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2018年11月3日(初土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサ説教 「世の終わりとマリア様についての黙想」

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2018年11月3日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年11月3日、11月の初土曜のミサです。聖母の汚れなき御心の随意ミサをしています。

今日は初土曜ですから、いつものように初土曜日の信心をしましょう。ミサが終わった後には、聖体降福式があります。イエズス様の元で、マリア様のロザリオの黙想を致しましょう。今日はマリア様の御告げの神秘を、喜びの第1玄義を黙想する事を提案します。

11月は少し予定がイレギュラーなところがあります。次のミサは、11月11日の主日で夕方にありますけれども、2番目のミサは、最後の主日の前の金・土で、11月23日・24日です。ですから少し変則的になっているので気を付けて下さい。

11月30日と12月1日には、アジア管区長、新しい管区長様もいらっしゃいますので、その時も皆さん来て下さい。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は11月の初土曜日で、11月は死者の、死せる信者の霊魂、煉獄に居る霊魂たちの為にお祈りをする特別の月です。

それで教会はそれと同時に、典礼暦年の最終の主日を準備する為に、「世の終わりについて黙想するように」と励ましています。そこで私たちも、世の終わりについて、世の終わりとマリア様の関係について、黙想しましょう。

⑴世の終わりとマリア様はどのような関係があるのか?

⑵第2に、今は世の終わりに近付いているのかどうか?世の終わりのしるしは一体何なのだろうか?

⑶第3番目に、マリア様は私たちに一体、そのような時代に生きる私たちに一体どんな事をお望みなのか?という事を黙想して、

⑷最後に遷善の決心を立てましょう。


⑴では、世の終わりとマリア様にはどのような関係があるのでしょうか?

深い関係があります。なぜかというと、この世を創られた天主が人となって、イエズス様が、人となった天主の御言葉がこの世に来られた、その救いの始めは、マリア様を通してなされました。天主はマリア様を通してのみ、この世を救おう、贖おうと思いましたが、世の終わりは同じような事が起こります。

「世の終わりには、信仰が、信仰の火がますます小さくなって、この地上から消されようとしている、ほんの少数しか残らない、というその時に、もう一度、マリア様を通して、イエズス・キリスト様の大勝利が来る」という、それがカトリックの教えであるからです。

なぜかというと、ちょうど最初に、マリア様を通してイエズス様が来られたように、最後にも、マリア様を通してイエズス様が来臨されなければならないからです。これについては多くの聖人たちが同じ事を言っています。一番有名なのは、聖ルイ・マリア・グリニョン・ド・モンフォールという聖人です。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、「この世の終わりには、恐ろしい戦いがあるだろう。悪と善の戦いがあるだろう。そして最後には、マリア様を通して、マリア様の使徒たちが、マリア様の道具が、この世において勝利を収めるだろう。善が勝利を収めるだろう」と言っています。

日本にも来られたコルベ神父様も同じ事を言います、「この世の終わりには、マリア様を通してイエズス様が勝利する。」

ファチマでも同じ事を言います。ファチマではシスタールチアを通して、「この世に天主様は最後の手段を与えている。最後の手段というのは、普通の手段を使ってももうどうしてもそれができないので、必殺兵器を、もう最後の最終兵器を使って、もしもこれが駄目ならもう代わりがない、それがマリア様だ。」


⑵それでは、マリア様と世の終わりに非常に非常に深い関係がある、という事が分かった今、では、今の現代はどういう時代なのだろうか?という事を見ると、もちろんイエズス様は、「世の終わりがいつなのか、誰も、人の子さえも知らない」と言っています。ですから、私たちは一体いつなのか分かりませんけれども、しかしその「しるし」は見る事ができます。

そのしるしというのは、「イエズス様を信じる、という信仰がだんだん弱くなっている」というしるしです。そしてそのあまりにも信仰がこの世から失われるがあまり、人々はおかしな事を信じている、狂った事を、狂気を信じている、ますます信じている、という事にあります。

聖パウロは既に書簡の中でこう言っていました、「天主がこの全てを創った、という事は明らかである。この自然の秩序を見ると、天主によって創られたという事は明らかである。しかしそれを見ても信じない人がいる。そこで彼らの目は暗んだ。知性は暗んだ。だから彼らは、自然に反する罪を犯すようになる」と言って、口で言うにも恐ろしい罪の事を、聖パウロはローマ人の書簡の中で書いています。

聖書によると、「天に復讐を呼ぶ罪」というのが4つあります。もちろん罪を犯す事は悪い事で、罪を犯す事はそれなりの罪の償いを要求します。しかしこの4つの罪だけは、普通の罪とは違って、あまりにも重大で、あまりにも極悪で、道を外れていて酷いので、天主様がこのままその目をつぶって、彼らがそのままいるのをどうしても許す事はできない、という罪があるのです。普通の罪とは次元が違う特別の罪です。これは「天に復讐を呼ぶ罪」という事で聖書にあります。

1つは、「罪のない人を殺害する事」また、「貧しい人や弱い人を圧迫する事」あるいは、「正当な賃金を支払わない事」第4は、「自然に反する罪を犯す事」。

この「自然に反する罪を犯す」という事によって、ソドムとゴモラという町は、天から火が降って無くなってしまいました。考古学上、そのような所があった、という事は分かっています。しかし、滅んでしまいました。とても豊かな農産地でした。滅んでしまいました。

今、考古学上分かっている事もあります。ポンペイという町は、ヴェスヴィオ山という山の近くにありましたが、港町で、非常に堕落した町でした。今そこに行くと、昔は教会の人が研究していたのでそういう事はあまり言わなかったのですけれども、今では一般の学者が研究しているので、どのような発掘調査があったという事を全て公開しています。すると、そこに書かれている壁画や、あるいはその生活はあまりにも腐敗していて、淫らなものが町中にあって、そのようなお店があって、絵があって、口で言うにも恥ずかしいものがたくさんありました。それがあっという間に、火山によって埋もれてしまいました。

他にもあります。イタリアから海に沈んだ都市があります。とても豊かで、とてもお金持ちの人があって、そこに行くのはリゾートでしたが、記録に残っているのは、私たちに今口にするにも恥ずかしい事が行なわれていて、私たちが知っているのは、「それが海に沈んだ」という事です。

今、この世界はそのように、良い事が悪い事であって、「罪を犯してはいけない」という事が言う事が悪い事になってしまって、そして悪をする事が、例えば聖書で「してはいけない」、聖パウロが、「そのような事をする者は、天の国には入れない」という事をもしも言ったとすると、それは、「そのような事を言うのは、人を傷付ける」とか、あるいは「そのような事を言うのは、謝罪をしなければならない」とか、あるいは「聖パウロは今地獄にいる」とか、そのような事が主張されるような世界になっています。

もちろん真理を言うのは、ある人にとってそれに直面するのは難しいかもしれません。しかし、しかし人々は、真理を必要としています。そしてその福音の真理を知って、「今まで罪の生活をしていて、口にするにも恥ずかしい罪の生活をしていたけれども、その福音の言葉を聞いて回心した。立ち直った」という方がたくさんあります。そして、「そのような事を言ってくれる人に感謝する」という人がたくさんいます。

「罪」と「罪人」は違います。区別されなければなりません。罪人は、罪を犯してしまう人は、もちろん憐れみと、御恵みと、助けを必要とします。しかし、罪は罪であり続けます。

それらを見ると、その倒錯したような世界が今来つつあるのを見ると、そのようなものが合法化されようと、法律で認められようとすると、そして「それはいけない事だ」と言う事が罰せられるつつあるようになる世界が来つつあるという事を見ると、世の終わりも近くになっていたのかもしれない、と思うようになります。

このような動きは、あっという間に来たのではありませんでした。500年かかりました。最初は、マルチン・ルターから始まりました。マルチン・ルターは、「教会の権威はいらない」と言いました。そして聖書を以て、「聖書さえ読めば、自分で自由に解釈するべきだ。その為に、この自由の為に、キリスト者はいる。だから聖書だけで良いのだ。そして私たちは救われた、と信じればそれで良いのだ。何をしても、私たちはキリストの救いの業によって義と認められるので、」マルチン・ルターによれば、ですから、「私たちは善行をする事ができない。善行には価値がない。だからミサに与る事なども、秘跡なども、あるいは良い行いなどという事も全く無駄だ。修道生活も無駄だ。誓願を立てても無駄だ。ただ聖書を自由に解釈して、自分が救われている、という事を思えば良いのだ」と主張した事から始まりました。

こうしてマルチン・ルターは、客観的な世界を否定して、自分の頭だけの世界に閉じ込もってしまいました。難しい言葉で言うと、主観の世界の中に入ってしまいました。「自分の考えた通り、信じれば良いのだ。」ですから、「教えられる必要はない。外の現実の世界とは関係ない」と言い出したのです。つまりまとめて言うと、カトリック教会を否定してしまいました。

今度は、次の革命が来ました。それがフランス革命でした。教会のみならず、キリストを否定しようとしました。「王様はいらない。王様はキリストの代理者だから。そうではなくて、キリストの代わりに、人間の自由がなければならない。」そして人間の自由こそが、人間の理性が、あたかもキリストの場を奪ってしまいました。今まで王様がやろうとしていた事は、国民が徳のある道徳的な良い生活を行なう事ができるように、促進させる事でした。国民の間で平和が保たれて、そして良い善徳の生活、良い生活を、地上での生活を送り、そしてそれが天国へと繋がる事ができるように、教会を助ける事にありました。

ところが、人間の自由がキリストに変わった時に、一番大切なのは「自由」になりました。「だから、国家の政府の役割は、人間の自由を守る事だ。一番大切なのは、お金儲けだ。自由であればあるほど、お金を儲ける事ができる。」

ですから、「そのお金儲けに邪魔しないようにする事が、国家の務めだ」と言って、「ブルジョワの世界を作ろう」と思いました。ですから、お金持ちはもっとお金持ちになって、そして力のない貧しい人はますます搾取されて、奴隷のようになっていきました。王様が今まで、「良い、徳のある生活をしよう。愛徳で助け合おう」と言った世界を、ただお金の観点から世界を作り直そうとしたので、そのような差が広がってしまったのは当然の事でした。

フランス革命のモットーは、「自由・平等・博愛」でした。しかし自由は追求されたけれども、自由を追求すれば追求するほど、平等となる事はできません。元々、「自由・平等・博愛」というのも、カトリックから来た言葉使いでしたけれども、でも内容はカトリックのものではなくなってしまいました。

「自由」というのは、「私たちが罪から解放されて、天主の前で自由に善を行なう事ができるように、その自分の罪と悪から解放された」それが自由だったのです。しかし革命の後の、フランス革命のモットーは、“天主からの解放、天主からの自由”となってしまいました。

「平等」も、「天主の前では、男も女も、ギリシャ人もユダヤ人もない。同じく天国に行ける」という平等でした。しかしフランス革命の後では、“天主のない平等”。ですから、“全てが等しく奴隷のようになる”という事を意味しました。

カトリックでは「博愛」と訳されている「兄弟愛」は、「天主、天主聖父の前での兄弟愛」でした。しかし“天主のない兄弟愛”をフランス革命は押し付けようとしました。しかし日本人が天主のない兄弟愛を訳す時に、「聖父のいない兄弟愛などあるだろうか」と思って、それが「博愛」として、あるいは「友愛」として訳されました。

その後で人々は苦しみました。貧しい人が特に苦しみました。その為に、それらの救いの助ける為の道は、元のカトリックの教えに戻る事でした。しかし人々はそそのかされて、別の道を選びました。カトリック教会を否定して、キリストを否定した後に、今度は天主さえも否定しました。共産革命でした。ボルシェビキ革命、ロシア革命でした。

そして「平等を追求する為に、全ての今までの社会秩序を破壊してしまおう。ブルジョアの世界を破壊してしまおう」と訴えました。そしてそれがロシアで100年前に成功しました。残念ながら人は、間違った方向に解決を見出そうとして、そしてますます苦しみました。共産革命の後にソ連、あるいは多くの国々が共産主義の下に陥り、人々は奴隷そのものとなってしまいました。

その時に私たちは、「本当の救いは、この世を創った救い主、イエズス・キリストの元に立ち戻る事である」という事に気が付けば良かったのですけれども、人々は今、更に別の方向に行こうとしているかのようです。教会を否定し、キリストを否定して、天主を否定して、更には、今の目の前にある現実の世界さえも否定しようとしています。

善は悪であり、悪は善であり、男も女もなく、自分の思う通りの世界を作る事ができるかのように、夢の世界を作ろうとしています。そしてその為に家庭は崩壊され、今までの秩序、善悪との基準が全く逆転しようとしています。今、そのような世界が出来つつあるかのようです。


⑶ちょうど十字架の下で、イエズス様が受難を受けた時に、イエズス様は弟子にヨハネに、マリア様をお与えになりました。それと同じように、教会が今そのような社会の中に居て、教会も、キリストも、天主も、そして現実世界をも否定しようという世界の中に居ながら、私たちにマリア様の汚れなき御心を与えようとしています。

マリア様は天主へと至る道です。私たちの避難所です。私たちがいくら何と言っても人々は受け入れられないかもしれませんが、しかしマリア様の汚れなき御心で、マリア様の御助けによって、多くの傷を負った人々や、あるいは道を間違った人たちが癒される事ができます。夢から醒める事ができます。正気の現実の世界を素直に認める事ができるようになります。聖パウロの教えをそのまま、「その通りだ」と認める事ができるようになります。イエズス様の教えを認める事ができるようになります。


⑷では今日は、マリア様に特別にお祈り致しましょう。マリア様はトゥイという所で、イエズス様からの御恵みと憐れみを私たちに下さる方として現れました。マリア様が願わくは、悪魔を崇拝するようなハロウィンは受け入れるけれども、実はその元となった諸聖人については何か知らないこの世界に、その諸聖人を生んだイエズス様の教えに、マリア様の御取り次ぎに、目覚める事ができますように、特にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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