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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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2018年12月2日待降節第一主日 サマーズ神父様お説教「待降節と世の終わり」

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2018年12月2日(主日)待降節第1主日のミサ
サマース神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる信徒の皆さん、今日は新年の第1日目です。

私たちは去年の「典礼暦年」というイエズス様の生涯のサイクルを終わったばかりです。

ところで、今日の福音では私たちの主は、「世の終わり」と「最後の審判」について語られました。何かおかしいような感じがします。なぜかというと、新しい典礼暦年が始まるにもかかわらず、世の終わりについて話しているからです。「これは、一体どういう事だろうか?」

これには完璧な論理があります。なぜかというと「私たちが何か始める時には、一体どこに向かって始めるのか、その終わりが分かっていなければ、始める事ができないから」です。

まず私たちは、「この世には終わりがある」という事、そして「この人生にも終わりがある」という事、そしてその「終わりがある」という事が分かって初めて、そこに向かって人生を始める事ができるからです。

もしもこの世が全てであって、この世がもしも永遠に続くならば、それに従って私たちは生きなければなりません。しかし、もしもこの世が本当の一時的なものであって、数年の内に過ぎ去るものであって、終わってしまうものであるならば、私たちはそれに従った見方をしなければなりません。

私たちの主は、「私たち個人個人に終わりがあるように、この世にも終わりがある」という事を知らせています。そしてこの終わりを考えながら、私たちの主の御光来であるクリスマスを準備する3週間を始める事に致します。

そしてこのどうやって始めるかというと、私たち個人個人の人生の終わりを、まず私たち一人一人が黙想、反省しなければなりません。

聖フィリッポ・ネリが、イタリアの方ですが、この有名な話があります。ある若い青年が聖フィリッポ・ネリの元にやって来て、告解の秘跡を受けます。告解が終わった後で、聖フィリッポ・ネリは、この若い青年にいくつか質問をします。
「あなたは一体何をしているのですか?」
「神父様、私は大学で法学を勉強していて、後に法律家になります、弁護士になります。」
「おぉなるほど、頭が良いね。ではその後で何をするのかい?」
「はい神父様、その後では私は、良い弁護士として法律事務所を開いて、法律家として働きます。」
フィリッポ・ネリは答えて、「うん、それは大変よろしい。ではその後で君は何をするのか?」
「はい神父様、私はその後で、良い女性を見つけて、結婚して、良い家庭を作ります。」
フィリッポ・ネリは答えて、「おぉ大変良い話だ。ではその後では何をするのかい?」
「はい、私は家族の面倒を見て、また年を重ねていきます。」
「うん、確かに。で、その後で?」
すると青年は、「う〜ん、ちょっと分かりません。何をしようか。」
するとフィリッポ・ネリが答えて、「そこが問題なんだよ。確かに君はこの地上での生活の計画を立てているけれども、その後で何が起こるかよく分かっていない。この次の、これから起こる5分後の事についての計画は、永遠の為のものではない。」

もしもこの私たちの計画する数年の事が、永遠のものに繋がるのでなければ、繋がるようにする事が賢い計画の仕方ではないでしょうか。ちょうど子供が、何時間も、何日も、何週間もかけて、雪で、雪だるまを一生懸命冬の間、毎日毎日一生懸命作っている子供のようです。お父さんとお母さんは、「おぉ、我が子よ、この雪だるまはとっても可愛いけれども、でも春が来るのよ。お前は、お前の冬の時間と、全ての才能と、全ての熱情を、この雪だるまを作るのに使っているけれども、冬が過ぎたらどうなるの。」

私たちはこの事を言われるのがあまり好きではないのですけれども、言われなければなりません。私たちはこの嘘を信じたいといつも思っていますが、その嘘というのは、私たちがいつも若くて、美しくて、健康であるという事です。

しかし真理こそが、私たちを聖なる者として、聖人として作り上げます。その真理とは、私たちの終わりの事です。そしてこの永遠の事を思うが故に、この地上での苦しみや、大変な事、あるいは難しい事も、簡単に忍耐、この困難を克服する事ができるようになります。なぜかというと、いかに苦しい事であっても、終わりがあるからです。それは、「苦しみに終わりがある」というのは良い事ではないでしょうか?

でも、もしもこの苦しみが何十年もあって、その「苦しみに終わりがない」と言われたら、一体私はそれを耐える事ができるでしょうか。これが、罪の内に死んでいく霊魂たちの絶望の状態です。

しかしその反対は、「この地上は、本当の一時的なものだ」という事を知っている人々です。サルヴェ・レジナのお祈りにもありますように、この私たちは一時的に、涙の谷に住んでいます。確かに何らかの喜びも、幸せも、幸福もありますけれども、それは永久に続くものではありません、この涙の谷では。私たちがこの地上で願っている公平さとか、正義とかというものは、この世の終わりに満足されます。なぜかというと天主様は、私たちの全ての苦しみと、全ての悲しみをよく御存知であって、それの100倍を、後の世で報いとして与えて下さるからです。

ですからこの待降節の間、最も神聖な聖家族に、私たちの目を向ける事にしましょう。聖ヨゼフには、私たちに聖なる死を迎える御恵みを乞い求めましょう。そして私たちの主イエズス・キリストとマリア様には、私たちが聖徳に進む、その御恵みを乞い求めましょう。そして私たちが聖寵の状態において死ぬ事ができ、そして永遠の報いを受ける事ができる、という喜びの内に死ぬ事ができる御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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