親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!
喜びと感謝をもって、私は皆さんにお知らせしたいと思います。私たちの新しい総長は、無原罪の聖母の騎士会(MI)の国際本部をワルシャワに設立することをお許しになり、祝福してくださいました。総長はまた、「MIハンドブック」の推薦の言葉を書いてくださいました。この本は英語、フランス語、スペイン語版がすでに出版されていますが、もうすぐドイツ語版も入手できるようになります。この本はMIが取り組むことすべての要約であり、とりわけ、MIの本質と正当性、有益性、今日性について述べています。特別な章も一つあって、MIと他のマリア運動の関係を説明しています。なぜなら、それらの運動によって誤解と不信が繰り返し発生するからです。恐らく最も重要な章は、MIの具体的な在り方、すなわちMIへの入会および特に騎士の堅忍を取り扱っています。何かを始めるのはいつも簡単ですが、何かを継続させ保持するのは極めて困難です。あらゆる団体が持ちこたえていくか駄目になってしまうかは、いかにしてメンバーがいつも注意を払っているようにしているか、いかにしてメンバーに最初の熱意を維持させているか、あるいはその熱意をさらに深めさせているか、という問題にかかっているのです。このことは、すべてのカトリック信者にとって、特にすべての騎士にとって、確かに大きな問題です。自分が、いかにすれば、忠実にとどまることができ、またそれ以上に忠実になることができるのでしょうか?
第一の答えは外部から来ます。騎士たちに霊魂の戦いのための武器や弾薬を常に供給し、無原罪の聖母の御手にある、さらにより良い道具となるよう、騎士たちをさまざまな方法で激励することは、MI指導部の責任です。MIの全構造は、使徒的な素材を生み出して、それを適切な使用説明書と一緒に、騎士たちに渡すように設計されてきています。それゆえに、定期的な雑誌や手紙、リーフレット、MIコーナーなどがあるのです。
もう一つの答えは、騎士自身の内部から来なくてはなりません。騎士自身がMI指導部のこれらすべての努力を無視するとしたら、その努力はいったい何になるというのでしょうか。もし騎士が自分に差し出されたものを手に取らず、それを考慮するのを怠ったとしたらどうでしょうか? そうすれば、私たちは、自分が一日に少なくとも一回は無原罪の聖母のために、霊魂の救いのために何かをするという約束に不忠実となってしまった眠れる騎士の一人、名前だけの騎士の一人であるということに突然気づいてしまっても驚くには当たりません。
それゆえに、私たちは自分が忠実にして寛大であるよう祈るだけでなく、奉献の祈りの中に非常にうまく要約されている騎士というものの本質を観想し続けることも、いかに重要でしょうか。
このことを、もう少しよく理解してみるようにしましょう。
すべての恩寵の仲介者であるマリアがMIの土台です。すべての恩寵の仲介者というのは、主によって、その御苦しみと十字架上の死を通して獲得された回心と聖化というすべての恩寵がマリアに委託された、というマリアの特権に関する教えです。それは、マリアがその恩寵を「マリアがお望みのときに、マリアがお望みの人に、マリアがお望みの方法で、マリアがお望みの分量を」(聖ベルナルド)善意の人々に分配できるようにするためでした。この恩寵の仲介は、二つの方向に働きます。まず、恩寵はイエズスの聖心から流れ出て無原罪の聖母の御手を通してやって来ます。天主の光と恩寵が私たちに触れ、私たちを回心させ、聖化します。私たちは、この天主の創造の、かつ贖いのわざにお応えしなければなりません。私たちの全存在は天主に帰るためにあります。さて、私たちが天主に帰るには、天主がマリアを通して私たちのところにやって来られたのと同じように、マリアを通して、でなければなりません。このことは、キリスト教の古い時代から有名な格言で表現されてきました。「マリアを通してイエズスへ」です。ファチマの聖母も、このことを次の分かりやすい言葉によって確認なさいました。「私の汚れなき心はあなたたちの避難所であり、あなたたちを天主へと導く道になるでしょう」。
天主は人間に強制なさるのではなく、むしろ私たちに天主の救いのみわざへの自由な同意をお求めになります。それゆえに、私たちがこのことを明確に求め、私たち自身の意志によって、意識的で決定的な「はい」によって私たちが聖母を受け入れる条件でのみ、聖母は仲介者としてのご自分の任務を私たちにおいて実現させることがおできになるのです。仲介者である聖母は、私たちが自分自身を明け渡すという行い、すなわち自分自身の奉献によって自分自身を聖母に捧げるならば、それに応じて私たちの内に聖母のあらゆる愛の活動を広めてくださることでしょう。
私たちの奉献において聖母に捧げるものを、もっと正確に特定しましょう。私たちはこれまで、霊的生活においては二つの偉大なる現実があることを見てきました。それは、私たちの天主との関係および私たちの隣人との関係です。これは結果として、二つの異なる奉献となり、それらは互いに補いあうものです。
a)まず、私たちは、マリアが私たちの母にして女主人となるように、また私たちがマリアの子どもにして奴隷となるように、自分をマリアに捧げます。これは重要かつ土台となる奉献の行為ですが、基本的には、このことはすでに私たちのマリアへの完全な明け渡しを表してはいるものの、具体的には、私たち自身の聖化や、マリアを通して私たち自身が天主へ帰ることに限定されています。これは、御摂理が聖ルイ・マリア・グリニョン・ド・モンフォールに霊感を与えることによって、「聖母マリアへのまことの信心」の中で驚くほど素晴らしく私たちに示すことを望まれた、マリアへの完全な信心の説明です。
b)次に、マリアが私たちのこの世でのいのちをご自分の御手にお取りになるように、すなわち、私たちが成し遂げなければならない務めをお取りになるように、自分自身をマリアにお捧げします。マリアは今や、私たちのすべての行いと他人との関係についての主要な原因(もちろん、常に天主の下位ですが)となられ、私たちを「マリアの汚れなき御手の道具」とみなされることになります。聖マキシミリアノ・コルベの奉献の祈りは、聖グリニョン・ド・モンフォールの奉献の短い要約で始まります。しかし、中心となるものは、私たちがマリアに、私たちのすべての能力を所有し、それを通してマリアが霊魂における回心と聖化の奇蹟を行うことができるように願うことです。これによってマリアは、「ヘビの頭を踏み砕き」、「世界中のあらゆる異端に打ち勝つ」ことができるようになるのであり、こうして「主の聖心の支配」をもっともっと打ち立てることができるようになるのです。
ですから、これこそが、2019年の年間の決心として、私が皆さんに提案したいことなのです。つまり、私たち自身を聖母の道具として無原罪の聖母へ奉献することを、私たちの生活のあらゆる領域へもっともっと浸透させることであり、それによって、私たちが祈りによって聖母に捧げるものを、また毎日の生活においても実践に移すようにするためです。
このことは第一に、しばしば奉献の祈りを観想しながら祈ること、その祈りにある一つ一つの文と一つ一つの言葉を味わうことであり、これはいわば、可能な限り深くその祈りを理解するためなのです。「我らの愛深き母よ」、「天主は、あわれみの全秩序を御身に委ねることを望み給えり」、「道具」などの言葉の背後には、霊的世界全体が開かれます。今年の騎士への手紙は、とりわけこれらの霊的な深みへと私たちを導くはずです。
しかしその後、本当に重要で困難なものがやって来ます。それは、私たちの奉献を毎日の生活において実践することです。これには、ただ一つの基本的な態度を必要とします。寛大さです! もしいつも狭量でけちであるならば、もしいつも自分の利益だけにしか関心がないならば、その人は王たるキリストの呼びかけに従うことができず、天主を愛し天主のご意志を成就させようとするあらゆる願いは、つぼみのうちに摘み取られてしまうことでしょう。それゆえに、まず第一に、私たちはみな、毎日の生活において寛大であるようにしなければなりません。寛大に屈辱を受け入れ、寛大に他人の誤りや不完全さに耐え、寛大に不思議のメダイやちらしを配布し、寛大にロザリオを終わりまで祈り、寛大に汚れなき御宿りに何かを捧げるのです。小出しに何かを行うのではなく、寛大に行ってください。
私たちはみな、無原罪の聖母への私たちの奉献を表明するとき、幼子イエズスと御母の足元に騎士たちを置くことによって、この寛大さを求めて祈る必要があります。それは、聖なるクリスマスの輝く光が私たちみなを恩寵で満たし、その恩寵が私たちの騎士としての振る舞いを通して、あわれな罪びとの心に流れ込むようにするためです。
祝福とともに
カール・シュテーリン神父
2018年11月25日、ブカラマンガ(コロンビア)にて。
【英語原文】
Father Director’s Letter No. 12
Dear Knights of the Immaculata!
With joy and gratitude I would like to inform you that our new Superior General has allowed and blessed the establishment of the International Headquarters of the M.I. in Warsaw. He has also written a word of recommendation for the "M.I. Handbook", which has already been published in English, French and Spanish and will soon be available in German. It is a summary of all the concerns of the M.I.: above all, its essence and its justification, usefulness and topicality. A special chapter also explains the relationship of the M.I. to other Marian movements, as misunderstandings and mistrust repeatedly arise with them. Probably the most important section deals with the concrete existence of the M.I.: the enrolment into the M.I. and especially the perseverance of the Knights. It is always easy to start something, but extremely difficult to continue and preserve something. Every association stands or falls upon the question of how to keep its members on their toes and keep their first zeal or even deepen their initial zeal. This is surely also the big question for every Catholic and especially for every Knight: how can I remain faithful and become even more faithful?
The first answer comes from the outside: it is the responsibility of the M.I. direction to provide the Knights constantly with weapons and ammunition for the combat of souls, and to motivate them in various ways to become ever better instruments in the hands of the Immaculata. The whole structure of the M.I. has been designed to produce the apostolic materials and to hand them over to the Knights with an appropriate instruction manual: hence the regular magazines, letters, leaflets, the M.I. corners, etc.
Another answer must come from inside the Knight himself: what is the use of all these efforts if the Knight himself ignores them? If he does not take what is offered to him and neglects to consider it? Then we should not be surprised by the sudden realisation that he belongs to the sleeping knights, to the Knights in name only, who become unfaithful to their promise to do something for the Immaculata and for the salvation of souls at least once a day.
How important it is, therefore, that we pray for fidelity and generosity, but also that we keep contemplating the nature of the Knight, which is so ably summarized in the consecration prayer.
Let us try to understand this a little better:
Mary, the Mediatrix of all graces is the foundation of the M.I.: a privilege which teaches us that all the graces of conversion and sanctification earned by our Lord through his suffering and death on the cross are entrusted to Mary so that she can distribute them to people of good will "whenever she wants, to whomever she wants, howsoever she wants, as much as she wants" (St. Bernard). This mediation of graces takes place in two directions: first they flow down from the Sacred Heart of Jesus through the hands of the Immaculata. God's light and grace touches us, converts and sanctifies us. We have to respond to this creative and redeeming work of God: our whole existence consists in returning to God. Now, our return to God must take place in the same way in which God came to us, through Mary. This has been expressed since Christian antiquity by the famous axiom: "through Mary to Jesus". Even Our Lady in Fatima confirms this with the simple words: "My Immaculate Heart will be your refuge and the way that leads you to God".
God does not force man, but he wants our free consent to his salvific work on us. Therefore, Our Lady can realize her mission as Mediatrix in us only if we also want this clearly, if we accept her by an act of will, by a conscious and decisive "yes". The Mediatrix will unfold all her loving activity within us to the extent that we give ourselves to her through an act of surrender, the consecration of ourselves.
Let us specify more precisely what we give to Our Lady in our act of consecration. We have seen that in our spiritual life there are two great realities: our relationship with God and our relationship with our neighbour. This results in two different acts of consecration that complement each other:
a.) First we give ourselves to Mary so that she may become our mother and mistress and that we may become her children and slaves. This is the important and fundamental act of consecration, which basically already expresses our total surrender to Mary, but which is concretely limited to our own sanctification, our personal return to God through Mary. This is how Providence, by inspiring Saint Louis Maria Grignion de Montfort, wanted to explain total devotion to Mary which is wonderfully presented to us in the "Golden Book on True Devotion to Mary".
b.) Then we give ourselves to Mary so that she may take our lives in the world into her hands, namely the tasks that we have to fulfil. She should now be the main cause (always subordinated to God, of course) of all our actions and our relationship with others, and she should regard us as "instruments in her immaculate hands". The act of consecration of St. Maximilian Kolbe begins with a brief summary of the consecration of St. Grignion de Montfort. But the main thing is that we ask Mary to possess all our abilities in order to make them channels through which she can perform miracles of conversion and sanctification in souls. This enables her to "crush the head of the serpent", to "overcome all heresies all over the world" and thus to establish more and more "the dominion of the Sacred Heart of Our Lord".
And this is exactly what I would like to propose to you as the Yearly Resolution for 2019: that our consecration to the Immaculata - as her instruments - should penetrate more and more all areas of our lives, so that what we give her through prayer may also be put into practice in daily life.
This means, first of all, to pray, often contemplating the act of consecration, to savour every sentence, every word in it, so to speak, in order to grasp it as deeply as possible. Whole spiritual worlds are opened behind the words "Mary who loves us so much", "to whom God has entrusted the whole order of mercy", "instrument", etc. Our letters during this year should lead us above all into these spiritual depths.
But then comes the really important and difficult one: the implementation of our consecration in everyday life. This requires a single fundamental attitude: generosity! If one is usually petty and miserly, if one is constantly concerned only with one's own advantage, then one cannot follow the call of Christ the King, then every desire to love God and fulfil his will is nipped in the bud. Therefore, first of all, we must all try to be generous in our daily lives: generously accept a humiliation, generously endure the mistakes and imperfections of others, generously distribute the Miraculous Medal and flyers, generously pray the Rosary to its end, generously give something for the Immaculate Conception. Don't just do something sparingly, do it generously!
We all need to pray for this generosity in the manifestation of our consecration to the Immaculata, by laying all Knights at the feet of the Christ Child and His Mother, so that the bright light of Holy Christmas may fill all of us with graces, and that these may flow through our knighthood into the hearts of poor sinners.
With my blessing
Father Karl Stehlin
Bucaramanga, on the 25th of November 2018
喜びと感謝をもって、私は皆さんにお知らせしたいと思います。私たちの新しい総長は、無原罪の聖母の騎士会(MI)の国際本部をワルシャワに設立することをお許しになり、祝福してくださいました。総長はまた、「MIハンドブック」の推薦の言葉を書いてくださいました。この本は英語、フランス語、スペイン語版がすでに出版されていますが、もうすぐドイツ語版も入手できるようになります。この本はMIが取り組むことすべての要約であり、とりわけ、MIの本質と正当性、有益性、今日性について述べています。特別な章も一つあって、MIと他のマリア運動の関係を説明しています。なぜなら、それらの運動によって誤解と不信が繰り返し発生するからです。恐らく最も重要な章は、MIの具体的な在り方、すなわちMIへの入会および特に騎士の堅忍を取り扱っています。何かを始めるのはいつも簡単ですが、何かを継続させ保持するのは極めて困難です。あらゆる団体が持ちこたえていくか駄目になってしまうかは、いかにしてメンバーがいつも注意を払っているようにしているか、いかにしてメンバーに最初の熱意を維持させているか、あるいはその熱意をさらに深めさせているか、という問題にかかっているのです。このことは、すべてのカトリック信者にとって、特にすべての騎士にとって、確かに大きな問題です。自分が、いかにすれば、忠実にとどまることができ、またそれ以上に忠実になることができるのでしょうか?
第一の答えは外部から来ます。騎士たちに霊魂の戦いのための武器や弾薬を常に供給し、無原罪の聖母の御手にある、さらにより良い道具となるよう、騎士たちをさまざまな方法で激励することは、MI指導部の責任です。MIの全構造は、使徒的な素材を生み出して、それを適切な使用説明書と一緒に、騎士たちに渡すように設計されてきています。それゆえに、定期的な雑誌や手紙、リーフレット、MIコーナーなどがあるのです。
もう一つの答えは、騎士自身の内部から来なくてはなりません。騎士自身がMI指導部のこれらすべての努力を無視するとしたら、その努力はいったい何になるというのでしょうか。もし騎士が自分に差し出されたものを手に取らず、それを考慮するのを怠ったとしたらどうでしょうか? そうすれば、私たちは、自分が一日に少なくとも一回は無原罪の聖母のために、霊魂の救いのために何かをするという約束に不忠実となってしまった眠れる騎士の一人、名前だけの騎士の一人であるということに突然気づいてしまっても驚くには当たりません。
それゆえに、私たちは自分が忠実にして寛大であるよう祈るだけでなく、奉献の祈りの中に非常にうまく要約されている騎士というものの本質を観想し続けることも、いかに重要でしょうか。
このことを、もう少しよく理解してみるようにしましょう。
すべての恩寵の仲介者であるマリアがMIの土台です。すべての恩寵の仲介者というのは、主によって、その御苦しみと十字架上の死を通して獲得された回心と聖化というすべての恩寵がマリアに委託された、というマリアの特権に関する教えです。それは、マリアがその恩寵を「マリアがお望みのときに、マリアがお望みの人に、マリアがお望みの方法で、マリアがお望みの分量を」(聖ベルナルド)善意の人々に分配できるようにするためでした。この恩寵の仲介は、二つの方向に働きます。まず、恩寵はイエズスの聖心から流れ出て無原罪の聖母の御手を通してやって来ます。天主の光と恩寵が私たちに触れ、私たちを回心させ、聖化します。私たちは、この天主の創造の、かつ贖いのわざにお応えしなければなりません。私たちの全存在は天主に帰るためにあります。さて、私たちが天主に帰るには、天主がマリアを通して私たちのところにやって来られたのと同じように、マリアを通して、でなければなりません。このことは、キリスト教の古い時代から有名な格言で表現されてきました。「マリアを通してイエズスへ」です。ファチマの聖母も、このことを次の分かりやすい言葉によって確認なさいました。「私の汚れなき心はあなたたちの避難所であり、あなたたちを天主へと導く道になるでしょう」。
天主は人間に強制なさるのではなく、むしろ私たちに天主の救いのみわざへの自由な同意をお求めになります。それゆえに、私たちがこのことを明確に求め、私たち自身の意志によって、意識的で決定的な「はい」によって私たちが聖母を受け入れる条件でのみ、聖母は仲介者としてのご自分の任務を私たちにおいて実現させることがおできになるのです。仲介者である聖母は、私たちが自分自身を明け渡すという行い、すなわち自分自身の奉献によって自分自身を聖母に捧げるならば、それに応じて私たちの内に聖母のあらゆる愛の活動を広めてくださることでしょう。
私たちの奉献において聖母に捧げるものを、もっと正確に特定しましょう。私たちはこれまで、霊的生活においては二つの偉大なる現実があることを見てきました。それは、私たちの天主との関係および私たちの隣人との関係です。これは結果として、二つの異なる奉献となり、それらは互いに補いあうものです。
a)まず、私たちは、マリアが私たちの母にして女主人となるように、また私たちがマリアの子どもにして奴隷となるように、自分をマリアに捧げます。これは重要かつ土台となる奉献の行為ですが、基本的には、このことはすでに私たちのマリアへの完全な明け渡しを表してはいるものの、具体的には、私たち自身の聖化や、マリアを通して私たち自身が天主へ帰ることに限定されています。これは、御摂理が聖ルイ・マリア・グリニョン・ド・モンフォールに霊感を与えることによって、「聖母マリアへのまことの信心」の中で驚くほど素晴らしく私たちに示すことを望まれた、マリアへの完全な信心の説明です。
b)次に、マリアが私たちのこの世でのいのちをご自分の御手にお取りになるように、すなわち、私たちが成し遂げなければならない務めをお取りになるように、自分自身をマリアにお捧げします。マリアは今や、私たちのすべての行いと他人との関係についての主要な原因(もちろん、常に天主の下位ですが)となられ、私たちを「マリアの汚れなき御手の道具」とみなされることになります。聖マキシミリアノ・コルベの奉献の祈りは、聖グリニョン・ド・モンフォールの奉献の短い要約で始まります。しかし、中心となるものは、私たちがマリアに、私たちのすべての能力を所有し、それを通してマリアが霊魂における回心と聖化の奇蹟を行うことができるように願うことです。これによってマリアは、「ヘビの頭を踏み砕き」、「世界中のあらゆる異端に打ち勝つ」ことができるようになるのであり、こうして「主の聖心の支配」をもっともっと打ち立てることができるようになるのです。
ですから、これこそが、2019年の年間の決心として、私が皆さんに提案したいことなのです。つまり、私たち自身を聖母の道具として無原罪の聖母へ奉献することを、私たちの生活のあらゆる領域へもっともっと浸透させることであり、それによって、私たちが祈りによって聖母に捧げるものを、また毎日の生活においても実践に移すようにするためです。
このことは第一に、しばしば奉献の祈りを観想しながら祈ること、その祈りにある一つ一つの文と一つ一つの言葉を味わうことであり、これはいわば、可能な限り深くその祈りを理解するためなのです。「我らの愛深き母よ」、「天主は、あわれみの全秩序を御身に委ねることを望み給えり」、「道具」などの言葉の背後には、霊的世界全体が開かれます。今年の騎士への手紙は、とりわけこれらの霊的な深みへと私たちを導くはずです。
しかしその後、本当に重要で困難なものがやって来ます。それは、私たちの奉献を毎日の生活において実践することです。これには、ただ一つの基本的な態度を必要とします。寛大さです! もしいつも狭量でけちであるならば、もしいつも自分の利益だけにしか関心がないならば、その人は王たるキリストの呼びかけに従うことができず、天主を愛し天主のご意志を成就させようとするあらゆる願いは、つぼみのうちに摘み取られてしまうことでしょう。それゆえに、まず第一に、私たちはみな、毎日の生活において寛大であるようにしなければなりません。寛大に屈辱を受け入れ、寛大に他人の誤りや不完全さに耐え、寛大に不思議のメダイやちらしを配布し、寛大にロザリオを終わりまで祈り、寛大に汚れなき御宿りに何かを捧げるのです。小出しに何かを行うのではなく、寛大に行ってください。
私たちはみな、無原罪の聖母への私たちの奉献を表明するとき、幼子イエズスと御母の足元に騎士たちを置くことによって、この寛大さを求めて祈る必要があります。それは、聖なるクリスマスの輝く光が私たちみなを恩寵で満たし、その恩寵が私たちの騎士としての振る舞いを通して、あわれな罪びとの心に流れ込むようにするためです。
祝福とともに
カール・シュテーリン神父
2018年11月25日、ブカラマンガ(コロンビア)にて。
【英語原文】
Father Director’s Letter No. 12
Dear Knights of the Immaculata!
With joy and gratitude I would like to inform you that our new Superior General has allowed and blessed the establishment of the International Headquarters of the M.I. in Warsaw. He has also written a word of recommendation for the "M.I. Handbook", which has already been published in English, French and Spanish and will soon be available in German. It is a summary of all the concerns of the M.I.: above all, its essence and its justification, usefulness and topicality. A special chapter also explains the relationship of the M.I. to other Marian movements, as misunderstandings and mistrust repeatedly arise with them. Probably the most important section deals with the concrete existence of the M.I.: the enrolment into the M.I. and especially the perseverance of the Knights. It is always easy to start something, but extremely difficult to continue and preserve something. Every association stands or falls upon the question of how to keep its members on their toes and keep their first zeal or even deepen their initial zeal. This is surely also the big question for every Catholic and especially for every Knight: how can I remain faithful and become even more faithful?
The first answer comes from the outside: it is the responsibility of the M.I. direction to provide the Knights constantly with weapons and ammunition for the combat of souls, and to motivate them in various ways to become ever better instruments in the hands of the Immaculata. The whole structure of the M.I. has been designed to produce the apostolic materials and to hand them over to the Knights with an appropriate instruction manual: hence the regular magazines, letters, leaflets, the M.I. corners, etc.
Another answer must come from inside the Knight himself: what is the use of all these efforts if the Knight himself ignores them? If he does not take what is offered to him and neglects to consider it? Then we should not be surprised by the sudden realisation that he belongs to the sleeping knights, to the Knights in name only, who become unfaithful to their promise to do something for the Immaculata and for the salvation of souls at least once a day.
How important it is, therefore, that we pray for fidelity and generosity, but also that we keep contemplating the nature of the Knight, which is so ably summarized in the consecration prayer.
Let us try to understand this a little better:
Mary, the Mediatrix of all graces is the foundation of the M.I.: a privilege which teaches us that all the graces of conversion and sanctification earned by our Lord through his suffering and death on the cross are entrusted to Mary so that she can distribute them to people of good will "whenever she wants, to whomever she wants, howsoever she wants, as much as she wants" (St. Bernard). This mediation of graces takes place in two directions: first they flow down from the Sacred Heart of Jesus through the hands of the Immaculata. God's light and grace touches us, converts and sanctifies us. We have to respond to this creative and redeeming work of God: our whole existence consists in returning to God. Now, our return to God must take place in the same way in which God came to us, through Mary. This has been expressed since Christian antiquity by the famous axiom: "through Mary to Jesus". Even Our Lady in Fatima confirms this with the simple words: "My Immaculate Heart will be your refuge and the way that leads you to God".
God does not force man, but he wants our free consent to his salvific work on us. Therefore, Our Lady can realize her mission as Mediatrix in us only if we also want this clearly, if we accept her by an act of will, by a conscious and decisive "yes". The Mediatrix will unfold all her loving activity within us to the extent that we give ourselves to her through an act of surrender, the consecration of ourselves.
Let us specify more precisely what we give to Our Lady in our act of consecration. We have seen that in our spiritual life there are two great realities: our relationship with God and our relationship with our neighbour. This results in two different acts of consecration that complement each other:
a.) First we give ourselves to Mary so that she may become our mother and mistress and that we may become her children and slaves. This is the important and fundamental act of consecration, which basically already expresses our total surrender to Mary, but which is concretely limited to our own sanctification, our personal return to God through Mary. This is how Providence, by inspiring Saint Louis Maria Grignion de Montfort, wanted to explain total devotion to Mary which is wonderfully presented to us in the "Golden Book on True Devotion to Mary".
b.) Then we give ourselves to Mary so that she may take our lives in the world into her hands, namely the tasks that we have to fulfil. She should now be the main cause (always subordinated to God, of course) of all our actions and our relationship with others, and she should regard us as "instruments in her immaculate hands". The act of consecration of St. Maximilian Kolbe begins with a brief summary of the consecration of St. Grignion de Montfort. But the main thing is that we ask Mary to possess all our abilities in order to make them channels through which she can perform miracles of conversion and sanctification in souls. This enables her to "crush the head of the serpent", to "overcome all heresies all over the world" and thus to establish more and more "the dominion of the Sacred Heart of Our Lord".
And this is exactly what I would like to propose to you as the Yearly Resolution for 2019: that our consecration to the Immaculata - as her instruments - should penetrate more and more all areas of our lives, so that what we give her through prayer may also be put into practice in daily life.
This means, first of all, to pray, often contemplating the act of consecration, to savour every sentence, every word in it, so to speak, in order to grasp it as deeply as possible. Whole spiritual worlds are opened behind the words "Mary who loves us so much", "to whom God has entrusted the whole order of mercy", "instrument", etc. Our letters during this year should lead us above all into these spiritual depths.
But then comes the really important and difficult one: the implementation of our consecration in everyday life. This requires a single fundamental attitude: generosity! If one is usually petty and miserly, if one is constantly concerned only with one's own advantage, then one cannot follow the call of Christ the King, then every desire to love God and fulfil his will is nipped in the bud. Therefore, first of all, we must all try to be generous in our daily lives: generously accept a humiliation, generously endure the mistakes and imperfections of others, generously distribute the Miraculous Medal and flyers, generously pray the Rosary to its end, generously give something for the Immaculate Conception. Don't just do something sparingly, do it generously!
We all need to pray for this generosity in the manifestation of our consecration to the Immaculata, by laying all Knights at the feet of the Christ Child and His Mother, so that the bright light of Holy Christmas may fill all of us with graces, and that these may flow through our knighthood into the hearts of poor sinners.
With my blessing
Father Karl Stehlin
Bucaramanga, on the 25th of November 2018