の話のポイントは、「マリア様が、私たちの回心について、私たちの聖化について、特に終末において、特に私たちの危険な時において、どれほど大切であるか」という事を黙想した事です。

特に昨日最後で見た、聖グリニョン・ド・モンフォールが私たちに提示する、私たちの有るべき姿、アイデアが、理想像が、「私たちが、マリア様とイエズス様の使徒として皆呼ばれているその姿」について黙想しました。終末の時代に色んな所から攻撃を受ける時にあたって、私たちカトリック信者に何が要求されているか、という事を考えると、私たちはそれに圧倒されてしまいます。では、マリア様が私たちにお求めの、そのような聖徳にどうやったら到達する事ができるでしょうか?

はい、「右手には十字架像、左手にはロザリオ、そして胸の中にはイエズス様とマリア様の聖なる御名を刻んで、」それは分かります。そのような事をいつもする事ができたら何と嬉しい事でしょうか。でも、今の私たちを見ると、それと比べたらあまりにも距離があって、あまりにも遠くにあります。どうしたらそこに到着する事ができるでしょうか?私の心の中には弱さや、あるいは怠慢や、あるいは冷たい心があるのにも関わらず、どうやったら愛に燃える炎となる事ができるでしょうか?私たちの心はどうしたら天主にそれほど愛着して、それにぴったりとくっ付いている事ができるでしょうか?そして何もこの世の事に煩わされず、この世の事を心配せず、この世のものに気をかけない事ができるでしょうか?

私の事をずっと反省してみると、あまりにも多くの被造物に愛着を持ったり、執着を持ったりして、気にかけたりしているのではないでしょうか?私たちがちょっとした難しい事や、ちょっとした困難に出会うともう、もう心配で、「あぁ、もう、これでもうだめだ!」と思ってしまうのではないでしょうか?

今の私がどのようなものであるにしろ、マリア様が今ここで私に、「こうなってもらいたい」と望んでいる姿が、今この最後のパラグラフに書かれている事です。

私が起きた時に、「私は一体、誰だろう?」と自問します。私は起きた時に、「私は日本人で、トマス小野田という名前だ」と簡単に単純に答えるわけにはいきません。「私は一体、誰だろう?」起きて、この56から59番を読まなければなりません。皆さん今度から起きたらですね、「私は一体誰なのか?」と自問する時に、「私は56番から59番」と答えます。56から59、これを覚えて下さい。ですから、「一体、自分がどうあるべきか」という事を忘れてしまったら、この番号を探して読む事ができるからです。

このような理想像に到着する手段が、まことの信心です。これが、この理想像に到達する事ができる手段が、「マリア様を通してイエズス様に、私を、自分を完全に奉献する事」です。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、まことの信心を説明する為にまず、「間違った、誤りの、偽りの信心と言われるものが何か」という事を私たちに説明します。本当の道に行く為に、間違った道を遠ざけなければなりません。間違った道を離れて、間違った道を遠ざける為には、そのどこに、何が間違って、どんなところが間違っているか、という事を知らなければなりません。ですから聖グリニョン・ド・モンフォールはまず最初に、間違った信心を知らせて、これを避けるように教えます。

92番からこれを読んで黙想しましょう。92番から94番において、間違った、誤りの信心を示します。まず私の申し上げる事を聞いて、その後でお読みになって下さい。なぜかというと、私の言う事を聞かずに皆さんが今本を読む事に熱中してしまうと、私がいくら話しても聞いてくださらないようなので、それなら私はコーヒーを飲みに行きます。(^^;)

この「誤りの、嘘の信心」という事を示しながら、実はグリニョン・ド・モンフォールは、私たちが持っている、「信仰生活に関する誤った観念」を指摘します。

もちろん間違った宗教についての事を話しているのではなくて、もしもそうであれば、本当に嘘の信仰を持っている事になります。もちろん、間違った宗教は私たちに、悪魔的な雰囲気の中で生きさせるので、私たちを暗闇の中に、監獄に閉じ込めてしまうようなものです。残念ながらこの牢獄に、多くの何百万という霊魂が閉じ込められています。

グリニョン・ド・モンフォールはカトリック信者に、真理を知っている特権を持っている人々に今、語りかけています。でも間違ったこう捉え方をしてしまって、「私は真理を知っているので、全ては私においてOKだ。この全ては問題ない」という風に誤解してしまうからです。

聖人たちは、「私たちの祈り、あるいは信心、あるいは信仰生活が、私たちを死にもたらすような道徳に反する、あるいは何らかの誤りに汚染されていないかを吟味するべきだ」と言っています。信仰生活というのは、私たちの存在において最も大切な部分です。ほんのちょっとした誤りがあっても、私たちの信仰生活の土台が崩れてしまう危険があります。

40年から過去50年間、私たちの教会やチャペルに多くの方が来ましたけれども、残念ながら多くの人はそれから、来て、また離れてしまいました。私たちよりも、この惨めなこの私たちよりももっと立派な司祭や修道者の方も来ました。しかし私たちを離れて、どこかに消え去ってしまいました。あるいはセクト的な考えに陥ってしまったり、あるいは「自分だけが、生きる、この世界に残っている唯一のカトリックである」と誤解してしまったり、あるいは「自分たちが教皇を選ぶ権利がある」あるいは「司教を勝手に作るという考えがあれば、それを作っても良いのだ」と思い込んでしまったり。

これは、「あぁ、あんな悪い人たちが、おかしな人たちがいるな」と笑う為ではなくて、私たち自身がそのような誤りに陥らないように警戒する為です。彼らの問題はどこにあったのでしょうか?それは、「私は正しい」、「私には信仰がある」、「私」、「私」。

信仰生活はいつも前進して進歩しているだろうか?私の罪はますますより少なく犯すようになり、そして徳に成長しているだろうか?信仰を再発見した時のその喜びと、その熱心はまだ同じなのだろうか?あるいは更に大きくなっているのでしょうか?それとももっと悪くなっているのでしょうか?

この聖グリニョン・ド・モンフォールは、「7つの間違いがある」と説明しています。この7つの間違った信仰生活の考え方を、聖グリニョン・ド・モンフォールは、マリア様への間違った信心という形で提示しています。でもグリニョン・ド・モンフォールが言うのは、マリア様と私たちの関係だけでなく、私たちの全ての信仰生活に関わるものの態度です。

この7つは、ちょうど7つの原罪と同じように、7つの数にカテゴリーに分類しています。でもよく詳しく見ると、この7つの1つ1つの中には、その更に分類されていて、それが3つの分類、あるいは4つに分かれています。

最初の3つの間違った信心は、私たちの「理性」に関わるものです。最後の4つは、私たちの「意志」に関わるものです。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、ヤンセニズムという異端の時代にこれを書きました。ヤンセニズムというのは、カトリックの表面を仮面を付けて、実は真実は実際のところ、プロテスタントの考えをカトリック教会に持ち込んでしまいました。

ところで現代も、同じような似通った態度が見られますので、このその聖グリニョン・ド・モンフォールの言葉を適用させるのは非常に簡単です。

まずこの間違いは7つの間違いは、「信心」と呼ばれています。このいわゆる「間違った嘘の信心」は、「自分のやっているこのようなやり方こそが、天主様へのまことの信心である」というような事を主張して、提示されています。

私はよく聞きます、「あぁ神父様、この人たちはたくさんお祈りします。ですから間違う事はありません。」「この人たちはマリア様を愛しているので、間違う事はありません、神父様。」「あぁ、メジュゴリエのマリア様は本当に美しいので、間違っているのではありません」というのは、例えの話です。「神父様、私はその時に、その時に目撃したのです。その時に居たのです。その時に私は本当にものすごい事を感動して語りました。それなのに神父様はこれを「間違った嘘の信心」と言うのですか?そんなことはありません!」

私はもちろん、どなたかが、誰かがこう御恵みを頂いた、というその個人的な御恵みや、その色んな事を非難するわけではありません。なぜかというと、天主様はどんな所でも、どのような場所でも、御恵みを与える事があります。そして私が知っている人は、ロックコンサートに入って、その様子を見て、あまりにも酷くて、これで、「これが罪を犯すように誘っている所だ」という事を理解して、「もうこんな所に行く事はできない」と回心の御恵みを受けた人を知っています。天主様は私たちの心に、どのような所でも、どのような状況においても、御恵みを与える事ができます。天主様のそのようなやり方について、私たちはあまり話すところではありません。

ただ私たちは、そのような祈りの仕方、あるいはこのような信心の仕方、あるいはこのような御出現は、客観的に、正しいのか、あるいは間違っているのか、という事を判断する事だけです。

もしも信心や御出現が間違っているとすると、それは「目的地まで到達しない」という事です。つまり、もしもゴールに到達しないという事であれば、「イエズス様やマリア様に名誉を帰さない」という事であって、客観的にそれは、「イエズス様とマリア様を屈辱する」という事です。そして客観的に、そのようなやり方は、「信徒たちを私たちを、本当のマリア様とイエズス様の信心から離してしまう」という事です。

私たちに関係する次の段落を見てみます。これは皆さんがいつもどこでも「間違った嘘の信心」をしているという事ではありません。もしも皆さんこれに適用されていないという事であれば、本当に天主様にその御恵みを感謝して、この午前、午後、一日中感謝しても、それでも足りないと思われるに違いありません。

第1の間違いは、「批判的な論評型の信心」というタイプです。この批判的な評論的な信心というのは、何かノブスオルドの信心家のようで、皆この超自然の出来事や、この昔からの信心を批判して、「これは間違っている」と論評する人々です。このような態度は、「単純な、ちょっと頭の弱い人のやっている信心だ。」あるいは「カトリックのやっている信心というのは、ちょっとオーバーだ。特に、カトリックのマリア様に対するオーバーな信心や、このやりすぎ」を批判するような人々です。この論評型の批判型の信心の後ろには、「傲慢」が隠されています。

これは実は私の問題でもあります。傲慢というのは、自分の素晴らしさを自分だけに帰するものであって、そして他の人たちを軽蔑するものです。ですから、「他の者たちは皆間違っている。私の方が正しい」とする態度です。

もしも、「私の知性」が、これを受け入れるか、受け入れないかの究極の判断基準となるとしたら、これを私たちは、この傲慢の論評型の信心の危険があります。聖伝の信者の中にも、「聖伝を信じている」と言いながら、「天主の信仰の神秘を、全て説明を受けなければ気が済まない。全て完璧な説明が欲しい」と要求する人がいます。もしもその説明が与えられないと、「それは間違っている」とそれを批判したり、「それを受け入れる事ができない、何でこうなるか分からない」という態度です。

でも、私たちの信仰の神秘というのは、「玄義」というのは神秘ですから、玄義ですから、全て数学の証明によって証明されるように、もう明確に説明し尽くす事ができるものではありません。玄義というのは、その本質的によって、私たちの知性が全てそれを完璧に説明し尽くす事ができないものです。

例えば今、例を取ると、教会の危機、教会が陥っている困難については、これは深い神秘で、なぜこのような事が天主によって許されているか、これは私たちは説明する事ができません。論評型批判型信心は、この神秘に対しても、全ての説明を求めていて、もしも説明が受けられないと、それを批判します。

「神父様、決まっているじゃないですか、全ての異端は教皇様から来ます。聖ベラルミーノはこう言います、『教皇が異端説を唱えれば、もう教皇ではない』と。ところで、過去の数名の教皇様達は、教皇らしくない事を言ったり態度を取っているのでもう教皇ではありません。ですから、実は本当は教皇様パウロ6世ではなくて、ただモンティーニさんであって、ヴォイティアさんであって、それでラッツィンガーさんであって、それから今この白いスータンを着ているのは、ベルゴリオさんでしか過ぎません。ですから、私たちだけが生き残たレムナントで、世の終わりまで私たちが信仰を守ればそれで良いのです。」

今言ったのは、間違った態度の、論評型の態度ですが、そのように言う事によって、別の、解決できない何千もの多くの問題を作っています。そしてそのような人々たちは、それぞれ教会の危機の解決策を自分で見出して、自分で提示して、そして互いに争って、つまり自分がそれぞれ一人一人が実は教皇様になってしまって、プロテスタントと同じような態度を取っています。

ここの問題がどこにあるかというと、究極は、自分の能力を超えた、自分にそれをする事ができる、という義務のない判断を自分たちがしてしまって、その傲慢に問題の根があります。自分の知性を全ての上に置いて、あたかも神格化してしまった問題です。

では、本当の答えとは何でしょうか?

まず、この今教会に、過去無かったような非常に難しい教会の危機の時代がある、時期がある、という事は理解しなければなりません。私たちは異端説や間違った説から、日本を守らなければなりません。多くの聖人たちの足跡に従って生きなければなりません。変わる事のないカトリック信仰をそのまま守らなければなりません。私たちの信じている事を実践しながら、信仰を守らなければなりません。

だからといってこの今、カトリック教会の危機を解決する為に、その解決策を私たちの頭の中で考え作り出す、という事ではありません。そして他の人々を全て裁く、生ける人と死せる人とを裁くという、主であるかのように私たちが他の人々を、「あの人はこうだ」「こうだ」「こうだ」と裁く事を避けなければなりません。

私たちは、「自称レジスタンス」という人々から過去5年困難を受けています。残念ながら、私たちの尊敬する愛するウィリアムソン司教様がなさっている、客観的に間違った言動や行動に苦しんでいます。5年間ずっと続けて、間違った告発とか批判を聞いているのを、私たちは苦しんでいます。韓国の半分の信徒の方々と、日本では何名いるか知りませんけれども、この罠にかかってしまいました。他の世界中の各地でも、何名か一緒になっています。そして1日中インターネットの上で、色んなものを読んでいます。そして全ての人を判断して、裁いています。色んな人の事について批判しています。それで祈りの生活や、信仰生活や、全てを失いつつ、そういう事に時間を費やしています。そしてこのような態度を取っている司祭や司教様の御説教というのは、ただ批判して、批判して、批判する事で、建設するものはありません。

聖グリニョン・ド・モンフォールはこの第1の所で私たちに、「批判をするのではなくて、私たちの日常の自分の務めをよりよく果たす」という事を勧めています。

この第1の点をもっと深く見ると、別の角度からも見る事ができます、それは「主観的な、私が選んだ信仰生活」という事です。例えば、カトリック教会が客観的に、私たちに与えている勧めているお祈りよりも、私が好きなお祈り、私の選んだお祈りをする、という。このような人たちは、どこかで見つけ出した個人的なお祈りの方が、教会の公的なお祈りよりももっと良い、と考えている人です。

「私はこの公的なお祈りが嫌いです。なぜかというと、私がこうやって跪きたい時に皆は立っているし、立ちたい時には跪いてるし、座っていたい時には皆が何かしているからです。しかも教会の後ろには、何かクラック・クラックと音を立てて皆さんに合図をしている係がいます。」そのような主観的な信心の方は、そのような合図の音を聞くと「あぁ、またか」「またか」と思ってしまいます。

このクラック・クラックという音は、教会が皆さんに、「あぁ、今聖福音だから立って、イエズス様の事を聞いて下さい」「あぁ、今は聖変化だから、跪いてイエズス様を礼拝して下さい」という、この「教会が一番望む態度はこうですよ」という招きをしているものですから、これが最高の一番良いものである、という事です。

この論評家の批判家の信心の別の観点は、別の点は、他の人を軽蔑する事です。例えば、「私は他の間違った牧師たち、あるいは間違った司祭たち、近代主義の司祭たち、この太っている愚かな人たちよりも私は偉いんだ」というような態度です。

ですからこのような信心家は、「あぁ、この平信徒は間違っている」「あの神父様は間違っている」「あの司教様は間違っているし、教皇様も間違っている」という態度を取ります。確かにこのような方々は、客観的に間違った事を行なったり言ったりしますけれども、だからといって、そのような論評家の信心の人は、本当に悪い、汚らしい、本当に悪い言い方をして、批判して、馬鹿にして、軽蔑します。

私たちは、「本当はそれを受けるにふさわしくない者であるにも関わらず、真理を、聖伝の真理を、ありのままの2000年の真理を受ける事ができた」という事を感謝して、跪きましょう。

確かに私たちは、誤謬は、間違いは憎みますけれども、しかし、残念ながらその間違いの中にいる人々に対しては、尊敬を抱かなければなりません。私たちはこう言わなければなりません、「もしも私が受けたこの御恵みと同じものをこの人たちが受けていたとしたならば、きっとこの人たちは私よりも、何百倍も、何千倍も、もっと良くなるに違いないだろう。」

では次に、第2の信心型を見ます。

この第2の間違いは、「小心家」94、95番です。「オドオド型」と書かれていますけれども。この「小心型、オドオド型」というのは、私の深く説明する必要のないものです。これは近代主義やプロテスタントがよく持っているやり方です。でもこの事についても、皆さん後で黙想して下さい。

第3の間違いは、表面的な、外見だけの信心(Les dévots extérieurs)です。

ここでは「チンドン屋型の信心家」と言われています。これは私たちが皆持っているものです。これは、「外的な態度の方が重要である」と信じてしまう間違いです。「質よりも量の方が大切である」と誤解する態度です。

「神父様、とても気分が良いです。昨日は27環ロザリオを唱えました。」
「あなたはカトリックですか?それとも仏教徒ですか?」

子供の頃、私は母に連れられて、夜通しの徹夜のロザリオのお祈りに行った事があります。この時に、私は子供ながらに、この誰も、私は誰も批判するのではないのですけれども、子供ながらに、このお祈りをする人たちが、この「めでたし聖寵充ち満てるマリア」と言いながら、頭の中では何も考えていなくて、ただ唱えているだけ、という風で、これは仏教のお坊さんの念仏と同じように思われました。

これには非常に大きな罠があります。もっともっともっとたくさん唱える為に、それを正当化します。巡礼に行って、徹夜のお祈りをして、このお祈りをして、という「ここで時間を使っているので、自分の生活を改める時間がない」という態度です。

この外的なものだけを強調する事によって、その内容とか、その意味を忘れてしまう危険があります。マリア様やイエズス様に大きな称号を与えますけれども、かといって自分の内面は全く空っぽで、空虚である危険があります。

例えば、たくさんの「王たるキリスト」に対するお祈りや、色んな様々な信心や、様々な歌があります。でも「王」というのは一体何なのか?とは考えた事も無い人たちもいます。その「王」という意味もよく分からないまま、「王」「王たるキリスト」と歌っても、それが何も実践できていないケースがたくさんあります。

例えば、「イエズス様は私の王」「マリア様は私の女王、元后」と言いながら、「実は王という意味は、イエズス様に従わなければならない、イエズス様のしもべである、イエズス様の御旨を果たすのだ」という事が理解できない人がいます。

もしもマリア様が本当に私たちの元后であり、女王様であるならば、例えば百貨店に、あるいはスーパーマーケットに行く時に、「女王様、私が一体何を買って、何を買うべきでないのか教えて下さい」と、「女王様の御旨は何ですか?」と聞かなければならない事を理解しているでしょうか?

男性の方は、もしも今日の1日のプログラムを作る時、あるいは休暇の計画を立てている時、あるいは何かの計画を立てる時に、「私たちの王の御旨は、王が何を御望みなのか?」という事を、いちいち1つ1つ聞くでしょうか?

この外面的で表面的だけの信心は今、癌のように広がっていて、特にこの感傷的で、この感情に訴えるカリスマ運動や、感情的なものだけの信心の危険があります。多くの人々が、「信仰生活というのは、フィーリングを感じる事である」とか、あるいは「たとえどのような犠牲を払っても、そのような感傷的に体験をするという事にある」と誤解している人がいます。

多くの人が、「神父様、私はもう天主様から愛されていません。なぜかというと、もうそのような感激を味わうことができないし、その何もフィーリングが無いからです。」

そのような感覚や、あるいはそのような感激が無くなってしまうと、もう祈りの生活をやめてしまいます。

第4は、この「ワンマン家」と書かれています。97番です。

これは、Les dévots présomptueux「本当の努力を避けて、天主様がやって下さる」と勝手に思い込む信心です。

101番には第5として「不安定な信心」 Les dévots inconstants があります。これは、満月の時には一生懸命お祈りするけれども、三日月の時にはあまりお祈りをしない、という、「気分に応じて信心をする」という事です。

第6は、「偽善的な信心」dévots hypocritesで、これは「信心」の名前に値しません。このショーを見せるだけの、劇をするだけの、見せかけだけの信心です。

でもこの事についてちょっと質問するのを許して下さい。この黙想会を司祭たちに指導する時に、この事をいつも司祭たちに質問します、「神父様たち、ここに黙想会に与っている神父様、あなたたちは、たくさん何千人もの前でミサを捧げる時と、たった一人でミサを捧げる時と、同じようにミサを捧げますか?」あるいはこの信徒の皆さん、ご自宅でお祈りする時の態度と、この他の皆さんと一緒にお祈りする時の態度とは、全く同じ態度でお祈り致しますか?皆さんは、他の方々が皆さんを見ている時には、皆さんは(敬虔な態度でお祈りしている様子)、一人の時は(ぞんざいな態度でお祈りしている様子)、皆さんもちろんこのようではないと思いますけれども、少しそのような傾向があるかもしれません。

私たちの原罪の為に、私たちは皆、劇を、この演劇をしている可能性があります。他の人々の前で私たちはショーを見せて、そして自分がどれほど信心深いか、という事を見せる傾向があります。

第7は、「自己利益を求める、エゴイスティックな信心」dévots intéressésです。必要な時にはお祈りします。お祈りする時は、何か「欲しい」。これはちょうど、お父さんが、「子供は私のことを愛していない」と文句を言うのと同じです。

でもこの子供は時々お父さんの方にニコニコしてやって来て、甘い声を出して、「お父さん、元気ですか?」するとお父さんは、「いくら欲しいのか?」子供はおこずかいが欲しくて、私たちは時々このような態度を取ります。天主様の名誉、天主様の御旨、というのはあまり興味がなくて、「私の利益、私の思いが欲しい、それの為にお祈りする」という事です。

では今から、92番から104番までの間違ったやり方をゆっくりお読みになって下さい。もしもこれを読んで、「あ、ここに、この点は私にちょっと似ているかもしれない」というところがあれば、そしたらそんな時はメモを取って、それをそれについて反省してみて下さい。そしてそれを、もしもそのような傾向があるなら、それを私たちが取り払う事ができるようになさって下さい。

では、どうしたらその誤りを取り払う事が、取り去る事できるでしょうか?それは、今から後に説明する、「まことの信心」を受け入れる事によってです。

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