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2018年11月4日 聖霊降臨後第24主日のミサ説教 「主がたった一言で嵐を静められたことについて―教会の教え」

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2018年11月4日(主日)聖霊降臨後第24主日のミサ
小野田神父 説教

日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2018年11月4日、聖霊降臨後第24主日のミサをしています。

今日は月の最初の主日ですので、いつものように御聖体降福式をしましょう。御ミサの後の感謝の祈りの後に致します。どうぞ皆さん与っていって下さい。

特に日本での平和、世界での平和の為にお祈り致しましょう。

今日は14時半から公教要理があります。フルトン・シーン司教様が話していた講話の中で、「第二次世界大戦というのは実は一体何だったのか」という事について、「なぜ起こったのか」という事を、フルトン・シーン司教様の分析をご紹介したいと思っています。16時から晩課があります。

次のミサですけれども、最終の主日にミサがあります。どうぞお間違いのないようになさって下さい。

それから12月はアジア管区長様が特別ゲストとしていらっしゃいます。12月1日の夕方にも土曜日にもミサがあり、2日の主日に、管区長様がミサと、そして御講話をして下さいます。


「何を恐れているのか、信仰の薄い者よ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は、今日のミサのテキストは、先週の聖霊降臨後第23主日の共通文の間に、御公現の後の第4主日の、今年読む事ができなかったテキストが入っています、挿入されています。それを使います。典礼暦年の終わりまでそうです。

⑴これをする事によって、教会は私たちに何を教えようとしているのかでしょうか?今日はこの特に、嵐を静めた、イエズス様がたった一言で、「黙れ」と言った事でシーンとなってしまった嵐、この話、この実話、歴史的な話から私たちに、教会は何をこの典礼暦年の終わりに教えようとしているのか?それを黙想します。

⑵そして実際にそれが私たちにどのように適用されるのか?

⑶私たちはではどうしたら良いのか?という事を黙想して、

⑷遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴もしも、このイエズス様がきっと、関空でも絶対に、どんな事があっても関空だけは機能する、日本の最高の頭脳を以って技術を以って設計したものも、タンカーがぶつかったりとか、水が浸水したりして使う事ができなくなり、そして大阪でも、「え、まさか」と思ったのですけれども、主日のミサが行なわれる事ができない事もありました。

とても大きな嵐、台風の中に舟が、イエズス様と弟子たちを乗せている舟が、もう沈まんばかりに荒波に飲み込まれようとしています。「一体私たちはどうなってしまうのだろうか。海の深い深みに沈んでしまうのだろうか。イエズス様は、こんなにも荒れているにもかかわらずグーグー寝ている、大丈夫だろうか。」

イエズス様はその時に、弟子たちがどうも耐えきれずに、「主よ、起きて下さい。早くして下さい。私たちはこのまま沈んでしまいます。転覆してしまいます。」するとイエズス様は起き上がって、「何を恐れているのか、信仰の薄い者よ」と言って、いきなり立ち上がって起き上がって、海に嵐に命令するのです、「黙れ。」すると、あたかも何事もなかったかのように凪になって、平和がやって来る、という事です。

これは、聖霊降臨後の最終の主日の中に埋め込まれる事によって、「この小さな聖ペトロの舟は、教会の事だ。教会の歴史の事を表している」と解釈させようとします。教会は、嵐のような地獄の迫害、地獄の手によって荒波に揉まれているのですけれども、しかし世の終わりに近付くと、イエズス様は裁き主としてというよりは、教会を救う者として、捕虜から救い出す者として、起き上がって、この世の中を平定する、たった一言で平和をもたらす、という事を意味しています。

⑵第2に、ではこれは私たちにとってどんな意味があるのでしょうか?

典礼学者によると、「確かに、これは教会の歴史をも表しているけれども、私たちの日常の生活も表している。実はこの舟に乗っているのは、イエズス様と一緒に乗っている私たち自身だ。私たちも一週間、イエズス様と一緒に舟に乗っている。イエズス様はあたかも私たちに見えないかのように、眠っているかのように、何もしていないかのように見える。でも本当はイエズス様は私たちのすぐ隣にいらっしゃる、全能の天主として隣にいらっしゃる。」

舟は、私たちの舟は、朝起きてから夜まで、あるいは主日から土曜まで、どこかでハロウィンがあった、あるいはどこかで先生に怒られた、あるいは嫌がらせをされた、誰かが割り込んできた、スピード違反で誰かが暴走運転をしてきた、あんな事があった、あるいはカトリックだからといって嫌がらせをされた、あるいは悪いインターネットを見る危険があった、舟は、私たちの舟は、荒波に揉まれて一週間すごして来た。

しかし今日、主日、イエズス様の復活を、御受難と復活を記念するこの主日にイエズス様は、私たちがイエズス様に近付いて、「イエズス様、主よ、私たちは何か沈んでしまいそうです。罪を犯してしまいそうです。平静を失ってしまいそうです」と言う時に、「何を恐れているのか。心配するな、私がここにいる。全能の力で私たちの周りの事を平定させる」という事を。

そしてまた私たちの人生の終わりにも、私たちが呼びかければ、イエズス様にお願いすれば、イエズス様は起き上がって、「心配するな。私がいる」と言って、この世の中を平和を下さる、その力をお持ちになっている、そしてイエズス様は「この平和になる、凪になる」というのはつまり、「私たちを、真の幸せ、天国に必ず連れて行く事ができる」という事です。

⑶第3には、確かに私たちは諸聖人の大祝日の後に、多くの聖人たちが天国で今平和を、イエズス様とマリア様と、使徒たち天使たちと共に、殉教者、証聖者たちと共に祝っているのを黙想します。そして確かに、イエズス様は私たちにこの本当の平和を与えようとして下さる事を知っています。私たちの人生の目的はこの地上ではない、という事を知っています。

この地上では、本当の短い期間で、私たちは永遠の楽しみに、永遠の幸せに、私たちの創造の目的に生まれてきたその目的に到達しなければなりません。イエズス様はそれを私たちに与える事ができます。私たちにとってイエズス様は、裁判官とよりは審判者というよりは、救い主として、今日現れます。「何を恐れているのか、心配するな。ひとつも心配する事はない。私にはお前に平和を与える事ができる。平和を与える事ができる。ここに、私がここにいる。心配するな」と呼びかけています。

迫害時代、明治政府がまだ、禁教令の立て札を取り外してそれでもまだ偏見が残って、そしてキリシタンが嫌がらせや村八分や意地悪をされていた時に、長崎の司教様たちは五島や色々な所に回って、「頑張れ、心配するな。イエズス様は今寝ているように見えているけれども、起き上がって私たちに平和を下さる。そして私たちのこの信仰のその尊さが、日本中で世界中で賞賛される日が来る」と言って励まして、そして「先祖から伝えられた、聖フランシスコ・ザヴェリオから伝えられた、7代8代に渡って伝えられた信仰、この信仰の遺産を守り抜くように」と励まして回りました。「将来、必ずこの信仰は勝利する。」

実際、カトリック信者である麻生首相の時に、日本で、日本の108名の殉教者が列福されて、その事を全部NHKが放映しました。100年前では考えられない事が起こりました。日本のその殉教は、その迫害のその精神性の高さが、「これこそ日本の宝だ」と文部省が推薦して、長崎の教会群は世界遺産に登録されています。これを聞いた時に、長崎の信者さんたちは感動して、涙が止まらなかったそうです、「先祖が守ってきた信仰のその価値が、その精神性の高さが、このイエズス・キリストに対するその愛が、全世界によって認められた」と。

その日は必ず来ます。たとえ私たちの周りが悪魔の仮装行列をしたとしても、カトリックの結婚に反対するような事を言う人たちがたくさんいたとしても、信仰に反するような事が法律となったとしても、しかしそれは長く続きません。ゼン枢機卿様も最近のインタビューで言いました、「共産主義は、永遠ではない。」

反キリストの勢力は永遠ではありません。必ず、イエズス・キリスト様は立ち上がって、私たちに平和と真理の勝利を与えます。必ず、私たちがそれを信じようと信じまいと、イエズス様が今いないかのように見えていても、その日は必ず来ます。聖伝のミサも、大勝利をする日が来ます。御聖体への信仰が勝利をする日が来ます。「マリア様への信心が正しかった」と全世界が認める日が必ず来ます。

今日、この世の終わりを準備する為のこの福音ですけれども、私たちに非常に強いメッセージを送っています、「私たちは、たとえイエズス様が今いらっしゃらないかのように見えても、荒波に揉まれているかのように見えても、何も心配する事はない。イエズス様にただ信頼すれば良い。」

「イエズス様、助けて下さい。イエズス様、私たちは荒波に飲まれそうです。イエズス様、お傍にいらっしゃるのは知っています。イエズス様、どうぞ憐れんで下さい。」

イエズス様は私たちの声をちゃんと聞いています。教会は何度も私たちに歌わせました。デ・プロフンデス、「私たちをこの深い闇の中から…」

⑷では、私たちは今日どのような決心をしたら良いでしょうか?

第1に、「イエズス様が私たちの創り主、全能の天主、創造主、救い主、私たちを愛する方がすぐ傍に必ずいて下さる。たとえ目に見えなくても、その動きが見えなくても、いらっしゃる」という事を確信なさって下さい。そしてその全能の憐れみ深い愛と御恵みに、信頼なさって下さい。

そして、是非イエズス様に、絶え間なく、「イエズス様、憐れんで下さい。イエズス様、助けて下さい」と呼び続けて下さい。私たちのこの叫びを、愛の祈りを、決してイエズス様は無視する事はありません。

この御恵みをマリア様にお祈りしましょう。典礼暦年の終わりにおいて、私たちが遂には、諸聖人と共に、永遠の喜びに、平安に、凪に入る事ができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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